早稲田哲学カフェに参加しました(テーマ:だらける)
早稲田哲学カフェに参加してきました。今回で3回目。初回の記事はありませんが、2回目の記事は以下に。
しかし今日は有休を取ったのだけど(早稲田哲学カフェのためではなく、それはたまたま)、朝6時に起き、「1人カラオケ」→「ガウディ展(平日の雨なのに激混みでビビる)」→「五美術大学合同卒業・修了制作展(午後まるまる5時間いた)」→「早稲田哲学カフェ」というハードスケジュールだった。で、帰ってこの文章を書いている。大変忙しい1日。
今日の参加者は、運営側の学生4名、一般参加6名の計10人。男女比は5人5人の半々。社会人3人、運営側含め7人学生という感じだったはず。で、一般参加の学生3人の内、2人が高校生だということが対話後に判明し、全員でビックリしてた(内1人は「ナメられないように着替えてから来た」とか言ってたなぁ)。この2人、メチャクチャ積極的に喋ってて、「高校生でよくこれだけ喋れるものだ」と思う。日本の未来は明るい。
というわけで対話の内容に触れていくが、今回も前回同様メモを取らなかったので、基本的に僕の記憶ベースの主観的なまとめになる。
まず最初に、「今日呼ばれたい名前」と「テーマに対して思うこと」を自己紹介として話すところから。その中で、「だらけちゃう側です」「だらけない側です」という表明をした人が全体の半分ぐらいかな(残り半分はどちらとも言わない感じ)。そこから対話スタートとなるのだが、僕は参加者の1人が言っていた「『やりたいことがある』のにだらけてしまう」という意見が凄く気になったので、そういう話をしてそれが対話の皮切りとなった。ちなみに僕は「だらけない側」である。なので、今回の僕の全体的なスタンスには、「『だらけちゃう側』の感覚を知りたい」というのがベースにあった。
正直、「『やりたいことがある』のにだらけてしまう」についてその人がどう返答していたのか忘れてしまったが、そこから全体的には、「そもそも『だらける』って何?」「『だらける』とどうして罪悪感が生まれるのか?」みたいな方向に話が進んだと思う。その辺りの話を僕なりにまとめていくことにしよう。
まず、「『だらける』と『休息』は何が違うのか?」みたいな意見が出たと思う。それで、「同じ行動でも、それを『休息』と捉えることは出来る」的な話から、「『だらける』は結局、主観的な判断でしかない」みたいな雰囲気になっていたかな。その上で、「『能動的』にやっているか『受動的』にやっているかで区別出来るのではないか?」という意見も出た。今回の対話では、「YouTube・SNSを見る」みたいな行動は「だらける」と認識され得るものとして登場したのだが、ただ、「能動的にYouTube・SNSを見ようと思ってそうしている」なら、それは「だらけているわけじゃない」ということになるのではないか、というわけだ。
ただここで、ちょっと違う意見も出た。「うっかりYouTubeを見始めても、それでメチャクチャ面白い動画に出会えて満足すれば、結果として『だらけちゃった』みたいな感覚にはならない」という人がいたのだ。これは、「『受動的』に始まった行為でも、その結果が良ければ『だらける』にはならない」みたいな話であり、「能動的/受動的」という判断では括れないという感じになった。
これに対しては、「YouTubeを見始めた時と見終わった時とでは評価軸が異なっているから」という意見が出たのだが、その説明の前に「『だらける』とは一体何か」についての話をしておこう。
全員が賛同したかは分からないが、今回の対話では概ね、「自分が抱いている『目標・理想状態』の達成のために『やるべきこと』をやっていない状態」を「だらける」と捉えていたと思う(それで僕は、「逆に言えば、『だらける』という感覚を持っている人は目標達成のために動けている人だ」みたいな意見を出したりした)。で、「YouTubeを見始めた時」には「目標達成のためにやるべきことをやれていない」から「だらけている」という認識になるが、「YouTubeを見終えた時」には、「自分の人生全体に対する満足度が上昇した」という認識になるため、それで結果として「だらけていなかった」という評価になるのではないか、という意見が出たのだ。
