何も言えなくなっても、口で言わなくていい。それが一番あなたらしいから。
「ぼくの名前はラワン」という映画を見た。
想像以上にすさまじく、素晴らしい作品だった。
劇場内では私も含め、鼻をすする音が何度も聞こえたくらい。
私は、ろう者で写真家の齋藤陽道さんという方が好きなのだけど、その方がSNSで紹介してくださっていたことで、この映画を知った。
小さい劇場のような映画館でしか上映されておらず、比較的マイナーな部類の映画かもしれない。
けれど、私は、どうしても見たかった。
理由はよく分からないけれど、見ておきたかった。早いうちに。
クルド人で、生まれつきの重度の聴覚障害を持った、「ラワン」という名前の男の子(年齢は分からないがおそらく小学生?)のドキュメンタリー(実話)なのだけど、彼はとても複雑な事情を抱えている。
あらすじはおおまかに言うと、こんな感じだ。
【ここから一応⚠️ネタバレ注意です】
中東のイラクで生まれたラワンは、言葉を上手く口で発音することが出来ず、学校でもいじめられ、孤立していた。
そんなラワンの将来を案じた両親は、家族ごとイギリスに亡命することを決意し、「難民」キャンプでラワンたちはしばらく生活をする。
そして彼は、ある支援者の助けによって、イギリスのろう学校に入学することになる。そこでは「手話」を用いた教育が行われていて、ラワンも「手話」で会話することの楽しさを知り、友人や先生と仲良くなって、自分の居場所を切り開いていく。
そんな矢先に、イギリスの内務省から国外退去を命じられる可能性が出てきた。
ラワンは、そして家族の運命はどうなるのか、という内容だ。
私は恥ずかしながら、世界で今なお「難民」と呼ばれる方々、そして「ろう者」と呼ばれる方々がどのような苦労を抱えて、どのような生活をしているのかという理解が、ほとんどなかった。
それをまず、心の底から恥じたい。
ラワンたちは、実際に「難民」としてボートに乗って海を渡り、「難民」キャンプを経て、イギリスに来た。
その後、彼らがしばらくイギリスに居てもいいという許可は最初に得られるのだけど、ろう学校内での過ごし方次第で、ラワンが、そして家族がイギリスに今後も居られるかどうかが決まってしまうというのだ。
学校には内務省の人がそういう審査に来ていて、ラワンの行動をほぼ全て観察している。学芸会という催しですら、ラワンの動きや台詞(手話)は、審査の対象となってしまう。
これがけっこう衝撃だった。
言い方が正しいかは分からないけど、
小学生くらいの子どもが背負うにはあまりにも重い。重すぎる。
学芸会なんて本来、何の気兼ねもなく、楽しくやりたいだろうに。
そう思うのは間違っているかもしれない。
けれど、私は純粋に思ってしまったのだ。
ラワンはそんな状況の中でも、周りの友人たちや、先生と一緒に、たくましく生きていく。そんな彼の生き様や、周りの人たちとの間で交わされる手話、表情や足踏み。
きらめく海や太陽の温度とともに強調される、ラワンたちの体中から発せられた全ての「言葉」が、私にはあまりにもまぶしかった。
ラワンとは事情が違うけれど、私も、自分が思ったことを口で表現するのは苦手だ。
めちゃめちゃ怖い。
そして恥ずかしながら、私はそんな中でも、何とかもがいて口にした言葉だけが全てだと思っていた。
目に見えること、心で感じたことを、口で表す。
そんな言葉がその人自身をも表すのだと思っていた。
でも、違う。
人自身の身体からこぼれて、溢れてくるものこそが、人としての真の言葉なのだ。
この映画からは、そんなメッセージが伝わって来た。
ラワン以外の家族は全員耳が聞こえるので、イラクに居た頃、家族はラワンと意思疎通が出来なかった。
しかし、イギリスに移ったラワンが手話の楽しさを知り始めると、彼に触発された家族も、徐々に自ら手話を学び始める。
そんなふうに、周りの人がラワンを「人」として見て、彼に歩み寄っていく姿に、心を打たれた。
言葉って、本来どういうものなのか。
多様な人が生きる社会で、人と人が真の意味で繋がるとは、どういうことなのか。
納得のいく答えは出ていない。
けれど、問い続けたい。
何か言いたいけれど、上手く言葉に出来ない。
あなたもそう思って、自分を責めることが何度もあるかもしれない。
でも、周りと比較しなくていい。
表現が乏しいだなんて思わなくていい。
無理やり口にしなくてもいい。
出来なくていい。
そんなあなたがたぶん、一番あなたらしいのだ。
きっと。
