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短編小説「エモーショナル怪人 エモ山」(65) 心は有機物か

前回のエモ山


ぷうううううううううううううううん。

それはにおいじゃなくて音だった。
においのような音だった。

その発生源は定かじゃなかった。
遠くなり近くなり、それは移動していた。
静止という状態から逃れたいがため
とにかく飛び回り、逃げているというかんじだった。

まず、それははじめ、ひとつだった。

俺はその音を追って、
上を見て、そのままずいっと右に向いてって、
首の限界まで右にひねったら、
どんつき当たって急旋回。
Uターンして、真左向いて。

頭の後ろを、音が通り抜けていくのを聞いていた。

俺の前にいるニックが、
ふわっと斜め上を見た。
ぱかっと口をひらいたままのニックの黒目は、
俺が頭の後ろに聞く音と動きを同じくしていた。

はじめ、俺の胸ポケットは、
なにかがざわざわとしているだけだった。
細い針金をぐしゃぐしゃに丸めたようなのが、
ミミズみたく動いてるかんじ。
そしてニックが言ったのだ。
「検出あり!」
からんとタモを落とした。

だけど俺がポケットをのぞいても、
中はからっぽで、
「けけ検出!」
と、もう一度言ったニックが、
「うわあ」と声を出し、口を開けたのはそのあと。
そこからずっと、ニックは口を開けたままだ。

ニックが中空を指さして、
俺の目を見た。
「おまえの」
と言ったあと、
「いや、そんなわけ…」
と首を振り、頭に浮かんだなにかを打ち消す。

俺は自分のタモを高く上げてみた。
振り回しはしなかった。
空中の一点に「タモ点」をつくり、
そこになにかがひっかかることを祈りながら、
タモの網部分を見つめる。

しかしその行動が俺にうんだのは、
結局すべてがばらけていく、というような、不思議な感覚だけだった。
つまりこの行いにはなんの意味もないことを、
空気が粒子で俺に伝えていた。

粒子はばらけ続けた。
水面に映った光のうろこみたく、
粉々に砕けていくようだった。
タモを高く上げたまま、
俺はこの世界が
このまま消えていくような気さえした。

ぷうううううううううううううううん。

その音に乗って、すべてがほどけていき、
消えていってしまう気がした。

「有機物、検出!」

プール室に声が響いて、
俺はリアルワールドに戻った。
瞬時だった。
また朝が来た、ってかんじ。

さっきまでの光景が、小数点以下の数字みたく、
行き場なく残った。
けど、それよりも俺は、

「有機物、検出!」

ニックの横にやってきたそいつの顔に、
膝の力が抜け、
思わずうしろによろめいてしまったのだった。

そいつの顔は、これだった。

顔が、それだった。

三文判の顔をした男に、
ニックはびくりとした。
「あ」
と言って、
ぱかっと開けていた口を閉じ、
「どーも、おつかれっす」
急に仕事の顔になって、
軽く頭を下げた。
「すいませんねどーも」
困ったように言いながら、天井近くを見上げる。

「出てきちゃいましたねえ」
ニックの横で、三文判マンも天井を見上げた。
「出てきちゃいましたねえ」
目を細め、にやりとした。

男のことばに訳知り顔でうなずいたニックに、
三文判マンは、
ニックが落っことしたタモを拾いあげ、
ニックに手渡した。
ニックはタモを素直に受け取って、
タモを手渡されたことにより、
責任が終わったかのように、急に笑顔になる。

「こいつです」
ニックが俺を顎で示した。
「ああ」
三文判マンが、
体をかがめ、
俺の胸ポケットに、
三文判顔を近づける。

真一文字に閉じた口で、
「んん」
唸る。

俺は胸を軽くそらして、
医者に診てもらうみたいに、天井に、視点を定めた。

胸ポケットの中が、まだうじゃうじゃしていた。

俺には感触であるそれの
音を聞くように、
三文判マンは、俺の胸ポケットに耳を寄せた。
「ほおおお。こりゃあ」
つぶやく。
「あれかなあ」
身を起こし、天井を見上げ、
「Karakura Bug」
と、言った。

語尾が上がっていて、断定には聞こえなかった。
ことばはふわりと持ち上がり、霧散した。

「ともかく」
埃でも払うみたく、自分の両腿を軽くたたいて、三文判マンは俺を見た。
「有機物だね」
そのことばは断定。
同意は求めてなかった。
声は霧散せず、俺たちのあいだに残留した。

ところで、
三文判の顔をしたそいつは、
なんだかちょっと偉そうなのだった。
ニックはその三文判マンの態度に若干対抗し、
「困っちゃうんだよね」
三文判マンの背後から、自分もちょっと偉ぶってみせた。
「俺たちは、これなもんで」
タモをカンカンと、プールサイドにうちつけた。
「有機課さんたちに、ちゃんとやってもらわないとね」

