【映画】「急に具合が悪くなる」感想・レビュー・解説
【不可能なことは、不可能です。でもそれは、可能になるまでは、です。不可能を可能にする抜け道は、見つけた時にだけ「元からあったんだ」と分かる。だから進み続けるしかありません。】
まったく、素晴らしかった。いやホント、さすがとしか言いようがないんだよなぁ。濱口竜介は、映画『偶然と想像』を観てぶっ飛んで、それから他の作品も観て、時々行われるリバイバル上映も出来るだけ観ているのだけど、ホント、観る度に「凄いものだなぁ」と思う。本作も、3時間16分もあるらしいが、そんな長さを感じさせない作品だったし、最初から最後まで圧倒された感じだった(しかし公開週の日曜なのに、僕が観た回は狭めの劇場がガラガラでびっくりした)。
のだけど、「何が良かったのか?」と聞かれると、本当に説明が難しい。言語化はとてもじゃないが容易ではない。本作は、3時間16分も上映時間があるのに、劇的なことは特に起こらない。介護施設の施設長と、進行がんを患う演劇の演出家の2人が出会い、小難しいやり取りをし、そしてお互いが少し変わっていく、というだけの物語だ。2025年6月6日から始まる物語は、同年6月23日にほぼ終わる。時間経過もほぼない物語というわけだ。
なのに、とにかくずっと惹き込まれるし、グッと来る場面も多々ある。観ている内にいつの間にか泣いていて、別に何か泣くようなことが起こったわけでもないのに、「あー、なんか泣いてるなぁ」みたいになったりもした。不思議だ。
しかも、僕には「何が良いのか言語化できない」と感じられるのに、恐らくだが、本作を含め、濱口竜介はかなり理詰めで映画を作ってる気がする。東京大学文学部卒業後に東京藝術大学に入学した秀才だし、読んだことはないが彼自身色んな映画の評論本を出版したりしているからだ。確実に、そこには理屈があるはずだ(理屈だけではないだろうが)。にも拘らず、少なくとも観ている僕には、その理屈がよく分からない。この面白さを生み出している「構造」が、さっぱり理解できないのだ。本当に不思議だなと思う。
もちろん、個別に色んな要素を挙げることは出来る。自閉症の青年を演じた黒崎煌代はやはり圧倒的だったし、フランス語での演劇もやってのけた長塚京三も凄い。また、知的好奇心だけで生きている僕としては、作中で説明される「ユマニチュード」や「資本主義社会では少子高齢社会が不可避な理由」なども非常に興味深かったし、そういうやり取りを含め、マリーと真理の会話は全般的にとても魅力的だった。介護施設における「理想を抱くが故に軋轢が生まれる」という状況や、そんな現状を皆がどうにかしようと奮闘している感じも素敵だし、全般的に介護施設での描写も良かった。
けど、「じゃあ、そういう要素を全部足し合わせた総和が本作の魅力になっている」かというと、たぶんそんなことはない。いわゆる「創発」というやつで、「個々の要素の足し算以上の何かが生み出されている」という状況が生まれていると思う。
そんな状況を一体どんな風に生み出しているのか。一作だけなら偶然ということもあるだろうが、濱口竜介の作品は概ねこの「創発」が起こっている感じがあって、だから意図的にやっているとしか思えない。そこに理屈があるなら知りたいものだし、ってかホント、どんな風にこんな作品を作り上げてるんだろうなって思う。
というわけでとりあえず、ざっくり内容の紹介をしておこう。
介護施設「自由の庭」の施設長であるマリー=ルーは、介護施設が抱える問題を改善しようと改革の意志を強く持って管理職の試験を受け、今の立場となった。施設長ではあるが、欠勤のスタッフの代わりもこなすので激務だ。また、経営陣に介護士の給料UPを要望しているが、「それじゃ投資家が納得しない」と提案を跳ね除けられている。上手くいっているとは言えない状況だ。
