地政学は日本の財産だった/楊海英『帝国の地政学』より[後編]
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この記事では2025年7月1日刊行の、楊海英よう かいえい・著『帝国の地政学』より序論「地政学は日本の財産だった」を前編・後編の2回に分けて全文公開いたします。
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序論 地政学は日本の財産だった
中国の「呪縛」に囚われた日本
東アジア諸国はなぜ鎖国や海禁へと転じたのか。その原因には地理的・歴史的な制約が関わっていた。中国についていえば、伝統的にランドパワーとしての性格が強く、国家の関心は古来より内陸に向けられていた。中国の最大の脅威は一貫して、北方のモンゴル高原、すなわち遊牧民の侵攻にあった。このため、海からの脅威を想定する必要がなかった。海洋に対する関心が希薄だったのは当然の帰結だった。
一方、日本はどうだったか。地政学的に見て、日本の隣国は朝鮮半島と中国しかないため、東の世界(太平洋の彼方)を意識することはほとんどなかった。漁民は一定の範囲に限って太平洋に出て漁をしていたが、それ以上先は「どこへ行くかわからない」という不安が大きく、敢えて航海する発想が生まれなかった。「船に乗ってアメリカ大陸を発見しよう」という思想は、地理的に成立しなかった。
日本の視線は常に西に向けられていた。西とは中国である。ここで、日本は一つの「呪縛」に囚われることになる。文字の呪縛である。日本が接した異文化は、基本的に中国だけであり、日本は中国から漢字を導入して、ひらがなやカタカナといった自国の表記体系を発展させた。
これに対し、モンゴルや契丹、西夏(タングート)、さらには満洲人の前身である金王朝は異なる対応を示した。彼らは原則として漢字を使わず、別の文字体系を採用した。というのも、漢字を用いることは漢化を意味するからだ。それを避けるために、意識的に非漢字文化を選んだのである。
モンゴル人はウイグル文字を改良してモンゴル文字とし、後に満洲人が継承して満洲文字とした。それ以前には、漢字を改変した独自の文字を使用した。西夏文字、契丹文字、金文字などがその例だ。日本のように漢字を大幅に改造しつつ、なお漢字自体を併用するという発想は彼らには見られなかった。一方、チベット人はインド系の文字を使い、ウイグル人はアラビア文字を用いた。
このように文字を通じて見れば、モンゴル高原から満洲、ユーラシア東部の世界は一貫して中国とは異なる文明を選び取ってきた。実際、モンゴル高原の古墳から出土する遺物を検討すると、匈奴の時代から近現代に至るまで、中国起源の品は比較的少数にとどまっている。
むしろ、チベットを含むこの地域からは、ペルシア、イラン、インド、アラブ諸地域に由来する遺物が多数確認されており、近年ではギリシアやローマの製品も出土している(⑧参照)。彼らは、常に多様な選択をしていたことがうかがえる。

日本の中国観は「島国特有の幻想」
日本は、地理的に中国しか隣国がないという特異な条件に置かれており、選べる相手が限られていた。だからこそ、中国から「いいものだけを選んで取り入れよう」という意識が働いた。
遣隋使や遣唐使たちは、漢籍や陶磁器といった文化の産物を見極めて日本に持ち帰ったが、その際には「本当に価値のあるもの」を選んだ。こうした積み重ねが、やがて「中国はすごい」「文明のレベルが高い」「漢籍には深い教えがある」という幻想を生んだ。
実際のところは、遣唐使や商人たちも、中国は覇権的で暴力的な性質を持つことを理解していたはずである。しかし、彼らは帰国してもそうした負の側面は伝えず、優れたものだけを広めた。そのため、マイナスの記憶は文化として残らなかった。
現代においても、商社員は自社の利益を優先し、実際のリアルな中国を国内に伝えようとしてこなかった。こうして、日本は中国のある種の「呪縛」に絡めとられることとなった。「中国は卓越した文明を持っている。そこに暮らす人々は皆、君子であり聖人である」といった理想化されたイメージが形成された。
