「AIに恋愛相談してみた」 第4話
第4話 「筋トレ」
破壊なくして創造は成し得ない。
これは万物に科せられた絶対の真理だ。
出会いの前には別れがあり、誕生の前には消失がある。
虹もまた、雨が降らねば架からない。
もし無から有を創造できる者が居るなら、きっとそれこそが神なんだろう。
無論、俺は人間である。
だから何かを作りたいと願ったなら、先立つものは破壊である。
とりわけ今は筋繊維の破壊を行っていた。
それ即ち……
「良いぞ、シゲ! もうワンレップだ!! 挙げろっ、力を振り絞って挙げ切るんだ!!」
「森くんラスト! 頑張って!!」
筋トレ。
やけに暑苦しい真琴と立花さんの声援を受けて残された力を振り絞る。
背もたれの無い長椅子のような器具の上に仰向けに寝転び、バーベルと呼ばれる金属の棒を両腕で挙上する運動。
筋トレの中でもフリーウェイトトレーニングに分類されるベンチプレスという種目を行っていた。
もちろんプレート(重り)はついていない。がしかしバーベルのみでも二十キロという重さを誇る。
そんな日常生活のどの場面においても加わらない加重に筋肉が、関節が、悲鳴をあげている。
「よし! よくやったぞシゲ!!」
「ちゃんと三回上げきれてえらい!」
「あぐっ……がはぁっ……ど、どうも……」
三回。
これが今の俺の限界だった。
なぜ三人で合トレ(合同トレーニングの略)をすることになったのか。
話はひとまず昨日に遡る。
立花さんとの買い物から一夜明けた日曜日。
その日はキャットアイの指示で薬局に買い出しに行くことになった。
「男もスキンケアをする時代になりました!」
「急にどうした……?」
道すがらキャットアイがドヤ顔でそう告げてくる。
「人間二十代をピークにありとあらゆる体の部位が劣化していくものですが、その進行を抑えることはできます。そして対策を始めるなら早ければ早い方がいいのです!」
「劣化しないあんたが言うそれ?」
どうやらスキンケアの重要性を説きたいらしい。
その前置きの後、美容の知識をブツブツ語ってゆく。
「基本的にクレンジングと洗顔料で顔の汚れを落として、化粧水やパックで保湿からの乳液でカバーまでがオーソドックスな流れです」
「ごめん……何ひとつわからない」
画面を見るとキャットアイが顔を洗ったり、薬品を塗ったりして実演してくれているが何が起きているのか、理解は遠く及ばない。
「そうでしょう。茂流さんの大好きな佐藤さんも、きっと今言ったことを、あるいはそれ以上の手間をかけてケアしています」
「今はその話関係ないだろ!?」
「まあガサツで不潔な人にとってはハードルが高すぎますよね。スキンケアは続けるのが大事ですから、なるべくハードルを低くして、まずは歯磨きのように習慣化を狙いたい訳です」
「なあ、俺のことガサツで不潔だって言った?」
それでも道理は分からんでもない。
今まで一才自分の見た目を気にしてこなかったのだ。風呂ではリンスインシャンプーとボディソープ以外の洗剤を使ったことがない。
そんな人間がいきなりスキンケアなるものを始めても、めんどくさくて三日と持たないのは容易に想像がつく。
「汚れはお湯で洗うだけである程度落ちますからハードルを限りなく下げるために今回は端折ります。ですが汚れと一緒に皮脂も落ちてしまいますので保湿は必須でしょう」
「そうなの……?」
「ただ保湿に関しても複雑にすると直ぐに辞めてしまうでしょうから、一つだけに絞ります」
「それはありがたいけど……それで効果あるの?」
「さっきも言いましたが小さな一歩を習慣化させて毎日進み続けるのが大事なんです。で、話を戻しますがオールインワンジェルなんかを使うと良いでしょう」
ようやく話の本質に辿りついた。
色々な要素を取っ払ってひとつの薬品を顔に塗りたくることから始めるらしい。
オールインワンジェルは化粧水と乳液が一緒になっているような代物らしく、保湿とカバーの両方を一手に担えるようだ。
その後もキャットアイはなんだかうるさいことを言い続けた。
曰く、髭は毎日それだの、汗と匂いの対策をしろだの、髪の毛のセットは毎日やれだの。
