【映画】「消滅世界」感想・レビュー・解説
いやー、面白かった! 原作小説は未読だが、村田沙耶香なら間違いないし、でやっぱり狂気的で面白かった。
のだけど、今僕は「狂気的」という言葉を使ったが、正直僕は、この映画の世界観、結構アリだと思ってるんだよなぁ。昔から「もし結婚するなら友達と結婚したい」「恋愛から結婚に進むのって変じゃない?」みたいなことを考えてきたし、周りにもよく言っていたので、「この世界で、俺、良い感じに生きれるかもしれない」と思った。
映画の最後の方に、こんなセリフがある。
【この世界に、洗脳されてない脳なんてあるの?
どうせなら、その世界に一番合った形で狂った方がいい。
一番怖い狂い方は、「正常」だよ。】
まさに本作全体を貫くようなセリフという感じがするが、同時に僕は、「今の世の中では僕の考えは『異常』だが、本作の世界観では『正常』なんだろうな」と感じたし、なんかそれは凄く嬉しかった。
僕は、映画『国宝』の感想に、延々と「血の繋がりなんかにどんな意味があるんだ?」みたいなことを書き連ねたのだけど、本当にそういうことが僕にはイマイチ理解できない。だから比較的、本作の後半の展開である「エデン」も許容可能だ。別に他人に強制するようなことではないと思うが、「それでいいって思う人がいるなら、別にそれで良くない?」と感じてしまう。
多くの人にとって、本作は「狂気的」な作品に見えるだろうが、僕には割と「良い世界だな」という風に見えていたし、だから「もしこんな未来になるなら好ましいなぁ」なんて感じで観ていた。決して多数派ではないと思うが、僕と同じように感じる人もそれなりにはいるんじゃないかと思う。
本作のテーマの1つを乱暴に要約するなら、「妊娠・出産を外在化出来るなら、人類はセックスを不要に出来るか?」となるだろうし、そして最近の若い世代の風潮を見ていると、先程の問いに「YES」と答えられる人が増えつつあるようにも思う。だから、全然「突拍子もない世界」という感じはしなかった。本作中では、まだ同性婚は認められていないようだが、そう、「同性婚が認められる」よりも先に「恋愛と結婚が切り離される」方が早い可能性は、全然あるんじゃないだろうか。
というわけで、まずは本作の設定に触れつつ、内容も少し紹介しておこうと思う。
本作の舞台は、「人工授精が当たり前となり、夫婦間の性交渉がタブーとなった世界」である。子どもの9割は人工授精で生まれてくるような世界だ。そしてそんな世界において、主人公の雨音は、両親のセックスによって生まれた子どもである。そのせいで彼女は、学校でいじめられていた。小学校の同級生から、「人工授精じゃないの? そういうの、近親相姦って言うんだよ」と言われるのだ。雨音の母親は、世の中の変化などに関係なく、雨音に「好きな人と結婚して、愛し合って子どもを産みなさい」と言い続ける。
もう、そんな世の中じゃないのに。
人々が性の対象にするのは、アニメなどに2次元のキャラクターか、あるいは「家庭の外にいる人」だ。雨音も昔から、「7000歳の不老不死の少年ラピス」に恋をしている。結婚をしている人が、家庭外に恋人を持っているのは当たり前で、かつては「浮気」と非難された行為も、今では「家庭に性行為を持ち込まない清潔な行為」とされ、そういう家族は「清潔な家族」と見なされる。学生時代の同級生は、「両親がそれぞれお互いの恋人を家に呼んでパーティーをする」そうだが、それに雨音が「清潔な家庭なんだね」と返すのである。
大人になった雨音は夫から行為を迫られて思わずワインの瓶で殴り倒してしまう。しかし、雨音の友人である樹里は、雨音の夫に対して「警察沙汰にならなかっただけ良かったと思ってほしい」と言っていた。そう、この状況では、「殴った雨音」ではなく「家庭内で性行為を望んだ夫」の方が「性加害」として非難されてしまうのだ。
その後雨音は、おせっかいな樹里が登録してくれた婚活アプリを通じて朔と知り合う。初めて食事をした日、雨音が朔に「かつて夫に襲われた」という話をすると、朔はあまりの気持ち悪さに吐き気を催してしまう。そんな姿も安心材料となり、2人は結婚することにした。2人は穏やかな生活を続けるが、雨音は自分の内側にある葛藤をどうすべきか分からずにいて……。
というような物語である。
先程も少し書いたけど、個人的には、本作で描かれている世界は結構、今現在の日本の現状からメチャクチャかけ離れているわけではない感じがしていて、だから「めちゃくちゃディストピア的だが、そこはかとなくリアリティを感じさせる」みたいに受け取った。今の日本が、数年後に本作のような状況になっていることはまずないと思うが、「人工授精の精度」と「出生率の減少」、そして「若い世代の『清潔』に対する感覚」の噛み合い方次第では、数十年単位の未来にどうなっているかは分からない。
