【映画】「ドライブ・イン・マンハッタン」感想・レビュー・解説

これは良い映画だったなぁ。予告を観た段階で「メチャクチャ良さそうだな」と思っていたけど、やはり良かった。「舞台演劇のようなワンシチュエーションの物語」だと思いながら観ていたら、公式HPに「元々舞台脚本だった」と書かれていた。いや、そうだろうなぁ。なんとなくだけど、「映画を作ろう」と思って書き上がる脚本じゃないような気がする。

登場人物はほぼ2人、舞台はほぼタクシーの中、ジョン・F・ケネディ国際空港からマンハッタンの44丁目までの道中で交わされる会話のみで構成される作品だ。回想シーンなども一切なく、タクシーに乗った女性が誰かとLINEのやり取りをしている、という状況があるだけで、後は運転手と女性の会話だけである。ちょうど100分の映画だそうだが、本作はもしかしたら「ほぼリアルタイム」と言っていいような時間軸かもしれない。ジョン・F・ケネディ国際空港からマンハッタンまでどれぐらい時間が掛かるのか知らないが(ネットで調べると1時間ぐらいと出る)、作中では途中事故のため渋滞が発生しており、しばらく動けなくなっていた。そう考えると、空港でタクシーに乗るところから、女性の家に辿り着くまでちょうど100分ぐらいだったかもしれないし、だとすれば、映画はほぼリアルタイムの進行をしていたと言えるかもしれない。

しかし、若い女性(彼女は年齢を聞かれても、「私が太陽の周りを何周したかがそんなに重要なわけ?」と言って答えなかったが)と、腕っぷしが強そうなマッチョな運転手は、たった100分の間にどんな会話をしていたのか? とにかく、この会話がなかなか絶妙で、リアルな感じがあって、途中「ん???」みたいに感じる部分もあったが(そのほとんどが運転手に対するものだが)、最終的にはとても良かったなと思う。

まず、凄くリアルだなと思ったのが、「最初から会話が弾むわけではない」という点だ。まあ、そうだろう。初めて会った者同士だし、「お喋りなタクシー運転手」というのは日本にもいるだろうが、それは単に「一人語りをしているだけ」であり、「会話が弾んでいる」とは言えない。本作でも、最初はそうだった。運転手が、「今日はお客さんで最後だよ」「ツイてない1日だった」「カードで払うとチップがあまりもらえないから、アプリはやっぱりクソだな」みたいなことをただ喋っているだけである。女性は、何となくの受け答えはするものの、そこまで会話に乗り気というほどではない。

その理由の一端は、LINEでやり取りしている相手に関係があるのだろう。彼女が誰と連絡を取っているのか、それはしばらくの間分からないのだが、「女性が何らかの意味で気を取られている相手」であることは確かである。運転手は彼女に、「スマホを見ないね。喋ってくれなくても、そういう客は嬉しいよ」と口にするのだが、彼女はスマホを「見ない」のではなく「見れない」のだ。「相手からどんな返信が来ているか(あるいは来ていないか)」が怖いのだろう。見てはいないが、スマホに意識は向いている。そんなこともあって、最初彼女は運転手とのやり取りに積極的ではないのだと思う(まあ、そもそもタクシーの運転手と話さなければならない理由もないわけだが)。

ただ、LINEの相手とのやり取りは、映画を観ていれば分かるだろうが、彼女には「ちょっとうんざり」という感じのものになっていく。まあ、なかなか酷い。そんなこともあって彼女は、「どこから戻ってきたの?」という運転手の問いに「故郷のオクラホマ」と答え、そこから、「片親違いの、性格の悪い11歳年上の姉」の話をしばらくするのである。

しかし、これはまだ単なる世間話の域を出ない。2人の間の雰囲気がちょっと変わったのは、女性がやり取りしている相手について、運転手が「既婚者だろ?」と言い当てた辺りからだ。そう、彼女は妻子ある男性と関係を持っているのだ。

