『悪魔は花弁に潜む』 #4
朝、目を覚ました津田の目に映ったのは、揺れる天井だった。頭の奥で熱が脈打っている。
喉の奥は乾いてひりつき、唾を飲み込むたびに小さな痛みが走った。布団を被っているのに、時折背中を薄い寒気が這っていく。
冷蔵庫に何があったか考えた。だが、そこまでたどり着けないのであれば、何も入っていないのと同じだと津田は思い直した。
どうせ食欲もないのだから、腹が減ってから考えることにした。
職場への連絡は、メールで済ませた。
それからは、ただ目を閉じて苦痛をやり過ごすことにした。
睡眠と覚醒のあいだで朦朧とするうちに、時間の感覚は失われていった。
そうして夢と現の境をさまよっていると、やがてインターフォンが鳴った。
津田は玄関のほうへ軽く視線をやり、顔をしかめた。
彼はこの音が鳴るのを、心底嫌っていた。
車のクラクションといい、人に気づかせるための道具だろうが、どこまでも人を不快にしていいはずがない。
本気で取り外そうと思った日もあった。
けれど、津田は自身の“来客嫌い”こそがこの不快感の本体だと考えを改め、その判決に執行猶予を設けた。
ベッド脇の目覚まし時計に目をやると、時刻は午前10時を回っていた。
――無視でいい。
本来なら、自分は今ここにいないはずの人間だ。たまたま居合わせたからといって、応対する義理も必要もない。
彼はそう考え、布団を頭まで被った。
しかし、続けて二度、三度、四度とインターフォンは鳴り続けた。
やがてそれが玄関のドアを叩く音に変わる頃には、穏やかではいられなかった。
「しつこい……」
かすれた声でそう吐き出した瞬間、扉越しに声がした。
津田は耳を疑った。
幻聴にしたって、もう少しマシなものがあるだろうと思った。
「まさかな……」
考えるより先に、重い身体を起こしていた。
壁伝いに玄関へ向かう。
狭いワンルームは病人に優しかった。
その途中で、もう一度、声がした。
幻聴であれば、よかった。
以前、インフルエンザでうなされた夜に、カエルと牛の鳴き声を聞いた。あれと同じだ。
だが、ロックを外すや否や、まるで待ち構えていたようにドアノブが回った。
そしてドアが勢いよく開かれ、支えを失った津田はよろめくことになった。
「先生、やっぱり家にいましたね」
そこに現れたのは早瀬だった。
淡い水色のシャツに、黒いショートパンツ。いつもの黒いリュックを背負い、手にはビニール袋を提げていた。
スニーカーを素早く脱ぎ捨て、当然のように部屋へ上がり込んできた。
どこかで見た光景だと思いながらも、頭の整理が追いつかない。
何に関して抗議をすべきかも分からず、津田は咳き込みながら部屋へ引き返した。
そして、そのまま力尽きたようにベッドへ倒れ込んだ。
枕を抱えながら、津田は自分の行動を振り返った。
なぜ鍵を開けてしまったのか。
早瀬かもしれないと思い、玄関へ向かった。
それが判断ミスとしか、思えなかった。
早瀬なら、無視するべきだったのだ。
弱った状態で早瀬に会うのはまずい。
本能がそう告げている。
部屋を物色するように見渡していた早瀬が、やがて早口に喋り始めた。
「予備校、行ったんです。それで先生が病欠だって聞いたので、私もサボって来ました」
あっけらかんとした声。
彼女がリュックを椅子に降ろすと、ゴトッと重たい音がした。
「わ、すごい汗。ちょっとこれ、借りますよ」
早瀬は畳んであったタオルで津田の額と首元を拭った。
それから洗面所へ一旦消え、戻ってくるなり津田の額に濡れタオルを置いた。
その冷たさが、熱で朦朧とした津田の頭に、心地よい清涼感を吹き込んでいく。
彼の胸には、安堵と同時に淡い屈辱が滲んだ。
「動かないでくださいね。落ちちゃうから」
彼女はそう言い、今度はペットボトルを開けて差し出した。
キャップが外れるパキッという音が、異様に大きく津田の耳に響いた。
唇を湿らせたポカリスエットが、そのまま優しく喉を落ちていった。
「先生、弱ってると、いつもより可愛いじゃないですか」
どこか平坦な声が、妙に熱く耳に残った。
慈愛とも嘲弄ともつかないその響きは、熱に浮かされた意識の奥へゆっくりと沈んでいった。
早瀬はもう一度洗面所へ行き、濡れタオルを新しいものと替えた。
それを置くとき、額に軽く手が添えられた。
水滴が頬に垂れる。
彼女の手は救いをもたらしながらも、妙な圧迫感を津田に与え続けた。
「熱、結構ありますね。
最後にご飯食べたの、いつですか?」
淡々とした調子に、今度は慰めも嘲りも読み取れなかった。
「昨日の夜は普通に食えた……今は、腹減ってない」
「下痢、嘔吐、腹痛は?」
「ない」
「じゃあ、おかゆじゃなくて、スープにしましょう。レトルトだけど、結構いけますよ。
私のお気に入りのやつ、3つ買ってきました。
クラムチャウダー、コーンスープ、コンソメスープ。どれにします? 私のおすすめは、やっぱりクラムチャウダーかな」
彼女は小さなパウチを3つ取り出し、津田の目の前に並べた。
「……どれでもいい」
「胃が動いてないのかな?
