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『悪魔は花弁に潜む』 #5

 翌日の夕方。
 生徒たちの足音が廊下へ遠ざかると、最後まで残っていた早瀬が教卓に近づき、最前列の机の端に腰掛けた。

 「よかった。生きてたんですね」


 「お陰様でな」


 「なんの皮肉にもなってないよ、それ」

 軽く笑ってから、彼女は津田の顔を覗き込んだ。

 「でも、まだ顔色悪い。無理してる」


 「仕事だからな。多少は無理もする」


 「先生の代わりなんていくらでもいますよ、ここでは」


 「そんなことはわかってる。俺が心配してんのは、俺の生活のことだ」


 「ふーん。でも、私は先生がいないと困るんですよ」


 「知らなかったよ」


 「だって、まだ終わってないこと、あるじゃないですか?」

 その言葉に、胸の奥がひりついた。
 あの夜の囁きと、昨日の熱に浮かされた夢が一緒に蘇る。


 「……何度も断ってるだろ」

 早瀬は机に体重を預けたまま、視線を外の光に向けた。
 津田はその横顔を見つめたが、そこに感情を読み取ることはできなかった。


 「“お願い”のほうは、まだ保留でしょ。
 それに、なにか感じたんじゃないですか? 昨日は」

 早瀬は、視線を外したまま言った。

 津田の胸に、あのときの熱が蘇った。
 額に落ちる冷たさ、喉を通る温かい液体。
 台所の音、枕元の鼻唄。
 眠りと死の境で、看取られる幸福を錯覚した瞬間。


 「……お前もしかして、自分が死ぬことよりも、俺を死なせることのほうが目的なんじゃないのか?」


 「へー。先生ってやっぱり面白いですね。
 私の言葉は信じなくて、違うものを見てる」


 津田は返す言葉を見つけられなかった。
 そのことに、言いようのない苛立ちを覚えた。


 「ここじゃまずいでしょ。あとで会いましょう」



 日が暮れる頃、仕事を終えた津田は、一度帰宅していた早瀬と落ち合った。人目につかない場所で彼女を拾い、車を走らせた。

 高速道路のインター付近で小路に入り、ビニールの暖簾をくぐって駐車場へ入った。
 車から降りると、すぐ横にオレンジ色の建物がそびえていた。
 外壁から突き出た看板は、ありふれた色をしているはずなのに、なぜだか妙に下卑て見えた。
 津田は嫌悪感を覚えるが、その半分は自分自身に向けられていることに気づき、それ以上考えるのをやめた。


 「やっぱり、ここしかないですよねー」

 助手席から降りた早瀬が、建物を見上げて言った。
 声は軽く、そこには挑発も冗談もなかった。


 「果たしてそうだろうか」

 “人目につかず、二人でゆっくり話せる場所”として、早瀬が指定したのがラブホテルだった。
 ここは、二人がこれまで何度か使ってきた場所でもあった。
 たしかに一度入ってしまえば、これほど人目につかない場所はない。けれど、対話の場所として適切かどうか、津田には疑念があった。
 かといって、代案として自宅を挙げる勇気も津田にはなかった。


 「あ、それ知ってる。反語ってやつだ」

 早瀬が無邪気な笑みを浮かべた。
 年相応のあどけなさが垣間見えたことで、余計にこの場所の異質さが際立つ。

 この建物に足を踏み入れた瞬間に、理屈はすぐ雰囲気に吞み込まれる。
 すでにそれを知ってしまった男女であれば、なおさらだった。

 入り口のパネルで部屋を選び、受け付けで部屋の鍵を受け取る。
 昼の合理を纏ったまま、二人は並んでエレベーターへ向かった。
 遊び心のある外観と、内装の無機質さのギャップに薄気味の悪さを感じながら、津田は歩みを進めた。早瀬も離れずに続く。
 階数を示すオレンジのランプが、どこか生々しく脈打って見えた。

