短編小説「エモーショナル怪人 エモ山」(42) エゴ山の思春期
前回までのエモ山
「はぁん」
と、聞こえた。
壁の向こうから。
「きゅうん」
とも、聞こえた。
春風のようであり、子犬の小鼻ひくひくのようでもあり、
空気の湿り気が木組みを軋ませるときの、高い響きにも似ていた。
そして、さっきの音に戻る。
「はぁん」
壁の向こうから聞こえてきた。
俺は立ち上がり、ズボンしゅっとあげ、チャックきゅっとあげ、
ボタンくりっとしめながら、銀色コックをひとひねり。
残滓が渦を巻き、去りゆくを、俺は見届けなかった。
サヨナラは言わない。
俺は後ろ手に、扉閉め、肩でひとつ息をつく。
「はぁん」
まだ聞こえていた。
俺のアパートの部屋の、狭い廊下。
玄関扉のスコープから、白い光がさしこんでいた。
「きゅうん」
その音は今、さっきより間近だった。
俺は自分の腹に手を当てた。
その音が、自分の中から出ているような気がしたからだ。
しかし、俺の腹は今、からっぽになったばかりだ。
俺は通り道だからである。
俺は、廊下だからである。
残滓が主である可能性は、あるだろうか。
苦しみから逃れ、
サヨナラも言わず、
俺はそれを、どこか遠くに流してしまったが。
「はぁん」
それは、エゴ山の声だった。
PCを前にしたエゴ山は、俺のとまったく同じ顔を、赤い爪をした手に乗せ、
頬杖の上でころがしていた。
首から下の、女の体は、片足くるぶしを、もう片方の膝頭に置いている。
半跏思惟像みたいだった。
半分起きて、もう半分は寝ていた。
半分眠り、もう半分は目覚めているように見えた。
PC画面には、書きかけのエモツイート。
ジャングルではライオンが
トーキョーでは野良犬が
冷え切った月に吠える。
#叫びエモ #エモ山 #叫びたい人と繋がりたい
「ジャングルに、ライオンはいないぞ」
俺はPCをのぞきこみ、エゴ山に言った。
「野良犬も、トーキョーにはもういない」
「うるせえな」
エゴ山は半目で答えた。
「細かいこと言わないでくれでげす。これは俺の叫びなんだ親分」
「しかし」
俺は答えた。
「ジャングルに、ライオンはいないのだ」
俺は知っている。
天才少年時代、俺が観るTVショーは動物ドキュメンタリーだったから。
動物から、俺は学んだ。
だから知っている。
ライオンがいるのはサバンナだ。
ジャングルにいるライオンは、あいつだけだ。
アニメ映画『マダガスカル』のアレックス。
「だからこの場合、」
俺はエゴ山に言った。
「『ジャングルではライオンが』の『ライオン』は、アレックスのことをさしてしまう」
「となると、『ライオンが』は、『アレックスが』に変えなければならなくなる」
「しかし、『ジャングルではアレックスが』にしてしまうと、『アレックスって誰?』ってなるフォロワー様もおられるであろうから」
「このツイートはボツ」
「ごちゃごちゃうるせえな」
エゴ山がつぶやいた。
しかしキーボードの上の手は、すかさず動いてマウスを取り、
画面からツイートをすっかり削除した。
エゴ山が、大きく舌打ちした。
「親分は、ずいぶん社会人らしくなりましたでげす」
エゴ山は言った。
「俺は今」
エゴ山が、吐き捨てるようにつけたした。
「俺の気持ちは今、なんというか、」
俺は頬を掻きながら、女の体を見る。
細い首から降りていく弓型の曲線が、肩のところでふっと盛り上がり、まっすぐ降りていき、内側のふくらみを隠すようにして、急角度で跳ね曲がり、やがて分岐して、頭を支える手指と化していた。
五本の指は広がって、それぞれが、エゴ山の黒い髪に隠れていた。
まるで、サバンナで、獲物を狙うライオンのように。
しかし、
小指だけは茂みから出てきて、額をとんとんと叩いているのだった。
小指が、額をノックしていた。
ノックノック。「はぁん。俺は」
ノックノック。「いらっついているでげす」
「なぜだ」
俺はエゴ山に尋ねた。
「わからんでげす」
エゴ山は、頬杖ついたまま首を振った。
髪の中に入れた手を握りしめ、髪をひっぱると、エゴ山の頭が横にずれた。
あまりに強く引っ張るので、女の体から、エゴの頭がもぎ取れそうにも見える。
「きゅうん」
なにかおかしな音を出すエゴ山に、
俺は尋ねた。
「いらっついているとは、エモツイに、飽きたか」
「いや」
髪をつかんだまま、エゴ山は首を振る。
「そんなことはないでがす」
「じゃあ」