一方、モンゴル、満洲、チベット、ウイグルといった地域では事情が異なっていた。彼らは古来より、多様な民族と接しており、中国もその一つに過ぎなかった。そのため中国の負の側面を肌で知っていた。つまり、日本の中国観は地政学的に形成された「島国特有の幻想」であるのに対し、モンゴルやチベットなどの陸続きの地域では「現実に即した認識」が育まれていた。
この違いこそが、地政学がもたらした異文化理解の差である。島国・日本の視点から見た中国と、大陸国家の視点から見た中国とでは、認識に大きな隔たりがあるのだ。
壮大な大陸構想を描いた豊臣秀吉
もっとも、日本は中国だけを相手にしていたというわけではない。日本人は南方でも活発に行動していた。フィリピンのルソン島やベトナムにまで貿易に赴き、インドネシア北部にも足を延ばしていた。近世に入ると、海上では西からやって来たオランダやスペインと遭遇するようになり、特に台湾では、彼らと頻繁に接触していた。
少し時を遡れば、日本にもときおり冒険に乗り出そうとする英雄が現れた。豊臣秀吉の朝鮮出兵は、その典型的な例である。秀吉は、朝鮮半島を征服した後、万里の長城を越えて中国本土へと進軍するという壮大な構想を持っていた。国内の事情によって計画は頓挫したが、もし実現していれば、秀吉軍は満洲人よりも早く満洲平野にたどり着き、彼らと同盟を結んで、明朝に攻め込んでいたかもしれない。
もしそうなっていたら、日本のシーパワーはランドパワーと手を組み、早い段階で大陸を経営するような経験を積んでいた可能性がある。だが、朝鮮から撤退したために、日本のシーパワーがランドパワーと結びついて西進する道は閉ざされた。制度的にも組織的にも、大胆に外へ打って出る動きはストップしてしまった。
次の冒険の機会は、近世から近代へ動き出す時代に訪れた。ロシアという新たな脅威を前に、日本は日露戦争というかたちで対応を迫られることになった。しかし、自ら積極的に対外展開した最後の例として挙げられるのは、やはり秀吉の出兵である。
一方、その間も世界は動いていた。西洋ではオランダやスペインといった列強がシーパワーを背景にアジアへ進出してきた。もしこのとき日本が積極的に海に乗り出していれば、ルソン島や台湾南部などで、西洋列強と接触していた可能性も否定できない。そう考えると、一つの教訓が見えてくる。国際社会の中で遅れを取らないためには、自ら積極的に動くことが欠かせないということだ。
日本は秀吉を最後に、ランドパワーとの接触を自ら放棄し、いっそう鎖国の方向へと進んでいった。その象徴が長崎の出島である。徳川幕府は鎖国政策のもと、長崎を対外貿易の窓口とし、明との交易を細々と続けていた。オランダが来航すると、幕府はこれを巨大な地政学的変化と見なさず、「南蛮人」として小さな出島に押し込め、限定的な交易を行うにとどめた。
私が出島を初めて訪れたとき、そのあまりの狭さに驚いた。もっと広い島を想像していたが、長崎市内のごく限られた空間に、よくぞ海の向こうから来た者たちを閉じ込めて管理したものだと感じた。幕府は西洋列強を出島という囲いに押し込めて厳しく目を光らせていたが、一般の日本人はむしろ進んで彼らと接触しようとした。
出島の周囲には知的好奇心を持つ者が集まり、オランダ人との交流が始まり、そこから蘭学が発展していった。もし幕府が港を開いて、オランダ人やスペイン人に駐留地を与え、自由な往来を許していれば、西洋の学問はさらに早く開花しただろう。日本が西洋と肩を並べる時期も早まっていたに違いない。
日本人には強い探検精神があった
長崎は対明朝貿易の玄関口であったため、多くの明人が訪れていた。明人は海外に対して関心が薄かったために、異国に住むときは必ず固まって居住し、小さな「チャイナ・タウン」を形成した。彼らはその中から外に出ることが少なく、外部との接触が限られていたため、管理も容易だった。
