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noteの言葉、誰に向いて書いているんだろう。

今日も、わたしは何処に向かって書いているの

かなって思う。

書き始めはいつも、頭のなかがからっぽで。

ぐずぐずしてる。

早くしなさいっていっつも叱られていた

子供の時と変わらない。

はじめてわたしが、雑誌で文章を書こうとした

時に迷ったのは、書く内容もそうだけど。

語尾だったかもしれない。

語尾って誰に話すかとか、その人とのつきあいの

長さで変ったりする。

はじめての雑誌の読者のどんなひとに話かければ

いいのかわからなくて、あの頃も語尾で

迷っていた。

noteに来ても同じ悩みがあった。

その前に書いて今も書いている場所も

それがわからなくてほんとうに所在なげで。

言葉の宛先がわからないから、語尾が

決まらない。

これって、かなりさびしい。

<だ>なのか<です>なのか。

ほとんど、書かないけれど

<ですよね>など。

最初のnoteでは、なぜか誰に言うでも

ない詩のような語尾を避ける文体で

書くようになっていた。

たぶんいちばん最初に書いたエッセイが

これだった。


すごくネガティブなところがいま花開いているよう
なので、すぐになにかに甘えたくなって。
誰かに、何かをそれはちがうとたしなめられて、
すぐ縮んでしまう。
縮んだ後、溶けてしまう。
蛞蝓に塩。みたいに。
椅子取りゲームの最後の椅子にも、座れなかった幼稚園
時代を、思いだしているかのようなこの頃だけれど。
あの頃思っていたのは、どうしてみんなの数だけ椅子を
用意しないんだろうってことで。
ひとり、<あぶれるだれか>をうみだすなんて
おかしいって、
強く思っていたけれど言えなくて。

これは、誰でもない自分にいっているようだ。

以前書いていた場所でも、じぶんの文章なのに、

よそよそしかった。

文章は呼吸だと思っていると何度も

書いたことがあるし、世間でもそういわれて

いるけれど。

たぶん、文章の語尾がわからないという

ことは、呼吸を吐ききることがないままの

ようなちょっと宙ぶらりんな感じに

なるせいなのかもしれない。

いつも、みなさんの文章の語尾はどこで

決まってゆくんだろうなって。

ひっそりと思っている。

言葉って独り言だったとしても

ひとりの自分に向けて発しているから

そこにふさわしい語尾があるような

気がするし。

もし、誰かに発しているとしたら、

そこにぴったりの語尾があるような

気がする。

文章も、まったくぽつんとそこに

立っていることはなくて。

宛先が必ずあるものなのかもしれないと。

言葉ってひとが使うという前提だから、

何処かに向けられているんだなって。

ひとりごとであったとしても、

その行方はじぶんであるということも

含めて。

語尾って、その人らしさが一番出る

細部なのかもしれないなって、

夜な夜な考えていた。

つらつらとした話にお付き合いいただき

ありがとうございました。

君の言葉 風のように すいこんで
吐かないように 胸の辺りに 着地して


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ゼロの紙 /歌人 いつも、笑える方向を目指しています! 面白いもの書いてゆきますね😊

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