短編小説「エモーショナル怪人 エモ山」(40) シビト志願のおんな
これまでのエモ山
そのシビト志願のおんなは、だいぶ意地が悪いようだった。
片耳につけたピアスは、糸のように細い金鎖の先に、赤い涙型の石が揺れるもので、
その石はルビーかもしれないし、そのほかの、別の名をつけられた石かもしれない。
僕は赤い石をルビーしか知らない。
その他の石の名を知らないが、
僕がそのおんなを、だいぶ意地が悪いと感じたのは、
なによりもその石が理由だった。
おんなが話すたびにちろちろと、その耳で揺れる赤い涙型の小さな石に、僕が感じたのは、
美しさとか、はかなさに類するものではなかった。
指先につんと針を刺せばすぐぽっこり浮かび上がってくる血の球を、
細い金鎖に、ただひっかけただけのように見えるその石は、
ぶら下げられているからこそ、元は丸かった血の球が、重力に引っぱられ、
涙型になっているだけだった。
ただそれだけだった。
これは涙ではない、と僕は思った。
そういう石を耳たぶに光らせあらわれたおんなは、
どこで聞いてくるのか知らないが、僕が寄る店に、いつもあらわれるシビト志願の人間のひとりでしかなかった。
シビト志願は全員、自分が取るに足らない人間であることを知っている。
そしてみな、どこか似ている。
それをわかったうえでこのおんな、僕の気を引くため、わざとルビーをつけてきたに違いなかった。
このおんなのそういうたくらみが、この店に、くつろぐために訪れた僕を、
まず第一に、いらだたせた。
「わたくし、たくさん調べたんです」
おんなは言った。
「これしかない、と思ったんです」
ルビーがちろちろ揺れていた。
「わたくしなら、あなたと同じになれると思います。わたくしになら」
僕はウォッカを飲むふりをして、聞こえなかったことにした。
「わたくしになら、」
おんながテーブルに手を置いた。
「なれると思うのです」
雑居ビル6階に入った、首都高のカーブに隣接する高さにあるこの店は、二本の線路にも遠く挟まれている。頭上、後ろ側で、つねに轟音が、近く遠く、うっすら繰り返されるのを感じつつ、客は酒を飲む。
この店ではそもそも、まともな会話など成立しない。
この店は、そういう店ではない。
話をするための店ではない。
赤い石をつけてくるような場所でもない。
僕はウォッカのグラスをコースターに置いた。
少しも減らないウォッカの入ったグラスを、コースターの、元置かれていたのと寸分たがわぬ位置に戻し、おんなの声など、はじめからなかったようなふりをした。
僕は別の音に耳を澄ました。
首都高を、ダンプカーが走り抜けていく音がした。
首都高も、この時間なら渋滞しない。
車の走る音に、遠くの線路を列車が走り抜けていく響きがかさなる。
かたんかたん。
かたんことん。
線路の響きは尾を引く。
ずいぶん長く続くので、これはきっと貨物列車だろうと僕は思った。
赤い石が、目の端で、ちろちろ揺れていた。
僕はまばたきし、ウォッカの無色透明に目をこらす。
外側に鋭利なカットを施された厚いグラスは、内側は滑らかだった。
内側の、滑らかな垂直面が、ウォッカの水面と接する直角部分をまるっこく見せていた。
ウォッカがつくる透明な曲線は、僕に、壁の向こうの首都高を連想させた。
ウォッカに反射する店の灯りは、首都高の紫がかった星のない空に点々とつらなる冷たい白の照明の滲みに似ていた。
僕はウォッカから、透明なものにも影が落ちることを学ぶ。
曲線は、僕に、壁の向こうの首都高の存在を意識させる。
飲まない酒は僕をけして酔わせてはくれない。
赤い石が、目の端で、ちろちろ揺れていた。
「いーださん」
おんなが言った。
「わたくしは」
僕の手に触れようと、おんなが手を伸ばした。
その手を寸前でかわし、浮かび上がった僕の手は、そのまま行く先をうしなう。
「しあわせなおんなでは、ないのです」
おんなの手は、僕のグラスに添えられていた。
「父親は、おりません。母も兄も、事故で亡くなりました。もう思い残すことは、ないのです。わたくしは、ですから、」
おんなの手が、グラスににじり寄る。
僕が飲まないウォッカのグラスを、今にも取りあげようとするかのようだった。
「わたくしは、あなたと同じものに」
僕はもうこのグラスに触れたくないと思った。
グラスに施されたカットが、おんなの手の甲に薄い影を作り、その肌を、オレンジ色の反射板のようにぎらつかせて見せていたからだ。
僕は自分の見立てに確信を持った。
やはりこのおんなは意地が悪いと思った。
「いーださん」
崖を這いあがるように、おんなが身を乗り出し、にじり寄ってきた。
おんなの手は、テーブルに爪を立てていた。
「いーださん」
「あれは」
よそを見て、僕は答えた。
「自分からなるようなものでは、ない」
これだけ口にするにも、決心が要った。
声はかすれていた。
「いいえ」
おんなは平然としていた。
「わたくしは、調べたのです。知っているのです」
僕の耳に、おんなが唇を近づけた。
僕はおんなの唇から顔を背けた。
しかしおんなのほうが早かった。
「あなたがたができることを、わたくしは、知っているのです」
首都高を、一台、また一台と、大きな車両が走り抜けていく。
なかには外れかけたバンパーをかたかたい震わせて走って行くようなのも
あったけれど、
僕ができたのは、その音が次々と遠ざかっていくのに任せることだけだった。
おんなの声は、僕の体に、強い疲労感に似た落胆の気持ちをよみがえらせた。
僕の頭は、そのとき、
かすかに揺れていた。
震えていた。
おんなは僕の耳に唇を寄せるふりをしながら、
そのしぐさで、実際は僕の間近に、片耳につけた赤い石をかざして見せていたからだ。
それはおんなの計算で、
僕の目の前で、赤い石は、針で刺した指先から、ぷっくりと盛り上がる血に似た色を、
さっきより艶めかせながら細かく揺れていた。
赤い色は、ウォッカの無色透明では抗いきれなかった。
その揺れは、僕をそれに同化させる力を持っていた。
震えながら、僕は考えた。
このおんな、ほんとうに調べたらしい、と。
ある種のものを見ると、僕たちがどうしようもなくなることを、知っているのだから。
それは、涙のかたちをしていても、涙ではなかった。
そんなもので僕たちは、動かない。
僕たちを動かすのは、血の色でもない。
僕たちを動かすのは。
「いーださん」
震える僕の耳に、おんながささやいた。
「わたくしを、未来のシビトにしてください」
(続きはこちらです)