なにせ、ざくっと調べただけでも「若者が恋愛やセックスに興味を持っていない」みたいな話は色々出てくるのだ。
まあ、「したくない」のか「出来ない」のかは色々見方はあるだろうけど、現実的に「減っている」ことは確かだと思う。だとすれば、そこから新しい価値観が出てきてもおかしくはないし、それが本作のような世界に近いものになるとしても全然不思議ではないだろう。
それに個人的にも、「『家族に求めるもの』と『恋人に求めるもの』って全然違くない?」といつも思っていて、だから「恋愛から結婚に至る流れってメチャクチャ不合理だな」と感じている。だから本作で描かれているみたいな「『家族』と『恋人』を分けよう」って話はメチャクチャ理にかなってる感じするし、「それって理想的だ」と感じる人も割といるんじゃないかなと思う。
別にこれは、「結婚した上で、外に恋人作り放題なんてサイコーじゃん!」みたいな浮気的な発想ではなくて、例えば本作にはこんなやり取りがあって、「うん、分かるなぁ」と個人的には思う。
【「ホントに君は最高の妻だよ。君とだけは絶対に恋にはならないでいられるから」
「私も、朔くんと一緒にいると、この世界に『恋』ってものがあることを忘れられるよ」】
あるいはこんな会話もある。
【朔くんには幸せな恋愛をしてほしい。
私の大事な家族なんだから。】
こういうやり取りを、夫婦間でしているのだ。そして個人的には、こういうやり取りって凄くいいんじゃないかな、と思う。「家族」と「恋人」の機能が完全に分かれていて、そしてそれぞれがその「機能」の範囲内の存在としてそこにいる。みたいなのって、個人的には凄くいいなと思う。
あるいはこんなシーンもあった。朔が恋人・深雪と一緒に歩いているところに雨音が偶然通りかかる場面だ。ここで深雪と雨音はお互いに「会いたかった」と言い合う。お互いに朔から相手の話を聞いていて、「気が合いそう」だと言われていたからだ。普通の物語ならここで嫉妬的な描写になるはずだが、本作ではまったくそんなことにはならない。2人とも穏やかなものだ。
そして深雪が、「朔がいつも、最高の妻だと言ってます」と口にすると、朔が「当然だよ。僕が一番信頼している人なんだから」と言う。それに対して深雪が、「えー、じゃあ私のことは信頼してないってこと?」みたいに聞いて、それに朔が「そんなんじゃないよ」と穏やかに返す。そして3人でクスクスと笑い合うのだ。まるで昔からの親友みたいに。
ここの場面でも、恋人は恋人としての存在であり、妻は妻としての存在であり、そしてそのことをお互いがちゃんと諒解していて、その範囲からはみ出さない。みたいな振る舞いって、凄く平和的でいいよなぁ、と個人的には思うんだけど、どうなんだろう。
また本作では、「関係性」だけではなく「性欲そのもの」にも焦点が当てられる。いや、これも「関係性」の話でもあるか。要するに、「『恋人関係』を継続させるために『セックス』は必要なのか?」みたいなことも問いかけられるのだ。
本作には、
【体の関係が辛い。ダメみたい。
恋人になるためって思って頑張ったんだけど。】
みたいに口にする人物が出てくる。この場面もなかなか倒錯している感じがあって面白いのだけど、「夫婦間」だけではなく、もはや「恋人間」でも「性欲」が存在しない、発揮されないようになっているのだ。後半のある場面では、「性欲を人工的に刈り取る部屋」みたいなものが登場する。作中では詳しい説明はなかったが、本作では「性欲」は「生理」みたいなものとして捉えられてるように感じられた。はっきりと「性欲って無駄ですよね」っていう人物も出てくるくらいだ。
さて、そんな世界において雨音は、「他人とセックスをしたいと思う人物」として存在している。しかし、その理由もまた歪んでいて面白い。
そもそも彼女は、子どもの頃にラピスに恋をして「安心した」みたいなことを言っていた。何故なら、「『2次元の存在に恋をすること』は当たり前のことだから」だ。彼女は、「自分が『両親の交尾』から生まれた存在である」という事実に負い目みたいなものを感じていて、その「汚らわしさ」みたいなものから逃れたいと考えている。それ故、「母親とは違う、そして世間と同じ感覚」を自分の中に見つけると、安心できるのだ。
そして、彼女がセックスを求める感覚も、同じような線上に存在する。彼女は母親を「性欲を家に持ち込む人」と捉えていて、だからこそ「外の恋愛で発情すると、『自分はノーマルなんだ』って思えて安心する」というのだ。あまりにも倒錯しすぎてて、「何言ってんの?」って感じだろうか?
