短編小説「エモーショナル怪人 エモ山」(28) しとしとぴっちゃん待つ待つ待つわ
これまでのエモ山
女がいるな、とは思っていた。
O井町駅前発「ガリラヤ倉庫」行き送迎バスの停に。
角に立つビルの出入り口に。
バスの停のむかい、「天丼」と書いてある看板の下に。
あの女、いつもいる、とは思っていた。
その朝。
しとしとぴっちゃんと、雨がアスファルトを打っていた。
雨は灰色のアスファルトを黒い怪獣の、ざらざらの、てらてらの皮膚に変え、その上に立つ俺はビニル傘。使い込んだビニルは白くにごり骨格の赤さびこびりつきむしろ幽玄。
血のようである。
黒いてらてら皮膚ぴっちゃんには、俺の影が薄く細くななめに映っていた。
ていうかそんな感じで、雨の日ってちょっと沈んじゃうよね。
しとしとぴっちゃんが。
しとしとぴっちゃんとして。
しとしとぴっちゃんちゃん沈ませようとする。
バスの停には屋根がない。バスを待つ俺のスラックスの裾は濡れる。
水のにおいがたちこめる。
アスファルトのにおいはいつもと違う。
水を吸った革靴が、ぎゅぎゅっと足をしめつける。
俺は靴の中で足指を握り縮こまる靴の革を少し広げるけどあんまり意味がない。
しとしとぴっちゃんのため、バスは大幅に遅れていた。
バスの停には俺ともうひとり男がいて、それがバスを待つ人間のすべてだった。
俺の隣で男はスマホに目を落としていた。
男のスマホには「遺産相続なんでも相談WEB」の大きな文字。
俺は、朝っぱらから遺産相続について考える男と一緒に「ガリラヤ倉庫」行きのバスを待ち、停の棒の横に突っ立っていた。
ほくろがある。
その女の頬には、ほくろがある。
東京にはすでにたたずむ人間なんかいないのだが、すべての人間は歩き、歩かなければへたり込み、座り込めば汚れた頬をそむけているだけなのだが、その女は出入り口にあるいは「天丼」下にたたずんで、その頬にはほくろがあった。
大きな、べたっとした、捨てられて踏んづけられて5年経ったガムみたいなほくろ。
だから俺はあいつは変な女だと思った。
街にいる、関わっちゃいけないタイプの人間だと俺は思った。
その朝。
ほくろ女は俺と道路を隔てた向こう側にたたずんでいた。
ピンク色の雨傘をさしていた。
まっすぐにさしていた。
体ごと真横に向き、たたずんでいた。
女の上には電車の高架があり、さっきから電車が何度も通り過ぎていた。
そのたびに轟音が俺たちにのしかかり、しとしとぴっちゃんのしとしと感もろともノメシてはしずまり、ノメシては静まりしていたのだが、ほくろ女はそんなことにはいっこうかまわない様子だった。
高架の支柱の雨どいに、ひびが入っていた。
そこから雨水が、漏れていた。
雨水が、雨どいからあふれ出る。ほくろ女は雨どいの真下にいるから、ピンク色の傘には空から降る以上の水がばらんこばらんこと落ちている。
しかしピンク色の傘。
これが撥水性がよくてばらんこばらんこの雨水を全部徹底的にはじく。
雨粒は。ピンクの坂道を、ころんこころんこと次々落ちていった。
転がり落ちた雨水は、真っ黒アスファルトに同化して、見えなくなる。
雨粒は、すぐに雨粒ではなくなってしまう。
インディアンモカシンというのだろうか。
インディアンって言っちゃいけないのだろうか。
思うだけならいいのだろうか。
思ってもいけないのだろうか。
ほくろ女は、ぺったんこのモカシン靴を履いていた。
こげ茶色のスリッポン。ビーズの房が付いている。
踵を踏んでいるので、モカシンは、スリッパのように見える。
足につっかけて、びたびた引きずりながら、家からちょっと出てきたって感じ。
むきだしの踵が赤い。
俺は靴下を履かない人間を信用しないようにしている。
雨粒が、ピンクの坂道で、ときおり変な跳ね方をし、真っ黒アスファルトに落ちないのがあった。
落ちなかった雨粒は、ほくろ女が着るちょっと毛羽だったような中途半端丈のベージュのウールのコートの背中に吸いこまれるのである。
ほくろ女の背中は丸かった。肉厚で、少し猫背。
ちょっと毛羽だったウールは冬の芝生のようにも見える。
ほくろ女の背中が、乾いた芝生広場のように、ころりと落ちてきた雨粒をすかさずキャッチして吸い込んだ。
雨水は無抵抗に吸われて消えた。
じわっ。
って音が聞こえるような消え方だった。
ひっきりなしに降る雨を突っ切ってこっちに向かってくるはずの、バスが来なかった。
雨は俺とほくろ女のあいだを隔てていた。
しかし俺は見ていたほくろ女を。
ほくろ女の背中を。
だけどほくろ女、肉厚の背中に雨がしみ込んでいることなどには気づいていないのだった。
ほくろ女は、ピンクの雨傘で完全に身を守っているつもりのようだった。
女はこっちを見なかった。
ゆいいつ、ほくろだけがこっちを見ていた。
