地政学は日本の財産だった/楊海英『帝国の地政学』より[前編]
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この記事では2025年7月1日刊行の、楊海英・著『帝国の地政学』より序論「地政学は日本の財産だった」を前編・後編の2回に分けて全文公開いたします。
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序論 地政学は日本の財産だった
なぜ日本は地政学を退化させたのか
戦前、地政学は日本政財界や市民社会、さらには帝国の運営に貢献する学問だった。図書館には多くの地政学書が並び、当時の優れた研究者たちは現地の経験を踏まえて、国際的な学会の成果を吸収しながら執筆に励んだ。
しかし戦後になると、地政学は戦争を理論的に支えた「反省すべき学問」になってしまい、語る者すらいなくなった。私は、これは過剰な反省であると考える。学問に由来する思想や哲学にまで「戦争の責任」を求めるのは行き過ぎではないだろうか。
地政学に限って言えば、行き過ぎた反省が学問を退化させてしまった。それは重大な過誤である。なぜなら、地政学が停滞したことで、中国の覇権主義や、ロシアや北朝鮮の脅威に対して、日本は有効な対応を取れずにいるからだ。地域の専門家はいても、国家の将来像を語れる壮大なビジョンを有した人物は乏しくなった。
私は高校から大学まで日本語を専攻し、来日後も日本語研究への関心を持ち続けてきた。日本語はウラル・アルタイ系諸言語群に属するという言語学的見解を教わっていた。ところが、日本に来て「日本語はアルタイ系に属するのですね」と言うと、研究者たちは「今はそう言いません」と一様に否定した。その反応に私は戸惑いを覚えた。
私の母語であるモンゴル語はアルタイ系の代表的な言語である。日本語と文法構造が非常に近い。その親近性ゆえに、日本語学習は私にとって自然であり、抵抗がなかった。日本にはモンゴル語に通じた人が多い。私の恩師である梅棹忠夫氏(国立民族学博物館の初代館長)も、戦前に内モンゴルを調査するため、モンゴル語を熱心に学んだ一人だった。
「現地でモンゴル人に『あなたはどこの草原の出身ですか』と聞かれたときが一番うれしかった」とよく話していた。こうした経緯があるだけに、戦後になって日本語がアルタイ系に属するという説が否定されたことは、驚きだった。
アルタイ系の言語は、ユーラシア大陸を東西に広く覆っている言語である。東には満洲語やモンゴル語があり、西にはテュルク系のトルコ語とアゼルバイジャン語、トルクメニスタン語がある。中央ユーラシアにはカザフ語、ウイグル語、ウズベク語、キルギス語があり、シベリアにはヤクート語がある。いずれも文法構造が共通しており、学習すれば短期間で意思疎通が可能となる。このような言語群を、19世紀の欧州の言語学者たちは「ウラル・アルタイ諸語」と呼んだ。
モンゴル高原からロシアやカザフスタンに延びるアルタイ山脈は、モンゴルやテュルク系民族にとって象徴的な存在で、ウラル山脈はアジアとヨーロッパの分水嶺とされる。この両山脈の周辺で話されていた言語を一つにまとめた表現が「ウラル・アルタイ諸語」である。

「ウラル・アルタイ諸語」の言語系統(①参照)は、ウラル語群とアルタイ語群に分けられる。モンゴル語、満洲語、テュルク語はアルタイ語に属する。シベリアの諸民族の言語や日本語、朝鮮語もアルタイ系と見なされた。アイヌ語や琉球語もここに含まれる。
この分類は19世紀に成立した。特に熱心に取り組んだのが、北欧はフィンランドの研究者たちだった。なぜ彼らが関心を抱いたのかというと、言語には常に地政学が関わるからである。19世紀初頭、フィンランドはロシア帝国に征服され、その支配下に置かれた。しかし住民たちは、「我々はロシア人ではなくフィン人である」という強い民族意識を持ち続けた。