 エレベーターに乗り、扉が閉まると、外の気配は一気に切り落とされた。
 四角い鉄の箱のなか、蛍光灯の白さだけが二人を包んでいる。

 言葉は出なかった。
 不用意に口を開けば、すぐに場の空気に呑まれることが、彼にはわかっていた。
 隣にいる早瀬からは、制汗剤の匂いが体温に乗ってこの密室に溶け出している気がした。

 やがてエレベーターの扉が開いた。
 細長い廊下には同じ扉が並び、厚手の絨毯が足音を消す。
 人の気配はない。けれど、誰かに監視されているような気がしてならなかった。

 指定の番号の扉を開けると、塩素の匂いと湿った空気が部屋から流れ出した。
 間接照明のなかに浮かぶシーツの白さが視界を刺した。
 空調の機械音と、小さく流れるBGMが混ざり合う。
 整いすぎたその空間は、隔絶されながらも、どこか外界を模倣することで成り立っているように見えた。要するに、すべてが偽物臭い。
 窓には木の扉が嵌められており、朝も夜もここでは意味を持たない。

 早瀬はなにも言わず、背負っていた黒いリュックをソファにやさしく置いた。
 異様なほど、丁寧な手つきで。
 しかしそれは、膨らみに反してやたらと軽やかで、中身が参考書ではないことが瞬時に見て取れた。
 なにが入っているのかを尋ねる勇気は、津田にはなかった。

 「知ってます? ラブホって、自殺や心中の場所として一番選ばれやすいらしいですよ」

 早瀬はベッドの端に腰を下ろし、足を組みながら視線を宙に投げた。
 それは今となっては見慣れた仕草だった。
 けれど、その雑談めいた調子の裏で、内容は冗談にならなかった。


 「そうか、お前は物知りだな。厚生労働省で働けるぞ」

 津田はドアの近くに立ったまま、憮然として返した。
 自分の声がかすれていることに気づき、思わず喉に手を当てていた。


 「先生は、なんでだと思います?」


 「見当もつかないよ。
 お前があの夜にした話だって、俺にはやっぱり意味がわからない。
 一緒に死にたいだとか、殺してほしいだとか、そもそもなんで俺なのかとか。
 考えたけど、結局なにもわからなかった」