そんな彼女が持ち込んだのが「ユマニチュード」という手法である。これは「認知症患者を人間らしく扱うための技術」である。介護施設は慢性的な人手不足であり、一方で企業として収益を上げなければいけないこともあり、多くの施設では「認知症患者を機械のように扱う」やり方が採られている。「どんな扱われ方をしても理解できないだろう」ということで、効率最優先のやり方がまかり通っているのだ。しかしマリーはそんな現状を変えたいと思っている。母親が認知症を患ってからあっという間に亡くなってしまった経験を持っているからだ。
そこで彼女は、120名のスタッフ全員にユマニチュードの研修を受けさせることを目指し、年3回の研修期間を設けている。1回に参加できるのは、通常業務も回さなければならないということで10人が限界。そのため全員の研修が終わるまでに4年掛かる計算であり、そして現状は半分のスタッフが研修を終えた。
しかしこの研修が軋轢を生み出している。ユマニチュードは「見る・触れる・話す・立つ」を基本としており、そして現場のスタッフは「そんな丁寧なやり方をしてる余裕はない」と訴える。しかも、「ユマニチュード研修を受けたスタッフが、認知症患者を効率よく扱うスタッフを見下す」という問題も起こっているようだ。実際には、「”全員が”ユマニチュードのやり方で接すれば、むしろ効率が上がる」とされているのだが、その状態に達するにはまだまだ時間が掛かるのが現状だ。
さらに、ユマニチュードの特徴として「認知症患者を立たせる・歩かせる」というのがあるが、これも現場スタッフから懸念の声が上がるポイントだ。当然転倒リスクは増えるわけで、その責任は現場スタッフが負わなければならない、というわけだ。さらにこの点は、金銭面の問題も孕んでいる。公的支援は当然、要介護度の高さによって変わるわけだが、「立ったり歩いたり出来る」となると要介護度は低くなり、結果として公的支援の額も減ってしまうことになるのだ(しかも、転倒リスクに備えるため人手はより必要になる)。マリーは当然そんなことは承知しているのだが、それでも、「入居者の健康維持のためにはユマニチュードが最適解だ」と信じて突き進んでいく。
マリーの信念はスタッフ間でもそれなりに理解されているとは思うが、どうしてもマリーとの間には温度差がある。スタッフの中には、さすがについていけないと退職を決める者もいるし、現状には無理があると声を挙げる者も出てくる。マリーは、理想を実現するためにはある程度の反発は仕方ないと考えているし、「とにかく自分が頑張ってどうにかなるならそれでいい」という感覚で仕事をしているようだ。
が、ついに副ディレクター(介護学校の同期でもある)から「さすがにちょっと休め」と言われてしまう。マリーは休む気はなかったのだが、気晴らしにと演劇を観に行くことにした。
その少し前、彼女が乗ったトラムがシャポー・ルージュ公園の傍を走っている時、まさにトラムに触れんばかりの距離まで近づいて並走する男の子を見かけた。気になってトラムを降りて公園へと向かうと、先程の青年がいた。後で分かるが、智樹というこの青年は重度の自閉症を患っていた。雨が降ってきたのでしばらく2人で雨宿りしていると、その後2人の男女がやってきた。智樹の祖父で役者の清宮吾朗と、彼が出演する舞台演劇の演出家である森崎真理である。そこで、テアトル13でやっている演劇のチラシをもらったのだが、そのことを思い出したのである。
その演劇は清宮吾朗の1人芝居で、タイトルは『近づいてみれば、誰もまともな者はいない』。イタリアで精神病院を廃絶した実際の歴史に着想を得た物語のようで、「健康な者は本当に生きていると言えるのか?」「精神病院を閉鎖できるなど誰も想像もしなかった。不可能は可能になるのだろうか」と言ったセリフが出てくる。これらは、介護施設の施設長であるマリーに直接突き刺さるもので、実際に彼女は、上演後のQ&Aの場で、「不可能が可能であることを見せつけられて苦しくなりました」とその感想を吐露していた。
そしてそんなQ&Aの場で、真理が「進行性のがんを患っていて、余命半年って言われてる」と明かすのだ。後で真理は、「公には初めて言った」とマリーに明かしていた。予定調和ではなく、芝居中に智樹が舞台上に上がってしまうという雰囲気も含め、まさに今観終えた劇に圧倒されたマリーは、終演後に真理と会う約束をし、そしてパリの街を歩きながら長く長く話し続けるのだ。