「ええ」
三文判マンは、振り向かず、うなずいた。
その態度にニックが一瞬ぽかんとして、
かすかに眉をしかめる。
「やってもらわないと」
「ええ」
三文判マンは、さらりとこたえた。

ニックはさらに眉をしかめ、
「現場が困るから」
と言った。
「ええ」
と三文判。
「仕事になんないから」
「ええ」
「やってもらわないと」
「ええ」
「流れ止めないでほしいんだ」
「ええ」
「処理してもらわないと」

それを二人が、
俺の胸ポケットの前でやるもんだから、
俺は自分が当事者なのか、なんなのか、
だいぶわからない気分で、
ただラリーを眺める観客のごとく、
ニックを見ては三文判マンを見、
ニックを見ては三文判マンを見、
を繰り返し、
俺の頭はかふんかふんと、
それはさながら「ア・イ・シ・テ・ルのサイン」だったわけだけれども、
つまり三文判というものは、
俺にとってはいつまでも、
そういうものだった。

そういうものであるということを、
俺に、
そういうやりとりが
教えていた。

ニックのことばに、
三文判マンが、つーんと遠くを見た。
「わかりました」
そっぽ向いたまま、抑えた声で、こたえると、

ぷうううううううううううううううん。

気楽の代表みたいに、
音が通り過ぎていった。

「ただの Bug ですから」
腰につけたポーチからなにか取り出しながら、
三文判マンが言った。
「アポリアなんかじゃないですから」
なに言ってんのかわかんないけど、ポーチから出したのはスプレー缶。
「大げさなんだよなあ、濾過課さんは」
ひとりでぶつくさ言いながら、ウエストポーチのジッパーをしめた。

スプレーの噴射先を見定めるように、
三文判マンは、
あたりを見渡した。

ぷうううううううううううううううん。

どこにいるのか、
音だけはやけに大きかった。

俺の胸ポケットも、うじゃうじゃしていた。

「さっさとやっちゃってくださいよ」
ニックが意地悪く言いながら、
聞こえないふりする三文判マンの横を歩き去っていく。

ニックは床に、
わざとタモを引きずって歩き、
音を出してみせた。

それでいっときプール室は、
タモが固い床を引きずられるかたかたいう音に席巻され、
音は反響して、
俺は、水の中にいるような圧を感じた。

ニックの意地悪がつくる空気圧が、
徐々に引くのを待ってから、
「僕のひいじいさまはね、」
三文判マンが俺に言った。
「志賀島の生まれなんだ。
とても有名で、グローバルに活躍していた。
なのにその末裔の、僕ときたら」

ふう。

三文判マンは、
ため息ついて、きょろきょろする。
「こんなとこで、こんな仕事してるなんてね」

ぷうううううううううううううううん。

音が近づいて、
三文判マンが、体ごと振りかえり、
銃のようにスプレーを向けるけど、
音はとっくに去っていて、
三文判マンが見る先は、なにもない場所。

「ま、それでも」
三文判マンが、スプレーを下ろす。
「やってることは、同じだよ」
きょろきょろしながら言う。
「ひいじいさまはいつも、こう言っていた」

三文判マンが、
急に両手を大きく上げ、
ビックリするような大声で、叫んだ。

「世界には、存在しているから大きくなるものと、
大きく扱われることで、存在しはじめるものがある!」

声がプールに反射して、
水を揺らした。
プールサイドの端っこで、
声に驚いたニックが、
チンパンジーみたいに中腰になっていた。

俺の胸ポケットは、
さっきよりもっとうじゃうじゃしだして、
同時に、
俺には「いーだ」としか見えていない三文判マンの顔の造作が、
徐々に、
ミミズみたいに動きだした。

三文判マンは、
虚空にスプレーを向けると、俺に尋ねた。
「ほんとにやっつけちゃうけど、ほんとにいいの?」

「しろって言ってんじゃねえか」
ニックが遠くから答えるけど、三文判マンは振り向かない。
「君がこたえてくれなきゃあ、困るんだ」
三文判マンは、少しイラついている。
「処理するかしないか」

「検出しちゃうからいけないんだよ」
三文判マンが笑った。
「検出されるまではいなかったのに、検出されちゃった。
検出されたからって、
それがほんとうかどうかは、誰にもわからないけどね。
だけど、検出しなければよかったなんてことは
ありえない。
ありえないんだ。
起こりえないんだ」

俺はじわりと汗をかいていた。

(続きはこちらから)




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