この辺りの会話から、運転手がちょっと「いやーな感じ」になっていく。いや、これは人によって受け取り方が変わるのだろう。僕はちょっと「嫌いだな、この人」という感じだった。「2度結婚し、数々の浮気をしてきた」「妻が太ってセックスをしてくれなくなってから、19歳の女の子をアパートに囲うようになった」みたいなことを言い始め、さらに、「既婚者が愛人に求めているのは『愛』じゃないんだから、『愛してる』なんて言うなよ」「男はスーツ、車、家を『おもちゃ』だと思っているが、妻子もそこに含まれる」みたいなことを語り続けるのだ。

この辺りの運転手の言動は、個人的にはかなり好きになれないのだが、しかし、結果から言えば、運転手のこういう物言いは「正解」だったと言っていいと思う。「唯一の正解」だったかはともかく、「正解の1つ」であることは確かだろう。

というのも、「二度と会わないだろう人にしか言えない話」というものが、世の中には存在するからだ。

さて、ここで仮に、運転手が「良い人」っぽく振る舞っていたとしよう。紳士的な態度で女性の話を聞き、優しく相談に乗っていた場合、女性は「この運転手とは、いつかまたどこかで会うかもしれない」みたいに考えるんじゃないかと思う。別にそれは、連絡先を交換しようとかそういうことではなく、気分的に「また会えたらいいかもな」みたいな気持ちを心のどこかに持っていく、みたいなことだ。

そして、もしもそういう気持ちを抱いてしまったとしたら、女性はきっとあの話をしなかったと思う。「可能性は低いかもしれないが、また会うかもしれない人」には、たぶん言いたくないんじゃないかと思う。

でも、あの話を打ち明けたことで彼女の気持ちが変わったかもしれないが、少なくともあの話をした時点では、女性は運転手のことを「二度と会わない人」と認識していたはずだと思う。だから話せた。そして「二度と会わない人」と考えたのはやはり、それまでのやり取りにあったはずだと思う。軽妙なジョークや、親身なアドバイスもあったが、失礼な物言いも、不躾な決めつけもあった。全面的に嫌いという感じではないと思うが、積極的にまた会いたいと思う人でも無いような気がする。

そしてだからこそ、誰にも話さなかったことを話せたのだと思う。そしてその事実は、彼女にとってとても重要なことだっただろう。

運転手が、そういう意図で「嫌な奴」を演じていたのかは分からない。恐らくそうではないと思う。ただ運転手は、女性が関係を持っている既婚者についてひとしきり色々言った後で、「あんたの男は、昔の俺だ。それで、あんたが悲しそうだから、こんなことを言うんだよ」みたいなことを口にしていた。20年間タクシー運転手をやってきたとのことで、その経験から、「彼女が『話せないこと』を抱えている」ことに気づいていて、だから敢えて「嫌な奴」の振る舞いをしていた、なんて可能性もゼロではないかもしれない。

そんな深読みをさせるような設定・会話であり、会話の中で語られたこと以外の情報がほぼ存在しない2人についてあれこれ想像させる感じが凄く良かったなと思う。

さて、本作においては登場人物が2人しかおらず、しかも初対面である。つまり、運転手・女性客それぞれについて「第三者目線で語る人物」は出てこない。そのため彼らのキャラクターについては、「本人が語ったこと」からしか浮かび上がらない。

そして「何をどう話すか」は個人の裁量なのだから、それによって「見え方」まで影響することになる。

本作では、ざっくり書くと、「運転手は実にシンプルな人間」として、そして「女性客は実に複雑な人間」として映し出されている。しかし、それが客観的にも妥当であるかは不明だ。運転手は単に自分を「シンプルな人間」に見せようとしているだけかもしれないし、女性客は単に自分を「複雑な人間」に見せようとしているだけかもしれない。

ただ、ある場面で運転手が、「『家族想いの父親』であることより、『家族想いに見える父親』であることの方が大事なんだ」みたいなことを口にするのだが、まさにその通りという感じがする。本質はもちろん重要だが、本質に辿り着くのは難しいし、また、極論すれば「自分をどう見せたいか」という価値観こそが「本質」だとも言えるように思う。

