昏(くら)い海 ショートショート
「ねえ、私行きたい所があるんだけど」
「へえ、どこ」
珍しい事もあるものだと思いながら、宇野は聞いた。
「ここ」
彼女である杏が見せたのは、ここから1,000キロ程離れた小さな島のパンフレットだ。
「いいんじゃない?行った事ないし」
「そうなんだ。あなたってあまり自然に興味はなさそうなのに。アウトドアなんかも」
「まあね。でも、」
君と行けるならどこだって嬉しいよ。そう言って、彼は彼女の頬にキスをした。
――1ヶ月後、2人は島へ向かう船に乗り、甲板で潮風に吹かれながら景色を眺めていた。波止場からはすでに遠く離れ、見渡す限り水平線が広がっている。
「晴天になってよかった」
「そうね。雨続きだったけど、今日はいい天気」
彼女はそう言うと、風になびく髪を押さえる。
――こんな風に杏とどこかへ出かけられるなんて。
宇野はそんな事を思いながら、彼女の横顔を見つめていた。
船は4年ほど前に新調したらしく、外見もだが内装も素晴らしかった。2千人程がゆったりと乗れるサイズで、まるでホテルのような外観をしており、床も鮮やかな絨毯がふかふかとして歩き心地がよい。
部屋はツインを取ったが、中だけ見ていると船内だという事を忘れてしまう程だった。
「2人きりで旅をするのは初めてだね」
彼はいつもの冷静で希死念慮のある様子とはかけ離れ、浮き立つ姿を見せた。用もないのに食堂へ行ったり、船内の案内ツアーなどに参加したりして上機嫌だった。夕食も、いつもより旺盛な食欲を見せて彼女を驚かせる。
室内の風呂場で汗を流して髪を拭きながら出てくると、テレビの画面へぼんやりと視線を向ける彼女に目が留まった。その瞳は前を向いていたが、どことなく心ここにあらずといった印象だ。
いつもは時間のムダと言って、ほとんど付けないのに…何かあったんだろうか。気になって、その様子をつい見つめてしまう。
腰にタオルを巻いた姿で彼女に近づくと、こちらを向いて顔をしかめた。
「ちゃんと何か着てくれないかな。いちおうレディなんだけど」
「ごめんごめん。ちょっと気になっちゃって」
軽く謝ると、なぜかじっと見つめてくる。ややあってハア、とため息をついた。
「どうかした?」
「……別に」
いつもより元気のない様子が気になったけれど、無理に聞き出そうとしても言わないだろうと思い、髪を乾かすためバスルームへ戻った。
***
「ちょっと話があるの」
そろそろ眠りにつくという頃、彼女はそう切り出した。
「どうしたの?」
「ついてきて」
聞いてみても、かぶりを振ってそう言うだけだ。彼は、杏と部屋の外へ出る。
彼女は何も話さず、廊下を歩いていった。やがて甲板へ出る扉を開けて、船外へ行く。
「もう暗いから危ないよ」
そう言っても、無言で甲板へ行くよう身ぶりで合図する。仕方なく彼女の指示どおり、外へ歩を進めた。
船の外へ視線を向けると、墨を流したような黒い海が顔を覗かせていた。ときおり、灯りに当たって波頭がちらちらと光っている。
(まるで魅入られそうだな)
彼は心の中でそうつぶやいた。
少しばかりぶらついて、誰もいない所まで来ると、杏はこちらを振り返る。
「あなた、私の事が好き?」
彼女は唐突に、そう聞いた。
「ああ、」
彼は戸惑ったが、二つ返事をする。
「なら、私のためなら死ねる?」
「……は?」
いきなり重い質問をされて混乱した。
杏は、今何と?
彼女はもう一度同じ質問を繰り返す。
宇野うのは少しだけ思案に暮れた。どうして急にそんな事を聞くんだろう。
「――できるよ」
意図が分からないまま、そう答える。
「ふうん」
杏はあまり心に響いていないように返事をした。
「なら、今ここで死んで」
一瞬、思考が停止する。……俺の聞き間違いか?
「え……?」
間抜けな返事を再度してしまう。
「死ねるんでしょう。できないの」
今日はエイプリルフールだったろうか。それとも冗談なのか? そう思って彼女をまじまじと見つめるが、その瞳には微塵もそういった雰囲気が感じられない。
「一体どうしたの」
「別にどうもしないわ。貴方はいつもそんな風だけれど、本当は少しも私の事なんか思ってないんでしょう」
「何を言っているんだい。俺はいつだって君の望む事をしたいと思ってるよ」
「ウソよ」
彼女はにべもなく否定した。
「なら、ここから飛び降りられるはず」
そう言って、船の向こう側にある闇に視線をやる。
その様子をじっと見つめていた彼は、やがてため息をついた。
「――わかった」
手すりに手をかけ、かすかに笑みを浮かべて彼女の方を向く。
「愛してるよ。
……これで証明できるかな」
そう告げると長身をひらりと翻し、片手を軸にして此方と彼方の境界線を軽々と飛び越えた。
「……!!」
彼女は驚いて、手を伸ばす。
けれど、その指先はぎりぎりの距離で届かない。
ザブン!! と水音がした。
杏は急いで海面を見下ろす。
大きな水飛沫が見えたが、その姿はもうどこにもなかった。
「……」
思わず呆然とする。
――計画が狂った。もしも本当に死のうとしたら、その前に止めるつもりだった。なのに、距離を測り間違えてしまった。
きっと彼はためらうだろうから、その時はサイレンサーつきの拳銃で仕留める予定だったのに。
欄干にかけた両腕が、わなわなと震える。
本当に海に飛び込んだの…?
キョロキョロと辺りを見回し、彼を探す。
もしかして、下の階にいるんだろうか。そう考えておぼつかない足取りで階段を降りるが、やはり姿はない。
彼女は腰が抜け、ヘナヘナとその場に座り込んでしまった。
あんなに潔く飛び込んでしまうなんて。
……私の事なんてどうでもよくて、ただ自分が死ぬための口実に過ぎないんじゃない? だってあの人、何かある度に死にたい死にたいと言っていたのだから。
どす黒い疑念が胸の中で湧き起こる。海の方へ再度視線をやるが、泡一つ浮かんでこないし、顔を出す気配もない。
――そうやって私から逃げられると思ったら、大間違いだ。
ギリ、と歯ぎしりをした。そして、船の欄干に手をかける。
「……おい、」
そばにいた客が、彼女に声をかけた。
それを意に介さず、手すりを飛び越える。そして、真っ暗な闇の中へ落ちていった。それを偶然見かけた別の客が、悲鳴をあげる。
待ってなさい。どこまでも追いかけてあげるから――
小さな飛沫が海から上がり、また何事もなかったかのように面が静かになった。
――その夜、定期船は2名の行方不明者の捜索そうさくのため、一晩中その海域に留まっていたという。
了(2672字)
ショートショート集『いつか君と遠く離れても』 1話から↓