こうして出会って間もない2人は、まるで無二の親友であるかのように深く関わるようになっていくのだが……。
というような話です。
長々書いたが、これでも物語的にはまだ中盤には届かないぐらいだろうか。全体の1/3ぐらいの内容だと思う。マリーと真理が出会って以降はとにかく、2人の交流がメインであり、そしてそのやり取りを通じて2人の考え方や生き方がどう変わるのか、あるいは変わらないのか、そういう部分に焦点が当たっていくことになる。
で、まずストーリー的に面白いのが、「マリーが抱えているにっちもさっちもいかない状況が、真理との小難しいやり取りを通じて解きほぐされていく」という流れだろう。マリーは自分が今置かれている現状を、「永遠に傷が治り続ける怪物と闘ってるみたい」と表現する。問題が起こった時にその対策を考えても、その対策がまた別の問題を引き起こす、みたいなことの繰り返しだからだ。根本的な問題は「お金」なのだが、そんなことを言っても仕方ない。だからマリーは、このような状況を生み出している「構造」と闘っているという認識を持っている。
で、真理は、マリーから「資本主義社会では少子高齢社会が避けられない」という説明を聞いていたこともあり(マリーは早稲田大学の大学院に通っていて、それで日本語が出来るのだが、そもそもは、少子高齢社会の最先端が日本だという理由で日本に興味を抱いたのだそうだ)、「自由の庭」についてからも(マリーは真理を、元施設長室に泊めるために連れてきていた)その議論の続きを始めた。そもそもマリーが説明した「少子高齢社会が不可避な理由」は、「賃金がちゃんと支払われるから食事がちゃんと摂れ、回復に必要な余暇が与えられるから急速出来るようになるため、人々は健康になっていく」「一方、資本家は賃金を下げたがり、そのため長時間働かなければ生活出来なくなってしまい、それで、本来は余暇や急速に使うべき時間も仕事に回してしまうから子育ての余裕がなくなる」だった。そしてそれらを踏まえた上でさらに「資本主義社会の問題点」を整理していくのだ。
真理がまとめた問題の本質は、「資本主義社会では『外部からの収奪』が行えなければ成り立たない」ということだ。資本主義が成り立っている場所を「now/here」と表記し、これは概ね「都市部」を指す。で、「外部」とは「自然」「地方」などのことである。で、資本主義はこれら「外部」から資源を奪うことで成り立っているのだが、「自然」も「地方」も、あるいは「身体」や「時間」も無限ではない。どこかで「収奪」が出来なくなる。じゃあどうするかと言えば、「now/here」の範囲を狭め(つまり、今まで「now/here」だった場所の一部も「外部」にし)、さらに収奪を続けるのだ。さらに、戦争などによって「外部」の環境を変化させ、さらに収奪できる状況を整える。こうして資本主義は、無理やり収奪を継続できる状況を生み出しているのだ。
さらに、「個々の市民の自由や尊厳を尊重する」という民主主義が成り立つのも、資本主義が成立している場所だけであり、それは都市部など一部しかない。だから、収奪され続けている地方(=外部)が現状に不満を抱くのもの当然で(そしてそのような態度は、民主主義が成り立つ都市部の人間からは「知的に劣っている」ように見える)、だから格差が広がり、より一層資本主義が成り立つ場所は狭まっていく。
みたいな感じで「資本主義の問題」がまとめられる(僕の説明は概ね間違っていないと思うが、正確ではないと思う)。で、面白いのが、まさにこのようにして説明される「資本主義の問題」が、まさに、マリーが今置かれている介護施設の現状とピッタリ重なるのだ。マリー自身もそのことに気づき、真理に「(この説明には)何か含みがある?」と聞いていた。つまり、「『自由の庭』の現状を知った上で、遠回しに私を非難してる?」という意味だ。もちろん、そんなはずがない。2人はついさっき再会を果たしたばかりだからだ。まあ、マリーに施設の案内をされ、ユマニチュードの実践も体験したが、この時点では間違いなく、真理よりも観客の方が「自由の庭」について詳しいだろう。
