短編小説「エモーショナル怪人 エモ山」(33) 新種の花 ルイジアナ・エモイサ
エモーショナル怪人 エモ山 これまでのおはなし
あまね君ってのは昔からそうなんだけど、ひとの話を聞くとき、別のことを考えているように見える。
そういう男だった。
聞いているのかいないのか、耳は傾けていても、視線は別のところにある。
いーだ課長と話すあまね君を眺めていて、俺はそれを思いだした。
俺が天才少年だったころ、サピックスで、講義中、一番前の席で、あまね君の視線はホワイトボードのもっと遠くを見ていた。
授業をBGMみたいに聞きながら、あまね君はなにか、頭の中の糸巻に、延々と糸を巻きつけているようだった。
あまね君の頭の中で、ゆっくりと、何かが回転しているように、俺には見えた。
俺はそのあまね君の横顔を、睨んでいたわけだけど。
負けたくなかったから。
「エモ山君」
ゴミ収集所であまね君は俺に言った。
「僕の最後の恋人は、非常に強い性欲を持っていた」
砂の詰まったゴミ袋を積み上げる俺の手は、止まった。
「はい?」
俺は振り向いて、あまね君を見た。
「性欲の強い熟女だった」
あまね君は、真面目な表情だった。
「エモ山君、きみは」
そしてまた、あまね君は言った。
「ルイジアナ・エモイサという花を知っているかい?」
「はい?」
砂の詰まったゴミ袋を積み上げる俺の手は、止まったままだった。
「ルイジアナ・エモイサ」
あまね君は言った。
「湿った沼地に咲く、濃い紫色の花」
俺はその花を知らないから黙っていた。
「ともすれば、膝まで泥に埋まってしまうような、」
あまね君は言った。
「進めば進むほど、踏みしめた泥、跳ねあがった泥で、全身が泥まみれになっていく、」
あまね君が、砂の詰まったゴミ袋に手を置いた。
「そういう沼地で、僕の最後の恋人は、ルイジアナ・エモイサを発見した」
「発見?」
俺のことばにあまね君はうなずいた。
「研究者だったんだ」
あまね君は、遠くを見た。
「非常に香りの強い花。その香りは沼地の泥の腐臭と混ざり、あたり一帯を紫にする」
「はあ」
「むかしそれは、泥のにおいだと言われていた」
「泥の」
「彼女が発見するまではね」
「はあ」
「彼女は、見つけてしまった」
あまね君は言った。
「僕はその頃、ハーバードにいた。メディカルスクールで、神経を持たない細胞の研究をしていた。
彼女は同じラボの准教授だった。彼女が、」
あまね君はことばを止め、俺のほうを見た。
「ルイジアナ・エモイサを、食べてしまうまで」
「ルイジアナ・エモイサには、とても強い毒があった」
あまね君は続けた。
「その毒は、口にしたものの乾きを生む」
「乾き?」
「おそらく」
あまね君はうなずいた。
「ルイジアナ・エモイサは、沼地に咲く『乾き』なんだ」
ゴミ収集所に、俺たちはいた。
そこには俺とあまね君、いーだ課長。
ゴミ袋に腰かけるいーだ課長のまわりを、AIお針子がスキップしていた。
収集所のはしっこで、すたたん、すたたんとスキップするAIお針子を、
いーだ課長の静かな目が追っていた。
「とても強い性欲」
あまね君は続けた。
「ルイジアナ・エモイサは、彼女を変えた」
「乾き?」
「そう」
あまね君の頬に、うっすらと笑みが浮かんだ。
「僕たちは、いろいろなことをした」
その笑みは、青ざめているようにも見えた。
「彼女は平気だった」
乾いた唇を、あまね君がなめた。
「僕の望むことを、疑いなく、ためらいも、恥じらいもなくやってのけた。何度も繰り返してみせた。抑える理由なんて持たなかった。彼女はけして疲れたりしなかった。むしろ、どんどん激しくなっていった。まるで僕の欲望を自分の体で可視化してみせることに歓喜するように」
「僕は痛みで熱を出し、皮膚の感覚はうばわれ、窒息し、何度も気を失った。
けれども僕は、やめられなかった。ルイジアナ・エモイサの毒は、僕の体にも入り込んだのかもしれない。とにかく僕は、やめられなかった」
すたたん、すたたん、すたたんと、お針子がスキップしていた。
「これはだめだと思った。破滅すると思った。
研究なんてとっくに放り出していた。
つかの間の眠り。目覚める前に、手のひらで、彼女を探した。
彼女はいつも僕を待ち構え、僕の手を取って、導いた。
彼女は僕にとって、すべて正しかった。
彼女は僕の、ほんとうの正しさだった。
目の裏に、ほの暗く感じとれる破滅。
このまま行けばどうなるのだろうという不安。
そんなものは、彼女のしめす正しさの前では、なんの力も持たなかった」
すたたん、すたたん、すたたん。
すたたん、すたたん、すたたん。
「僕は、」
すたたん、すたたん、すたたん。
すたたん、すたたん、すたたん。
「とても幸せだった」
「あの」
俺は話を手で遮った。
俺が手を挙げたのは、あまね君の横顔が、俺がサピックスで見たそれと、
まるで違っていたから。
ただそれだけ。
俺は言った。
「俺、さっき、金色の男を見たんです」
頭を搔きむしりかけたあまね君の手が、はたと止まった。
その手は急に、前髪をかき上げるしぐさに変貌した。
「金色の?」
「はい」
「男?」
俺がうなずくと、あまね君は、いーだ課長に顔を向けた。
いーだ課長はすでに、あまね君を、いつもより鋭い目で見返している。
「どこで?」
あまね君が俺に尋ねた。
俺は答えた。
「プール室です」
「それで」
と、あまね君。
ゴミ袋から、いーだ課長が立ち上がり、俺の答えを待った。
「どこへ」
すたたん、すたたん。
すたたん、すたたん。
すたたん、すたたん。
すたたん、すたたん。
すたたん、すたたん。
すたたん、すたたん。
いーだ課長が、ゴミ袋に腰を下ろした。
「それは」
あまね君は言った。
「おそらく、プールの砂の、」
言いかけて、口を閉ざし、目を伏せた。
すたたん、すたたん。
「エモ山君」
あまね君が、目を上げた。
「僕は、日本に帰ってきた」
「はい」
「地下に潜った」
「はい」
「エモ山君」
あまね君は俺をしかと見つめた。
「プールの砂は、何だと思う?」
「それは」
俺の答えを待たず、あまね君は続けた。
「アルゴリズムに回収され損ねた人間性の残滓。その中に混じる金とは」
あまね君が遠くを見た。
「何だろうね。エモ山君」
すたたん、すたたん、すたたん。
「毒はまだ、僕の体に残っている」
あまね君は俺に横顔を見せた。
かつてサピックスで、睨みつけていた横顔を、俺はその時、睨むことなく眺めていた。
もう俺は、あまね君の横顔を、睨まないと思った。
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