幕府は明人をチャイナ・タウンで管理したように、オランダ人にも「オランダ・タウン」とでも言うべき出島を与えて交流を制限した。それによって、オランダ人が持っていた蘭学、つまり先進的な知識と科学が広がらなかったのは、日本にとって明らかな損失であった。
やがて時代が下ると、オランダ人やスペイン人との接触も徐々に増え、キリスト教に改宗する大名まで現れた。幕府はこの動きを危険視し、キリスト教の弾圧に加え、知識の流出にも警戒を強めた。特に地図の持ち出しについては厳重に規制された。
ヨーロッパの探検は、地理学的な使命感に貫かれていた。地球は丸いことを前提に、未知の空白地帯を埋めたいという思いがあった。彼らは日本がどこに位置し、どれほどの大きさで、ユーラシアのどのあたりにあるのかを知りたがっていた。そのため、日本の地図は喉から手が出るほど欲しかった。
そうした中で、ついにドイツ人医師のシーボルトが密かに日本地図を持ち出すことに成功した。地図をトランクに入れ、二重箱で隠して国外へ運び出した。帰国後、シーボルトは『日本(ジャポニカ)』を著した。
この中では日本がユーラシアの東端に位置する大きな島であること、朝鮮との間には日本海が広がっていること、ロシアとの間には「韃靼海峡(タタール海峡 Gulf of Tartary)」が存在すること、その向こうに満洲、さらにモンゴルが広がっていることを紹介した。こうしてヨーロッパで東アジアの地理認識が統合されていった(⑨参照)。

一方、日本側はその地図を「盗まれた」と非難するだけで、自ら積極的に海外への開拓につなげようとはしなかった。この点においても、問題はやはり幕府の姿勢にあったと言える。一般の日本人の間には、強い探検精神があった。シーボルトが持ち帰った地図に感動したのは、日本国内でそれほど精緻な地図が作られていたことに驚いたからである。
伊能忠敬の地図は非常に高精度で、長年にわたって日本全国をくまなく測量して完成させた。また、間宮林蔵は樺太を探検して島の地形や海峡の様子を詳しく調査し、そこから大陸にも接触していた。
つまり日本人には大いなる冒険心があり、大陸への接近も実際に行われていた。にもかかわらず、幕府はそうした探検精神を封じ込めてしまった。国民の行動を過度に制限すれば、やがて国家としての活力は失われ、衰退を招いてしまうのは言うまでもない。
日本に敗れた清朝の計り知れない衝撃
日本人の外への関心が静かに広がり始めた江戸時代末期、ペリー率いる黒船が来航した。日本は否応なく門戸を開かざるを得なくなった。既にその前後には、個々の日本人が太平洋を渡って、アメリカ大陸の存在を知っていた。ジョン万次郎をはじめ、名もなき漁民がマグロやクジラ漁の途中でアメリカ西海岸に漂流したり、カナダの先住民社会に溶け込んだりして、生涯をそこで暮らした者もいた(原ひろ子『極北のインディアン』)。
もちろん、漁業の発展に伴って船の大型化や構造の改良は進んではいたが、それ以上に重要なことは、もし日本が早くからモンゴル帝国の海洋経営に積極的に関わって、外洋航海へ乗り出していたなら、日本人による太平洋横断はずっと早く実現していただろうという点である。
黒船来航は、日本が官民一体となって地政学的覚醒を迎える契機となった。それまで限定的であった対外意識が、国民と政府ともに目覚め、外へ向かって動き出す時代へと入った。「石炭をば早や積み果てつ」で始まる森鷗外の小説『舞姫』にも描かれているように、明治期の日本人の若者たちは東南アジアのサイゴンを経てマラッカ海峡を通過し、ヨーロッパ留学へと旅立っていった。
ちょうどその頃にはスエズ運河も開通しており、彼らは道中でピラミッドを見学しながら、名実ともに「世界」を体験した。まさに、日本が地理的にも精神的にも世界に目覚めた瞬間だった。近代以降の日本は、確かに強い能動性をもって外へと動き出したが、それ以前の長い停滞を思えば、もっと早い段階で覚醒すべきであった。そうすれば日本人は自らの力でインド大陸やアラビア半島にまで到達していたかもしれない。