結局その日は、オールインワンジェルとニオイ対策のデオドラント、肌に優しいカミソリと、ヘアオイルにワックスをカゴに突っ込んだ。
そして最後に絶対要らないと言ったが、キャットアイに買え買え言われて仕方なくあるものを購入する。
全部薬局で市販している安価な品々だが、美容品にお金をかけるなんて思考がなかった過去の俺からするととてつもない進歩だ。
そうこうして家に帰るとキャットアイが真剣な面持ちで話し始めた。
「良いですか茂流さん、大事な話なのでよく聞いてください」
「ん? どうしたんだよ、改まって」
俺はゲーミングチェアに腰掛けるとスマホをスタンドに立てかける形でキャットアイと対峙した。
何か大切な話があるらしい。
「今までは短時間で変えられるところを徹底的に潰してきました。ですがこれら全てができて、ようやく人間関係を構築するスタートラインに立てたに過ぎません」
「……俺は今までスタートラインにすら立ってなかったってこと?」
「はいっ!!」
「いやそんなはっきり言わんでも」
確かに友達の多い真琴や立花さん、それから佐藤さんもこうして見た目に気を遣っているんだろう。
「対人関係おいて重要な事、それは一緒にいる相手と共に楽しい時間を過ごすこと。だから相手に不快感を与えかねない要素はなるべく潰しておくに限ります」
「なるほど……で、それが今までやってきた事だったのか」
「そうです。決して高くないお金だけで、清潔感は買えます。ただ、ここからが本番です」
「もったいぶらずに言ってくれよ」
人間関係を構築する上でスタートラインに立った俺が、次になすべき事。
それは――
「茂流さんには本物の自信をつけてもらいます!!」
「じ、自信? ……清潔感に次いでまた抽象的だな」
次のテーマは自信だそうだ。
それも本物の。
「自己肯定感、と言っても良いですね。とにかくこれが無いと、佐藤さんと付き合えたとして長続きしません。あるいは不安定な状態で安定してしまうか、お互い依存関係に陥って良好な関係を築くことは難しいでしょう」
「過去に何かあった?」
「私はAIですよ? 過去も未来もありません。全てはゼロかイチに帰着します」
そういう意味で聞いたのでは無いのだが。
しかし友人関係すら碌に築いてこなかった俺が友人以上に深い関係に成り有る恋人を作るなんて、予想以上に困難な道のりに眩暈がしそうだ。
「……なんかさ、もっとこう楽にできない? モテる会話術とかデートに誘うテクニックとか!」
「そういった小手先の技もあるにはあります」
「まじで?! じゃあなんで……」
「実践して、デートに行けたとして……マニュアルから外れた瞬間茂流さんのペラペラな底が見えて次はありません」
「ちょ、ペラペラは言い過ぎだろ?!」
でも一理あった。
確かに俺は自分に誇れるところが何一つない。
何かを成し遂げたことも、努力した経験も、もちろん見た目にも。
小手先の技で佐藤さんをデートに誘えたとしてどうするんだ。
こんな佐藤さんに誇れない自分、何より自分に誇れない自分じゃあ百回デートしてもうまく行く気がしない。
「まあ一つアドバイスをするとしたら、自分ではなく相手に興味を持つことです」
「相手に?」
「そう。茂流さんは愛しの佐藤さんを前にすると、相手が自分からどう見られているかばかりが気になって、佐藤さんに意識を向けられていないんじゃないですか?」
「う……」
キャットアイの言う通りだった。
俺は会話どころか佐藤さんと目を合わせることもまともにできない。
「だから自信は大事なんです。それが相手に気を回す余裕に繋がります」
「そっか……なんか自信を甘く考えてた、ごめん。でもさ、自信をつけて、それで具体的に何をすれば良い?」
「相手を知るんです。そのために質問をして下さい。今朝何食べた? とか昨日はなにしてたの? とか簡単なもので構いません。もし何か困っていそうだったら、大丈夫? とか、どうかしたの? と聞いてあげてください。大事なのは相手に興味を持つこと。自分にしか意識を向けられていない人と一緒にいても楽しくないでしょう?」
「うん、間違いない……けどそんな事聞いて気持ち悪くない?」
「はいそれ。自信のなさの表れですよ」
