短編小説「エモーショナル怪人 エモ山」(63) ジェラシー・タングステン
前回のエモ山
「あ、そういえば」
チーママの声がしたけど、
それはチーママが、依然としてがさごそとやっている
その戸棚の扉の内側から聞こえたものだったので、
俺はそのチーママのセリフが、
ひとりごとか、
そうでなければオーママに向けられたものだと思った。
だから俺は、
頬の皮膚にオーママの体温を感じつづけ、
つまりオーママが俺に顔を近づけるのに任せていたんだけど、
そしてそれは別に俺にとっては、
自分の頬の横にあるのは、
コロンと樟脳と、そして朱色の天狗の混ざりあったぼんやりとした体温で、
つまりはなんでもないことで、
ウーロン茶はぬるんで、
少しも減りはしなかった。
「あ、そういえば」
さっきと全く同じセリフを、
チーママは、
今度は体をのけぞらし、
扉の外側に、顔を出し、
さっきより大きくつぶやいた。
俺が見ていたので、
オーママも、
チーママに、振り返った。
「あれがあるんだった!」
ぱっと顔を明るくして、明るい声で、チーママが言った。
遅れて軽く、両手打つ。
ぱん。
乾いた手のひらの音だった。
その音で、
オーママが、身を起こした。
なにを始めたかというと、
チーママは、
カウンターの下から、
皿を一枚出すのだった。
冷蔵庫をひらき、
大きなタッパーを取り出すのだった。
菜箸で、
タッパーから皿に、
赤い総菜を山盛りにする。
ちょいちょいと、
菜箸で、てっぺんを整える。
そして俺に向いて尋ねる。
「あっためる?」
俺だけに訊く。
「あっす」
と、聞く間もなくチーママは、
電子レンジに皿をぶち込む。
俺はこたえたけどこれが、
総菜山盛り皿を電子レンジにぶち込むというこの行為が、
どこからつながったことなのか、わからない。
「どん」
チーママがスイッチを押すと、
そこから3分間、
それまでとは別の種類の光が店にあふれて、
それはおもに、
電子レンジを覗き込むチーママの顔にあたっていた。
白い光に照らされて、
すこし上気したように見えるチーママの、
頬のあの色はもしかして化粧なのかな、
と、俺は思った。
仲見世通りのずうっと先にある、
小さな店の看板を、たしかめるかのごとく、
背中丸めてチーママをのぞき見る俺と、
背筋伸ばし腕組みしたオーママとの間に、
コトンとおかれた皿は、
もやもやと湯気たちのぼる
豚キムチだった。
「あ、小皿」
「あ、もう一枚」
「あ、お箸」
ちょこちょこ動きながら、
ことんことんと置いていく。
菜箸を洗う。
ちゃっちゃと水を切る。
濡れた手を拭う。
ハッと気づいて、
「ウーロン茶、おかわりいる?」
尋ねる。
俺はかすかにかぶりを振る。
オーママは、腕組みしてチーママを眺める。
天狗は俺を見ている。
「タングステン」
は?
となって、俺はオーママを見た。
「天狗?」
オーママは笑う。
「ばかね」
言いながら、煙草を手に取る。
チーママが、すごすごと戸棚に戻った。
「あたしの故郷はね」
とんとん。
とんとん。
カウンターに、オーママが
男みたいに、
煙草のフィルターをうちつける。
「鉱山の町だったの。そこでは、」
煙草の先を折りこむ手つきは、
「タングステンっていうのがとれた」
器用だった。
「タングステン」
「あたしはね」
オーママは煙草をくわえた。
「高校出たら、鉱山で働くことになってたの」
口の動きに合わせ、煙草がピコピコ上下した。
「その時は」
日焼けした手で火をつける。
「夜行列車にとび乗った」
ぱりぱり、っと音がして、
煙草の先の火が赤くなった。
唇を尖らして、
オーママは、天井に煙を吐きあげる。
煙は横に長くたなびいてた。
煙の流れ方がさっきと少し違い、
すこし湿っぽいような気がするのは、
豚キムチからあがる湯気が
煙に混ざりこむからかもしれない。
「タングステンてのはさ」
オーママの口の端で、吐き出し損ねの煙が、
丸っこくわたわたしていた。
「燃えきらないわけ」
オーママの口に、煙がひゅっと吸い込まれる。
「残るわけ。
捨てられてたわけ」
「むかしは使い道がわからなかったものが、
あたしの頃には、だいじな産業になってたの。
町の人間が、それで食べていけたわけ。
だからあたしもそこで、」
丸い灰皿に、
オーママが灰を落とした。
小さく縮かまった一本目の吸い殻に、
2本目の灰が降る。
「閉山したことは、東京で知ったわ」
オーママが煙草をくわえ、口をゆがませた。
「ざまみろって笑ったわよ」
戸棚の奥から、
チーママが、ひょいと顔を出し、
不安げにオーママを見た。
「タコはいなかった」
言いながら、オーママが戸棚に振り向いた。
チーママが、戸棚のかげに、
あわてて姿をかくした。
「だけど」
オーママの目が窓に向く。
「燃えさしの、さらに奥に、
また別の燃えさしがあるような気が、
したのよね」
「燃えさし?」
俺はつぶやいた。
「夜行列車に乗り、飛行機に乗り」
オーママが笑う。
「なにやってんのかしら。
どこ行くのかしら。
次はUFOにでも乗るつもり?」
天狗がゆがむ。
「食べなさいよ」
オーママが俺に言ったその声が
ちょっと大きめだったのは、
UFOギャグが受けなかったからじゃない。
俺は割りばしを割って、
豚キムチを小皿に取る。
チーママが顔をのぞかせて、
俺の手の動きを追っていた。
俺は少し緊張して、
熱い豚キムチを口にする。
「どう?」
オーママが俺に尋ね、
「うまいっす」
俺は答える。
ばさばさばさばさばさっ。
チーママが、
戸棚から、
書類の束を、大量に落っことす。
真っ赤になって書類をかき集めるチーママを、
オーママが
腕組みして眺める。
チーママは、
書類をひっかきまわしながら、
けらけら笑いだす。
この笑いが、
どこからつながったことなのか、
俺にはわからない。
「UFOに乗れそうです」
もりもり食いながら、俺は言う。
「もうそれはいいから」
オーママがそっぽ向く。
豚キムチの香りが、
オーママのコロンも樟脳も消してしまう。
それで俺は、思い出す。
忘れていたことを思い出す。
あの日、
冷えっ冷え豚キムチを食べた日、
チーママに、宇宙の目をみつけたのを
今夜は忘れていたこと。
あの宇宙の目の中にいた、
むかしの俺のことも思い出す。
「何かを大切にしてしまうと、
そこには痕跡が、のこるわね」
「あ!領収書」
チーママの声がする。
「捨てられないものは、重いわ」
オーママのことばに、
俺は生半可にうなずく。
熱い豚キムチを食べながら、
俺は自分の母親を思い出していた。
小6の2月3日に「天才少年」が死んだあと、
俺の母親という人間は、誰に飯を出していたのか。
俺の母親は、誰の母親だったのか。
俺はどこに行ったのか。
俺は「天才少年」に
嫉妬するか。
しないのか。
今年もまた
「母の日」が、終わった。
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