「嘘をつくこと」はどうして「悪い」とされているのか?
昔から僕は、「どうして『嘘をつくこと』は『悪いこと』とされているのか?」が謎だった。今でも、割と理解できないでいる。
例えばだが、「お酒を飲む」のは悪いことではない。しかし、例えば「車で事故を起こした」として、その原因が「お酒を飲んだこと」だったとしたら、結果から遡って「お酒を飲んだこと」が「悪いこと」になる。そして「嘘をつくこと」もこれに近いように思う。結果が悪かったら「嘘をついたこと」は「悪いこと」になるが、そうじゃなければ別に良いんじゃないか、と。
しかし世間的には割と、「結果がどうあれ、『嘘をつく』のは『悪いこと』」みたいな風潮があるように思う。僕にはどうも、その感覚はよく分からない。
もちろん、「『悪意のある嘘』は良くない」みたいな判断もあり得るだろう。しかし、僕にはこの点も疑問だ。まず、「相手の行動の意図が正確に分かることは少ない」という点が挙げられる。分かる場合もあるが、必ず分かるわけではない。だから個人的には、「悪意の有無」は本質的な判断とは言えないように感じる。さらに、「仮に『悪意のある嘘』だとしても、結果オーライだった」みたいなことだってあり得るだろう。「相手の恋路を邪魔しようと嘘をついて別れさせたが、相手の恋の相手が実は結婚詐欺師だったと後で分かった」みたいなことだってあり得るはずだ。この場合、嘘をついた本人は明らかに「悪意」を持っていたわけだが、結果的には良かったと言えるだろう。
だから僕はどうしても、「嘘をついた」という事実だけで、それを「悪」だとは判定できない。そういえば、こんなことも思い出した。何で知ったのか覚えていないが、リリー・フランキーのエピソードである。彼は「こういうこと出来ませんか?」と仕事の依頼を受けた時、その時点では出来なくても「はい、出来ます」と言って仕事を受け、そこから猛勉強する、と言っていた。これも、「はい、出来ます」と口にした時点では嘘なわけだが、そこには「その嘘を本当にしてやる」という決意が籠もっているというわけだ。これなど、むしろ「良い嘘」とさえ言えるように思う。
それにそもそもだが、「嘘」は一体いつ「嘘」になるのだろうか? ドラマ『冬のなんかさ、春のなんかね』の中で、「嘘ってバレなければついていないことになるかな?」ってセリフがあったが、これはかなり本質的な問いだなと思う。先程のリリー・フランキーの例もそうだが、「嘘」はいくらでも「真実」に変わり得る。あるいは、仮に「嘘」であったとしてもそれが「嘘」だと知られなければ、それは表面的には「真実」だろう。だから「嘘をつくこと」が「悪」なのではなく、単純に「嘘がバレること」が「悪」なのかもしれない。まあそういう話であれば、割と納得できるかな。個人的には、「嘘をつくなら、バレないようにしろよ」と考えているので。「嘘だとバレる」のは概ね「努力不足」だし、そのことは責められても仕方ないように思う。
だから、「バレてもいいや」と思って放たれる嘘は基本的に嫌いなのだが、その中には「優しさベース」のものもあるから難しい。例えば別れ話の中で、本当は好きな人が出来たわけでもないのに「好きな人が出来たから」みたいに口にするのは、ケースにもよるが「優しさベース」であることも多いだろう。嘘をつく側は「嘘だとバレるだろう」と思いながら口にするだろうが、これは悪い印象にはならない。難しいものだ。
一方で、今度は僕が「嘘をつかれる側」だとして考えてみるが、僕は相手の発言が「嘘」だと分かった場合、まず「嘘をつかなければならない事情が何かあるんだろう」という思考が浮かぶ。そして同時に、「嘘をつかせてしまっている原因は僕にあるのか?」とも思う。もちろんこれは、相手との関係性や相手の性格にもよるので常にではないが、こういう発想が基本にあるので、嘘をつかれたとしても「ムカつく」「最悪」みたいな感覚にはならない。「嘘」はむしろ、「大丈夫かな?」という思考を誘発するきっかけなのだ。
ただ「嘘をつくのが絶望的に下手な人」というのもいて、そういう人は本当に、何も良いことはないから嘘をつかない方がいいと思う。「下手な嘘」は、それが善意からであれ、誰も幸せにしない。嘘をつくには、「この嘘が、自分の他の言動のどこに影響を与え得るか」を考えなければならないので、「嘘が下手な人」はシンプルに「論理的に考える力がない」ように見えるし、それは本人にとってもマイナスになるはずだ。
まあそんなわけで、こういうことを色々考えてみると、「嘘をつくこと」そのものが「悪」という発想も考え直していいんじゃないかなという気がする。「それがどんなものであれ『嘘をつくこと』はすべて『悪』」みたいな発想は、極端に言えば人間関係をちょっと阻害するようにさえ思う。
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