俺は口ごもる。
なんなのだ。
俺は考えた。
エゴ山というのは俺のエゴの化身である。
俺はエゴ山の生み手である。
だからこのような際、俺はエゴ山に対し、親身になるのが筋である。
しかし相手はエゴ山である。
俺のエゴである。
怒りである。欲求である。
その意味で、俺はなにか、エゴ山をちょっと信用していないところがある。
根っから信じるということができない。
判断が、間違っているのでは、と懸念してしまう。
「親分は」
エゴ山が言った。
「このところ、変わってきた」
俺?、と俺が自分を指さすと、エゴ山はうなずいた。
「変わってきたでがす。『利害関係調査委員会』のおしごとで」
「にんげんだもの」
俺は頬を掻く。
「俺」
と、エゴ山は言った。
「親分が変われば、俺も変わるでがす」
「おまえは大して変わらんであろう」
俺は答えた。
ところが相手はエゴ山である。
俺のエゴである。
弱さである。引け目である。
その意味で、俺は何か、エゴ山を護ってやりたくもなるのである。
どんな悪いやつだったとしても。
俺だけは信じてやらねばと思ってしまう。
俺は突っ立って、エゴ山を見ていた。
どこを信じようかな、って感じで。
PC前に鎮座するエゴ山を、上から下まで眺めた。
窓からの日差しが、床に平行四辺形を作っていた。
俺が立つのはその平行四辺形の横だった。
尖った角のひとつが、俺の裸足の甲におおいかぶさって、俺の体はそこだけあたたかかった。
ノックノック。
ノックノック。
部屋の端っこの、陽の当たらないところに、エゴ山はいた。
小指は延々とエゴ山の額を叩いていた。
まるで、エゴ山の脳内にいる誰かを、小指が呼び起こそうとしているようだった。
ノックノック。
ノックノック。
エゴ山は、小指が額を叩くに任せていた。
小指が額を叩いていることに、気づいてないのかもしれない。
ノックノック。
ノックノック。
エゴ山が、なにかを考えていた。
小指のノックノックは、エゴ山とは無関係のようにノックノックし続けた。
「変わらないやつが、」
やがて口を開いたのはエゴ山。
「ひとりいるでがす」
エゴ山は言った。
「なにも、変わらないやつが」
「誰だ」
「俺は」
エゴ山は答えた。
「何か月も、エモツイを書いている」
エゴ山は、俺をチラ見して、目をそらす。
「親分のかわりに、エモツイを、書いてきたのは」
エゴ山が、俺の返事を待つ。
俺は答えない。
エゴ山が自分で言う。
「俺たちでがす」
「俺たち?」
エゴ山がうなずく。
「手付金を払って」
「ああ」
俺はエゴ山の首から下、女の体のほうを見た。
思い出すのは、ちゃんちゃら踊り。
「だからわかるでがす」
エゴ山は言う。
「この女」
小指は、まだエゴ山の額を叩いていた。
「ずーっと同じでげす」
エゴ山が言った。
「こいつは」
と、エゴ山が、体を見下ろす。
「ずううううっと、同じなのでげす」
エゴ山の体は、女の体だった。
「エモツイが、成長しないのでげす」
「成長」
俺はつぶやく。
「エモツイの、『成長』?」
俺は動物ドキュメンタリーを思い返す。
獲物にありつけず、骨が浮き出るほど痩せていた
サバンナのライオンを思い出す。
吹きすさぶ吹雪に凍えるシベリアのトナカイを思い出す。
なにかが俺たちとは圧倒的に違うと思うけど、同じって気もする。
すべて、特に理由なんてない、って気もする。
ノックノック。
ノックノック。
「猛烈に、いやなのだ」
エゴ山が、表情をゆがませた。
「この体、なにかが猛烈に」
小指が、エゴ山の額を叩いていた。
同じリズムで。
疲れることなく。
ノックノック。
ノックノック。
きゅうにかゆくなって、俺はたまらず、自分の首をぼりぼり掻いた。
さっきまであたためられていた裸足の甲が、ひんやりとしたような気がして、
俺は自分の足元を見る。
俺の足にかぶさっていた平行四辺形は俺を通り過ぎ、照らす位置をずらしていた。
光はなにもない床を照らし、
床はただ、てらてらと、にぶく光を反射していた。
思い出すのは、ちゃんちゃら踊り。
光に逃げられた俺は、エゴ山と同じ薄暗がりにいた。
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「女」ってだれだっけ?とおもったら、
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