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「頭の中に映像が浮かばない」という「アファンタジア」とは何なのか? アファンタジアである僕が、その特性やメリット・デメリットなどについてまとめてみた


「アファンタジア」について、僕なりの感覚で色々と説明していく

さて、この記事では「アファンタジア」について取り上げようと思う。「アファンタジア」は、まだまだ正確な定義が存在する概念ではないようだが、ざっくり言うと「頭の中に映像が浮かばない人」のことを指すと考えてもらえばいいだろう。

しかし恐らくだが、ごく一般的な人には、「頭の中に映像が浮かばない」という状況がそもそも想像出来ないのではないかと思う。というわけで、まずはその辺りの感覚について説明することにしよう。ちなみに、「アファンタジア」にも程度の差があるようなので、僕の感覚が一般化出来るわけではないという点には注意が必要だ。たぶんアファンタジア同士でも色々と違うはずなのだが、まだまだ研究が進んでいない領域の話なので、分からないことも多いと思ってほしい。

「頭の中に映像が浮かばない」とは、そもそもどういう状態なのか?

さて、僕が自分の感覚を他者に説明する時によく使っているのが「リンゴ」である。別にリンゴである必要はない。ただなんとなくそうしているだけだ。

それで普通は、「頭の中にリンゴを思い浮かべて下さい」と言われたら、リンゴのイメージが脳内に浮かぶのだろう。僕が今まで聞いた話によると、「目を瞑れば、目の前にリンゴそのものがあるような感じに見える」「目を開けた状態で、空中にリンゴが浮かんでいるみたいに見ることも可能」なのだそうだ。どうやらそれが一般的らしい。

ただ、僕にはそれが出来ない。つまり、目を瞑ったらただ真っ暗で何も見えないし、目を開けていたら目の前に存在するものしか視界に映らないのである。「頭の中で想像したものが目の前に浮かんでいる」なんて状態が、僕には一切イメージ出来ないというわけだ。まあ恐らく、アファンタジアではない人には僕が何を言っているのかまるで理解できないだろう。今まで周りの人に説明した際も、概ね「ん?」みたいな反応だった。

しかしこの「アファンタジア」、人口の4%程度存在すると言われている(調査によって数値は異なるようだが、大体そのぐらい)。4%というと、35人のクラスに1人か2人はいる計算だ。結構多いように感じないだろうか? また、ピクサーの共同創設者であるエドウィン・キャットマルやディズニーのアニメーターであるグレン・キーン、あるいはライトノベル作家の長月達平などが「アファンタジア」を公言しているという。「アニメや小説など創作に関わる世界にも『映像が頭に浮かばない人』がいる」というのはなかなか驚きだが、この事実からも分かるように「創作にも日常生活にも大きな支障はない」のである。だからこそ「自覚しにくい」とも言えるわけで、その辺りも研究が進まない要因なのだと思う。

ちなみに、イギリスの学者フランシス・ゴルトンによって初めてその症例が報告されたのは100年以上前の1880年なのだが、「アファンタジア」という概念が初めて提唱されたのは、イギリスの神経学者ゼーマンが論文で発表した2015年のことだそうだ。存在こそ以前から知られてはいたものの、本格的に研究されるようになったのは2015年以降だと思うので、まだまだ広く知られているとは言えないだろう。また「アファンタジア」というのは、「ファンタジア(「イマジネーション(想像)」を意味するギリシャ語)が異常を来している」という意味を持つ言葉として命名されたそうだ。

「アファンタジア」がどんなものなのか、なんとなくイメージしていただけただろうか?

僕が「アファンタジア」だと自覚したきっかけについて

それでは、そんな気づきにくい「アファンタジア」を僕がどうして自覚できたのかという話に移ろうと思う。ここには2段階のステップが存在する。「『頭に映像が浮かばない』のは普通じゃないことが分かった」のが最初で、そしてその後、「その状態には『アファンタジア』という名前がついていることを知った」という感じだ。

まずは前者、「『頭に映像が浮かばない』のは普通じゃない」と気付いたのは、「読書中の感覚」について本を読む人たちと話していた時のことである。

僕は小説を読んでいても、登場人物の造形や舞台となる小説世界の風景などが一切頭に浮かばない。例えば、「肩までの髪を綺麗になびかせ、朝日が燦々と降り注ぐ浜辺を颯爽と走り去っていった。」みたいな文章を読んでも、人物も太陽も浜辺も何も出てこないのだ。ただただ文字を追っているだけで、「文字情報が脳内に取り込まれていく」みたいな感じでしかない。「髪がなびいてるんだな」「浜辺を走ってるんだな」と思うだけである。

