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短編ドラマ「名もなき主役たち」【第9話】「いつも、あの角に──矢印さんのいる街」

通勤の途中、いつも同じ角に立ってる男がいる。
首からぶら下げた「←こっち」って書かれた、
ちょっとくたびれた看板。
文字は太マジックで、ちょっとにじんでる。
3ヶ月は替えてないっぽい。

しゃべらない。動かない。呼び込みすらしない。
ただ、黙って矢印を掲げてる。ほぼ彫像。看板ぶら下げた彫像。

最初は気にも留めなかった。
よくいるでしょ、ビラ配りとか、工事の警備員とか、宗教の人とか。あのへんの人たち。

でも、ある日、ふと気づいたんだ。
この人、見てるな、って。

寝坊してダッシュしてた日。
なんか、うっすら笑った気がした。

会社をズル休みして、私服で歩いてた日。
なんとなく、目をそらされた気がした。

寒い朝は、首にマフラー巻いてるし。

……いや、気のせいかもしれないよ?でも、そういうのって、気のせいじゃなくなる瞬間がある。

それで、俺は勝手に“矢印さん”って呼ぶことにした。
名前も、年も知らない。ただ、そこに立ってるだけの人。

で、ある朝のこと。

その日も矢印さんは、例によって例のごとく立っていた。
風がちょっと強くて、看板がヒラヒラしてた。

俺が前を通ったとき、たまたま目が合った。
そしたら、ほんの一瞬だけ、首をかしげた。

「ん?」みたいな顔。

何が「ん?」なのかは、まったくわからない。
でもその瞬間、俺はなんとなく思ったんだ。

「今日の自分、ちょっとズレてるかもな」って。

矢印の向きは、いつもと同じだったのに。

数日後。
いつも矢印さんとすれ違ってた女性が、来なくなった。

ベージュのコート着てて、ちょっと猫背で、イヤホンして、ぶつぶつ何か言いながら歩いてる人。
毎朝見かけてたのに、突然いない。

1日目、「あれ?寝坊かな?」
2日目、「風邪かな?」
3日目、矢印さんの握る手に、なんか、ちょっとだけ力が入ってるように見えた。

しゃべらないけど、“欠けた何か”をちゃんと感じてるような気がした。

で、5日目の朝。

その女性が、戻ってきた。
ゆっくり歩いてて、コートの袖口がちょっとへたってて、顔色もまだ本調子じゃなさそうだった。

でも矢印さんは、いつもと同じ顔で立ってた。
ただ、ほんのちょっとだけ、看板の角度がゆるかった。

すれ違いざま、彼女が足を止めて言った。

「……ずっと来れなかったんです。数日。……入院していて」

矢印さんは、やっぱり何も言わなかった。
でも、スッと体を傾け看板を下げた。それが、“おかえり”って言ってるように見えた。

彼女は、ちょっと照れたように笑って、そのまま歩いていった。

矢印さんはまた、いつもどおりに立ち直した。
まるで、何もなかったかのように。

夜。

駅前の角を曲がったとき、矢印さんがちょうど看板をしまってた。

俺、気づいたら声かけてた。

「お疲れさまです」

矢印さん、ちょっと驚いた顔をして、それから、ゆっくり頭を下げた。
“あなたも、ようやくこっち側に来ましたか”って顔で。

看板の裏には、何も書かれてなかった。
でもそこには、“立っていた時間”だけが、じんわり染みてた。

今日も矢印には「←こっち」ってしか書いてない。

でも矢印さんは、それを毎日、ちゃんと“いまの街”に合わせて首からぶら下げている。
まっすぐの日もあるし、ちょっと傾いた日もある。
風に逆らってる日もあれば、疲れて下がってる日もある。

でも、たったひとつだけ変わらないのは、「立ってる」ってこと。

誰かにとっての“いつもどおり”って、
そういう人が、黙って支えてるんだな。

そう思ったら、看板の矢印が、
ちょっとだけ眩しく見えた。

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