『悪魔は花弁に潜む』 #6
八月、閉館間際の校舎。
津田は窓の戸締まりをしながら、各部屋の空調を切って回っていた。
蛍光灯を落としたあとの静寂。窓から入り込む生ぬるい夜風。リノリウムの床を革靴で歩く感触。
人がいないというだけで、そういうものの存在がやけに大きく感じられた。
津田は最後の教室の戸締まりを終え、照明のスイッチへ手を伸ばしかけて、ふと机の端に見覚えのあるスマートフォンを見つけた。
淡い紫のカバー。角に薄く擦れた跡。
早瀬のものだと一目でわかった。
帰ろうとしていた足を止め、息をついた。
手に持った鍵束が小さく鳴る。
――預かっておけばいいだけの話だ。教務室の忘れ物置き場で保管し、明日の朝、登校してきた早瀬に渡せばいい。
それなのに、なぜだか胸の奥にざらついたものが残った。
しばらく迷ったのち、名簿に記されていた早瀬の自宅番号へと電話をかけた。
数度のコールのあと、明るい声が受話口から弾んだ。
「はい、早瀬でございます」
「夜分に申し訳ありません。予備校の津田と申します」
「予備校? あ、娘がお世話になってる――」
「はい。葵さんがスマートフォンを教室にお忘れのようでして、お預かりしています。探してるかもしれないので、一応ご連絡をと」
「え、娘の? それはどうもすみません。わざわざご丁寧にありがとうございます。ほんと抜けてるんです、この子」
声は柔らかく、愛想もよかった。
「明日も朝からそちらに伺うことですし、預かっていただくわけにはいかないでしょうか?」
「ええ、もちろん構いません」
「ありがとうございます。ほんと先生方にご迷惑ばっかり――」
そのとき、電話の向こうでなにかがぶつかるような音がした。
続いて、押し殺したような少女の声。
津田にはそれが早瀬葵だとすぐにわかった。
「……ダメ。今夜、必要なの。お願いだから車出して」
「いいから、明日にしなさい」
小さな言い争い。
それからすぐに、電子音が耳元で流れ始めた。
津田の意識は電話越しに聞こえた口論よりも、むしろその保留音に向いた。
津田はこの保留音というものがあまり好きではなかった。
通話の再開を待つあいだ、聴きたくもない音楽を、それも極度の低品質で聴かされることに少なからず抵抗を感じていた。
けれど、そこには例外も二つあった。
一つは、パッヘルベルの『カノン』が流れたとき。
ちゃちな電子音に押し込められても、やはりカノンはカノンだと、その旋律の素晴らしさに改めて敬服させられた。
もう一つは、チャイコフスキーの『くるみ割り人形 金平糖の精の踊り』。
あのどこか壊れかけたような不穏さが、冷たい電子音によって増幅され、それは新しい音楽体験のように感じられた。
今流れているのはその後者であった。
美しくも不安を煽る旋律が、記憶のなかの早瀬自身とどこか重なった。
数十秒後、母親の声が戻った。
「失礼しました。
大変申し訳ないのですが、今日必要なようでして……もしも可能であればなんですけど、今から取りに伺ったりとかって、できますか?
無理なら無理で構わないのですけれど……」
ひどくかしこまった口調だった。
津田はその提案よりも、むしろ言い回しのほうに戸惑いつつ、了承することにした。
「大丈夫ですよ。何分ぐらいでお越しになれそうですか? ざっくりで構わないんですが」
「えっと……そうですね。少々お待ちください」
そう言って、母親が受話器から離れる気配がした。
今度は保留にならず、「予備校ってどこにあるのよ」という声が少し遠くで聞こえた。
それから小さな物音がして、「あ、ごめんなさい。車で30分くらいかかると思うんですが、それでも構わないでしょうか? 先生は、もうお帰りのところですか?」と続いた。
「いえ、あと少し仕事が残っていますから、大丈夫ですよ」
「ありがとうございます。では、お待たせしないよう、できるだけ早くお伺いしますね」
「お気を付けていらしてください」
帰るつもりだった足を止め、椅子に腰を下ろした。
早瀬の母親。電話口ではいかにも常識人といった対応だったが、果たしてどのような人物なのだろうか。
津田は職員用の喫煙スペースへ向かい、煙草を吸いながら待つことにした。
約40分後、駐車場にライトが差し込んだ。
エンジン音が止まり、軽自動車のドアが開いた。
現れたのは、上品な身なりの女性だった。
細いヒールを鳴らしながら笑みを浮かべ、会釈をした。そして、津田の目の前まで来ると、改めて頭を下げた。
「遅い時間に申し訳ありません。娘がご迷惑をおかけしました」
そう言って、包装紙のかかった菓子折りを差し出した。
「急なことで、あり合わせのもので恐縮ですが、よかったら召し上がってください」
「あ、いや、そんな。いただくほどのことでは」
「いえいえ、先生方にはいつもお世話になっていますから。日持ちしますし、数もありますから、皆さんで召し上がってください」
「そうですか……
では、お言葉に甘えて頂戴します」
「はい、ぜひ。
……えっと、たしか津田先生でしたよね?