だから僕は昔から、「小説が映像化・アニメ化された時に『イメージと違う!』と憤っている人たちの感覚」がまったく理解できなかった。「文字を読んだだけで、そんな具体的に人物の顔が思い浮かぶわけないだろ」みたいに感じていたからだ。しかしみんな、一体どのぐらいのレベルで人物像が浮かんでいるのだろうか。僕の場合は、小説の登場人物に対して何のイメージも持っていないので、ドラマやアニメなどで具現化された際には、「なるほど、こういう造形をしたのか」みたいに思うだけである。

そんなわけで、小説を読んでいる時は比較的、登場人物や風景の描写は飛ばし読みすることが多い。読んでも映像にならないのだから、僕にとってはさほど重要な情報ではないのである。何なら、情景描写が長々と続く作品の場合は、「そんなのいいから、早くストーリーを進めてくれ」とさえ感じていたほどだ。まさか世の中の一般的な人たちが、文字で記された情景描写を脳内で映像化しているなんて思ってもみなかったのである。

それで、確か20代後半か30代前半ぐらいだったと思うのだが、本を読む人たちと「読書中の感覚」の話をしている時に、「小説を読んでも頭の中に何の映像も浮かばない」みたいなことを言ったらとてつもなく驚かれたことがあった。そのことがきっかけで、僕はようやく「なるほど、これは普通じゃないのか」と気付いたのである。それから、「映像が浮かばない話」を色んな人にしてみるようになり、その時の反応などから少しずつ「一般的にはどういう状態が普通なのか」を理解していったというわけだ。

そしてその後、何かの拍子に「アファンタジア」という概念の存在を知った。別に何かを検索していたとかではなく、たまたまネット記事が視界に入ってきたんだったと思う。そしてその時に初めて、「なるほど、自分のこの感覚にはちゃんと名前が付いているのだな」と理解したのである。こんな風にして僕は、「自分がアファンタジアである」と自覚していったのだ。

ちなみに、今まで色んな人に自分の感覚について話をしてきたが、「自分もそう!」という反応になったことは1度しかない。その女性は僕より何歳か年下で、僕がその話をした時点で恐らく30代後半だったと思う。そして彼女はその時まで、「アファンタジア」という言葉を知らなかっただけではなく、「『頭の中に映像が浮かばない』のは普通じゃない」という事実さえも認識出来ていなかったようだ。つまり、僕が「アファンタジア」の話をしたことで初めて「自分は普通じゃない」と自覚出来たのである。先ほども少し触れたが、頭の中に映像が浮かばなくても日常生活には大した影響はないので、「自分がマイノリティ側である」と自覚する機会はまずないのだ。なので、先ほどの4%という数値も、実際にはもう少し高くてもおかしくないように思う。

さて、「頭の中に映像が浮かばない」という話をするとよく聞かれるのが「夢を見るのか?」である。この点に関しては少し説明が難しいのだが、ざっくりまとめると、「『夢を見たな』という感覚だけが残っている」みたいな感じになるだろうか。

具体例を出しておこう。去年の12月、久々に体調が悪くなって早めに寝た日がある。ちょうどM-1の決勝の日で、M-1を最後まで見てから寝た。そして翌朝起きた時に、久々に「夢を見たな」という感覚が残っていたのだ。どういうことかというと、起きた瞬間、「M-1の予選に遅刻するから急がなきゃ!」みたいに感じていたのである。僕は芸人ではないし、M-1に出たいと思っているわけでもないので、「寝る直前に見たM-1に引っ張られて夢を見たのだろう」と判断したというわけだ。もちろん、映像の記憶はまったくないので「夢を見た」と表現するのはちょっと正しくないように思うのだが、ただ「夢を見た」と判断するしかないような感覚が残っていたことは確かなので、僕の中では「夢を見た」という解釈になっているのである。

