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「自分が正しい」と思ってる人は嫌い

少し前に職場で「常識があればルールなんかいらねぇんだよ」と言われて驚愕させられた。ンなアホなことがあるかいな。「人それぞれ常識が違うから、ルールで統一する必要がある」はずだ。あまりにも頭の悪すぎる意見で耳が腐るかと思った。その人物は要するに、「世の中の人間は全員、『俺の常識』に合わせるべきだ」と思っているだけであり、つまり結局のところ「自分の考えこそが唯一正しい」みたいに考えているのだろう。

ホントにこういう考え方は嫌いだ。だから僕はそもそも「宗教」も好きになれない。「正しさは1つしかないし、その正しさは我々の教義である」みたいなスタンスはどうにも容認できないのだ。以前観た『沈黙』という映画(遠藤周作原作)の中に、次のようなセリフがあって、「正しさについて考える」時にはいつも連想される。

我々は真理をもたらした。真理とは、普遍的なものだ。どの国でも、どの時代でも正しい。もしこの国で正しくないというのであれば、それは普遍ではない。

これはキリスト教の宣教師が、当時の日本のトップ(織田信長?)を説得しようとして口にした言葉である。ホントに、こういう考えは嫌いだ。

そもそも僕は、「自分が間違っている可能性」について考えられることこそが「知性」だと思っている。科学には「反証可能性」という、「『間違いであることが判明する可能性』を示せなければ科学とは呼べない」みたいな考え方があるのだが、僕はこの発想が好きだ。科学は常に、「間違っている可能性」を有しており(というか、有しているべきであり)、そしてだからこそ「正しい可能性」も生まれ得るというわけだ。逆に、「『間違っている可能性』を示せないもの」は「正しい可能性」を持ち得ないとも言えるだろう。

あるいは、本を読むなどして新しい知識や価値観を取り入れれば取り入れるほど「自分の中の正しさ」が揺らぐ、みたいな経験はよくあるだろうと思う。世の中にはあらゆる考え方が存在し、知れば知るほど、それらが相容れないことが分かってくる。そしてそうであればやはり、「自分の考えだけが正しい」などと主張することは難しくなるだろう。逆に言えば、「自分の考えだけが正しい」と主張できてしまう人は、多様な知識や価値観に触れていないとも言えるかもしれない。

「正しさ」というのは結局「人の数」だけ存在していると僕には感じられる。そしてだからこそ、法律や就業規則などで「その集団における『正しさ枠組み』」を設定する必要があるのだ。「正しい」という主張は「正しさの枠組み」とセットでなければ意味がない。「自分は正しい」と主張する時、どんな「正しさの枠組み」(法律、就業規則など)を前提としているのかを定めなければ「正しさ」を判断することが出来ないというわけだ。

話は飛ぶが、学問の中で「数学」だけは唯一「絶対的な正しさ」を主張できると思っているのだが、そんな「数学」も「ZFC(ツェルメロ=フレンケル集合論)」が前提となっている。「僕らが知っている数学」の「正しさ」は、この「ZFC」という「正しさの枠組み」を採用して初めて成り立つもののだ。例えば、宇宙のどこかに地球外生命体がいて、彼らの星では「ZFC」とは異なる集合論を採用している場合、僕らが正しいと思っている数学がその星では通用しないのである。

同じように、「正しい」という主張には何らかの「正しさの枠組み」が設定される必要があるし、それを定義しない、あるいは「普通」「常識」みたいな曖昧な言葉でしか定められない場合には、「正しい」という主張は何の意味も成さない。こんなこと大前提だと思っているのだが、この辺りのことが上手く理解できていない人も結構いるように思う。

そんなわけで僕は、「自分の『正しさ』を相手に認めさせなければならない状況」ではよく、「相手が依って立つ『正しさの枠組み』」の上で議論を展開するようにしている。「相手が主張する『正しさの枠組み』の中で思考してもどこかに矛盾が生じる」ことを示すことで、相手の「正しさの枠組み」自体をぶち壊すようにしているのだ。これが一番手っ取り早い方法だと思っている。ただ、そういうやり方をしても、相手の頭が悪すぎて「(『正しさの枠組み』が粉砕されたことで)自分の主張が成り立たなくなった」という事実を把握できない人間もいるのだが。まあそういう人間はもはや諦めるしかない。

さて、そうなると、「正しさの枠組み」を共有できない相手とは「正しさ」自体を共有できないことになる。まあそれも仕方ないだろう。その場合、「相手の正しさ」と「自分の正しさ」が競合しないのであればただ無視すればいい。僕は、以前何かで知った「理解できなくていいんです。否定しなければ」という沢村一樹の言葉を思い出す。いや、ホントその通りだなと思う。

しかしそうもいかないこともある。映画『エディントンへようこそ』で描かれていたように、「『相手の正しさ』を放置すると、『自分の正しさ』が侵食されてしまう」みたいな状況もあるからだ。こういう場合が一番難しい。「自分の正しさ」を守るためには「相手の正しさ」を攻撃せざるを得なくなるが、結局そんなことをしても何も解決しないからだ。ホント、『エディントンへようこそ』はなかなか考えさせられる映画だった。

というわけで「正しさ」についてあれこれ書いてきたが、ここまでで書いてきたことは「他者」が絡んでくる話である。「自分にしか関係ないこと」なら「正しさ」について悩むことはない。「自分が思うこと、信じたいことが正しい」と強く信じるべきだからだ。他者が関係しない状況であるなら、それがどれだけおかしなことに思えても、自分の考えを貫くべきである。

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