娘が普段からご迷惑をおかけしたりしてませんか?」
その一言に、津田の心臓が跳ねた。
自分と早瀬の関係は口が裂けても他言できるようなものではない。相手が早瀬の母親であればなおさらだ。顔を合わせること自体がリスクである。
なぜこの瞬間になるまで思い至らなかったのか、不思議なぐらいだった。
一瞬、この女は自分たちの関係をすでに嗅ぎ取っており、探りを入れにきたのではないかという考えがよぎった。
けれど今の口調は、そのようには聞こえなかった。
そう思い直し、津田は落ち着きを取り戻した。
「ええ、頑張ってますよ。
ただ、成績のほうはご存知のとおり……」
「やっぱり、悪いんですか?」
それはまるで、他人の子の話でも聞くような調子だった。
「……模試の結果、ご覧になってないですか? 毎月ご自宅に郵送しているんですが」
「え? あ、ああ! たしかに、なにか届いてましたね、ええ。帰ったら確認しておきますね」
「あ、はい」
見ていない。
そういう親がいること自体は、津田は珍しいとは思わなかった。
「でも、先生がそうおっしゃるってことはあまり芳しくないんですね」
「ええ、率直に申しますと、そうですね」
「やっぱり……
親の私が言うのも変なんですけど、あの子って妙に賢そうな顔をしてるもんだから、私たちも騙されていて。ずっと、単にやる気がないんだと思ってたんです。けど、大きくなって本当に勉強が苦手なんだってわかったときは衝撃でしたよ、もう。
そのくせ、親をこき使うのだけは上手で、今日だって――」
津田は微笑みを返しながら、胸の奥が凍り付くのを感じた。
この女との会話を、一刻も早く終わらせたい。そうでなければ、今手に持っている菓子折りを、この女に投げ返してやりたい。そんな衝動に駆られた。
「ははは。
じゃあ忘れないうちにお返ししておきますね、これ」
津田はやっとの思いで愛想笑いを貼り付け、遮るように言った。そしてスマートフォンを差し出す。
女はそれを受け取り、なおも続けた。
「え、ええ。ありがとうございます。たぶん娘のです、これ。帰ったら本人に確認させます。
……このスマートフォンだって、どうせ連絡してくる友達もいないのに、格好ばかりつけて。まったく困った子ですよね」
津田はもう答えなかった。
「……でも、よくこれが娘のだってわかりましたね」
「私、記憶力がいいんですよ。だから、講師は天職だと思っています」
津田は、無意味な嘘でこの女をひそかに侮ることで、いくらか胸のうちが晴れるのを感じた。
女は訝しみながらも丁寧に頭を下げ、車へと戻っていった。
やがて車のライトとエンジン音が遠ざかり、静寂が戻った。
空気には、ほのかな香水の匂いが残っていた。
早瀬の呪い。それがどんな土壌に根を張って育ったのかを、津田は見てしまった気がした。
翌日の午後。
窓から差し込む日差しは、時間をかけてゆっくりと角度を変え、ホワイトボードの上に細い光を伸ばしていた。
その日の授業はすでに終わり、教室は自習のために開放されていた。
生徒の姿はまばらで、かりかりとテキストに取り組んでいる者もいれば、だらだらとスマートフォンを眺めている者もいる。けれど、誰もがイヤフォンを耳に差し込んでいて、教室には、同じ場所にいながら互いを遠ざけているような静けさがあった。
時代だな、と感じながら津田はそれを教壇から眺めていた。そして、早瀬に声をかけるタイミングをうかがっていた。
教室の最後列で机に向かう早瀬の姿は、昨日よりもどこか落ち着いて見えた。
「昨日、お前のお母さん来たよ」
早瀬の近くの生徒が出ていったのを見計らい、近づいて声をかけた。
イヤフォンをしているので聞こえないかもしれないと思ったが、早瀬はすぐに反応した。
シャープペンを持つ手が止まった。けれど、顔を上げる気配はなかった。
やがてイヤフォンを外し、薄く笑みを作りながら言った。
「……知ってます。わざとです。
先生と母を会わせたかったんです」
「……なぜ?」
早瀬はペンを置き、軽く息を吸い込んだ。
「先生は、母のこと、どう思いましたか?」
「……悪い人じゃなかったよ。
少し厳しいところはあるけど、きちんとした人だと思った。
身内を卑下するのは、日本人の美徳ってやつだろう」