日常生活に特段の支障はないのだが、やはりデメリットはある

さてそんな「アファンタジア」だが、何度か触れてきた通り、普通に生活する分には特に大きな問題は起こらない。目の前にあるものは普通に見えているし、「リンゴやドラえもんの絵を描いてくれ」と言われれば、目の前にそれらが無くてもなんとなくは描けると思う(上手くはないが)。どうして描けるのかはよく分からないが、僕はなんとなく、「ある種の概念化(リンゴってこういうものだよね)がなされているものは、映像記憶とは違う形で保存されているのではないか」みたいに理解している。また、僕は最近映画ばかり観ているが、観た映画についても「映像として思い返すこと」は出来ない(これも上手くは説明できないものの、「こんなシーンがあったな」みたいな漠然としたイメージにはアクセス出来るが、しかし映像が浮かんでいるわけではない)。ただ、「鑑賞後に感想を書く」という習慣を経由することで「文字情報として内容を記憶出来ている」のだと思う。

とはいえやはり、「これはアファンタジアだからこそ苦手なんだろうなぁ」と感じることも色々ある。

その最たるものが「人の顔を覚えること」だろう。まあとにかく苦手である。なにせ、これも自分の特性を説明する時にやってみせることなのだが、「誰かの顔を視界に入れた後で顔を背けると、もうその人の顔を思い返すことが出来ない」のだ。そんな状態で、人の顔を記憶することなど出来るはずもない。

この点に関しては、「自分が普通じゃない」と気づくまではずっと、「みんなよくもまあ人の顔なんか覚えられるな」と感心していた。なにせ、「他の人も自分と同じ(頭の中に映像が浮かんでいない)」と思っていたわけで、「そんな状態でどうやって人の顔を記憶しているんだろう?」と不思議だったのだ。しかし、アファンタジアではない人は恐らく、会った人の顔をいつでも思い出すことが出来るのだろう。「それなら俺だって覚えられるわ!」と思ったりもする。

まあそんなわけで、とにかく「人の顔を覚えること」は諦めた。なので、初めての人に会う時はなるべく先に「人の顔は覚えられないんです」みたいに言うようにしているし、誰かと待ち合わせする時は「顔を覚えていないから俺のこと見つけて」と頼んだりもする。無駄な努力はしないのが一番だ。

ただ、見ればその人だと分かる。例えば、今僕は明石家さんまの顔を思い浮かべることは出来ないが、明石家さんまに会えば「明石家さんま」だと認識出来るというわけだ。これは結構理解しがたい感覚だと思うが(僕も不思議である)、ただ「人間の脳には『人間の顔を識別する特別な領域』が存在する」という事実を本か何かで読んだことがあるので、恐らくその働きによるものなのだと思う。調べてみると「顔パッチ」と呼ばれている複数の領域が存在するようだ。そしてそれらが無意識レベルで機能しているからこそ、「思い出せないが、見れば分かる」という状態になるのではないかと考えている。ただそれも、「何度も見たことがある人」じゃないと発動しないので、2~3回見ただけの人の場合は「見れば分かる」という感じにはならない。あと、何度も観たことがある人でも、会わない期間が長い場合もやはり発動しないのである。

だから、僕がかなり恐れている状況が「何かの目撃者になること」だ。例えば小説やドラマなんかで、「何か事件が起こり、その唯一の目撃者がA氏」みたいな状況があったりするが、「もし自分がそのA氏だったら困る」と僕はいつも思っている。見たことを覚えていられないのだから、証言できることなど何もない(ただ例えばだが、人の顔を見た時に「◯◯に似てる」などと言語化する形で何かを意識すれば、そのことは覚えていられることもある)。しかし、警察(や探偵)は「見たことを覚えていられない」なんて状態を信じないだろうし、とすれば、「こいつ、目撃者だと言っているが、怪しいぞ」となって、容疑者にさせられる可能性だってあるだろう。困った。なのでとにかく、「目撃者にならずに済む」ようにいつも祈っているのである。

また、とにかく地図が読めないし、道も覚えられない。この点に関しては昔、父親の発言に驚かされたことがある。父親が運転中にカーナビを使っていなかったので、「よく道が分かるね」と聞いたところ、「昔走ったから」と返ってきたのだが、その「昔」はどう考えても数十年前のはずなのだ。それなのに道を覚えているという。もちろん僕にはまったく理解できなかったわけだが、一般的な感覚と比べてどうなんだろうと思う。それぐらいのこと、当たり前に出来るものなんだろうか。とにかく僕には衝撃的な返答だった。

