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倉本聰の講演会を聞いた

富良野で倉本聰の講演会を聞いた。

講演会があることを知って、約10日間、富良野の周辺で時間をつぶし、待ちに待った講演会だった。

少し早めに会場に到着。車の中で遅い昼食を食べた。すると間も無く倉本先生が車で到着された。

立ち止まって遠くから見ていると、先生は後部座席から、用意された車椅子に乗り移られた。倉本先生の鼻周辺には酸素吸引機のようなものが付けられている。

一見見た感じは元気そうではあったけれど、もうすでに倉本先生の体は満身創痍であることがわかった。

この状態で人前に出て、話をしようとされる情熱の元にあるものは何か。伝えたいものは何か。それをなんとか掴みたいと思った。

ピロティに入って、立ったまま30分ほど待った。その後案内され、私と妻は二列目に座ることができた。チケット代は無料。全席自由席だった。

講演会が始まった。約1時間半、やすらぎの刻など倉本先生の作品を編集したものが大画面で上映された。その後会場が明るくなると、倉本先生とそれを取り巻く人たちがステージに出てきて話をされた。

司会の女性もいらっしゃったが、1番メインは倉本先生のおそらくはお弟子さん。この方が倉本先生にいろいろな質問を投げかけながら、倉本先生が話をされた。この方の進行はスムーズで、先生はいろいろな話をされた。

戦争が終わった直後、池袋(ちゃんと聞けませんでした)の闇市の裏の通りを歩いて、小学校に通い始めた。当時先生は10歳。

ある日、まるで風が吹きすぎるかのように、自分の横を男たちが通り過ぎた。男たちは愚連隊という雰囲気。そしてその後を朝鮮人たちが追いかけてくる。

逃げる3人の男。そのうち2人は何とか逃げおおせたが、1人の男が朝鮮人たちに捕まった。男は逃げることに失敗して、倉本先生の目の前で撲殺された。人が目の前で殺されるのを先生は初めて見たそうだ。

体中の穴と言う穴から血が出て、死んでいると言うのに、朝鮮人たちは叩くのをやめなかった。

ようやく朝鮮人たちが去った後、倉本先生の通っていた小学校の先生が、倉本先生を抱えて学校へ連れて行ってくれたそうだ。他の大人たちも手を出せなかったのだろうと、先生は言っておられた。

また戦争中は岡山に疎開していた。ちょうど岡山の疎開中に広島に原爆が落とされた。すると周りの噂で、岡山の駅まで行くと、広島からボロボロになった人たちが引き上げてきていると言う話が広がった。

先生は直接その場面を見に行かなかったけれど、噂話によってボロボロの人たちを想像した。そして自分が想像する場面の方が、おそらくは本物を見るよりリアルだったのではないかと思うと話された。

私もまた実際のものを見た時より、誰か別の人や、自分自身がその場面を言葉で表現した時に、そのことをより深く実感することがある。人が物事を感じるのはそういうものかもしれない。

先生は1次情報は大切だけれど、二次情報として、人の噂を聞く方が物事が大げさに大きく聞こえるということがあると思うと話をされた。

また取材旅行の時、倉本先生はカメラもノートも録音器具を持たないのだと言う。そういうものがあることによって、気が削がれるのが嫌なのだという。

何も持たずにそこの現地の風景を見、現地の人と話をしてくるのが倉本流なのだと言う。そういえばメモをしないと忘れてしまうようなものは、創作の材料にはならないと言っていた人もいた。

また倉本先生は、創作の最初に現地を見に行くのではなく、ある程度自分でイメージを膨らませてから、現地を見ることが多いそうだ。創作後、それを確認するように現地を見る。

イメージ通りのこともあれば、違うこともある。その時にどうするかはその時によるのだそうだ。ドラマには嘘があっても構わないのだろう。

入場の時に私たちが感じた健康に不安な様子を、全く感じさせないような講演ではあった。けれど途中で咳き込まれたり、水を飲まれたり、あるいはイヤホンがないと全く周りの人の声が聞こえなかったりと言うようなことはあった。

あの歳になられても、多分500人位の聴衆が倉本先生の話を聞くために集まり、そして熱心に耳を傾けていた。水を打ったような静寂の中で、倉本先生の声だけが響く場面もあった。

もう90歳を超えられたそうだ。生倉本聡に出会えた事は、富良野で待っていた甲斐があったと言うものだった。

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