フィン人の話すフィン語は、ヨーロッパにありながら、主流のインド・ヨーロッパ語族とは異なり、アジア系の言語とされ、ウラル・アルタイ系に分類される。「フィンランド」という国名は「フィン人の土地」の意味だ。人々は祖先が東方から移動してきたという伝承を持ち、自らを匈奴の末裔と考える人も存在する。
こうした背景から、フィンランド人には東方志向が強い。フィン人の思想には二つの側面がある。第一は、自らをインド・ヨーロッパ語族とは異なる遠来の民族であり、その出自に誇りを抱く意識である。そして第二が、ロシアの支配を拒絶し、自分たちをロシア人とは異なる存在だと位置づける民族的な抵抗の精神である。
ラムステッドが導いた民族の覚醒
フィンランドには、初代駐日代理公使を務めた著名な東洋言語学者、グスタフ・ラムステッドがいた。ラムステッドはアルタイ語族に関する言語系統論に深く傾倒した。19世紀末から20世紀初頭にかけて、夫人とともにシベリア鉄道に乗って、モンゴルやアフガニスタンを含む中央アジアの探検に出かけた。
その行程は『七回の東方旅行』という著作にまとめられている。当時のヨーロッパでは、探検家の多くが軍人あるいは学者であり、ラムステッドも純粋な学問的関心に基づいた言語研究者だった。彼を有名にしたのは、アフガニスタンに居住しているハザーラ人に対する調査である。
ハザーラ人は、13世紀のモンゴル帝国の時代、モンゴル軍とペルシア系民族との混血によって形成された集団だ。アフガニスタン中央部の山岳地帯に分布し(②参照)、大半がイスラム教シーア派に属している。アフガニスタンを実効支配するスンニ派のタリバン(パシュトゥン人)は、宗派の違いから彼らを敵視し、長年にわたって弾圧を加えてきた。

ハザーラ人が話す言葉は、ペルシア語の影響を受けながらもモンゴル語に近く、アルタイ系に分類される。ラムステッドは、調査の結果、ハザーラ人の言語がフィンランド語と構造的に類似するという学説を発表した。これによってフィンランド人は東方から移動して来た民族であるという認識が定着し、ヨーロッパにおける言語研究と地政学的関心を高める契機となった。研究成果は学界から高い評価を受けた。
ラムステッドのもう一つの大きな功績が、民族独立への思想的な貢献である。彼はロシア帝国支配下にあった弱小民族の国、フィンランドの独立を夢見ていた。しかし、20世紀初頭にモンゴルの首都ウルガ(現ウランバートル)を訪れたとき、ラムステッドは深い失望を味わった。当地のモンゴルの貴族たちは、迫り来る国家の危機に無関心で、自分たちは何をなすべきか、考えようともしていなかった。
ウルガには当時、南モンゴル(今の内モンゴル自治区)から逃れてきた知識人が多く住んでいた。彼らは清朝の弱体化に伴う中国人(漢人)の南モンゴルへの大量入植に強い危機感を抱いていた。「南モンゴルは既に中国人の植民地と化している。ここもやがて危なくなる」と彼らは警告を発したが、モンゴルの貴族たちは「心配はいらない」と楽観的に構えていた。
これを目の当たりにしたラムステッドは、「モンゴル人にとっての中国と、フィンランド人にとってのロシアは同じ政治的構図だ」と見抜いた。ユーラシア大陸では、東の清朝と西のロシア帝国が、それぞれ異民族を搾取し、抑圧していた。にもかかわらず、多くの民族がその危機に目覚めていなかった。
「覚醒がなければ独立もありえない」。ラムステッドはウルガの貴族たちのもとを訪ね歩き、「北からはロシアが迫っている。南からは中国人が侵入している。二つの帝国は遠からず崩壊する。そのときに備えなければ、民族の存続そのものが危うくなる」と、説いて回った。
ラムステッドの強い働きかけで、モンゴル人の民族意識は次第に高まっていった。1911年12月末、モンゴル人は清朝に対して独立を宣言した。翌12年に清朝は崩壊し、政権は孫文に禅譲され、中華民国が成立した。一方のフィンランドも17年のロシア革命によって帝政ロシアが瓦解し、独立を宣言した。帝政ロシアと清朝の支配下にあった諸民族が、ユーラシアを横断して連動的に覚醒し、フィンランドと南モンゴルとがつながった。