さらに、「地図を見る」にしても、恐らく多くの人は、「Googleマップの地図を頭の中で回転させたり出来る」んじゃないかと思うのだが、もちろん僕にはそんなこと不可能だ。だから、地図そのものを回転させないと、自分が進むべき方向が分からない。もちろん、1回歩いたぐらいで道を覚えられるはずもなく、何度か歩いてやっと迷わず辿り着けるという感じである。

この「人の顔を覚えられない」と「地図が読めない」の2つは、比較的困るポイントだと言っていいだろう。

あともう1つ、これは大した話ではないのだが、「昔の記憶が無い」のは少し残念だなと思う。人と喋っていると、「よくもまあそんな昔のことを覚えていられるな」と感じることが多い。子どもの頃に観ていたテレビ番組や学校で起こった出来事、友人とのエピソードなど、僕の場合は覚えていることがとにかく少ないのだ。「視覚」による記憶が無理なので、何かを記憶するには「言語」に頼るしかないわけだが、子どもの頃ほど「言語能力」が低いため記憶出来なかったのだと思う。

まあ実際には、「物事に興味がなかった」という別の要素も関係しているとは思うので、どこまで「アファンタジア」による影響なのかは分からないものの、僕の場合、小中高大学時代の記憶はほとんど無いと言っていいだろう。もちろん断片的に覚えている出来事はあるが、それも、小中の記憶は皆無である。高校時代も結構怪しい。大学時代の記憶がところどころあるかな、という感じだ。大学時代の友人とは今も会う機会があるが、昔の話になると、「俺がそんなこと言ってた?」「そんなことあったっけ?」みたいに思うことばかりなので、記憶から抜けていることの方が圧倒的に多いと思う。

さて、もしかしたら他にもあるかもしれないが、大きなところで言うとデメリット的な話はこんな感じだろう。まあ、大したことないと言えば大したことはない。それに、「人の顔を覚えられない」とか「地図が読めない」みたいなことは、たぶん「頭の中に映像が浮かぶ人」でも苦手な人はいるんじゃないかと思う。だから「自分が特別変わっている」などと自覚することはなかなか出来ないのである。

「アファンタジア」であることにメリットはあるのか?

それでは次に、「アファンタジアであることのメリット」について考えてみることにしよう。

まず分かりやすいところで言うと、「嫌悪感の強い映像記憶が残らない」みたいなことが挙げられるだろう。例えばだが、「目の前で誰かが人を殺す」みたいな場面を目撃してしまったとしても、その映像記憶はもちろん僕の中に残らない。これは結構なメリットなんじゃないかと思う。ただ、当然そういう場面に直面したことはないので、「感情記憶」みたいなものがどうなるかは分からないし、恐らく「人が殺される場面を見てしまった」という感情と結びつく記憶は残り続けるような気がする。ただやはり、「直接的な映像記憶が残らない」というのは結構大きいだろう。僕の場合は「言語化する」ことで記憶として定着するので、「誰々のこういうところがムカついた」みたいに言葉にすると記憶されるわけだが、それでも映像自体は残らないので、「嫌なことを忘れる」という意味ではかなり有利と言えるんじゃないかと思う。

「映像記憶が残らない」というのは、「良い思い出が消えてしまう」ことも意味するが、僕は基本的に「良いことがあるより、悪いことが無い方が心穏やかでいられる」ので、「『映像記憶が残らない』ことで『悪いこと』から離れやすくなる」という性質は、結構プラスに働いている気がする。

また何度か書いている通り、「記憶するには『言葉』に頼るしかない」ため、「『言葉』に対する感覚が鋭敏」と言えるんじゃないかとも思う。例えばだが、「見たこと」は記憶出来ないが、「聞いたこと」はかなり覚えている。「会話」は「言葉」だからだ。そのため、映像記憶の面では「そんなことも覚えていないのか」みたいな反応になることが多いが、逆に会話の内容を記憶していることで「よくそんなこと覚えてるね」と言われることも多い。どちらの方が良いなんてことは別にないだろうが、個人的には「見たこと」よりも「聞いたこと」の方を強く覚えていられる自分の特性は、決して悪くないなと思う。