 言葉にすると、胸の奥に溜まっていた熱が、少しずつ滲み出す気がした。

 早瀬はベッド脇にあるパネルを操作し、照明を半分落とした。そしてゆっくりと顔を上げ、津田に向き直った。


 「意味なんかが、そんなに大事ですか?」

 静かな、それでいて底の見えない調子だった。

 「あの夜、先生の部屋で言ったこと。それから、公園で話したこと。全部本当だよ。嘘は一つもない。それじゃ、ダメですか?」


 早瀬の視線に耐え切れず、津田は思わず足元を見た。

 「俺には、重すぎる」

 足元を歪める錯覚に抗いながら、ようやく出てきた言葉は、それだけだった。
 否定にも肯定にもならず、宙に浮いたまま沈黙に吸い込まれるようだった。

 早瀬はしばらく黙って津田を見ていたが、やがて小さく笑った。
 けれど、そこに温度はなかった。


 「先生は、いつもそうですね。
 ……でも、だからこそ、先生じゃないとダメなんです」

 入り口に立ったままの津田に向かって、スリッパの足音がパタンパタンと近づく。

 やがて早瀬の吐息が、津田の頬にかかった。
 互いの身体に纏った熱が混ざり合っていく。


 「……風邪、うつるぞ」

 唇が触れ合う寸前、津田は短く言った。


 「ふふ。いいよ別に。先生と違って生活かかってないし」


 「未来がかかってる」


 「思ってもないくせに。浪人生なんて、毎年代わる代わる来るお客さんぐらいにしか見てないでしょ」

 津田は少し間を置き、目を逸らした。


 「ちょっと違う。俺の客はお前らの親だよ」


 「ふーん。じゃあ私たちはなんなの?」


 「お前らの親はなにを見て、俺の仕事に満足すると思う?」


 「成績?」


 「そうだ。そして、お前らの成績は俺の頑張りだけで上げられるものではない。つまり、お前らは俺の“仕事仲間”だよ」


 「……“仕事道具”の間違いじゃない?」

 早瀬の声は笑っても怒ってもいなかった。ただ淡々としていて、そこに残酷なほどの正確さがあった。


 「お前って、本当に痛いところ突いてくるよな」


 「先生の弱点はもうわかってるから。
 もちろん、痛いところだけじゃなくて」

 早瀬は身体を密着させ、囁いた。
 耳元に当たる吐息の温かさと、太ももを這う冷たい指の感触が、津田のなかのなにかを狂わせていく。

 「気持ちいいところもね」

 耳の奥が粟立つ。
 津田の身体は反射のように強張るだけで、言葉は出てこなかった。
 いつの間にかBGMは切られ、沈黙だけが部屋のなかに重たく居座っていた。

 抗う言葉は浮かんでも、口から出る前に力を失って消えていく。まるで厚い絨毯の上を転がるボールのように。

 すでに雰囲気に呑まれている。
 わかっていた。こうなることくらい。
 それでも津田は、早瀬を止めようとはしなかった。
 やさしく触れてくる温度を受け入れながら、ただ、事実に目をつぶった。
 結局は流されていく。

 湿った皮膚の下で脈が跳ねた。
 理屈も拒絶も役に立たず、自己欺瞞すら許されないシンプルな世界で、ただ呑まれていく自分を
 ――津田はもう、恨めしく思うことさえなかった。



 空調の音だけが低く響いていた。
 ベッドの上で乱れたシーツはどこか有機的で、生き物が這った痕跡そのものだった。
 津田は壁の時計に目をやり、針の動きが現実を刻んでいることに安堵と倦怠を同時に覚えた。
 脚の筋肉に重さが残り、皮膚には汗の塩気が乾いていた。

 「……うがい、しとけよ。あんまり意味ないかもしれないけど」


 「私、風邪ひかないから大丈夫ですよ。バカだから」


 「迷信だ。頭のいいやつはせめて身体ぐらいは自分より弱くあってほしいという弱者の願望だ。実際にいるのは、頭が良くて風邪をひく人間と、頭が悪くて風邪をひく人間だけだ。
 “美人は性格悪い”と同じだよ。
 性格の良い美人と、性格の悪い美人がいるだけだ」


