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「面白い」と分かってるものはつまらない

僕はいつも、「『面白いこと』が分かっているものに触れたって面白くない」と思っている。レビューや星の数を調べてから本や映画に触れるみたいな人は多いと思うが、正直僕には意味が分からない。「面白いこと」が確定している状態のものに触れて、一体何が面白いんだろう? と感じてしまうからだ。

そもそもだが、「面白いと分かっているもの」はギャップが少ない。「80点ぐらいだろうな」と思って、実際には「85点」だったとして、それは本当に「面白い」のか? と思う。僕なら、「5点かもしれないし、95点かもしれないけど、85点だった」という方が圧倒的に面白い経験に感じられる。

それに、「誰かが『つまらない』と言っているもの」だって、実際には面白いものはたくさんある。今までも、よくそういう経験をしてきた。いやもしかしたら、未来には「自分AI」みたいなものが開発されて、「本や映画を自分AIに試してもらい、それで『面白い』という判定になったら実際に読んだり観たりする」みたいなことが起こり得るかもしれない。その場合、一応判断しているのは「自分(AI)」なのでまだいいが、他人の判断なんか気にしてても仕方ないだろう。他人は自分とは違うんだから、他人の感想なんかクソ喰らえである。

また、「今自分が『面白い』と感じるかどうか」は、「これまでの人生で触れてきたものと比較しての判断」でしかない。当然、まだ出会っていないものの面白さなど、判断しようがないだろう。狭い範囲をちょこまか動き回って「面白いもの」を探そうとしているだけで、その外側にある「もっと面白いものがあるかもしれない平原」へと足を踏み入れていないに過ぎない。特に今は、「自分に合いそうな面白いもの」と容易に出会える世の中なので、余計その狭い世界から抜け出す必要を感じないのだろう。個人的には「もったいないなぁ」と感じてしまう。

そんなわけで僕は、基本的には常に「よく分からないもの」に触れようと意識しているつもりだ。飲み屋ではメニュー名からでは何が出てくるか分からない酒や料理を頼んでみたりするし、映画は「今劇場で公開している映画しか観ない」という縛りを設けてその中から選ぶことにしている。また、誰かに何か誘われたら基本的には断らない(楽器の演奏など、膨大な時間を要するものについてはその限りではないが)。興味のあるなしに関係なく、とりあえずやってみることにしているのだ。人との出会いについても同じで、42歳の今でも、全然知らない人ばかりの場にどんどん行く。というか、「趣味で人と繋がるのが好きじゃない」とさえ思っているくらいだ(そういう記事は昔書いたことがある)。

そういう生き方をしていると、もちろん「つまらないもの」にも出会う。人によっては、これを「失敗」みたいに捉えたりするのだろう。でも僕はむしろ、「『つまらないもの』に出会いたい」とさえ思っている。というのも、「何故つまらないと感じるのか」を考えることで、思ってもみなかった「面白さ」に気づけたりもするからだ。さらに言えば、「つまらないもの」と出会うことで、自分の中の「面白い/つまらない」のギリギリの境界線が見えやすくもなる。そしてそれが見えるようになれば、必然的に「面白いと感じる範囲」も広がっていくことにもなるのだ。

というか、僕の中は「『つまらないもの』に触れる機会を多く持たないと、『本当に面白いもの』とは出会えない」とさえ考えている。結局のところ、「自分の人生に大きく影響を与えたな」と感じる出会いって、「最初から期待してはいなかったもの」とか「なんとなく誰かに勧められた」とか「観たり読んだりするつもりじゃなかったけど成り行きでそうなった」みたいなことが多い。もちろん、映画で言えば『国宝』や『TENET』のように、「100%面白いことが分かっていて、実際に面白くて、今でも印象的に覚えているもの」もあるが、どちらかと言えば、そういう出会い方ではないことの方が多い気がしている。

タイパやコスパみたいな言葉が強くなりすぎて、「失敗したくない」「良いものにしか触れたくない」みたいな価値観が優位すぎると思うが、個人的には、回り道に感じられたとしても「『つまらないもの』に多く触れる」方が、本当の意味での「面白さ」に辿り着けるんじゃないかと思っている。まあ、こういう話をしても賛同されることは限りなく少ないのだが。

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