ウラル・アルタイ諸語で結ばれたユーラシア
民族自決、民族運動はユーラシア大陸において、非常に大きな意味を持つ現象である。フィンランド人は、ヨーロッパの近代化を既に理解していた。自らをヨーロッパの民族自決思想によって武装し、帝政ロシアからの独立を目指した。
一方、南モンゴルでは、清朝以来、大量に草原へ流入した中国人たちによって、モンゴルの伝統文化が脅かされ、生活そのものが圧迫された。そこで南モンゴルの人々は、日露戦争でロシアを破った新興勢力・日本と接触することで、民族再生の意識を高めるようになった。すなわち「もはや我々は清朝を打ち立てた満洲人の同盟者として威張っていられる時代ではない。
これからは、新たなシーパワーの国である日本から近代化を学ぶ必要がある」と、気がついた。こうしてユーラシアの東西の両端で二つの民族が同時に覚醒し、立ち上がった。言語的にフィン語もモンゴル語も、アルタイ系言語に属するという共通点が、お互いの親近感や文化的な共通意識を生んだことも、両者を引きつけ合う要因となった。
ラムステッドは、フィンランド独立後、初代フィンランド駐日公使として東京に赴任した。独立したとは言え、フィンランドは依然、ロシアの影響下にあったため、公使の肩書だった。日本語もフィン語と同じ言語系列に属している、と認識したラムステッドは日本語をすぐに習得できた。さらに朝鮮語も短期間で修得し、のちに世界でおそらく初となる『朝鮮語・日本語辞典』を編纂した。
彼は日本語や朝鮮語から、はるか西方のフィンランド語まで、すべてアルタイ系言語であるという思想を持っていた(『フィンランド初代公使滞日見聞録』)。言語に共通点があれば、言葉を学びやすいだけでなく、意思や感情、精神や価値観までも共有しやすくなる。
私自身もロシアやヨーロッパに行く際は、フィンランド航空をよく利用する。ヘルシンキ経由の旅路はなぜか落ち着いた気分にさせてくれるからだ。イギリスやフランスにいると、ときに白人の傲慢さを感じることがあるが、フィンランドにはそれがない。見た目は白人でありながら、我々に近い配慮や優しさを持っている。白人には、どこか有色人種を見下したところがあるが、彼らにそうした態度はない。
日本語もウラル・アルタイ諸語の一つ
ところが日本は戦後、このような言語的な同系関係説を否定し、ウラル・アルタイ系諸国との関係を切り捨ててしまった。戦争の反省とはいえ、極めて残念なことである。国際的には「国際アルタイ学会」という組織が存在している。1950年代に発足し、2025年には日本で学会が開催される予定だ。
国際アルタイ学会が誕生した背景には、冷戦時代になって、東西の研究者が自由に交流できなくなった事情がある。モンゴル、トルコ、ペルシアなどを対象とする研究者たちは、イデオロギーを超えて連携するために、どのような名称がふさわしいかを議論した。その結果、今の名称にまとまり、学術的な連帯の象徴となった。以来、言語、文学、歴史など幅広い分野の研究者たちが集まって活動が継続している。
ただし、現在の日本はこの学会との関係は薄いと言わざるを得ない。その理由は、日本がかつて満洲国を建国し、満蒙地域を統治下に置いたことに起因する。当時、日本語は満洲語やモンゴル語と同系統に属するとされ、言語的共通性が満蒙への進出を正当化する根拠とされた。
すなわち「我々は同じ民族系統に属するのだから、侵略ではない」とする主張である。その結果、この言語学説自体が植民地主義を支える理論とみなされ、戦後、非難の対象となったのである。しかしながら、当時の帝国日本が、それを根拠に侵略を行ったという批判は的外れである。
戦前の日本は、自国語の言語学的ルーツが同じだったために、満洲やモンゴルへ向かったわけではない。日本の大陸政策の背景には、帝政ロシアの南下に対する強い警戒感があった。ロシアがウラジオストクに進出し、朝鮮半島への圧力を強める中で、日本は強い地政学的危機感を抱いたからである。大陸政策は言語学的動機に基づいたものではなく、あくまで地政学的な判断だった。
