短編小説「エモーショナル怪人 エモ山」(54) しゅれでぃんがして、ワンと鳴く
前回のエモ山
0.1㎜のペン先で、
白い画用紙に、
たとえば犬の絵を描くとする。
0.1㎜のペンなんか持ってないなら、
シャーペンでもいい。
シャーペンの芯なら0.2㎜ってやつが売ってる。
それを買ってくる。
それで犬の絵を描く。
0.2㎜ってことは、
その芯が引く線は、ふつうの鉛筆で描いたときの10分の1の細さってこと。
同じ大きさの、同じような犬の絵を描くならば、
太い線で書く方が、早く描き終わる。
同じ大きさの、同じような犬の絵を描くならば、
0.2㎜の芯で描く犬は、
鉛筆で描く犬よりも10倍くらい時間がかかる。
10倍時間がかかるってことは、
10倍くたびれるってこと。
たとえばそれが学校の「美術」の授業とかで、
時間制限みたいなのがあって、
制限時間内に描き上げたかったら、
0.2㎜で描いた方を、鉛筆で描くほうの10分の1の大きさにすればいい。
ちっさい犬を描けばいい。
ちっさいちっさい犬を描けばいいと思う。
それで、
「ああ、描けた描けた」
つって、
となりで鉛筆使って描いてたやつに、それ見せたりして、
「すごいだろ。ぼくもキミと同じ時間で描けたよ」
つって。
けど、
鉛筆画描いてたやつは、0.2㎜のやつの絵を見て思う。
「ちっさいな」
0.2㎜の芯で描かれた、10倍ちっさい犬を見て、思う。
「俺の犬よりだいぶちっさいな」
でも口には出さない。
犬は犬だしね。
「いいね」
とだけこたえる。
ふたりは絵を持って、席を立つ。
美術の先生に、絵を提出する。
授業終了のチャイムが鳴る。
ふたりは教室をあとにしようとして、振り向く。
ふたりで目を見かわす。
「あいつ、まだ終わってないぞ」
「だらしないやつだな」
教室には、じつはもうひとり生徒がいる。
こいつは0.2㎜の芯で、大きな犬を描こうとしてるやつ。
無謀なやつ。
0.2㎜の芯は細いから、
この授業の時間内に、やつが描けた犬は、
たとえば非常にあいまいな輪郭とか、
ふわふわしたおなかの毛のあたりとか、
ざらざらした黒い鼻の先とかだけ。
だから全然、まだ犬じゃあないんだけど、
そのふわふわのおなかの毛のふわふわの感じとか、
ちょっとまだらっぽいところもあるレザーボタンみたいな黒い鼻の感じとかが、
やけにリアル。
まだ犬じゃあないんだけど、
未確定なんだけど、
無謀なんだけど、
ドキッとするほど、ほんものに見える。
そのリアルな一部が、
まだ描いてないところまで見せちゃうくらいリアル。
こいつにとって授業の時間なんてものはどうだっていい。
0.2㎜の芯で、大きな犬を描くことだけに専念してるから。
こいつの頭にあるのは、
自分が実際に見たことのある犬を、どうしたら絵にできるかってことだけ。
時間などというものに、こいつは関係がない。
その犬に、ただ一声「ワン」と鳴いてほしいだけだから。
***
といったようなことを、俺は考えていた。
「おい、エモ山」
ニックに肩を揺さぶられるまで。
俺は頭をがっくんがっくん揺らされながら、
ごつごつしたニックの5本の指の関節と、指先が、
俺の肩に圧を与えるのを感じていた。
そのごつごつした手は横方向に小刻みに往復し、
そのせいで俺の頭はがっくんがっくん揺れてたわけだけど、
見えていたのは車の内側に貼られている、
柔らかい感じのする布素材が、
灰色みたいで茶色みたいでこれ何色っていうのかな、っていうか色の名前って何。
っていうか名前って何。
名前の名前は名前だけどさ、
名前以外のものも名前持ってるよねってどういうこと。
「エモ山!」
胸ポケットのとこでなにかがぶるぶる振動していた。
これはさっきたぶんニックが貼ったやつ。
なんだっけ。
『概念の音姫』だそうだそうだそういう名前。
っていうかこれ何。
「エモ山!」
あ、そうかこれエモ山。
俺の胸ポケで震えてるのエモ山。
ぶるぶるぶるぶる。
「剥がして剥がして!」
おやおやおやおやー。
この声は。
いーだ課長かな?