女の鼻先は高架下のずっと先の方に向けられていた。
目もしっかりと開かれていた。なにを考えているのか、遠くを遠くを見ている。
あれは「待っている顔」だと俺は思った。
待っているものが、道のずっと先にピンの先くらいに見えた瞬間にとらえようとでもしている顔だと俺は思った。
待っているということは、待つ相手がいるということだろう。
待っている誰かがいるということなのだろう俺は思った。
女が待つ相手は、俺が毎朝バスに乗り込んだ後に来るのかもしれない。
しかし。
来ないのかもしれない。
毎日ここにいるということは、ピンの先ほどの大きさにもならないのかもしれない。
俺は仕事を終えたあと、またバスに乗り、「ガリラヤ倉庫」からO井町駅に戻る。
その頃にはすでに、この季節なら夕闇が落ちている。
帰宅ラッシュの人込みで、高架下の道はあふれている。
俺だって腹が減っているし、早く帰りたいからわき目も振らない。
だから考えたこともなかったが、もしかすればこのほくろ女、その時もいるのかもしれないのである。
しかし。
そんなことは俺には関係ないのである。
なーんて考えていた。
ドキュメンタリーチックナレーション込みで。
だって、バスが来ないんだもん。
しとしとぴっちゃんである。
俺には関係ない。
俺に関係あるのはバス。
バスだバス、バスを出せ。
バスは俺を3万円にする。
遺産相続WEBの男は、まだ遺産相続WEBを見ていた。
そんなに調べることがあるのだろうか。
読むのが遅いのだろうか。
読んでないのだろうか。
「来ないっすね」
俺は遺産相続に声をかけた。
「バス、来ないっすね」
しとしとぴっちゃん。
しとしとぴっちゃん。
遺産相続男は、スマホから顔をあげなかった。
遺産相続のことで、きっと頭がいっぱいなのであろう。
「親御さん、もうすぐ死ぬんすか?」
と聞いたら、こいつは答えるだろうか。
遺産相続男がスマホに乗せた親指の爪が四角かった。
こんな横長の爪した人もいるんだなーなんて俺は考え、そしてこの遺産相続男に遺産を相続させるもうすぐ死ぬ誰かもまた四角い爪をしているのだろうかなどと考えた。
暇だからである。
俺は暇だからまたほくろ女を見ようかな。
ああたしかに「待つ」ってけっこうつらいよね。
「待つ」って、やだよね。
俺は宅配の人が来る時間帯になるとトイレにも行けない。
万が一、俺がトイレで残滓を出している瞬間に宅配の人が来たら俺は、残滓と宅配のどちらかを決めなければならないからだ。
残滓中の状態で宅配を受け取りに玄関に赴くということは、俺にはできない。
「待つ」ときは、状態を選ばねばならない。
どうやって待つか、を自分で決めなければならない。
ほくろ女は、ぺったんこのモカシンをぐしょ濡れにして誰かを待っていた。
俺のスラックスの裾は濡れそぼっていた。
仮に、俺のスラックスを棒グラフとするならば、さっきまでは5%くらい(くるぶし)だった濡れは10%(脛)にはなっている。
何%になればバスは来るのだろう。
鼠径部?
もしこのグラフが仮に100%になったあかつきには、俺はびたびたスラックスからしずくを垂らしながらバスの座席に座るのだろうか。
ぐしゅっと音を立てて?
いや。
しかし、水というものは下に落ちる。
スラックスに吸われても、どこかの時点で降りていくということはなかろうか。
噴水とかもそうではないか。
つまり俺のスラックスは永遠に100%にならない。
雨水は俺のスラックスを通り抜けていき、俺はここにただ突っ立っているだけだ。
このままバスが来なければ、俺は、自分がなぜここに立っているのか、だんだんわからなくなってくるかもしれない。
自分が存在する理由が、説明できなくなるかもしれない。
その前にバスは来てほしいものである。
裾が濡れるのである。
俺はそしてそこで、自分がかなりしとしとぴっちゃんになっていることに気づく。
しとしとぴっちゃんが俺のこともしとしとぴっちゃんにしはじめている。
そうだ。
バスが来ないからだ。
俺は暇だからもう一度ほくろ女を見ようと思った。
ほくろ女。
「あれ?」
俺は思わず声が出た。
ほくろ女がいなくなっていた。
道路の対岸、雨の向こう側は無人。
雨だけが、ざんざか振っていた。
俺は左右に視線をめぐらして、ピンクの雨傘を探した。
真っ黒アスファルトにできた銀色の水たまりのはしっこにピンク色がうつりこむ景色を想像した。
が、雨だけだった。
そしてそのあと、俺の目の端に、ピンク色が、ひゅっと入ってきた。
だ、とそちらに振り向くと、ほくろ女が遺産相続男の隣に立っていた。
ほくろ女は、ほくろと一緒に俺に向いていた。
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