とまあウダウダ書いているが、これは「運転手はシンプルな人間」「女性客は複雑な人間」という分かりやすい決めつけをする上での言い訳みたいなものなので、あまり気にしないでほしい。

そして、本作においては、「『女性客の複雑さ』がいかにして解きほぐされていくのか」みたいな部分が、若干ミステリー的な感じになっていて、2人の自然なやり取りから「謎」的なものが掘り起こされていく過程は、ある種スリリングでもあると言えるだろう。

この「スリリングさ」は、「2人には特段の関係性がなく、だから『謎』を明かす必要がない」という部分に関係していると思う。

ミステリ作品だとしたら、「最後には必ず『謎』が明らかにされる」ことを確信しながら読んだり観たり出来る。しかし本作『ドライブ・イン・マンハッタン』は、最初から最後までリアルな会話のみで展開される作品だ。だから、「会話の流れ的に、『謎』が明らかにならない可能性もある」と思いながら観ることになる。そのことを「スリリング」という言葉で表現しているつもりだ。

本作では状況的に、女性客が運転手の問いに答える必然性はまったくない。ただの客だし、義理も貸しもないからだ。実際彼女は、年齢を答えることを拒否しているし、それは最後まで明かされることはない(まあ、僕も年齢なんかどうでもいいと思っているが)。

しかし一方で、運転手は、「女性には何か話したいことがあるはずだ」という直感を持っていて、それ故に「話させてあげたい」と考えているはずだ。けど、「北風と太陽」の話ではないが、無理に聞き出そうとしても話すはずがない。単なる運転手に話す義理などないからだ。だから彼はなんとか上手いこと話を持ち込んで、「こいつになら話してもいいか」と思わせるような雰囲気に持っていこうとする。

そんな「話す必然性を有していない女性客」と「話させたいと思っている運転手」の静かな攻防みたいなものが見え隠れしていて、しかもそれが100分という比較的コンパクトな時間軸の中でまとまっていることも凄いなと思う。

さて最後に。本作では女性客が「記憶の違い」について語る場面がある。その具体的な話には触れないが、僕にも同じようなことがあるので書いてみたい。

これは、僕と両親の記憶が合わない話である。しかも2つある。

1つは、「足を骨折して、松葉杖で学校に行ったことがある」という話。僕の記憶では、何回か足を骨折していて、だから中学生ぐらいだったと思うけど、松葉杖で投稿した記憶がある。のだが、両親は「そんなことは無い」というのだ。父親曰く、「足を骨折してたら、車で送り迎えしないといけないけど、そんなことをした記憶は無い」のだそうだ。

そしてもう1つ。僕には「歯の矯正をする事前準備的な感じで、歯医者でレントゲン写真を撮った」という記憶がある。結局矯正はしなかったのだが、歯医者には行ったような気がするのだ。しかしこれについても両親は「そんな記憶はない」という。

まあ僕は、脳内に映像が浮かばない「アファンタジア」なので、昔のこともはっきり覚えていないことの方が多い。だから、きっと僕の記憶が間違っているんだろうなとは思うのだが、歯医者はともかく、松葉杖で登校は絶対にあったと思うんだよなぁ。

みたいに、人の記憶というのはズレるものなのである。昔心理学の本で読んだが、「『9.11の日に何をしていましたか?』という質問を、9.11の直後と、その10年後に、同じ人にする」という実験があり、10年経つと、10年前に話したことと全然違うことを言うのだそうだ。それぐらい人間の記憶はあやふやなわけで、だからこそ面白いなとも思う。

そんなわけで、大分話はズレたが、「ワンシチュエーションにおける会話のみで物語を紡ぐ」というなかなかに挑発的な作品であり、個人的にはとても面白く感じられた。あと、女性客を演じたダコタ・ジョンソンは、ビジュが強いな。

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