津田は、あのときの苛立ちの正体を掴み切れずにいた。
思い返してみても、自分が腹を立てる理由はそれほどないように思えた。
「そうですよ。まともな人です」
早瀬は小さくうなずいた。
その目は、机の一点を見つめていた。
「だけど、もう私のことは見ていないんです」
津田は、早瀬の頭頂部を静かに見下ろしていた。
表情は見えないが、その声には怒りも恨みもなく、ただ事実を告げるような静けさがあった。
「昔はちゃんと見てくれてたんです。
信じないかもしれないけど、昔は仲がよかったんです。
……だけど、いつからか私のことを見なくなった。
兄と妹のことはよく見てるのに。
私だけ……もう、視界の外にいるみたいで」
津田は返すべき言葉を探した。
昨日の夜の、早瀬の母親の整った笑顔と、丁寧な口調が頭をよぎる。
あの女は常識的で、理性的な親に見えた。
「でも、そこまで悪い親には――」
言いかけて、津田は口を閉じた。
「……いや、正直に言うと、少しわかった。お前が前に言ってたことの意味」
早瀬は短くうなずき、テキストをめくった。
「ありがとうございます。それが聞けて、満足しました。
面倒なことに巻き込んですみませんでした」
津田のほうを見ずに、淡々と言葉を並べた。
それからペンを手に取り、カチカチと鳴らした。
その音を聞きながら、津田は言いようのない感覚にゆっくりと呑み込まれていった。
「……ほかの家族も、ああなのか?」
「うん。みんなまともで、みんな私のことは見てない。
まともなあの人たちから相手にされないのは、私がまともじゃないからです」
津田は口を開きかけて、一度閉じた。
「そんなことはない」と言って、慰めてやりたかった。
だが、それを口にすれば、彼女の感じている痛みを、まるごと否定することになる気がした。
静かな午後の教室。
ペン先が紙を滑る音だけが、なにかを埋め合わせるように響いている。
津田はゆっくりと目を閉じた。
それから時計をちらりと見て、口を開いた。
「……今夜、空いてるか?」
「え?」
「ちょっと行きたい場所があるんだ」
早瀬は一瞬、訝しげに目を細めたが、すぐに肩をすくめた。
「空いてますよ。別に、家にいても暇だし」
「そうか。じゃあ、またあとでな」
早瀬がうなずくのを確認し、津田は教室をあとにした。
それから数十分後。
津田が教務室で小テストの束を整理していると、教室のほうからざわめきが聞こえた。
最初は、生徒同士の他愛ない声だと思った。
だが、そこに混じった早瀬の声を聞き分けた瞬間、津田は手を止めた。
「誰が捨てたんですか」
大きな声ではなかった。むしろ、ひどく低く抑えられていた。
だからこそ、廊下の空気が一瞬で冷えたのがわかった。
津田は席を立ち、教室のほうへ向かった。
ドアの前には数人の生徒が立ち止まっていた。教室のなかでは、早瀬がゴミ箱の前に立っている。足元には、丸められたプリントや空のペットボトルが散らばっていた。
早瀬の手には、古びたつげ櫛が握られていた。
小さく、艶のある飴色の櫛。遠目にははっきりしないが、歯の一本が根元から欠けているように見えた。彼女はそれを、誰にも触れさせまいとするように胸の前で握っていた。
「早瀬、どうした」
津田が声をかけても、早瀬は振り向かなかった。
「これ、誰が捨てたんですか」
もう一度、同じ言葉を繰り返す。
教室の隅で、ひとりの女生徒がおずおずと手を上げた。たしか、相原という生徒だった。成績も態度もよく、授業中に私語をすることもない。いかにも真面目な浪人生だった。
「あの……ごめんなさい。私です」
早瀬が、ゆっくりとそちらを向いた。
相原は青ざめた顔で言葉を続けた。
「さっき、そのゴミ箱のそばに落ちてるのを見かけて……古くて、歯も欠けてたから、誰かが捨てようとして入れ損ねたのかと思って。まさか大事なものだって知らなくて。本当にごめんなさい」
どれも正しい言葉だった。
床に落ちていた。
古く、欠けていた。
ゴミだと思った。
悪意はなかった。
真摯な態度だ、と津田は思った。
しかし、早瀬の横顔を見ると、それは硬く凍っていた。
「そうですか」
早瀬は静かに言った。
「あなたには、これがゴミに見えたんですね。
ゴミの近くにあれば、ゴミになるんですね」