あと、ネットで調べると「アファンタジアの人は説明が上手い」みたいな話がチラホラ出てくる。僕も、「他者に説明すること」が得意だと自分では思っていて(この記事も伝わりやすいものになっているといいんだけど)、もしもそういう傾向が存在するとしたらどういう理屈があり得るだろうかと少し考えてみた。

僕には「頭に映像が浮かぶ人」の感覚は分からないのだが、「アファンタジアじゃない人が他者に何かを説明しようとする場合、その物事や状況が映像として頭に浮かんでいる」と考える方が自然な気がする。そしてそうだとしたら、「『自分の頭に浮かんでいるこの映像が、相手の頭の中にもある』みたいな感覚のまま説明を続けてしまう」なんてこともあったりするんじゃないかと思う。

例えば、「自分が見た映画について、その映画を見ていない人に説明する」という場合、説明する人の頭の中には映画のワンシーンが浮かんでいるはずだ。そして、そのシーンを頭に思い浮かべながら言葉で説明することになるのだと思うが、自分の頭にはもう全体像が見えているが故に、「その中からどの要素をどういう順番で言葉にしたら相手に伝わるか」を考えるのはむしろ難しいんじゃないかという気がする(映像が浮かぶ方、この捉え方で合ってますか?)。

一方、僕が同じ状況に直面した場合、僕の頭の中に映像は浮かびはしない。だから僕がその映画について説明する場合のイメージは、「『自分が言葉にしたもの』が少しずつプラスされていく」みたいな感じになるだろう。何となく伝わるだろうか? 例えば、「主人公は30代の公務員」と言うと人が追加され、「彼はボロボロのアパートで一人暮らしをしている」と言えば建物がプラスされるみたいなイメージである。この場合、「自分が説明していない情報は相手にも伝わっていない」ということが明白なのだ。また、全体像が映像的に見えていないからこそ、「どの要素をどの順番で提示すれば相手にも伝わるか」を常に考えざるを得なくなるし、そしてそれ故に、「他者に何かを伝える訓練」が結果的に出来ているんじゃないかと思っている。

それで、このことに少し関連する話だが、僕が割と気になっているのは「『僕が書いた文章』を読んで、アファンタジアではない人は映像が浮かぶのか?」という点だ。僕の場合、口頭で何か説明する時も、文章を書く際も、頭の中に映像は浮かんでいない。なので、「そんな風に出力された情報から、映像が読み取れるか?」についてはとても気になっているのだ。

例えばだが、僕がこれまで書いてきた映画の感想を以下のリンクにズラッとリストアップしてある。

これらは「アファンタジアの僕が映像を観て書いた文章」であり、先述した通り、この文章を書いている間、僕の頭の中には一切の映像が浮かんでいない。では、そんな文章をアファンタジアではない人が読んだ場合、ちゃんと映像が浮かぶのだろうか? 僕には確かめられないことなので、もし試してみてもいいという方がいれば、僕の文章を読んで映像が浮かぶのかどうか教えてほしい(ただ、先のリンク先の文章は一切推敲しておらず、誤字脱字や読みにくさがあるかもしれないのでご容赦を。ちなみに、このアファンタジアの記事はちゃんと推敲している)。浮かぶのであれば、「『記憶を言語に頼った人間が書いた文章』からも映像的な要素が読み取れる」ことになるし、それはある意味で、「アファンタジアが上手く説明できる理由」の一端と言えるようにも思う。まあ、あくまでも私なりの仮説でしかないのだが。

最後に

というわけで、「頭に映像が浮かばない」という「アファンタジア」の特性について、僕自身の感覚をベースに色々と書いてみた。「アファンタジア」に関しては僕自身の関心も結構高く、これまで色んな人と話す中でこの話題を出し、反応を引き出しているので、「映像が浮かばない」というという特性に対する疑問などについては一通り網羅できていると思う。ただ、「アファンタジア」について他に何か質問してみたいことや、あるいは「自分もアファンタジアなんだけど、こういう感覚はないか?」みたいな疑問など、何かあれば教えてほしい。

また「アファンタジア」に限らず、「自分にはこういう感覚があり、それはどうも普通じゃないように思う」みたいな話もあれば是非知りたい。「アファンタジア」も割と最近概念化されたわけで、「未だにちゃんとした名前が付いていない感覚」もたくさんあるはずだ。それらについては知的好奇心的な意味で興味があるので、何かあれば教えてほしいなと思う。

(新たなエピソードを以下の記事に書いた)


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