そもそも日本語とウラル・アルタイ諸語との共通性は、満洲やモンゴルを調査する中で現地の人々と接するうちに、自然と気づいたに過ぎない。私は、人類の壮大な移動の歴史の中で見れば、日本語の文法構造や言語的特徴が、ウラル・アルタイ諸語に属することは確かだと考えている。

日本の大陸経営は、帝政ロシアの拡張や、清朝統治下の中国人(漢人)ナショナリズムの膨張に対する対抗措置であった(③参照)。したがって、「侵略に使われたからこの学説も反省すべきだ」という考え方は、不要な自粛であり、本質を見誤った議論である。反省すべきは、本末転倒した考え方である。日本の国際政策が現在、無策に陥っている理由は、過剰な自制心に原因がある。必要のない自粛が、日本の知的外交力を弱めているのだ。
過度な戦前の反省が日本を危うくする
近代20世紀における日本の帝国建設は、帝政ロシアと清朝への対抗から始まった。日露戦争(1904~05年)は日本人に広く知られているが、その後のシベリア出兵(1918~22年)はあまり語られなくなっている。これは、1930~40年代に形成された「防共回廊」の布石となる重要な出来事だった。
私は、シベリア出兵を再評価すべきだと思っている。出兵の目的は、ロシア革命によって成立したボルシェビキ政権、すなわち共産主義の東方への拡大を食い止めることにあった(④、⑤参照)。当時、アメリカは反共の立場から、革命の拡大を阻止するため、干渉に乗り出した。


ウィルソン大統領の要請を受けて、日本も大規模な兵力を派遣した。日本軍はシベリアのブリヤート・モンゴル人の地域にまで進出したが、多くの戦死者を出した。戦況が長期化すると、干渉政策の目的が曖昧になり、アメリカや国際世論は次第に消極的な姿勢を見せるようになった。その結果、日本は梯子を外された格好となり、最終的に撤兵を決断するに至った。
ところが日本軍が撤退した後、シベリア東部には権力の空白が生じ、ブリヤート周辺はボルシェビキの支配下に置かれるようになった。ソ連の勢力は南方にも拡大し、モンゴル高原にも影響が及んだ。シベリアで抵抗を続けていた白軍(共産主義革命勢力)の指導者、ロマン・ウンゲルン男爵とグリゴリー・セミョーノフらは、日本軍の撤退後、活動の拠点をモンゴルへ移した。
白軍には、日本陸軍の退役将校らも多数参加し、ともに反共の意思を抱いて戦った。白系ロシア人の自治的共同体が形成されていたハルビン(哈爾浜)を補給と連絡の拠点として、モンゴル高原と満洲北部を往来しながら抵抗を続けた。しかし、最終的に赤軍に制圧され、1924年にソ連の支援を受けた「モンゴル人民共和国」が樹立された。こうしてモンゴルはソ連に次ぐ世界で2番目の社会主義国家となった。
一方、南モンゴルでは、ラムステッドが王侯や僧侶に社会主義への警戒を促し、中華民国と一定の距離を取るよう働きかけた。しかし既に、南モンゴルは奉天系軍閥をはじめとする中華民国の軍事勢力に掌握されており、社会主義化こそ免れたものの、軍閥による統治体制に組み込まれていった。その後、大量の中国人が流入し、中国との一体化が急速に進んだ。
現地の知識人たちは、中国の拡張を深刻な脅威と捉えた。新興の日本に希望を見出そうとしたが、事態を覆すには手遅れだった。1930年代に入ると、日本は満洲国を建国(32年)し、続いて華北に蒙疆政権(蒙古聯合自治政府=蒙古自治邦)を樹立した(⑥参照)。

このような一連の動きを引き起こす要因となったのが、帝政ロシアという巨大なランドパワーの崩壊であった。地政学的変動が、いかに個々人の生き方や言語的認識にも深く影響を及ぼすかが理解できるだろう。
日本は第二次世界大戦後、自国語がウラル・アルタイ系言語に属するという見方を否定して、もっぱら経済成長に注力する道を選んだ。そして高度経済成長を遂げて、先進国の一員となり、国際社会に加わった。ところが現在、日本は再び中国やロシアからの地政学的脅威にさらされ、国家の根幹に関わる局面を迎えている。