じゃあ、一番軽いコンソメスープにしておきましょう。野菜も入ってるし。
あとの2つは冷蔵庫に入れておくんで、お腹すいたら食べてください」
そう言いながら早瀬は台所へと向かった。
レンジフードの駆動音と、食器のかちゃかちゃと触れ合う音が聞こえはじめると、それが津田にはどこか懐かしく感じられた。
しばらくすると、器を手にした早瀬がベッドの脇に座った。
「身体、起こせます?」
津田は無言で首を振った。
先ほど玄関へ赴いたことで、なけなしの体力を使い切っていた。
「ちょっとクッション借りますよ」
早瀬はベッドの脇から津田の肩を抱え起こした。
背中へ腕を回し、上半身ごとゆっくりと起こした。
そして、すき間に大きめのクッションを差し込んだ。
高齢者のように扱われたことで、津田はたまらず苦笑した。
「体勢、きつくないですか?」
早瀬の問いに、再び無言で首を振った。
額のタオルが落ちた。
「良かった」
そう言って彼女はタオルを左手で拾い、右手のスプーンを津田の唇へ寄せた。
熱が舌に触れ、喉を通り、胃に落ちた。味はよくわからなかった。けれど、その温かさは確かに救いのように思えた。
「ちゃんと栄養とらないと、弱ったままですからね」
そう言って早瀬は淡く笑った。
次の一匙が差し出され、拒む理由を考える前に口が開いていた。
残さず津田に与え終えると、早瀬はどこからか体温計を取り出した。
「一応、熱も測っておきますか」
差し込まれるまでのわずかな時間に、津田は抵抗の言葉を探したが、熱の霞が思考を覆っていた。
「じっとしてください」
脇に冷たい感触が触れ、妙にくすぐったかった。
程なくして電子音がなり、数字を確かめた彼女は、それを津田に見せ、布団をかけ直した。
「これぐらいなら、明日には動けるようになるんじゃないですか?」
「お前……なんでそんなに慣れてんだ」
「んー……お婆ちゃんが、一緒に住んでたからかな。
もう死んじゃったけど。最後の方はほとんど寝たきりだったし、よく熱も出してたから。
誤嚥性肺炎って、あれ厄介なんだよね」
「……そうか。大変だったな」
「ううん、全然。大好きだったし、お婆ちゃん。
私なんかにも優しくしてくれて、可愛がってくれた。
寝たきりになる前は、二人でよくデパートに行ったりして、仲よかった。
今思うと、お婆ちゃんが生きてるときは、いろんなことが、もっとずっとマシだった。
今より、ずっとずっと……」
早瀬は、はじめは思い出に顔をほころばせているように見えた。しかし、その表情はみるみる険しくなっていき、そして最後には「私が代わりに死ねばよかったのに」と吐き捨てた。
津田は、なにか言葉を返したいと思った。
しかし、身体の痛みと熱に妨げられ、それが形を成すことはなかった。
早瀬は膝に手を当ててゆっくりと立ち上がり、再び台所へと向かっていった。
視界の輪郭がぼやけていく。
いつの間にか、また額にタオルが置かれていた。
その冷たさと、布団の重みと、キッチンで食器を片付ける音、すべて同じ調子で混ざり合う。
それが彼の中で、今は亡き母の記憶と重なった。
「先生……眠っていいですよ」
またいつの間にか、早瀬が隣に座っていた。
低く静かな声。幼子をあやすような響きがあった。
額のタオルが外され、代わりに冷たい手が置かれた。
優しさと拘束。慈愛と抑圧。
一言では言い切れない何かが込められているように感じた。
