短編小説「エモーショナル怪人 エモ山」(57) こどもぎんこうの頭取は信用取引をするか
金ならある。
俺は「利害関係調査委員会」でお仕事をしているので、
金ならあった。
だからワイシャツを買うことができる。
お仕事をしているから、
お仕事に行くためのワイシャツを買うことができる。
ワイシャツを買えばお仕事に行ける。
お仕事に行けばワイシャツが汚れる。
お仕事をしている限り、俺はワイシャツが買える。
俺はアパートを出た。
素肌にジャケットを羽織って。
すーすーした。
道端の桜は散っていて、青葉はまだだった。
裸木は、俺より寒そうだった。
もちろん目指すはアーケード商店街。
俺は歩きながら歌う。
もーどーりーたい
もどれーないー
きもちうらーはーらー
フルで歌ってサビだけアンコール。
ループしかかるその前で、
ホームレスさんとすれ違う。
ホームレスは世の中に出勤し、
俺は、アーケード商店街の入口へとたどりつく。
アイボリーと灰色のパッチワークでトンネルをつくれば、
シャッターが並ぶこのアーケード商店街は再現できるだろう。
トンネルの奥から吹いてくる冷たい風は、
そこここの路地からの細い風の収束。
微細にかび臭く、
しかし俺を押し戻そうとしたりはせず、
むしろ俺に、かび臭くなることをすすめる。
この商店街で、シャッターは、
大きな音を立てるので、
そうっと開かれて、閉じられる。
俺の中で、
コンビニだけは一日中煌々としていた。
それは想像の中でもじゅうぶん明るかった。
たぶんそこになら、蛍光灯を反射して、目を射すように白いワイシャツが、
ポリプロピレンにくるまれて、置かれているはずだった。
俺はその薄い透明ぶくろを引きちぎり
一刻も早くワイシャツを身につけたかった。
そしてホームレスさんの後を追い、世の中に戻る。
世の中は俺たちのホームだ。
ところがコンビニは思ったより遠く、
どこまで歩いてもたどり着かなかった。
俺は立ち止まり、自分のいる場所をたしかめようとして、
うしろ振り向く。
アイボリーと灰色のパッチワークのトンネルが、
はるか先まで伸びていた。
前もうしろも、おなじ光景、
薄暗く、遠い先だけ丸く明るい。
それで俺は、
自分がいま、穴の中にいるんだってことに気がついた。
俺はジャケットのポケットに、
上から手をあてた。
ポケットにはなにも入っていなかった。
こどもぎんこうの50円玉は、アパートに忘れてきていた。
ジャケットの肩パッドが、
素肌に急に重く感じはじめた。
肩パッドを軸にして、ジャケットはただ、
俺の体のまわりに、ぶら下がっているだけに思えてきた。
素肌と裏地の間を冷たい風が通り抜けていき、
俺の脇腹はぶちぶちと音立てて粟立った。
鳥肌が元に戻っても、
風が通り抜けた草原で、
草はなぎ倒されたままだった。
そして俺が見つけたのは看板。
重厚な金箔に縁取られた土焼きに、
すすけた黒の
粘土細工の文字が、影伴って浮かび上がっていた。
ワイシャツの店 帯壱
シャッターは開いていた。
緑がかったショーウインドーの内側には、
白いワイシャツを着せられた、
上半身だけのトルソーが並んでいた。
トルソーが並ぶ端っこに、
水の入ったグラスが置かれていた。
グラスはカルキで白くなり、
中の水は濁っていた。
「ワイシャツですか」
声がした。
店の中から、老人が出てきた。
「ワイシャツですな」
老眼鏡の奥から俺を見上げ、老人が言う。
俺は、老人の首にかけられたメジャーの黄ばみかたが
ちょっと怖くて、
なおかつ、
店の奥から漂ってくるカビのにおいに、
ケモノ臭が混じってるみたいな気がして、それも怖かった。
「どんなものを、ご所望で?」
老人が言った。