一方、清朝はというと、依然としてランドパワー型の国家にとどまり、海に対してはほとんど関心を示していなかった。その結果、イギリスとのアヘン戦争(1840~42年)など、海から押し寄せる西洋の力に抗しきれず、やがて衰退の道をたどることになった。
清朝が真に衝撃を受けたのは、日清戦争(1894~95年)で日本に敗れたことだった。イギリスやフランスなどの西洋列強に敗れるのは、ある意味でやむを得ないかもしれない。また、ロシアとはこれまで満洲北部や東トルキスタン(新疆)でたびたび衝突し、その都度、敗北を喫していた。それは過去にモンゴルや満洲人に敗北した歴史の再演だと見なされ、深刻には受け止められていなかった。
しかし、日本との戦争だけは明らかに異なった。海洋国家である日本に敗れた衝撃は、清朝にとって計り知れないものがあった。日本は「格下」と見なされ、文明的にも劣った「野蛮人(東夷)」だと考えられていた。そんな相手に敗れたことで、清朝のエリートたちも強い危機感を覚え、改革の必要性に迫られたのである。
こうして東アジアでは、清朝が緩やかに目覚め、やがて革命が起きた。朝鮮半島でも別の動きが進んでいた。朝鮮の立場から見れば、「日本は既にこれほどまでに近代化している。もはや宗主国の清朝には頼れない。北からはロシアが迫ってくる」といった切実な現実があった。
朝鮮は日清戦争後、独立を目指して動き出した。その過程で問題となったのが、新たなパワーである日本と、北から南下してくるロシアのどちらと手を結ぶかという選択だった。朝鮮半島内部では、親露派、親日派、さらには親中国派が並立し、それぞれが国家の未来を巡って対立した。
日本の立場から見れば、自国の勃興によって朝鮮が独立し、ともに近代化の道を歩むようになった点は好ましい。しかし一方で、ロシアが朝鮮半島に進出し、朝鮮が親ロシア化する、あるいはロシアの勢力圏に入るような事態は、日本にとって重大な脅威となる。
「3番目の危機」が到来している
日本はかねてより、ロシアが樺太を伺う動きを警戒していた。間宮林蔵による樺太探検も、そうした地政学的認識の一環だった(⑩参照)。間宮は学問的な探検家であったがゆえに、ロシアの脅威にも敏感に反応できた。

1912年には清朝が崩壊し、その5年後の17年にはロシア革命によって帝政ロシアも崩壊した。ロシアは革命一色となり、革命の波は極東へと急速に浸透し、シベリアの赤化が進行した。それに対抗するため、日本は積極的にシベリア出兵を断行した。しかし、シベリア出兵も大きな成果を上げることはできず、シベリアはソ連の支配下に入った。それに連動して、隣接するモンゴルも第二の社会主義国家となった。
こうなると、日本はより積極的な対応を取らざるを得なくなった。32年に満洲国を建国し、39年にはモンゴルの一部である南モンゴルに蒙疆政権(蒙古聯合自治政府)を樹立した。こうした動きがやがて第二次世界大戦へとつながった。
第二次世界大戦終結後、日本は深い反省を迫られることになり、実際に日本は反省した。しかし、相手が変わらない限り、地政学的脅威は解消されることはない。実際に今再び、脅威が現実のものとして浮上している。まさに、地政学という避けがたい宿命から迫ってくる危機である。
中国は独裁体制のもと、覇権主義的な行動を強めている。ロシアは、もはや共産主義国家ではないが、北朝鮮との軍事的な結びつきを強化している。その動きは、明治時代のロシアの地政学的な圧力と重なっている。
日清戦争や日露戦争の時代、ロシアは一貫して朝鮮半島への影響力拡大を図ってきた。朝鮮王朝末期の高宗の妃・閔妃のように、ロシアに接近しようとする勢力もあったが、当時はまだ明確な軍事同盟には至っていなかった。
しかし現在のロシアと北朝鮮の関係は、事実上の軍事同盟と言えるほどに接近している。報道によれば、北朝鮮は2024年冬からロシアのウクライナ戦争に1万3000人規模の兵士を派遣している。ロシアに加えて、朝鮮半島からの圧力も重なり、日本は地政学的にかつてないほどの脅威に直面している。