ただ、そんな感覚を口にした雨音は、その後「正しい発情なんてどこにもないから」という言葉を突きつけられる。現代日本を生きる我々には「正しい発情はあるだろ」と感じられると思うが、雨音はそう言われて恐らくショックを受けたんじゃないかと思う。「どんな理由であれ、発情してしまっている私は正しくないんだ」みたいに感じたことだろう。恐らくこの言葉が、後半の展開に至る彼女のある決断の背景にあるんだろうなと思う。
さて、その後半の展開でも、「こんなよくある定型句を、これほど異常さを感じさせる言葉として使えるのは凄いな」と感じさせる場面がある。ある人物が、「産んでみたら分かるよ」と口にするのだが、その「分かるよ」の内容がよく使われる意味合いと全然違うのだ。
普通この言葉は、例えば「子どもに興味がない」みたいに言っている人に対して、「産んでみたら分かるよ。自分の子どもって、ホント可愛いから」みたいな流れで使われることが多いだろう。しかし本作では、まったく違う流れで使われる。本作全体に言えることだが、こういう「よく耳にする言葉」を全然違う意味合いで使っていることが多く、そういう部分でも「価値観の転倒」みたいなことを強く感じさせられた。
いやホント、良い具合に狂ってて良かった。
さて、本作の映像的な面白さで言うと、「感情の起伏がほぼ無い」という点が挙げられるだろう。そしてここには2つの意味があると思う。
1つは、「母親の”異常さ”を浮き彫りにする効果」だ。本作中、唯一感情をむき出しにするのが雨音の母親である。雨音の母親は、「世の中は狂ってる」「こんな世の中でも真っ当な考えで生きていけるように育てたつもりだ」と、娘に対して自身の価値観を強い口調でバリバリ押し付ける。雨音は全然取り合わないが、母親もずっと引かない。そしてそんな「作中世界で圧倒的な少数派」である母親の”狂った価値観”を際立たせるために、母親以外の人間に感情の起伏が存在しないのだろうなと思う。
そしてもう1つが、「結婚と恋愛が、そしてセックスと恋愛が切り離されたことで、恋愛の価値が相対的に下がった」という事実を示しているんじゃないかと感じた。現代でもやはり、「恋愛に対して最も感情が高ぶる」みたいな人は多々いると思うが、それはやはり「恋愛の価値がまだまだ高いから」という側面もあるだろう。「こんな良い恋人と付き合えている」「こんな良い恋愛が出来ている」みたいなことが「その人の価値」と直結するみたいなところがあるからこそ、「恋愛=感情が高ぶるもの」と見なされるのだし、実際に感情が高ぶるのだろう。
しかし作中世界では恋愛の価値が相対的に下がっているので、恋愛(というか性欲)が「感情が高ぶるもの」という立ち位置にならない。そしてそうなった世界においては、「人々の感情を飛躍的に突出させるもの」というのは特に存在しないんじゃないかという気がする。突出して人々の感情を高ぶらせるものがないから、何に対しても人々の反応がフラットになっている。そんな状況を描き出しているんだろうなと感じた。
しかし、役者は難しかったんじゃないかなぁ。感情を大きく高ぶらせることなく、「喜び」とか「悲しみ」とかを表現しなくちゃいけないわけだから。そして、主演の蒔田彩珠を始め、そういう雰囲気を割と上手く表現していた感じがする。
というわけで、個人的にはとても好きな作品だった。異様だし狂気的だけど、僕個人としては割と親和性を感じる物語でもあって、ホントに、結構これって理想郷に近かったりするんじゃないか、って思ったりもする。まあでも、僕が20代の頃に本作を観ても、きっと同じようには感じられなかっただろうなぁ、とも思うけど。その辺りはなんとも言えないなぁ。いやでも、とにかく面白い作品だった。
いいなと思ったら応援しよう!
サポートいただけると励みになります!