「いや、俺は」
俺はもじもじとこたえた。
「ワイシャツであれば、なんでも」
「さいですか」
「はあ」
「すぐですか」
「はあ」
頭をのけぞらせ、老人が俺を見あげながらうれし気にうなずいた。
「要りますな」
笑った老人の口がぱかっと開いて、
想像以上に赤い舌が見えた。
「最近は、ノンアイロンですな」
俺はあいまいにうなずいた。
「はっはっは。ノンアイロン」
老人が、赤い口をあけて笑った。
「はっはっはっはっはノンアイロン」
その口に、歯は一本もなかった。
「すぐにご用意を」
しゅっと口をすぼますと、赤色は消えた。
老人の口の色は俺にショックだけを残し、
俺はその色の残像にうろたえて、なにかを失ったような気がした。
それを取り戻すためにはやや時間が必要で、
ぴりぴりと弱い電気が走り続けるような体を傾かせ、
電気を外に出し、持ち直し、
またぞわっとくるのを、
傾かせ、持ち直し、
そんなふうにして、自分を取り戻しかけていたそのとき、
店の奥で物音がした。
レジスターの後ろ側につるされた、
色あせたキャラクター暖簾のあいだから、
ピンク色の服を着た女が出てきた。
女は胸に小さな犬を抱いていた。
小さな洋犬は、女が着ているのと同じ色の服を着ていた。
「おじいちゃん、ちょっとあたしたち」
店から出てきながら、女が老人に言った。
「おでかけしてくるわ」
「そうかい」
老人は、振り向きもせずこたえた。
「おじいちゃん。ねえ」
犬を抱き直しながら、ピンク色の女が老人を肩越しに覗き込む。
「あたしたち。おでかけするのよ」
「ああ」
「お邪魔でしょうから」
老人が鼻で笑い、遮るように言った。
「ヒビキくんは?」
「つれてくわよ」
女がこたえ、店に振り向いたとき、のれんの下から子供が出てきた。
子どもは女に駆け寄って、女のピンクの服の裾を片手でつかむ。
反対の手には薄い絵本をだいじに抱えていた。
子どもの体を半分隠すほど大きい絵本だった。
「あたしたち」
女がもう一度言った。
「ちょっとおでかけしてくるから」
言いながら、胸に抱いた洋犬の鼻先を、老人の頬に近づける。
老人は苦い顔をして、犬の鼻先から顔をそむけた。
女は面白がって、犬の鼻を、さらに近づけた。
犬は老人の頬を舐めようとして、花びらのような舌を出した。
「あらあら」
女が笑う。
犬が着せられている服は、
フリルでごてごてと飾られた、ワンピースのようなものだった。
「ムスクちゃんは、おじいちゃんがちゅきなのにい」
女が高い声で言いながら、犬を老人に近づける。
「きらわれちゃって、かわいちょーでちゅねえええ」
そんなことをしながら、実は女は、
老人に、自分が通る道を開けさせようとしているのだった。
犬を盾にして、嫌がる老人をわきに追いやろうとしているのだった。
そして女はそれをうまくやった。
老人は、少しずつ横に位置をずらし、
俺の目の前から消えた。
俺の目の前には、すでに女がいた。
「あらあら」
女が俺に、犬を向けた。
「おきゃくちゃんが、どいてくれまちぇんねえ」
にやにやと笑いながら、鼻の両側に、変な皺を寄せた。
服を着せられた犬は、
テディベアに似せたように毛を刈られていた。
犬からは、キャンディのような甘ったるい人工的な香りがしたが、
そこまで香らせても、ケモノ臭は消せない。
女の裾をつかんだヒビキ君が、俺を見上げて目を細めた。
子どものくせに、小さな鼻に寄る皺が、もうすでに、女と同じなのだった。
女に抱かれた犬が、尻尾をピコピコ激しく振りながら、
俺のほうに体を伸ばしてきた。
犬が体を伸ばすと、意外と長い胴がワンピースからはみ出て、
下半身の内側の、毛のまばらな部分のピンク色が見えた。