 「先生のそういう理屈っぽいところ、私は好きですよ。だって世間から凄く嫌われてそうだから」


 「そういやここにも居たな。性格の悪い美人」


 「あ、じゃあ迷信じゃないかもね。頭のいい病弱と、性格の悪い美人。両方ともここに揃ってる」


 「俺は病弱じゃない」


 「“頭がいい”のほうは否定しないんだ?」


 「頭の良い悪いなんて、相対的で、抽象的で、主観的で、なんの意味もない、ただの感想だ。
 お前が俺のことをそう思っているなら、それを否定する理由も別にない」


 「でも、他人のことはバカだと思ってるんでしょ?」


 「そんなことはない。俺の周りに頭の悪いやつが多いのは、職業柄仕方ないと思ってる」


 「……前から思ってたけど、先生って人間嫌いですよね。
 まあ、人間そのものっていうより、人間社会がって感じだけど」


 「俺はお前が怖いよ。本気で」


 「もしかして、人類は滅びたほうがいいとか本気で思っちゃってるタイプですか?」


 「俺の知り合いが全員死んだあとでなら、勝手に滅びたらいい。“洪水よ、我が亡き後に来たれ”ってな」


 「なんかつまんない。半端な大人って感じ」


 「大人はみんな半端だよ。中途半端。それでいい」


 「極端な大人だっているでしょ」


 「そいつは歳とっただけの子供だ。相手にするな」


 「そこまで言うなら、大人の考え方、教えてくださいよ」


 「俺は人類がすぐに滅びるべきとは到底思わない。それはゴキブリが滅びるべきと思っていないのと同じ理由だ」


 「うえ、ゴキブリ滅びてほしくないですか?」


 「生命には尊厳がある」

 津田の乾いた声は、空調の低音にすぐ呑み込まれた。


 「……じゃあ先生、自分の命にも尊厳があるって思ってます?」

 早瀬はシーツを胸元まで引き寄せ、じっと津田を見つめた。
 声は淡々としていたが、その無表情さがかえって刃のように鋭かった。
 その問いは、津田の胸を深く貫いた。

 口にするべき答えはわかっていた。
 けれど、それは言葉にした瞬間に欺瞞になることも、また知っていた。
 結局、言葉は喉に貼りついたまま動かなかった。

 早瀬は、津田の言葉ではなく、違うものを待っているように見えた。
 津田はそれをわかっていても、なにも言えなかった。
 ただ、自分の沈黙が底まで落ち切るのを感じた。
 そしてその瞬間、早瀬が口角を上げるのが見えた。

 「やっぱり、そこは答えられないんですね」


 「……なあ、早瀬。教えてくれ。
 生命には、“はじめから価値が備わっているから、尊厳が与えられる”のか。
 それとも、“尊厳という幻想によって、価値が捏造される”のか。
 お前はどっちだと思う?」

 津田の声は低く、問いというより独白に近かった。
 天井の間接照明がやけに眩しく感じ、目を閉じても焼き付いた。


 「どっちでもいいんじゃないですか」

 早瀬はシーツに頬を埋めたまま、静かに答えた。
 迷いも逡巡もなく、ただ事実を告げるような調子で。

 「生命の価値とか尊厳とか、みんなが信じてるなら、それで成立してるんですよね。
 でも、誰も信じなくなったら、もうない。それだけだと思います。
 “お金”と同じでしょ」

 早瀬の言葉は、答えになっているようで、なにも答えてはいなかった。
 それなのに、自分の問いが根元から崩れていく気がして、胸の奥に冷たい空洞が広がっていった。
 肺の奥の空気が出ていかない。


 「俺には……俺という個人には、他者から、社会から、与えられた尊厳がある。勝手に、与えられてしまった。
 それのせいで、他者から、社会から、価値のあるものとして扱われている。
 ……だが俺は、俺自身の命に、なんの価値も感じていない。
 ……その、乖離が……苦しい」

