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短編小説「エモーショナル怪人 エモ山」(71) ループのプールの中で / Inside the Loop Pool

前回のエモ山


俺は仕事のことを考えていた。

濾過課プールで日給3万円で行う仕事について考えていた。
今日の遅刻について考えた。
ニックについて考えた。
そして、チンパンジーについて考えた。

それから俺は、
「猿真似」ということばについて、
考えていた。

「猿真似」ということばは、
猿が真似をするという意味ではなく、
猿の真似をするという意味でもない。

猿がするように真似る、という意味だ。

しかし猿にもいろいろなものがいるだろう。
ニホンザルもいればピグミーマーモセットもいる。
そしてチンパンジー。

「猿真似」ということばは、
どの猿がする真似のようであるか、は明言していない。
どちらかというと、
「猿という概念」が真似たようである、
という意味に近い。

つまり「猿真似」ということばには、
「猿という概念」がぶらさがっている。
枝を掴み、長い腕を伸ばし、ぶらんぶらんと揺れている。

ところでこの際、
この「猿という概念」が、
ほかの枝に移ったとする。

「猿真似」ということばから、
「猿という概念」が去ったとき、
そこにはなにが残るのか。

「猿真似」ということばから、
「猿という概念」が去ったら、

「猿真似」ということば自体が消えるのではなかろうか。
と、俺は思う。

「猿真似」ということばにとって、
「猿という概念」は絶対に必要な意味であり、
なおかつ、「猿真似」自身のすみかでもある。

といったようなことを、
ぼーんやり、
俺は考えてたんだけれども、

「次の質問行きますね」
カゼシロ渚は、仕事を続けたがっていた。
「モニター見てください。記録とらなきゃならないので」

「記録?」
俺が尋ねると、
「インタビュー結果をまとめるんです」
かずひろ先輩がこたえた。

記録って言われたらしょうがない、
俺はモニターに目を戻す。
俺にだってプールでの仕事があるのに、
そんなことはどうでもいいカゼシロの声は、
俺に向けるときだけやけに淡々としている。

「その時、あなたはどう感じましたか?」

「『その時』?」

「あ、まちがえた」
カゼシロが言った。
「次の質問行きますね。『翌日からの状況についてお伺いします』」

「渚」
かずひろ先輩が横から口を出す。
「そこはいったん区切る」

「はい」

「ひと呼吸おく」

「はい」

そしてカゼシロが深呼吸する様子が聞こえ、
「渚」
また、かずひろ先輩の声。
「おまえのひと呼吸じゃない」
「はい」
モニターの中の俺が、
かすかに目を細めた。

ここに来るまでの
マイクロバスの中で、

「総務局です」

とか言ってたのとはまったく別人のような、
やや沈んだ声で、カゼシロが言う。
「翌日からの状況についてお伺いします」
ここはさっき言ったから、早口で、
スクロールするみたく、語尾はかすれる。
「ええと」

「渚」

モニターの中で、
俺は身じろぎもしないけど、
俺にはわかる。
モニターのなかの俺が、なにを考えているか。

「渚」

かずひろ先輩が言う。

カゼシロの返事はない。

「渚」

「次の質問、行きますね」

「渚」

俺の視界の端で、
カゼシロが身じろぎした。

はあああああああ。

カゼシロが、大きく息を吐くのが聞こえた。

俺はお達しの通り、
モニターを見ていたからよく見えなかったけど、
なにかちょっと、部屋の空気が変化した。

「翌日以降」
ただの棒読みで、
カゼシロが俺に尋ねる。
「あなたの生活に変化はありましたか」

「渚」

って、言うかなと思って、
俺は少し黙ってたんだけど、
その声は聞こえず、
あ、俺がこたえる番なんですね、
俺んとこに来てたんですね、って感じで、
俺はちょっと驚いて、