「あっ……なるほど」
俺は自分に自信がないあまり、相手にどう見られているかばかり気にしていた。
しかしそれではまともなコミュニケーションなんて取れるはずがない。
「相手に興味を持つためにも自信は大切です! 自分を愛せない者が他者を愛することなんてできませんから」
「もし……俺が今の状態で彼女を作ったら?」
「自分で自分を愛しきれない茂流さんは他人からの愛でそれを埋めることに躍起になって、不健全な依存関係に陥るでしょう」
「あぁ……ね」
「そもそも恋人に限らず人間関係って、一人でも楽しい人が二人でいるともっと楽しいから集まるんですよ。茂流さんは自分自身を、あるいは孤独を愛した上で誰かと共にいることに幸せを感じる覚悟がありますか?」
「お前本当にAI……?」
質問を質問で返してしまったが、人と人の在り方を説く姿はまるで僧侶の説教を聞いている気分だった。
「まあ色々言いましたが最終的にはこんな事考えなくて大丈夫です。というか相手にどう思われるか気にしすぎるとキモいので付かず離れずくらいがちょうどいいと思います」
「い、今までの話は何だったんだ……?」
話題が一旦着地したように思えるが、まだ何をやれば良いのか全く分からない。
いくら哲学的で抽象的な教えだったとしても、何か次に起こすアクションの指針くらいは欲しいものだ。
「と言う事で筋トレしましょう」
「どう言うことで?!」
抽象から具体への論理の飛躍が甚だしいが、ひとまずやることは決まったようだ。
そうして迎えた次の日。自分磨きを始めて三日目の朝だ。
キャットアイにうるさく言われて睡眠時間は必要十分にとっている。
曰く、
「筋トレとはまず食事と睡眠によって成されるものです! なので寝ることも、食べることも、全ては筋トレなのです!!」
とのことだ。
寝癖を直して、ワックスで軽くセットする。やり方はキャットアイが丁寧に教えてくれた。
このくらいなら慣れれば数分でできるだろう。
「あら、今日は早いのね。どうしたの、何か予定?」
「まあ……そんな気分だった」
リビングに着くと俺以外の家族が朝食をとり始めていた。
母親が俺の分の茶碗にご飯を盛りながら聞いてきた。
いつもはこの時間空いていたであろう席に座る。
高校に入ってから一年以上ほとんど朝ごはんを食べなかった俺の分まで、母親は欠かさず用意してくれていた。
「もう朝に兄ちゃんは見られないと思ってた」
「うっさい。まあ確かに久しぶりだけど」
「起きれた日くらいちゃんと朝飯食ってけよー」
「うん」
そうして久しぶりに朝食をとった。
これもキャットアイの提言によるものである。
まずその枯れ枝みたいな貧相な体をどうにかしましょうと、これまたひどい言われようだったが体を変えるならまずは食事を変えねばならないのも事実だ。
朝食を終えて清々しい気分で家を出る。
いつもは煩わしかった朝の斜陽が、この日は不思議と心地よいものに感じられた。
そこでふと、前を歩いていた真琴を見かける。
「真琴、おはよ」
「ん……えっシゲ!? どうしたんだその髪!」
「いやそんな驚かんでも」
会う人皆んなから驚かれていては正直こっちも疲れてしまうが、それほど大きな変化があったということなんだろう。
しかし自分の見た目に意識を向けたことで、他人の見た目の努力にも気がつける。
真琴の髪はワックスでいい感じに動きが作れているし、眉毛もキリッと整っていて、制汗スプレーの爽やかな匂いがする。こういう要素一つ一つが真琴を好青年に仕上げているんだろう。
「いやいやめっちゃビビったって! てかキマってんな、いかんじだぞその髪型!」
「ありがと。まあそれは置いといて、頼みがあるんだ」
「お、おう。随分いきなりだな」
今朝キャットアイから受けたアドバイスの最後の一個。
それ即ち。
「俺に筋トレを教えてくれ」
「お……おぉ! とうとう筋トレの素晴らしさが分かったか、シゲ!」
夏服と言えどの制服の上からでも広い背中に分厚い胸、大木のような足が窺える。トップアスリートと見紛うまでに真琴の体は仕上がっていた。
そんな真琴に筋トレを教われ、とはキャットアイの言である。