過去の記憶がまた断片的に浮かぶ。
母に看病されたときの柔らかい掌。
額に乗せられる冷たい布の重さ。台所から聞こえる食器の音。眠っているあいだも誰かが家にいるという安心感。
あの頃は、それを当然のものだと思っていた。
だが目を開けると、そこにいるのは早瀬であり、彼女の眼差しはどこか好奇心を宿しているように見えた。
「先生、死ぬときって、きっとこんなふうですよ」
静かな囁きだった。
しかし、それは残酷な宣告であると同時に、甘美な響きを孕んでいた。
熱に浮かされた津田の頭は、その意味を拒もうとして、うまく拒みきれなかった。
意識が深く沈んでいく気がした。
母の面影と、少女の笑みとが重なり、やがて区別はつかなくなった。
ただひとつの影として視界の底に焼きついた。
眠りと死の境が曖昧になり、どちらへ傾いても構わないとすら思えた。
「いいんですよ、眠って。
痛いのも、苦しいのも、責任だって、全部置いていけばいいんです」
唄。
どこかで聞いたような、でも思い出せない旋律。
歌詞は言葉になったり、ならなかったり、適当に口ずさんでいる。
早瀬の鼻唄の柔らかさが耳の奥をくすぐり、津田は頭の中で抗いながらも、結局は身を任せるように目を閉じた。
“月が沈んでも、まだ傍にいて”
早瀬は、その歌詞だけ囁くように、しかしはっきりと発音した。
「……なんなんだ、その変な唄。
さっきから、“溶けた骨”とか、“生まれ直せ”とか……」
津田は、目を閉じたまま、低く呟いた。
「ん、良くないですか? この前、YouTubeで流れて来て。
インディー? アングラ? なんかよくわかんないけど、若い女の子がどっかのライヴハウスで歌ったやつらしいです」
「俺には、良さが分からん……」
「なんかこの曲、死にたがってるみたいに聞こえるんですよねー」
「お前、みたいに……?」
「ううん。“私たち”みたいに」
「違う……俺は……」
津田は言葉を探した。
けれど、意識はすでに深い底へと沈み始めていた。
額にはまだ、早瀬の手のひらが置かれている。
その柔らかな感触に、心が安らいでしまうのを感じていた。
こうして誰かに見届けられることを、どこかで待っていたのかもしれない。
抗いようのない幸福感に満たされながら、なにかを求めるように手が伸びていた。
自分がどこへ沈んでいこうとしているのか、彼にはもう見えていなかった。
その手は温もりに包まれ、傍らでは、小さな鼻唄だけが寄り添うように続いていた。
津田が目を覚ますと、部屋は静まり返っていた。
窓から差す夕方の光が、カーテンの隙間を細く切り裂いている。
半分だけ減ったペットボトルが置かれていた。
早瀬の姿はどこにもなかった。
夢だったのかもしれない。
枕元には額から滑り落ちた濡れタオルがあった。
現実と夢が継ぎ目なく混ざり合った感覚。
ただひとつ確かなのは、眠りへ落ちる瞬間、看取られる幸福を感じてしまったという事実だった。
それは病の熱に浮かされた錯覚であり、正気なら到底あり得ない感情だと、切り捨てようとした。
けれど、死を甘美なものとして受け取ってしまったのは、他でもない自分だった。
そのことだけは、病の熱に押しつけるには、あまりにも鮮明に、まだ胸のうちに焼き付いていた。
悪魔は花弁に潜む#5へ続く
作中曲『水底に眠る月【Elegy edit】』リリックビデオ
