短編ドラマ「名もなき主役たち」【第7話】「声のない告白」
夕暮れの団地には、今日も風が吹いていた。
洗濯物の匂いに混じって、どこか古い畳のような、懐かしい“昭和のにおい”がする。
高くはないけれど、不思議と記憶に残るこの集合住宅には、今日も静かな生活が染み込んでいた。
荷物を抱えた俺は、いつものように階段を上る。エレベーターはない。
少し重たい段ボールが、腕の内側にじわっと汗をにじませる。
部屋の番号は、302号室。
もう何度も配達してるから、確認せずに行けるくらいに慣れている。
ピンポンを押すと、少し間をおいて、ゆっくりとドアが開く。
出てくるのは、小柄な老婦人。グレーのカーディガンに、レースの襟。うっすらと白粉の香りがした。
耳は、ほとんど聞こえないらしい。
それでも俺が荷物を差し出すと、必ず両手で丁寧に受け取り、深く、深く頭を下げる。
そのお辞儀の角度には、毎回どこか「ありがとう」と「さようなら」と――もうひとつ、名前のない何かが折りたたまれているような気がする。

でも、言葉は一度も交わしたことがない。
ただそれだけの関係。ただそれだけのやりとり。
いつも、静かに始まって、静かに終わる。
ある日、いつものように配達を終えようとしたとき、老婦人が小さな封筒を差し出した。
封は閉じられておらず、名前も書かれていない。中には、一枚の便箋。
「あなたは、私がこれまで出会った中で、いちばん“静かなやさしさ”をくださる方です。
私には、音のないやりとりが、本当に安心します。
ありがとう。ほんの少しの時間だけど、あなたとのやりとりは、私の日々の中で、とてもあたたかいものでした。」
それを読んだとき、不思議と胸が詰まった。
何も特別なことはしていない。ただ荷物を運んでいただけ。
でも、“音のない会話”は、ちゃんとこの人に届いていた。
それから俺は、こっそりと返信を始めた。
伝票の端に、細くて小さな字でメモを書く。
「今日、風強かったですね」
「団地の桜、咲きましたね」
「お元気そうで安心しました」――
返事はない。けれど、受け取るたびに老婦人は、少しだけ笑った。
笑いながら、何度もうなずいていた。
たぶん、それで十分だった。
そしてある日。俺は配達の仕事を辞めることになった。
新しい会社に転職が決まったのだ。通勤は遠くなるが、給料は少し上がる。
それ以上に、きっと俺は「ここを離れる理由」が、欲しかったのかもしれない。
その日の最後の配達先は――もちろん、302号室だった。
ピンポンを押すと、また、あのゆっくりとしたテンポでドアが開く。
俺は荷物と一緒に、一通の手紙をそっと添えた。
老婦人は、それに気づいた様子で、すぐに胸元にしまった。
その手の震え方が、いつもより少しだけ長く見えた。
深く、深く、何度もお辞儀をされて、俺は無言で会釈を返す。
そして、ドアが閉まる直前。
その隙間から、一瞬だけ――「ありがとう」の口の動きが見えた気がした。
音はなかった。でも、それだけで伝わった。
階段を降りながら、最後の伝票の裏に、俺はこう書いた。
「“ありがとう”って、ちゃんと届いてましたよ。」
廊下の先から、小さな足音が聞こえた。
団地に住んでる小学3年の男の子。
前に一度、エレベーターのないこの階段で、荷物を運ぶ俺を手伝ってくれたことがある。
今日はランドセルを背負って、クレヨンで描いたらしい“お礼の絵”を持っていた。
「おにいちゃん、いなくなるの?」
「うん、ちょっと遠くに行く」
彼は絵を俺に手渡して、走っていった。
紙には、笑ってる顔が二つと、風に揺れる団地が描かれていた。
声にならない言葉でも、ちゃんと伝わることがある。
それを知ってる人が、ここにはもう一人いた。
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※本作に掲載している写真は、記事のイメージに基づいて作成したものです。
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