 最後は、絞り出すような声だった。
 言葉は、隣にいる早瀬ではなく、別の場所に向けられていた。

 それを聞いても、早瀬はしばらく黙っていた。
 目を伏せ、呼吸を整えるように、小さく肩を上下させている。
 それから、やがてゆっくりと顔を上げ、目を開いた。

 その瞳を見た瞬間、津田は息を呑んだ。
 そこには、これまで見たことのない種類の光が宿っていた。


 「……やっと言ってくれた。
 やっと、吐き出してくれた」

 早瀬は、独り言のように呟いた。
 そこには喜びとも安堵ともつかない響きがあった。
 彼女はシーツを捲り、身を乗り出した。

 「そういうところなんです。私が先生に夢中になる理由」

 津田は息を呑んだ。
 早瀬の声は異様な熱を帯び、その目には笑みと涙が同時に滲んでいた。まるで宝物を見つけた子供のように震えていた。

 「先生は自分の命を無価値だって言った。
 でも、そんな先生だからこそ、私のことを見てくれる。わかってくれる。
 私がほしいのは、それなんです」

 その恍惚とした熱気に、背中を伝う汗が一気に冷えた。

 津田の頭のなかを、あるイメージが駆け巡った。

 “死の匂い”を放つ花と、それを求め彷徨う蝶。

 主導権は初めから早瀬にあった。

 「ねえ、先生。壊してみましょうよ。壊してみたら、わかりますよ。それが本当に価値のあるものだったのか。
 私ね、バッタの絵が描いてあるコップ、嫌いだったんです。子供の頃、お母さんが勝手に買ってきて、仕方なく使ってました。安っぽいガラスで、デフォルメされてるのにぜんぜん可愛くないバッタがプリントされていて。だけど、一年くらい経ったある日、それを洗っていたお母さんがうっかり手を滑らせて割っちゃって。私はそれが凄く哀しくて、怒って泣きました。お母さんを責めた。私、いつの間にかそのバッタのコップが好きになってたんです。それなのに、それが壊れるまで、自分でもそのことに気づかなかった。だけど、壊れてみたら、すぐにわかったんです。壊してみないとわからなかったんです」

 早瀬の声は、熱を帯びながらもどこか澄んでいた。
 幼い記憶を饒舌に語るその調子が、かえって津田の胸を締めつけた。
 壊してみなければわからない――その言葉が、頭の奥で何度も反響した。
 死を疑似体験させられた病の床で、看取られる幸福を錯覚したあの感覚。
 あれもまた、自分が“壊れる”直前に立っていたからこそ見えた景色だったのかもしれない。

 津田は口を開こうとしたが、喉が詰まったように息ができなかった。
 隣で早瀬は待っていた。
 ただ目を輝かせ、そこにとどまり、花が咲き切るのを待ち構えるように。

 早瀬の言うことは詭弁だ、と思う。
 不可逆的な手段を取らなくとも、物事の価値を量ることはできるはずだ。
 早瀬がそのコップとちゃんと向き合っていれば、自分のなかに芽生えていた愛着にだって気づいたはずだ。
 価値を量るために壊す必要なんてない。
 それはわかっていた。

 ――それでも、振り払うことができなかった。
 早瀬の口から紡がれる、甘美な破滅の誘惑を。

 もし、自分が壊れたときに失われる価値があるのなら、それはつまり“この生命には価値が内在していた”ということになる。
 それは、自分が探し求めていた答えになり得るのだと、津田はそう思わずにはいられなかった。


 「……お前が見届けてくれるのか?
 俺の価値が捏造じゃなかったと、証明してくれるのか?」


 早瀬は、にこりと柔らかく笑った。

 「もちろん、見届けます。最後まで。
 けど、それを証明するのは、私じゃなくて先生自身です」


 再び沈黙が流れた。
 けれど、そこには異様な熱があった。
 早瀬の頬はわずかに紅潮し、胸が小さく上下していた。

 「俺は、どうしたらいい」


 「望むなら、今すぐにでも準備します。
 ……良かったら、私の鞄、取ってきてもらえませんか?」

 津田は息を呑んだ。
 それから無言で立ち上がり、ソファの傍まで歩いた。足の裏のひんやりとした感触が心地よかった。
 早瀬の鞄を見下ろす。
 見慣れた、普段であれば参考書が入っているはずの黒いリュック。
 今は、このなかに“道具”が入っている。
 それを見てしまったらもう、知らない振りはできない。

 口のなかがひどく乾き、つばを飲み込もうとしても上手くいかなかった。
 無意識のうちに固く握っていた右手を解き、リュックのてっぺんにある持ち手に触れた。

 「もし良かったら、中も見てください。
 きっと、お気に召すと思いますよ」

 背後から投げかけられた早瀬の声に、思わず肩が強張る。

 津田は持ち手から手を離し、その手をジッパーに添え直した。
 小さな金具の感触が、妙に冷たく感じた。

 後戻りはできない。
 誰に告げられることもなく、津田はそう理解していた。

 指先に力を込めた、その瞬間――
 津田の脳裏によぎったのは、両親のことだった。
 しまい込んでいたはずの喪失が、記憶のなかだけで蘇ってくる。

 母は5年前に子宮頸癌で亡くなった。
 優しく、明るく、家庭的で、穏やかな人だった。
 骨転移による激しい疼痛に襲われながらも、亡くなるその瞬間まで、家族のことを気遣っていた。