モニターの中の俺も、
わずかに肩を揺らし、
「そうですね」
そこまでこたえたところで、
俺は、
自分の頭の中が、
真っ白になっているように思った。

それはもしかすると、
「渚」
っていう声を、
追っかけてしまっていたからかもしれず、
「渚」
っていう声が、
俺の中のなにかを消してしまったようにも思えた。

質問の意味がわからないわけではない。
翌日以降の俺もいたはずである。
なのに、
なにをこたえればよいか判別できないというか、

「渚」

って言われないように、
この場における、
適正な返答を探さねばならぬという、
奇妙な切迫感が、
腹というか胸というか、
そのあたりにうまれて、

モニターの中の俺は、
ワイシャツの胸ポケットに手をあてる。

ワイシャツは俺の手のひらに、
やわらかく、生温かく触れてきて、
俺はそれで、
自分の手のひらが、
胸よりも冷たいってことだけを知る。

俺は思い出すことができる。
このワイシャツを買いに
アーケード商店街へ行った日のことを。

俺は思い出すことができる。
チーママと、犬の散歩に行ったことも。

しかし俺は
思い出すことができない。
その散歩で、
自分がなにを着ていたか。

ワイシャツを買いに行った日に、
自分がなにを着ていたか。

すっぽり抜けていた。

すっぽり抜けていた。

これは、
なんだろう。

「あなたの生活に、変化はありましたか」
カゼシロが、もう一度俺に言った。

その質問のこたえは、
記憶のあの場所に、俺の着ていたものがない、
着ていた姿がないことだ、
と、思ったけど、

そうこたえればまた、
かずひろ先輩の、
「あなたの記憶だからでは」に丸めこまれてしまうかもしれない。
そうなれば、

チンパンジーが逃げてしまう。

チンパンジーが消えてしまう。

だから、
俺は黙っていた。

わからないと答えるのは無責任な気がした。

「思い出せないんですか?」
こたえられない俺に、カゼシロが言った。
「思い出せないですか? わからないですか? じゃあ次の質問に…」

「渚」

かずひろ先輩の声がした。
それはやけに強くカゼシロをはたいた。

「はい」
とカゼシロ。

かずひろ先輩が言った。
「俺がなに言いたいか、わかるよね」

カゼシロは、こたえない。

「わかるよね」

カゼシロは、かすれた声で返事した。
「…はい」

「だったらさ、」

カゼシロが、つぶやいた。
「もう、やだ」

「渚?」

「もう、やだ」

「渚?」

見ると、
カゼシロがうつむいていた。
口を手で覆い、
もっとよく見れば、
目は涙でうるんでいる。

俺はそのカゼシロから、
つつーっとかずひろ先輩に、
目を向けたら、
険しい表情をしたかずひろ先輩は、
「モニター見ててください」
腕組みしたまま俺を見もせず言った。

俺はモニターに視線を戻したけど、
モニターの中の俺は、
あきらかに地獄耳を立てていた。

流砂のような沈黙が、
白い部屋を撫でさすった。

ざらつく流砂の底には、
「動かなさ」の黒いかたまりがあり、
流砂とはその黒いかたまりの
ざらついた上澄みでしかないんだけど、
俺たちのやわらかい頬は、
そのざらつきで、こそげ落とされる。

黒いかたまりは見えないけど、
磁力を持っていて、
それが俺たちに、
軽い頭痛を起こさせる。

「泣いてどうすんだよ」
かずひろ先輩が言った。
「仕事だろ?」

「局長呼んでください」
鼻をすすりながら、カゼシロがこたえた。

「またかよ」

「局長呼んでください」

地獄耳を立てながら、
モニターを見ていて俺は、
自分の一部が石になりかけているように感じた。

それは土を乾かして、
焼いて作ったセラミック。
ああそういえば俺は、
コーヒーを飲んだね。
セラミックのカップでコーヒーを、
ラーメンのあとに飲んだね。

「仕方がねえなあ」

かずひろ先輩が、
なにかごそごそやりだして、
横目でこっそりのぞき見ると、
スマホを耳に当てていた。

「あ、おつかれです」
かずひろ先輩が言った。
「局長、お願いできますか?」

スマホの向こう側で、
誰かがなにかこたえた。
「あ、はい」
かずひろ先輩が言う。
「関係調整です。再構築、再構築」
向こうで誰かがなにか言い、
「あははー」
かずひろ先輩が軽く笑った。

「あのですね」
電話を切ったあと、
かずひろ先輩は、俺の横に来ると、
耳元でささやいた。
「これ、いったん休止です」
サムアップして、ビデオカメラを指しながら。

おまえのせいじゃないのか、

という感想はさておき、
そのひとことでやっと、
俺はモニター凝視業務から解放され、
椅子の固い背もたれに
思う存分もたれかかることができたわけだけれど、

カゼシロはべそべそ泣いていて、
握りこぶしで涙を拭っている。

固く握りしめた手の、
人差し指の関節で、
目の下をなぞり上げるしぐさは、
しかし化粧が剥がれ落ちぬよう、
注意が払われているような、
そんな気がしなくもなく、

首から提げた入構証の顔写真が、
いつまでも無表情なのが、
こっちのほうがほんとのカゼシロって感じもした。

かずひろ先輩がビデオカメラをオフにして、
壁のモニターにうつっていた俺は消えた。

そして画面は切り替わり、
巨大モニターは、
いったん環境ビデオに切り替わる。

それはピンクや黄色の花が咲く、
春とおぼしき草原に風が吹き、

切り替わり、
赤いチェックのキルトの上で、
ふわふわの子猫がボールを転がしてあそぶ暖炉の部屋。

切り替わり、

レインボーブリッジの夜景を背にした、
中年男性の姿があらわれた。

「あ、局長」
かずひろ先輩が、すかさず言った。
「おはようございます」

「おはようございます、かずひろさん」
局長がこたえた。
「関係調整で、よろしかったですか」

カゼシロが、
座ったまま、モニターに向け、入構証を挙げて見せた。

「カゼシロ渚さんですね」
局長が言い、
カゼシロは、壁に背を向けたまま、こくりとうなずく。

「かずひろさん、6年2か月。カゼシロ渚さん、3年2か月」
局長の映像が、口を開かずに言った。
「ともに総務局総務課」

俺はモニターに対し、
いちばんいい位置にいたし、
それは見たことのない映像だったので、
ちょっとゆっくり眺めてみようという気になっていた。

自分に関係ないものは楽しい。

俺は俺のいない場所でこれから行われるのであろう、
なにかが始まるのをワクワクして待っていた。

しかしその安寧は、
ワイシャツをついついと引かれる感触によって邪魔された。

いつのまにか俺の隣には、
AIお針子が立っていた。

「どっから来たのだ」
俺が尋ねると、AIお針子は、白いドアを指さした。

ドアは、開いていた。

AIお針子が、
俺のワイシャツを引っぱりながら言った。

「チンパンジーの歌、歌おうよ」

そうだねって感じで、
レッツ・シング。俺は椅子から立ち上がった。

チンパンジーは腕が長い。
キリンは首が長い。
象は鼻が長い。
じゃあ、人間は、
なにを長くしたの?

チンパンジーは腕が長い。
キリンは首が長い。
象は鼻が長い。
じゃあ、人間は、
なにを長くしたの?

俺の胸は苦しかった。
夕焼けのように苦しかった。

俺たちは、歌いながら白い部屋を出た。

(続きます)



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