誰かな。
いーだ課長って誰かな。
「剥がして!」
剥がさないで剥がさないで―。
みたいなことが、
見えていた、
だけだった。
がっくん
がっくん
動いてた。
***
で、
犬の絵。
0.2㎜の芯でやつが描く大きな犬の絵。
教室は、からっぽになってた。
窓の外はオレンジ色。
カラスの声遠くひとつだけ聞こえて止み、
そのとたん、
窓際側に置かれた机の上に、にゅーんと黒く、斜めに伸びたのは窓枠の影。
昼間だったら教室には、30台の机と椅子のあいだに、
十字に交差する通路を浮かび上がらせるけど、
窓枠の影がそれをおさえこんでいる。
窓枠の影につられて、
机も椅子も、にゅーんと斜めに影を伸ばしていた。
斜めに交差する影の中に、
かすかに、
しゃこしゃこしゃこしゃこ音がする。
かすかに音がする。
やつが、まだ描いていた。
やつの影も斜めに、
にゅーんと伸びてはいたものの、
その影の、右手の部分だけはせわしなく動き続けていて、
唯一そこだけが、動くことで斜め化を、知らずまぬがれている感じ。
動いてる当の右手は、そんなことには気づいてない感じ。
やつの右手の小指の下部分の、最ももちもちしたところは
シャーペンの芯の色がうつり黒くなっていて、
窓の外に広がるオレンジ色も、さすがにそこまでは届かない。
やつの描く犬の絵は、昼間より犬になってきていたけど、
犬種まではわからない。
完全な犬というよりは、ふさふさした毛を持つ何かの生き物。
それはたぶん犬。
だけどまだ『犬』。
『犬』描くやつの中、犬はまだワンと鳴いてない。
鳴きかけてはいるが、鳴いてない。
聞こえるのは、
しゃこしゃこしゃこしゃこという音だけ。
***
びえっくしょいとくしゃみして、
はるまげどんと音がして、
車の扉が閉じられて、
誰かが走り去ってく足音。
俺はくしゃみのあとの、体の揺り戻しにぶるっと身を震わし、
自分がバンの運転席にいることを思い出した。
くしゃみが出たのはきっと、
俺がアンダーシャツを着ない派だからだろう。
ワイシャツを脱がされた俺は、上半身裸だった。
助手席に、いーだ課長がいた。
フロントガラス越しに、外を見ていた。
青空だった窓の外はオレンジ色にかわっていた。
夕焼け空の下、ラーメン屋の駐車場には、
俺たちの車以外には、黄色いバンしか停まってない。
もしもこの空の色が正しいなら、もうすぐ夕飯時だから、
ラーメン屋の駐車場は混みはじめてくるはず。
なのにここに車がないってことは、
ここがどこかいつもと違う場所だってことかもしれないし、
このラーメン屋がうまくない店だってことかもしれない。
けど俺は、ついさっき、あの店でラーメンを食べたことを覚えていた。
そしてラーメンは、そんなにまずくなかったことも覚えていた。
時計をたしかめようとして、腕をあげたら、
俺の腕時計はなくなって、どっかにいっちゃってた。
俺の腕から時計が消えたのは、
ニックがワイシャツを脱がした時、時計をはずしたのかもしれないし、
俺がいつもと違う俺だからかもしれなかった。
「エモ山君」
いーだ課長が言う。
「アンダーシャツ、着ていたほうが、よかったね」
いーだ課長は、自分のことばにうなずいた。
「着ていたほうが、よかったね」
「そっすね」
俺はこたえた。
「かわりに着るものは、なにかある?」
あるわけない。
いーだ課長は、膝から取り上げた『概念の音姫』の空箱を、
目の前にかざした。
「人間に貼りつけたら、いけないよね」
空箱を、いーだ課長がゆっくりと回した。
「これは放送室用。体につけるものは、もっと弱くないとね」
俺は鼻をすすりながら黙ってうなずいた。
「僕はね」
いーだ課長は、空箱を、膝に置いた。
「反対している」
空箱の蓋を、ていねいに閉じた。
「これはだめだと思っている。しかし」
空箱をダッシュボードに置くと、背もたれに体をあずけた。
「沼田君は、ちがうようなんだ」
そういえば沼田どこ行ったんだろう、って、
俺はあたりを見渡したけど、
黄色いバンは無人だった。
ラーメン屋の出口の、
赤い灰皿のところで、
ニックが俺のワイシャツを、
ライターであぶっていた。
ニックのライターの火が、
縦に長く伸び、
あち、って感じでワイシャツを、
赤い灰皿に落っことし、
ニックはそれをまた拾い上げ、
ライターの火を、近づける。
「どうだった?」
腕組みし、いーだ課長が、ニックのいるほうを顎でしゃくった。
「『概念の音姫』は、どういうものだった?」
「そっすね」
俺も腕組みした。
『犬』が、
と言おうとして、またくしゃみが出そうになって、
俺は鼻をつまんだ。
くしゃみしたら、記憶が飛んでっちゃいそうだった。
「なんつーか」
俺は鼻をつまみながら答える。
太陽が傾いて、車に西日が差してきて、
いーだ課長の鼻の影が、斜めににゅーんと伸びた。
それで俺も自分が、
斜めに伸びたように思えて、
その姿勢で思い返してみれば、
頭には、あの教室が、残っていた。
「あの場所は、どこだろうっつーか」
「あの場所?」
「さっきまでいた」
ん?
俺は鼻から手を離した。
自分の胸に手を当てると、手のひらに、心臓が動くのが感じられた。
ん?
何かが消えたような気がした。
腕時計じゃなくて、別のもの。
なんだろね。
***
にゅーんと伸びた影が、
長くなりながら、時計回りに動いた。
やつが『犬』の絵を描いていた、オレンジ色の教室は、
元の通りだったけど、
やつの姿が消えていた。
教室に残ってるのは、白い画用紙だけだった。
描きかけの『犬』を机に置いて、
やつはどっかに行っちゃったみたいだった。
やつが座っていた椅子は、
ひっくり返ってた。
床に、シャーペンが落ちていた。
窓枠の影が机に斜めに乗っかって、
影と机とのすき間に、そっとさし挟まれたように、
画用紙は、置かれてて。
やつが0.2㎜のシャーペンで描いていた、細密な『犬』の絵には、
ざらざらした鼻の先にも、ふわふわの腹の毛の部分にも、
オレンジ色のペンキが、たっぷりとぶちまけられていた。
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