確かに素人がいきなり一人で始めるにはハードルが高いが、経験者がいてくれれば心強いことこの上ない。
「いやそういうんじゃなくて。ただ、自分に自信を持てるような体になりたいっていうか……」
「任せとけ! じゃあ早速今日の放課後な!」
「え、真琴部活……はそうだった。行けてないんだったな」
「おう! 最近はもっぱら体づくりに専念してる。実はトレーニング仲間もできて、意外と寂しくないんだこれが」
「トレーニング仲間?」
「お、噂をすれば。おーい、立花! おはよ!」
溌剌とした声で呼び止めた先にいる人影は、一目でその人と理解できた。
呼び止められて振り返ると、少し明るい髪が風に揺れる。
クラスの一軍女子、立花世楽だ。
解決な動きでこちらが行くまでもなく逆走してきた。
そのまま俺は真琴と立花さんに挟まれる形で歩き始める。
「真琴くんおはよ! それに森くんも! やっぱその髪型似合ってんね〜」
「お? 立花ってシゲと仲良かったっけ?」
「うん、マブダチ!」
「え、いや。まあ恩があって」
「……? まあよく分からんが仲がいいのはいいことだ!」
立花さんと二人で買い物をしたことは、万に一つの誤解も与えないようにするためぼかしておいた。
真琴は何も理解していないようだが、それでも何か納得が行ったような表情をしている。
「でさ、なんの話してたの?」
「えっと、真琴に筋トレ教わりたいなーって」
「マジで!? じゃあ一緒にトレーニングできるね!」
「え、なんで立花さんと?」
「おおそうだ。実は最近、立花と一緒にトレーニングしてるんだ」
「えぇ?!」
意外な繋がりだった。
確かに二人はクラスでもよく話しているが、一緒に筋トレをするほど仲が良かったとは。
「市営の運動施設があるだろ? 俺は最近行き始めたんだけど、立花は結構前から使ってたらしくてな」
「うん! 下校途中でちょっとよってトレーニングしてる。たまたま真琴くん見つけてびっくりしちゃった」
「あ、そういうことか」
真琴が部活に行かなくなったのは最近の話だが、その間に二人は同じ施設で筋トレしていた訳か。
「って、市営の運動施設ってことは……ジム?! いや、俺腹筋とか腕立てとかするもんだと……」
「自重トレーニングも確かに捨てがたいが、フリーウェイトはいいぞ! 筋肥大効果が大きいし体づくりにもってこいだ」
「高校生だと半額で入場できるし、めんどくさい会員制じゃなくて一回づつ利用料払うタイプだから、とりあえず行ってみない?」
「そうそう! 立花も今日の放課後いくよな?」
「うん! 今日は背中の日!」
「よし、じゃあ放課後はみんなで合トレだ!」
「おー!」
「ま、まじか……」
そんなこんなで放課後の予定が決定してしまった。
教室に入るといつもの一軍グループが集まって話していた。
俺がそそくさと自分の席に向かおうとしたところ立花さんから、
「森くんも一緒に話さない?」
と誘われた。
が、真琴と立花さんならまだしも会話したことのない四人、それも一軍のグループに混ざることなんて俺にはハードルが高すぎる。
朝のホームルームまではまだ時間があったため、俺は適当な理由をつけて教室から出ることにした。
その反応を見て少し残念そうな顔をしていたが、気を遣ってくれたのかそれ以上は誘ってこなかった。
こういう気配りができるのも、さすが立花さんだった。
行くあてもなく廊下をふらふらしていると。
「え……森くん?!」
不意に後から声がかかった。
その声はまさか。
「佐藤さん……!」
「すごっ、めっちゃイメチェンしたね! いい感じだよ〜。じゃあ、記念に一枚撮っときますか」
パシャリとシャッターの切られる音が廊下に響いた。
「うん、やっぱ印象良くなった! 前回よりも写真映えしてる」
「あ、ありがと」
満足のいく仕上がりだったのだろうか。嬉しそうにとった写真を見る佐藤さん。
少し誇らしそうな笑顔から、目が離せない。
こんないい顔をしてくれるなら、一生佐藤さんの写真のモデルでいたい。
「あ、そうだ。前撮った写真現像しといたよ。部室にあるから取り行こ?」
「え?! あ。じゃあ、よろしくお願いします」
なんという僥倖だろうか。
前回撮ってくれた写真を現像してくれたらしい。
