「時間」についての考察(5):「時間」とは何か
1 初めに
川の向こう岸に、興味を引きつける何か(「時間」)があり、双眼鏡で覗いてみると、更に興味がわき、これは何だろうと言葉の橋をかけたくなります。
その時々に思いつく橋をかけ、あれこれの橋をかけてしまいました。どの橋も石でできた確かなものではなく、木や竹の仮設の橋だなぁと思います。
それでもまた材料を持ってきて、かけてみます。
2 「時間」はどこにあり、どのようにしてあるのか
前回の記事では、「時間」を道路や川と比較しました。
道路や川はものであり、見える世界という一つの次元に存在するのでした。
ただ、川については水が流れていることが気になりました。「時間」が流れることと共通するからです。
しかし、目に見えるものとしての川に限定すれば、流れという変化も世界という一つの次元(縦・横・高さ・時間)のもとにあるのでした。
世界という一つの次元(縦・横・高さ・時間)の時間は、時計の時間の時間です。川の流れが5m/秒と計測したなら、1分で300mと計算できるものです。
ところが道路や川と違い、「時間」は、この一つの次元のもとにはないのでした。「時間」はものではないので、道路や川のようには存在しないのです。
そこで、「時間」はどこにあり、どのようにしてあるのかを考えることとなりました。
3 「時間」にとって欠かせないこと
仮設を試みているうちに、「時間」にとって、次の二つのことが欠かせないと思うようになりました。
(「時間」が現れる何かをAとします)
・Aが変化していく。
・変化しても、そのAは別の何かにならない。
「変化が続くこと」だけで時間が流れる、ということはないように思うのです。「変化していき、かつ、変化しても別の何かにならない」とき、「時間」が現れるように思うのです。
矛盾していると思いますが、この二つをまとめて、次のようにしてみます。
・「時間」とは、次々変化していく同一性のことをいう。
4 同一性とはどのようなことか
私たちは、目覚めて新しい日を迎えたとき、「昨日まで住んでいた家に住み、昨日まで出かけていたところに出かけ、昨日まで会っていた人に会う」ことを信じて疑いません。本当は、環境や状況は刻々と変化しているのですが、世界は同一性を保っていることを前提として、昨日から今日を、そして今日から明日を私たちは生きています。
5 同一性のもとで、変化に「時間」が現れる
世界についての同一性は、個々のことにも保たれます。
個々の同一性のもとで、変化に「時間」が現れる例をいくつかあげます。
例1 1年ぶりに会う〇〇ちゃん
3歳の〇〇ちゃんが4歳になりました。体も大きくなり、できることも増えました。そういう変化を認めながら、〇〇ちゃんが別の人になったとは思いません。
変化しても、3歳の〇〇ちゃんと4歳の〇〇ちゃんは同じ人と思っているのです。
変化していなければ、簡単に同一性を認めます。「3歳の〇〇ちゃんの写真」と「4歳の〇〇ちゃんの写真」がぴったり一つに重なるなら、同じ人に違いありません。
しかし、変化しているのに、つまり「3歳の〇〇ちゃんの写真」と「4歳の〇〇ちゃんの写真」がぴったり一つに重ならないのに、同一性を認めるのは簡単ではありません。
ちょっと不可能なようにも思える、このことを可能にしているのは、ある「包み込み(許容)」です。(3歳の〇〇ちゃんの写真と4歳の〇〇ちゃんは)少し違っているのに同じ(〇〇ちゃん)とする「包み込み」です。
「少し違うものをぎゅっと包み込んで同じとする」とき、分泌されるものがあります。これを「時間」としてみたいのです。
私たちは、〇〇ちゃんの変化を(3歳から4歳への1年の経過と結びつけ)、「成長」と捉えます。変化に「時間」の分泌を加えて、「成長」というわけですね。
例2 直線を引く
白紙に1本の直線を引いていく「時間」があります。刻々とペンが進むごとに、この直線は変化していきます(長くなっていきます)。そして、刻々と変化していくこのことの同一性を失わないという緊張の「時間」が流れます。
断片に断片を継ぎ足していくのではなく、刻々とですが、1本の直線を一気に引いているのです。
「刻々とペンが進むごとに、この直線は変化していきます」は、目に見えることだけを書いています。しかしこのことは、実際は「場」において行われます。「場」とは、運動と諸感覚が一つに統合されたものです。
① ペンを動かす(運動)……
→②手、指の動きを感じる(筋肉や関節の感覚)
→③ペン先と紙の接触を指に感じる(触覚)
→④ペン先と紙の接触を聴く(聴覚)
→⑤書かれた線を見る(視覚)
②から⑤は、統合して①をモニターする。①は、このモニターにより制御される。
例3 方丈記
ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。
有名な方丈記の冒頭ですが、「絶えずして」が同一性、「もとの水にあらず」が変化なので、ここにも「時間」が捉えられているようです。
ここでの観察者は、川の一地点に立ち、一定期間、同じ個所を見続けています。ここからは、川の経路が視野に入っていません。川を「時間」に見立てても、その見立てに経路は出てこないのです。
川には経路があり、交差できました。「時間」には経路がなく、交差できないのでした。
例4 小舟
小舟を浮かべ、川をどんどん下ってくる例です。小舟の操作と環境は、目まぐるしく変化します。それでも、「今この川を下る」という同一性はしっかり保たれています。
しっかり保たれた同一性における目まぐるしい変化ですので、小舟の人は、「時間」を体験します。なかなか激しい「時間」です。
この「時間」もやはり交差することができません。1隻の小舟は、1本の経路しか辿ることができないからです。「A源流とB源流の2か所から、同一の小舟が下ってくること」はありえず、二つの川の合流の体験は、できないのです。
例5 自転車
自転車の「時間」に戻りますが、一つの駅から次の駅に進むたび、駅の認識は変化していきました。
それでも、「郊外から都心への自転車の走行」という同一性は、初めから終わりまで失われることがありませんでした。
この「時間」は、自転車が信号で停止している間も保持し続け、消えることはありませんでした。「郊外から都心への自転車の走行」という同一性は、信号などによってびくともしないものだったからです。
村瀬学は、4歳半から6歳半までを時間発見の時期としたうえで、興味深い考察をしています。
「キリン組は集まりなさい」と言われて子どもたちは集まってくる。そして「みんなはここでちょっと待っているのですよ」と言われてみんなが待っている。この時子どもたちは、時間的に言ってひとつの共通した時間意識の中でお互いをつなぎとめている。これが<今=現在>の意識である。
6 終わりに
時計では表せない「時間」を探す(7回):自転車と「時間」
に関係する記事は、今回で一応終わりです。
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