 それ以来、実家に一人で暮らしている父。
 母が亡くなったあとは、自分の身の回りのことをこなしながら、役所での勤めを続けている。真面目で、やはり穏やかな人だ。
 そして、津田の目には、とても強い人に見えた。
 母が亡くなったときも、父は規定通り七日間の忌引きの間にあらかたのことを手際よく片付け、その翌日から業務に復帰した。

 津田はすでに実家を離れて働き始めていたので、その後の様子はときどき覗きに行く程度だったが、いつ行っても家のなかは片付いていた。母が亡くなる前と変わった部分を探すほうが難しいぐらいだった。
 津田はその家が苦手だった。
 母のいた場所がそのままと言っていいほど残っているのに、そこに母だけがいない。
 津田はその違和感を感じるたびに、いっそすべて燃やしてしまいたい衝動に駆られた。

 父と二人で飲みに行ったことが、一度だけあった。
 しかし、そこで母の話をするのも、あえて避けるのも、どちらもはばかられた。
 結局、当たり障りのない話で場を紛らわせるのに必死で、妙な居心地の悪さと疲労だけが残った。

 津田はそのとき思い知った。
 自分が失ったのは母ではなく、育った家庭そのものだったのだと。


 津田は肩を大きく上下させて、長い息を吐いた。
 そして、リュックから手を離した。


 「……どうかしましたか?」

 早瀬が低い声で尋ねた。
 その声が持つ抑圧の響きに、津田は動悸を覚えずにはいられなかった。


 「一つだけ、心残りがある」

 津田の視線はまだリュックに向けられていた。


 「どうぞ、話してください。ぜんぶ、楽になりましょう。どんなことでも、私が受け止めますから」

 早瀬は優しい声音で言った。
 その裏には、隠し切れない高揚感が滲んでいる。

 津田は一度だけ早瀬の方をちらと見やり、それから視線を宙に向けて語り始めた。


 「……お前と知り合ってからの日々、正直悪くなかったよ。
 灰色の世界に、窓から光が差し込んだみたいだった。
 俺にはなんの価値も無くたって、その光のある日常には、価値があるかもって思えた。
 そんな日々なら、もう少し続いても良かったかなって……今も少しだけ、そう思ってる」

 言葉にした瞬間、自分の胸の奥にあったものが、静まっていった。
 激しく脈打っていた心臓が、本来のリズムを取り戻し始めている。
 けれど、早瀬の顔を見ることだけが、怖かった。

 津田は、もう一度リュックを見つめながら、早瀬の言葉を待った。
 よく使い込まれた黒いリュック。
 きっと、高校生の頃から使っているのだろう。
 金具の塗装は剥げ、外側のポケットは今にも擦り切れそうにほつれていた。
 早瀬は今日このリュックに、どんな思いで自殺の道具を詰めたのだろうか。
 予備校が終わり、津田が迎えに行くまでのあいだに一度帰宅し、参考書を取り出して、代わりに道具を詰めたのだろう。
 浮かれていただろうか。緊張しただろうか。そこに悲しみや寂しさはなかったのだろうか。
 そういうことを、訊いてみたいと思った。


 「……じゃあ、まだ続けましょう。
 だって、生きたいと思ってる先生を壊すのは、私の望みとは違いますから」


 「早瀬……」


 「だけど、私がいつまでも待てるとは思わないでくださいね」

 津田はうなずき、そして目を閉じた。
 その猶予が単なる延命なのか、あるいは違う結果を生むのか。
 ソファの上で、黒いリュックが静かに呼吸をしている気がした。

 悪魔は花弁に潜む#6へ続く


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