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「支配」という名の愛を、私たちはまだ「成功」と呼ぶのか

江戸時代の花魁から、現代の夜の街の頂点、そして海の向こうの王室まで。
一見、全く無関係に見える点と点を繋いでいくと、そこには一つの共通した歪な構造が浮かび上がってくる。
それは、「相手を支配下に置きたい」という渇望と、それに応えることでしか居場所を見出せないシステムの異常性だ。
「死」と隣り合わせの煌びやかさ
かつて吉原に咲いた花魁たちは、20代半ばでその短い一生を終えることが珍しくなかった。
梅毒、鉛中毒、そして精神を蝕む過酷なストレス。彼女たちは、自立した「個」として生きる権利を剥奪され、豪華な衣装という名の檻の中で、男性の所有欲を満たす記号として消費されていた。
現代に生きる私たちは、それを「過去の悲劇」として切り捨てるだろう。しかし、本質は何も変わっていないのではないか。
キャバクラと王室の奇妙な一致
現代の夜の街で、太客と結婚した女性が「勝者」としてもてはやされる光景がある。
だが、その祝祭の陰で、私たちは大切な問いを見失っている。その結婚は、対等な人間としての結びつきなのか、それとも「究極の私有化」に過ぎないのか。
キャバクラに集う、あるいは「女に教育は必要ない」と説く層の根底にあるのは、相手の知性を封じ込め、自分の支配下に置くことでしか維持できない、脆弱な自尊心だ。自分を脅かさない「無知」や「従順」を買い叩く行為。それを「愛」や「成功」と呼ぶのは、あまりに欺瞞に満ちている。
この構図は、世界で最も注目される王室の女性たちにも鮮明に投影される。
システムの歯車として完璧に「自分」を殺し続けるキャサリンと、異物であることを恐れず「自分」を貫こうとしたメーガン。世間が前者を称賛し、後者を叩くとき、そこには「支配しやすい対象」を愛で、「自立した個」を排除しようとする、無意識の集団心理が働いている。
「普通」という幻想を壊す
人間は、最初から複雑で矛盾した存在だ。
知性を持ち、論理的に考え、自分の足で立とうとする意志。それらを「可愛げがない」という言葉で排除しようとする社会は、結局のところ、他者を自分のコントロール可能な「駒」としてしか見ていない。
ナンバーワンの女性が「付き合う男がみんな犯罪者になる」と嘆くとき、それは彼女自身の問題ではなく、彼女がトップに君臨するその場所が、支配と依存の磁場でできているからだ。
私たちは、そろそろ気づくべきだ。
誰かの庇護下に入ることや、誰かの理想を完璧に演じることは、本当の意味での「幸せ」ではない。
たとえ歪でも、矛盾していても、自分の知性と独自性を手放さず、一人の人間として対峙すること。その先にしか、本当の「理解」も「自由」も存在しないのだから。

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