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伊勢神宮周辺はかつてお寺だらけだった(その2)

(承前)伊勢神宮周辺はかつてお寺だらけだった(その1)

鎌倉時代以降の伊勢神宮周辺での仏教浸透について、歴史家の萩原龍夫氏による「伊勢神宮と仏教」からの抜粋を続けます。

伊勢神宮は国家至貴の神社として、皇室以外の者がたやすく幣吊を供えることができず、その祭祀はすべて国家的規模のもとに執行され,これに私的な祈願を寄せることができなかった。
しかし平安後期に入ったころから、神宮の祭祀上の経費、ことに式年遷宮の経費の調達が困難になってきて、造宮使に任命された者の個人的な才覚に期待する面が大きくなった。王朝制度もしだいに衰退して、熊野信仰と同じような「御師制度」のもとに、伊勢神宮への個人的祈願をも受け付けて、神宮の支持を広く各層に仰こうとする風潮が起ってきた。

伊勢神宮を約20年置きに造替する「式年遷宮」は7世紀から今に続く

11世紀中葉あたりから中間層としての権禰宜層の自由な部外活動が目立ってくる。それはもはや律令制にべんべんとしている政府の態度をあきらめて、実際に伊勢神宮を支持する層を各方面に開拓しはじめるために、京都をはじめ主要な都市を神人らが歴訪する動きの生じたことを意味する。

こうした神人の「御師」としての活動は、必然的に仏教信仰との習合を招いた。当時、伊勢と熊野とを同一視するような迷妄が京都の貴族のなかにも
生じたのである、蕩々として仏教との習合が行われた結果、伊勢神宮の存在意義も古典に即してでなく仏教に付会して説明するのを便とするに至った。本地垂迹説はこうして神宮にも適用されたのである。

鎌倉時代には「太神宮(伊勢神宮のこと)は救世観音の変身」という説があったり、伊勢神官の中にも「天平年間に橘諸兄が参宮した時、『日輪は大日如来なり。本地は盧舎那仏なり。』との天照大神の示現があった。」などの逸話も広く伝えられていました。
皇室以外からの個人的な祈願も増えて、たとえば摂政や関白を歴任し「玉葉」を著した九条兼実も、自分の娘の男子出産を伊勢神宮に祈願しています。

こうして鎌倉時代に入ると、急速な勢いで神宮への個人祈願が進んだ。その場合、御師だけでなく真言僧の仲介がしきりと行われたらしく、僧侶の参宮が激増するのである。

その大きな事例が、東大寺で大仏再興の勧進僧であった重源らの一団です。伊勢神宮側でもこれを歓迎したことは以前も書きました。(東大寺と伊勢神宮の壮大な神仏習合

朝廷が伊勢神宮に仏事成就を祈ることも急速に増したらしく、「百練抄」(注:鎌倉末期の公家の日記集)に見出されるものだけでも、建久6年大仏供養のための勅使発遣、建保4年の仏舎利発顕祈願のための勅使発遣、嘉頑2年維摩会停止奉告のための三社奉幣といった具合である。僧侶の参宮も当然のこととして増加する。
文永5年(1268)以後になると蒙古襲来の危難に日本がさらされ、その克復は大社霊社への祈願に期待され、伊勢神宮にも当然及んで来る。列挙すれば文永9年の東大寺円照、同10年の西大寺叡尊、建治3年の東寺僧正道宝、弘安2年の僧正齎助、同3年叡尊、同4年僧正定済といった状況であり、ことに叡尊の体験というものが貴重である。

叡尊(えいぞん)は破戒が横行し堕落していた仏教界を嘆き、戒律を重視した真言律宗を起こした高僧です。ハンセン病患者の救済など福祉にも尽力したことで知られています。また伊勢神宮近くに弘正寺を建立しました。

叡尊(1201-90) 奈良国立博物館HPより

奈良西大寺に残る文書によれば、弘安3年3月に内宮に参宮し一切経を奉納した際に、巫女が神がかって「天照大神はこのたびの法楽を随喜している。これによって一天四海を守り、異国の賊に襲わせず、辺土の塵にも汚させず、安穏の状態にしてやることにしよう。」との託宣をしました。
この託宣は1時間にも及ぶもので、禰宜の荒木田延季は感激のあまり落涙を禁じ得ず、叡尊以下の宗徒たちもじっと聞き入ったとのことです。

かくして、仏と天照大神のご加護により元の日本侵略は退けられたのでした。内宮の風日祈宮、外宮の風宮が、神風を起こし元軍を退散させた功によって、伊勢神宮の別宮に昇格したこともよく知られています。

(つづく)


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