で、この話に関連して、「目標を持っていない人はそもそも『だらける』という感覚にならないのではないか」という話になった。例えば参加者の1人が、「冬の寒い日は特に、朝起きてもベッドの中で1~2時間ぐらいSNSを見ちゃう」と言っていたのだが、ただこの人は「起きたとて、別に『やるべきだ』と感じることはない」とも言っていたので、本人の認識としては「だらけている」という感覚にはならないようだ。
また、たとえ「目標達成のための行動」(例えば、「締め切りの存在する課題を終わらせること」)が出来ていない状態でYouTubeやSNSを見ていても、それが「だらける」という認識にならない例も出た。それは「『締め切りギリギリにやり始めればなんとかなる』という確信が自分の中にある」という話だ。確かに締め切りが近づいている今、本来的には課題に取り組むべきだ。ただ、自分の感覚的にはまだ「余裕がある」し、緊急性は低い。だから、「課題に取り組んでいない」という状態で別のことをしていても、それが「だらけている」という認識にはならないというわけだ。なるほどなぁ。
さらに、「目標の有無」に関連させる形で、「安定状態」というワードが出てきた。「安定状態に留まる=目標がない」「安定状態から出ようとする=目標に向かって行動している」みたいな話である。で、「目標がある側」の人は、「自分は『安定状態』にいるべきではないのに『安定状態』に留まってしまっている」という認識になるから「だらける」というマイナスな評価になり、一方で「目標がない側」の人は、「安定状態に留まっていることがベスト」と認識しているから、仮に同じ行動をしていても「だらける」というマイナス評価にはならないというわけだ。この「安定状態」という捉え方は個人的には結構秀逸だったなと思う。ちなみにこの考えを使うと、「『だらけない側』の人は『動き続けることが安定状態である』」とも言えるんじゃないかという話が出た気もする。
あと、「能動的/受動的」の話にも関連するが、僕は「『だらけよう』と思ってだらけるのか、後から『だらけてしまった』と感じるのか」が気になったので質問を投げかけてみた。で、ある参加者は、「ほとんどの場合、後から『だらけてしまった』と感じる」と言っていて、さらに「確かに、YouTubeの動画を観て良かったと思うこともあるが、そういうケースはほぼなく、大体『だらけてしまった』という後悔になる」という感じのようである。この点は、先の「結果が良ければ『だらけていた』という認識にならない」とはまた違った感覚と言えるだろう。
さらに、「能動的/受動的」に絡めると、「『だらける』に該当する行動は決まっているのか?」みたいな話も出た。先述した通り、今回の対話では「YouTube・SNSを見ること」が「だらける行動」として取り上げられていたが、個人的な感触では、参加者は概ね「YouTube・SNSを見るという行為は、だらける行動になることもあるし、そうでないこともある」という認識だったように思う。が、中には、「YouTube・SNSを見る行為はそもそも、それをしている時点で『だらける』なのでは?」(ここまで強い主張だったかは覚えていないが)みたいな話も出た。この辺りは、普段からYouTube・SNSをほぼ見ない僕にはなんとも判断が難しい話だが、ただSNSなんかが当たり前に存在している若い世代から「YouTube・SNSを見るという行動はそもそも『だらける』である」みたいな意見が出るのはなんとなく意外に感じられた部分もある。
というわけでとりとめもなくあれこれ書いてみたが、この辺りまでが「主観的な『だらける』」の話と言っていいだろう。で、ここである参加者から、「主観的な『だらける』じゃなくて、他者から『だらける』と思われる場合はないか?」みたいな話が出た。で、これも僕の主観的な判断だが、この意見が出てから少し議論が紛糾(という表現はちょっと強いが)したかなと思う。とはいえ結果的にではあるが、この議論を通じて「だらける」の輪郭がよりはっきりしたとも言えるかもしれない。