戦後の日本はリベラル色を強め、社会主義国家であるソ連を積極的に批判することは控えるようになった。中国に対しても、「過去に迷惑をかけた」という贖罪意識で、極端な反省に立ち、友好ばかりを唱えてきた。しかし、日本がどれほど過去を反省したところで、ロシアがソ連を経てロシア連邦となり、中国が清朝から中華民国、中華人民共和国へ姿を変えたところで、地政学的な環境そのものは変わらない。
友好や反省だけで、中国やロシアからの圧力を回避することはできないのだ。引っ越しできない地理的現実の中で、地政学的な考察を無視し、反省して発言を控えるという姿勢こそが、最も危うい選択である。戦前の地政学が優れた分析力を持ち得たのは、日本を取り囲む脅威が極めて強く、状況が切迫していたからである。そうした現実の中で、日本は独自の地政学を生み出した。そこには高度な知的水準と鋭い洞察力が、必然的に備わっていた。
大陸から押し寄せる運命的な脅威
日本の運命的とも言える地政学的な脅威は、常に近隣の朝鮮半島からもたらされてきた。現在の朝鮮半島は二つの国家に分かれているが、かつては三国鼎立の時代が長く続いていた。古代の高句麗、新羅、百済に代表されるように、文化や歴史の異なる少なくとも三つの勢力が並び立ち、地域ごとの対立は極めて激しかった。
こうした半島内部の分裂と対立は、必然的に外部の勢力との関係にも影響を及ぼした。中国や満洲の大国を後ろ盾にする勢力もいれば、日本との関係を重視する勢力も存在した。さらに、北の満洲平野を行き来する民も現れた。半島で発生した動乱は常に日本に波及し、渡来人の移住をもたらし、政治的・経済的な緊張や対立の火種となった。
刀伊のように突発的に現れる遊牧民の海上冒険も脅威の一つだった。彼らは、極東ロシアやかつての渤海など、ユーラシア東端に住んでいた狩猟・遊牧の民である。冒険心に富んでおり、船を操って日本海を南下することもあった。対馬に上陸して略奪を行ったり、舞鶴付近に襲来したりしたことが記録されており、日本側の史料では、彼らを「刀伊」と呼んでいた。
このような現象は過去のものではなく、現在でも続いている。例えば、北朝鮮の老朽化した漁船が日本海側に漂着する事件や、北朝鮮の工作員が沿岸に上陸し、日本人を拉致するといった事例である。地政学的脅威はまさに歴史の中で何度も繰り返されており、日本列島の安全保障環境を揺るがし続けている。
しかしながら、最大の脅威は、やはり中国大陸である。中国は国力が高まるたびに、必ず外へ膨張する傾向がある。「あまねく天下すべては王の領土」という特有の思想が根底にあるからだ。元寇(1274年、81年)の際、元朝の皇帝だったフビライはモンゴル人だったが、日本襲来を実際に主導したのは、元朝に従属していた南宋の水兵と、朝鮮半島の人々だった。
当時、高麗は元朝の皇室と姻戚関係にあり、第25代王・忠烈王は婿という立場から手柄を立てたいと考えていた。また南宋の水兵たちも冒険志向が強かった。彼らが反乱に転じる危険性を懸念した元朝は、朝鮮出身者を混成して連合軍を編成し、二度にわたって日本に送り込んだ。
その計画を支持し、許可を与えたのがモンゴル帝国であった(杉山正明『クビライの挑戦——モンゴル海上帝国への道』)。元朝はその東アジアの拠点、すなわちモンゴル帝国における東アジアの総司令部とも言えた。
海を閉ざした東アジアの誤り
近年の研究で、モンゴル帝国は単なる大陸帝国ではなく、強力な海上帝国であったことが明らかになっている。「モンゴル帝国の海洋経営」「海上のモンゴル帝国」といった学術研究書が最近、数多く刊行されている。つまり、モンゴル帝国の時代に、東南アジアからインド洋に至る広範な地域が一体化され、国際貿易が本格的に始まったというのが、現在の定説である(例えば、向正樹』クビライと南の海域世界』)。