「すいませんね」
老人が、はしっこから俺に言った。
「しつけがなってないもんで」
犬のことのように、女のことをあやまった。
ワイパーのように動く犬の尻尾が、
女の顔をはたき続けた。
女はそれからちょっと顔をそむけながら、
それでも俺に犬を近づける。
はっはっはっはっはっはっはっはっ……。
犬の臭い息が俺の鼻づらを撫でた。
俺はそれがかなり嫌だったことはたしかだが、
なにか懐かしい気持ちも感じていた。
もしかすると自分は、
かつて犬を飼ったことがあるのかもしれないと、俺は思った。
いや、実際には、飼った記憶はなかったが。
前世で飼ってたのかな。
はっはっはっはっはっはっはっはっ……。
女の腕の中で、
犬がじたばたと動いた。
犬が俺になにか言いたげな気がして、
俺はその犬から目が離せなくなった。
なにか。
なにかを言わんとしているように見えた。
女の腕から逃れようと、
犬はさらに激しく体を動かした。
犬はさながら釣られた魚。
いまにもつるんと腕からすり抜けていきそうで、
それにしがみつく女は、
犬の動きでガタガタぶれる。
「おかあたま」
犬の振動を受けながら、ヒビキ君が言った。
女の裾をひっぱって、俺を指さす。
「ねえおかあたま、ホーチポジションだよね」
「え?」
犬に翻弄される女、ヒビキ君を見下ろし、
「ホーチポジションだよね」
振動する指で、ヒビキ君は俺を指す。
「え?」
「レバレッジかなあ」
「え?」
絵本が振動でずり落ちそうになって、
ヒビキ君は、あわてて絵本を持ち直す。
ちょうどその時見えた絵本のタイトルは、
「きんゆう」と読めた。
暴れまくる犬が女の腕から逃げ出て、
地面にトンと降り立った。
犬は俺の足元を何周も、落ち着かなげにくるくると回り、
ふいに動きを止めると、
俺の靴の横で、腰を浮かし、震えはじめた。
「ツイショウくるよ、おかあたま」
犬を見ながらヒビキ君が言う。
「へへへ、フクミゾン」
「すいませんね、しつけがなってなくて」
今度は本当に、老人が、犬のことを謝って、
肩をすくめた。
そのまま表情は、影のようになって、
後じさるようにして、店の奥に引っ込むと、
暖簾をぺらっとひるがえし、
その向こうへと姿を消した。
「あらあらムスクちゃんたら」
女が犬の粗相を見下ろした。
「こまったちゃんでちゅね」
素早く犬を抱え上げ、おとなしくなった犬をなでる。
女は静かな犬を抱き、素知らぬ顔で、速足に歩き去っていった。
その女にくっついて去っていくヒビキ君だけが、
女に引っぱられながら、いつまでも俺に振りかえっていた。
けれどもそれも、つかのま。
やがてヒビキ君も諦めて、坊ちゃん刈りをつややかに揺らし、
後頭部を俺に向けた。
女とヒビキ君の後ろ姿が、
トンネルの先の丸い光の中に消えていったとき、
俺のジャケットの内側を、風が通り抜けていった。
俺はいつの間にかうっすらと汗をかいていて、
汗を吸った裏地が素肌をさらに冷やした。
俺は体を傾けて、
電気を外に出した。
緑がかったショーウインドーの向こう側で、
ワイシャツを着たトルソーが待っている。
俺が体傾けて、見下ろす場所に、犬はもういなかった。
なにかが閉じつつあるような気がして、
俺は自分の手を見た。
俺の手のひらには、
ぴりぴりとした、
かつてなにかを握っていたような感触が、
ほんのすこしだけ残っていた。
それが逃げないように、俺は、手を固く握りしめた。
爪が食い込むほど握りしめないと、すきまからこぼれ出ていってしまいそうだった。
俺は体を傾け続け、斜め上を見た。
計算式は
どこだ。
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