この危機は、極めて深刻である。歴史上、蒙古襲来、黒船来航に続く「3番目」の重大な危機と言える。西からは中国、北からはロシアと北朝鮮、さらに台湾海峡という複合的な危機が同時に迫っている。
台湾海峡における緊張は、中国がつくり出している地政学的脅威にほかならない。もし台湾が陥落すれば、日本へのエネルギー供給ルートが断たれ、国家の生存すら危ぶまれる。また、日本のエネルギー供給の一部はサハリン(樺太)に依存しており、北方の安全保障も極めて重要である。国家も国民もこれに真正面から向き合わなければならない。
民族の存亡をかけた戦い
地政学的危機に対処するためにはロシア民族、朝鮮民族、漢民族(中国人)それぞれの民族的特性に目を向け、これを正確に理解することが不可欠だ。なぜなら、これらの民族は、それぞれ異なる地政学的環境と風土の中で形成され、独自の行動様式と敵対関係を生んできたからだ。
例えば、ロシア人は忍耐強く、漢民族は狡猾だと一般に評される。これらの精神的特性もまた、風土と地政学的環境の産物である。ある民族が、これまで暮らしてきた地政学的空間から更に膨張しようとする際には、必ず周辺国に危機を与える。それが、ロシアや中国からの脅威である。
日本は、戦前の経験から、地政学に対して深い反省を余儀なくされた。他方、ヨーロッパにおいては、ドイツのみが地政学的思考を厳しく反省させられた。しかし戦後、ドイツが地政学を自制するに至った理由は、日本とは異なっている。
地政学の発祥地であるドイツなどでは、ナチスによってゲルマン民族の優越性が過度に強調され、「生存空間」の拡張思想が侵略政策へと直結した。その結果、ドイツの地政学は民族優越思想と結びつき、深い反省を迫られることになった。つまり、自民族を他民族より上位に置く視点が、ドイツの地政学を本質から歪めることになった。
しかしながら、本来の地政学において民族を抜きに論じることはできない。地政学とは、民族の「生存空間」をめぐる概念そのものだからである。ただし、そこに優劣を持ち込む必要はない。特定の地政環境のもとで特定の民族が生まれ、生活し、文化を築いてきたことは厳然たる事実である。地政学的危機とは、まさにその民族の「生存圏」を脅かす現実であり、民族というファクトを無視してはならない。
日本が直面している地政学的危機もまた、日本民族の「繁栄か消滅か」という存亡の問題である。最大の脅威である中国は、「中国人の優越性」を極端に強調している。したがって、地政学を語る際に民族という要素を排除する理由は、どこにも存在しない。本書では、民族という存在、そして民族自決という歴史的運動に注目しながら、地政学を多角的に論じていくことにする。

2025年7月1日刊行
楊海英 著 『英国の地政学』
〈目次〉
序 論 地政学は日本の財産だった
第1部 失われた地政学
1.ハウスホーファーの予見と東アジア
2.戦前日本の地政学とその理論
第2部 戦後の地政学的激動
1.東アジアを席巻した共産主義の恐怖
2.日本の敗戦と地政学的変化
3.中国内戦と共産党の支配
4.中国共産党の異民族弾圧
5.中国とロシアの地政学的戦略
結語 トランプ政権で変わる世界の地政学
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楊海英(よう・かいえい)
静岡大学人文社会科学部教授。1964年、南モンゴル・オルドス高原生まれ。モンゴル名はオーノス・チョクト。日本名は大野旭(おおの・あきら)。北京第二外国語学院大学アジア・アフリカ語学部日本語学科卒業。1989年に来日し、国立民族学博物館、総合研究大学院大学で文化人類学を研究した。同大学院博士課程修了後、中京女子大学(現・至学館大学)を経て2006年より現職。
著書に『墓標なき草原(上・下)』(岩波書店、第14回司馬遼太郎賞受賞)のほか、『日本陸軍とモンゴル』(中公新書)、『逆転の大中国史』(文藝春秋)、『内モンゴル紛争』(ちくま新書)、『モンゴル帝国』(講談社現代新書)、『中国を見破る』(PHP新書)など多数。