だからこの場面では、「資本主義社会全体の問題を指摘したら、それがそのまま『自由の庭』の問題と重なっていた」みたいな状況なわけで、そしてそれはそのまま、「僕らの日常的な問題の多くが同じように説明できるのではないか」みたいにも受け取れるんじゃないかなと思う。そういう意味で、この「資本主義社会全体の問題」は、資本主義社会に生きるすべての人が抱える問題を包摂しているといっていいんじゃないかなと感じた。
そして、そんな真理とのやり取りに感じる部分があったのだろう、そこからマリーは施設長として色々と変わっていく。理想の追求は決して諦めはしないが、「限界を認めた上で、より広く助力を求める」というやり方に変えていくのだ。
マリーがある場面で、「境界を少しずつ曖昧にしていくための決断だ」みたいなことを言う場面があるのだが、ここで僕は、少し前に観た「情熱大陸」で紹介されていた山崎健太郎という建築家のことを思い出した。ホスピスや障がい者支援施設の設計などに関わっているのだが、そんな彼のスタンスも「境界を取り払う」だった記憶がある。なにせ、その「情熱大陸」の中で山崎健太郎は、新たに検討されているらしい「開放型の刑務所」のモデル案(実際に作るための設計ではなく、コンセプトを提示するための設計案)を作る仕事にも関わっていたのだ。マリーの変化を観ながら、山崎健太郎のスタンスのことを思い出していた。
そして、そうやってやり方を変えていった後の「自由の庭」は、実に魅力的な場所へと変化していく。「入居者とスタッフが皆で足を揉み合う」みたいな場面は印象的だし、そしてそれが、ラストシーンに近い場面で再び出てきて、「あまりにもカオスだけど、なんか成り立ってはいるよなぁ」という感覚にさせられた。真理がそんな場面を見て「どう考えてもこの世界がサイコー」みたいに口にする場面もあって、確かにそうだよなと思う。真理は、「資本主義社会の問題」をまとめている時に、「そんな社会の終わりを私は見ずに死ねそうだけど」みたいなことを口にしていたが、思いがけず、「社会の希望」を目にすることが出来たと言ってもいいかもしれない。
そんなわけで、どこまでが原作(本作は、がんを患った哲学者と臨床現場の調査を積み重ねた人類学者の往復書簡が原作になっている)にある話で、どれが濱口竜介のオリジナルなのかよく分からないが、とにかく、設定・物語・展開が見事すぎて素晴らしかった。全体的には淡々と進んでいくものの、この設定・物語・展開のお陰で観客はずっと本作の世界に惹きつけられたままになってしまうと思う。ホントに、凄いものを観たなという感じだった。
あとは、冒頭の方でも触れたが、自閉症の青年を演じた黒崎煌代はやっぱり天才的に素晴らしかったし、「元からフランス語が喋れたのか?」と思うほど(と言っても僕はフランス語はさっぱり分からないが)流暢にセリフを口にする長塚京三も圧倒的だった。凄いものだ。カンヌ国際映画祭で最優秀女優賞を受賞した主演2人も素晴らしかったが、黒崎煌代・長塚京三もさすがで、演技的にもメチャクチャ良かったなと思う。
まああとは、こういう話はよく書くが、マリーと真理のような「出会ってすぐに『唯一無二』と言えるような関係になる」みたいなのは凄く憧れるし、良い関係だなと感じた。真理が「出会った時に、その出会いを逃さないための準備をしていた人生だった」みたいなことを言っていたと思うが、僕にも割とそういう意識はあって、だから、自分にとって面白いと思える人との出会いやその後の関係性は今もそれなりにあったりする。ただやっぱり、この2人ぐらいの深さの関係となると容易ではない。そういう部分への羨ましさを感じたりもした。
というわけで、とにかく素晴らしい映画だったなぁ。マジでこんなにお客さんがいないのが不思議なぐらいだった。えっ、話題になってるよね???
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