さて、これは「組織(主に会社だと考えてもらっていい)の中で、他者から『あいつはだらけている』と見做されるケースもあるのではないか?」というような話である。例えば、「自分以外のスタッフの仕事が遅く、作業の流れを合わせるため自分も仕事を遅くやらなければならない」とか、「仕事を別の人に押し付けることで自分の仕事をサボる」みたいな状況が挙げられていた。
ただ、こういう「組織内で判断される『だらける』」については、それまで議論していた「個人が判断する『だらける』」とは少し性質が違うのではないかという意見が多かった気がする。その主張は概ね、「評価軸の違い」と「『サボる』と『だらける』の違い」という形でまとめられるかなと思う。
「評価軸の違い」については、「組織の場合、判断基準が『組織が決めたもの』になるので、『個人が決めたもの』と同列に扱うのは違和感がある」という感じになるだろうか。「組織が決めた判断基準」に沿って「だらけている/だらけていない」が決まることと、「自分が『だらけちゃった』と感じる」という話は同じ土俵では語れないよね、みたいな主張だったと思う。
また、「『サボる』と『だらける』の違い」については確か僕が言ったような気がするが、「『サボる』は他人からバレるが、『だらける』は他人には判断できない」という感じの話である。これも結局「表記基準の違い」と同じと言えばその通りだが、「他人からバレるものが『サボる』」「他人からバレないものが『だらける』」であり、そして組織においては「サボる」の方により強く焦点が当たる感じがあるので、だから「組織内での『だらける』」の話はあまりしっくりこない、みたいに僕には感じられた。
あとそうか、そもそもの話、「『だらける』と『能力不足』をごっちゃにしちゃうのは良くない」みたいな話も出たかな。まあこれもなるほどである。
ちなみに、この流れから「組織と個人の評価基準が同化してしまい、組織の中で『自分はだらけているんだ』と思わされている人もいるんじゃないか」という話も出た。スポーツの日本代表選手やブラック企業で働く人などの例が出たが、「本当はだらけているわけではないが、『だらけている』と思わされている」という状況はあり得るんじゃないかというわけだ。
ただ、この「組織内の『だらける』」の話になってから、僕には「この方向はちょっと深堀るのが難しいぞ」という感触があったので、どこかで方向転換しようと思っていた。なのでタイミングを見て「みんなはどうかわからないけど、僕は『どうしてだらけてるって思っちゃうのか』に関心があるから、そっちに話を絞った方が良いんじゃない?」的なことを言ってみたりしたが、この軌道修正はあまり上手くいかなかったかな。まあ、そう上手く行くもんじゃない。
さて最後に、ある参加者から「他人が『だらけている』のを見るとイライラすることが多かったのだけど、その理由が自分の中で上手く納得出来ていないからみんなの意見を聞きたい」という話があり、この点についても色々と意見が出た。
シンプルに「だらけている人がいると自分の負担が増えるから」という意見が最初に出たが、「でも、自分の負担が増えるわけじゃないのにイライラすることもある」という話になって、さらに深堀りされる。まず大前提として、「その人の能力を認めているからイライラする」という点は割と共通していたかな。つまり、「お前はもっとやれるのにやらない」という状況にイライラしてしまうというわけだ。
そしてその上で、「『自分はこんなに努力しているのに』という嫉妬心を抱いてしまう」「『努力していない』のに自分より結果が良い可能性がゼロではない」という状態が嫌なのかもしれない、という話になった。こういうやり取りを経て、この話を提案した人は「自分の中でスッキリした」と満足したようである。
というわけで、今回の対話は僕の主観的にはこんな感じだったかな。なかなか面白かった。早稲田哲学カフェは、平日開催の場合なかなか参加が難しいのだけど、また機会があれば行きたいと思う。
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