本来であれば、このような研究はもっと早く進んでもよかったが、ソ連が崩壊してようやく環境が整い、研究が進展するようになった。モンゴル帝国は、ユーラシア全体を支配する大帝国で、元朝の都、大都(現在の北京)から、王族の女性たちがペルシアやトルコ方面に嫁いでいった。既に海上交通が発達しており、大都から運河を南下して中国南部へ至り、そこからマラッカ海峡を抜け、ペルシア湾へと至る航路が利用されていた。
13世紀後半から14世紀初頭にかけて広くユーラシアを探検したマルコ・ポーロも、帰路は海上ルートをたどったことで知られる。真珠や香辛料を交易品とし、東西の海は開かれ、交易は極めて活発に行われていた。しかしモンゴル帝国によるこの海洋経営に、日本は参加しなかった。このため元寇によって征服の対象となったというのが、最新の学説である。
二度にわたって元の襲来を受けた日本は(2024年でちょうど750周年を迎える)、これを国難とみなし、鎖国政策へ傾いていった(⑦参照)。外敵による侵攻を経験した後、国を閉ざすという傾向は、東アジア諸国に共通して見られる特徴だ。

明朝も対外脅威を経験した後に、海禁政策を採用して海上活動を制限した。清朝も海禁政策を継承し、朝鮮半島の高麗や李氏朝鮮も、宗主国である明の方針に従って海を閉ざした。日本は1853年の黒船来航まで、長きにわたって鎖国政策を維持した。
こうした東アジアの国の対応は、近代ヨーロッパ諸国やユーラシアの遊牧国家とは極めて対照的である。とはいえ、東アジアの海が完全に閉鎖されてしまったわけではない。一般の日本人は海洋世界に対する理解が深まり、やがて倭寇と呼ばれる勢力が活動を始めた。
倭寇は単なる海賊ではなく、多民族から成る混成集団だった。平時には貿易を行い、交易がうまくいかなくなると略奪や海賊行為に転じる。これが倭寇の実態だった。倭寇には前期と後期の二つの時期がある。前期は、朝鮮半島や中国沿岸部の出身者が多く、日本人は象徴的なリーダーとして担がれる存在だった。「日本人はよく戦う」という評判を利用して、「遠方から現れた恐るべき勢力」という印象を意図的に演出した。
後期に入ると日本人の比率は増加したが、倭寇は終始、多民族による混成集団であった。倭寇の活動範囲は広く、朝鮮半島や中国沿岸部だけでなく、揚子江を遡って南京にまで至った。東南アジアやマラッカ海峡を越え、インド洋やペルシア湾にまで達していた可能性すらある。倭寇の一部は西洋からの探検隊と遭遇していた可能性も高かった。
もしそうであれば、日本や東アジアの国際化はさらに早まっていたかもしれない。東アジア諸国がモンゴル帝国のような開かれた海洋世界に向かっていたならば、東アジアは近代における西洋列強の植民地化の危機にさらされることはなかったと思われる。
\ 後編に続く /

2025年7月1日刊行
楊海英 著 『英国の地政学』
〈目次〉
序 論 地政学は日本の財産だった
第1部 失われた地政学
1.ハウスホーファーの予見と東アジア
2.戦前日本の地政学とその理論
第2部 戦後の地政学的激動
1.東アジアを席巻した共産主義の恐怖
2.日本の敗戦と地政学的変化
3.中国内戦と共産党の支配
4.中国共産党の異民族弾圧
5.中国とロシアの地政学的戦略
結語 トランプ政権で変わる世界の地政学
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楊海英(よう・かいえい)
静岡大学人文社会科学部教授。1964年、南モンゴル・オルドス高原生まれ。モンゴル名はオーノス・チョクト。日本名は大野旭(おおの・あきら)。北京第二外国語学院大学アジア・アフリカ語学部日本語学科卒業。1989年に来日し、国立民族学博物館、総合研究大学院大学で文化人類学を研究した。同大学院博士課程修了後、中京女子大学(現・至学館大学)を経て2006年より現職。
著書に『墓標なき草原(上・下)』(岩波書店、第14回司馬遼太郎賞受賞)のほか、『日本陸軍とモンゴル』(中公新書)、『逆転の大中国史』(文藝春秋)、『内モンゴル紛争』(ちくま新書)、『モンゴル帝国』(講談社現代新書)、『中国を見破る』(PHP新書)など多数。
