短編小説「エモーショナル怪人 エモ山」(34) だいじなところを立たせているか
エモーショナル怪人 エモ山 これまでのおはなし
「でね」
チーママが言った。
「だいじなのは『ス』」
「す?」
俺は歩きながら横を見る。
俺の隣にはチーママ。
チーママの上には青い空。
チーママの耳たぶは寒さに赤く染まり、その耳を、チーママの歩くリズムに合わせ、少しウェーブした髪がくすぐるようにして揺れていた。
チーママの横顔は笑っているけど、髪にくすぐられてるからじゃない。
楽しいからだ。
きっと。
「校長先生がね」
チーママが話す。
「あるときに、『バイブス』ってことばを覚えちゃったわけ」
チーママが、俺をチラリと見あげた。
「あたしたちの練習見に来て言ったわけ。『君たちのダンスはあれだね、バイブがいい』って」
俺は「ス」を抜いたそのことばがチーママの口から出てきて戦慄。
俺の震えを、すかさず風が吹きさらっていった。
「『とてもいいバイブ。バイブあげあげだ』って、褒めてるつもり」
チーママが思い出し笑いした。
「あたしたちはね、固まってたわけ。高校生にもなれば、そういうもののこと、知ってる子も多かったから」
君はどうだったんだい? と、俺は心でつぶやく。
「『バイブあげあげ』」
言いながら笑うチーママに、俺の心のつぶやきは聞こえてない。
「で、それに対して、うしろのほうで、ぽつっと答えた子がいたの」
チーママが俺を見上げた。
「『いらねえよ』って」
俺はチーママの目を見た。
意味わかる?って顔を、チーママはしていた。
俺は目をそらす。
「それ聞いて、あたしの前にいた子が、貧血みたく突然がくっと頭落としたの。それから肩がひくひく震えだして、」
チーママの体が、綱に引かれ前にのめった。
その綱を、チーママは、強く引き戻しながら続けた。
「震えが全員に伝わって、最後は顧問の先生まで震えてた」
「ダンス部だったんですね」
俺はチーママにこたえた。
「そう」
チーママは、それだけ答えると、ぴんと張った綱にくいと引っぱられ、
俺に背を向けた。
ああそうさ。
俺はとんちんかん男さ。
気の利いたことなど、言えないのさ。
俺たちは、広い公園の、枯れきった芝生広場の、
こんもり盛り上がった小山みたいなところの、
その輪郭をなぞるような、オレンジ色の遊歩道を、
ひたひた歩いていた。
チーママは綱に引かれ、綱に引かれたチーママを、俺は追う。
綱の先にいるのは、茶色い毛むくじゃらだった。
バー情念の前で待ち合わせた時、
チーママの手は、すでにこの毛むくじゃらにつながれていた。
頭があり顔があり、足があり、長い尻尾をぶんぶん振りながら、口をぱかっと開け、
その口は黒いゴムパッキンで縁取られ、薄い舌を出したまま、はっははっはとせわしなく息をするそれ。
「犬」
頭を掻きながらそれを見下ろす俺に、チーママは言った。
ぴろぴろぴろぴろと、うっすい舌が波打っていた。
はっははっはと、ひたすら息切らしていた。
苦しいのだろうか。
しかし、ゴムパッキンの口角は上がっていた。
黒い目に特に感情はない。
ただ黒く、艶があり、まぶたはぱっちり開かれて、はっははっはとする間にも、それがときおり閉じては開く。
はっははっはとし、まぶた閉じたり開いたり、などしつつ、ぱかっと開いたゴムパッキンを、急に閉じてはまた開く。
そしてまた、はっははっはとやり始める。
ずーっとやっている。
苦しそうだが、苦しくなさそうでもあった。
もうなんか、ひたすら続けるって感じだった。
たぶん続けるんだろうな。
しかし。
まあ、チーママには言わないわけだが、この「犬」という毛むくじゃら、
犬には見えなかった。
それは、俺がそれまで見たことのある犬とは違っていた。
どこが違うのか。
いや、どこが違うのか。
俺たちは、バー情念から、公園まで歩いた。
公園に入ると、「犬」はさらにはっははっはと、目した行先でもあるのか、チーママをぐいぐい引っ張った。
俺はその後ろから「犬」を見つめ、ついでにチーママのお尻も見、チーママがダンス部だったという情報が、ぴこんと浮かぶのを、止められず、踊るチーママに、想い馳せ。
チーママが、振り向いて。
「寒い?」
と、大声で尋ねてきたのにも、うまく答えられなかった。
俺は自分が寒いのか寒くないのか、わからなかった。
公園の樹木は、黄色いのや茶色いのを地面に落とし、
木の幹は白っぽく乾き、
風が吹くたびに、黄色いのや茶色いのがかさかさ音を立てた。
チーママが、なぜ俺を、「犬」の散歩にさそったのか。
俺はその理由を、まだ見つけられないでいた。
遠くにいると、すごく強く想っちゃうけど、
近くにいると、つかめなくなる感じ。
その「犬」ってやつ、なぜか知らないが、よく歩いた。
俺は遊歩道で立ち止まった。
オレンジ色の遊歩道に、俺の影は斜めに細く伸びていた。
チーママが、「犬」に引っぱられ、「犬」が止まり、チーママは、芝生の小山のてっぺんで、こちらを振り向く。
目があって、俺は青空に目をそらす。
太陽を見てしまい、目を閉じた。
目を開けると、
チーママが、小山を越えていた。
チーママと、その影が、小山のうしろに消えていった。
俺は遊歩道で立ち止まったまま、小山の向こう側から、チーママの姿が出てくるのを待った。
が、出てこなかった。
待ちきれず、俺は歩き出す。
俺も小山に上ってみた。
小山のてっぺんから、チーママを探した。
チーママは、遠くにいた。
芝生広場は、思った以上に広かった。
「犬」ってやつは、どんどん歩いていった。
ほうっておけば、どんどん進む。
あれはほんとうに犬なのだろうか。
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