相原の肩が小さく震えた。
「ごめんなさい。本当に、そんなつもりじゃ……」
「欠けていたら、捨てていいんですか」
教室が再び静まり返った。
「古くて、少し壊れていたら、要らないものだって決めていいんですか」
「早瀬」
津田は思わず口を挟んだ。
「相原に悪意はなかった。謝っているんだから――」
「悪意がなければ、いいんですか。
知らなかったら、許されるんですか」
早瀬は津田を見た。
その目に宿っていたのは、たしかに怒りだった。けれどそれ以上に、なにかを諦めてしまったような冷たい光があった。
相原は今にも泣き出しそうな顔で立ち尽くしていた。周囲の生徒たちは、誰も動けずにいる。
津田は場を収めなければならなかった。講師として。
「早瀬。大事なものだったのは、わかった。だが、相原も本当に知らなかったし、なによりちゃんと謝ってるじゃないか」
言いながら、津田は自分の言葉が、ひどく空々しく響くのを感じていた。
早瀬はしばらく津田を見つめていた。
やがて、ふっと笑った。
「そのうえで許せない。
……そう言ったら、どうします?」
それは、いつもの挑発を帯びた口調だった。口の端が意地悪く吊り上がり、射貫くような視線を投げている。
けれど、津田はその瞳の奥に別のものを感じ取ってしまった。そのことが、胸の奥に冷たいものを落とした。
早瀬はつげ櫛を胸元に改めて引き寄せ、ポケットから白いハンカチを取り出した。
それから、ゴミ箱のなかで付いたらしい埃と、よくわからない液体を丁寧に拭いはじめた。
「相原さん」
早瀬は顔を上げずに言った。
「はい……」
「もういいです。あなたは正しいです。床に落ちていて、古くて、欠けていた。だから捨てた。間違ってません」
「早瀬さん、本当にごめん。私……」
「もういいって言いましたよね」
声は荒くなかった。
それでも、相原はもうなにも言えなくなった。
津田は相原に目配せし、廊下へ出るよう促した。周囲の生徒たちも、それを合図に散っていく。教室には、津田と早瀬だけが残った。
蛍光灯の白い光の下で、早瀬はまだつげ櫛を拭いていた。
歯の一本欠けたその櫛は、彼女の手のなかで、小さな骨のようにも見えた。
「……それ、大事なものなんだな」
津田が訊くと、早瀬は少しだけ手を止めた。
「お婆ちゃんのです」
それだけ言って、また櫛を拭きはじめる。
「そうか」
「でも、知らない人から見たら、ゴミなんですね」
「状況的に、そう見えてもおかしくないものが揃っていた。それだけだ。
無意味に一般化して、自分を傷つけるのはやめろ」
「……わかってます。相原さんは悪くない。先生の言うとおりです。大事なものなんだから、落とさなければよかっただけ。ぜんぶ、私が悪い」
津田は反射的に否定しようとした。
だが、その言葉は喉の奥で止まった。
たしかに、その通りでもあったからだ。
早瀬はその沈黙を見て、また小さく笑った。
「正しい人を許さないことは、悪ですか?」
つげ櫛はハンカチに包まれ、リュックの内ポケットへしまわれた。
まるで誰にも見つからない場所へ隠すように。
津田は答えられずにいた。
「……先生」
「うん」
「今夜の話、まだ有効ですか?」
早瀬はひどく静かな顔で訊いた。
「見たでしょう。私って、こういう人間なんです。
面倒くさいでしょう? 自分でもわかってます」
津田はなにかを言おうとした。けれど、どんな言葉も違う気がした。
早瀬はリュックを背負い直し、教室の出口へ向かった。
その手がドアにかかったところで、もう一度だけ振り返った。
「それでも、どこかに連れて行ってくれるんですか」
津田は、ゆっくりと息を吸った。
試されているのだと思った。
そして同時に、縋られているのだとも思った。
「……行くよ」
早瀬はしばらく津田を見つめていた。
「じゃあ、待ってます」
そう言って、彼女は教室を出ていった。
廊下に残る足音が遠ざかっていく。
津田はひとり教室に残り、ゴミ箱のなかを見下ろした。丸められたプリント、空のペットボトル、菓子袋。
そこに、さっきまで祖母の形見が埋もれていた。
津田は目を閉じた。
自分の言ったことは、なにひとつ間違っていなかったはずだ。
だからこそ、胸の奥がひどく冷えた。
悪魔は花弁に潜む#7へ続く