いや、そんなことは二の次だ。もっと重要なのは佐藤さんともう少しの間一緒にいられることが確定した点にある。
写真部のある教室まではここから少し離れているから、少し会話する時間もあるだろう。
ここはキャットアイのアドバイスに素直に従ってみる。
確か、相手に興味を持つだったか。
「……あの。佐藤さんはなんでカメラが好きなんですか?」
「んー厳密に言うとカメラが好きって訳じゃないんだよね。あ! もちろん写真を撮ることもカメラも好きだけど!」
「へぇ〜。そうなんですね」
「ふふっ、なんでさっきから敬語なの? うちらタメだしもっとラフにいこうよ」
「あ、そうです……そうだね」
今まで人との会話を避けてきた自分が憎くてならない。
ここ数日はキャットアイとか周りの人のおかげで格段に会話量が増えた。そのためまだなんとか受け答えはできているが改めて俺の一挙手一投足には違和感が付き纏っている。
「そうそう、カメラの話ね。実はうち、記者目指してるんだよね。だからカメラはそのための手段ていうか……とりあえず持ち歩いてたくさん写真とる癖をつけてる感じ!」
「そ、そうだったんだ」
知らなかった。
今まで一年強に及ぶ高校生活の中で、いつから好きになったかはもう思い出せないが、それでも長いこと佐藤さんを目で追っていた気がする。
けれど佐藤さんの夢やカメラを常に携帯している理由なんて、本当に知らなかった。
これが相手に興味を持つこということなのか。
自分のことで手一杯だった時と比べると、少しだけれど相手に近づけている気がする。
「部室ついたよ。入って入って」
「お邪魔します……」
幸せな時間はなんと早く過ぎるんだろうか。
校舎の廊下がこれほどまで短く感じられたことはない。
「はいこれ! ん〜改めてみると本当に変わったね!」
「ありがと」
佐藤さんから手渡されたのはつい先日の俺だった。しかし髪はボサボサで目の下にはクマがあり、おでこは突っ伏して寝ていた為か赤くなっているし、片耳にはイヤホンが刺さっている。
なんというか、ダサすぎる。
こんな姿を晒して歩いていたのか。
「ほら比べてみて」
「え、あっ?!」
俺の隣に、先ほど撮った写真をカメラのスクリーンに写した佐藤さんが並んだ。
不意に近づいた距離に、勢い余って揺れた黒髪が首筋をかすめ、触れ合った肩の感触に全身が戦慄く。
布数枚の先にあるはずの表皮がひどく近くにあるような気がして、体温や呼吸による微細な上下動さえ感じ取れてしまった。
「ね! 全然違う」
「……」
アーモンドのような綺麗な形の双眸が、俺の方を向いている。
動揺を決して悟られないように、指先が緊張で震えないように、必死で感情を押さえつける。
しかし呼吸のたびに鼻腔をくすぐる佐藤さんの匂いのせいで、地面の感触すら曖昧になるほど冷静さが失われてゆく。
並べられた写真の変化は、確かに凄まじいものだった。
同じ人物と思えないほど印象が良くなっている。
あるいは清潔感を獲得したといった方が良いのか。
しかしそんな変化はもはやどうでも良かった。
そんな客観視を超えてまるで他人事のように見てしまうほど、今俺の感覚は現実と乖離したところある。
「あ、ショートホームルーム始まっちゃう。クラス戻ろっか」
「はっ、あ。……うん」
永遠のようにも、一瞬のようにも感じられる時間だった。
引き離された二人の距離に呼応するように、まともな思考が蘇る。
教室に向かうまで他愛もない話をしていたと思うが、内容は思い出せない。
それほどまでに写真部の部室での出来事が、脳の回路を焼き切るほど鮮烈に記録されていた。
そのままぼうっとしていたら放課後だった。
真琴と立花さんに連れられて、高校から徒歩十分程度の市営の運動施設へと向かう。
こうして話は冒頭に戻るわけだ。
「いやあ、お疲れー! 今日も良いトレーニングになったな!」
「うん、お疲れさま! あたしも久しぶりに追い込めた気がする!」
「……はぁ。しっ、死ぬって……なんで二人ともピンピンしてんだよ……」
真琴と立花さんは俺の何倍も動き回っていた。
にも関わらず満足げな表情でダウンのストレッチをしている。
二人とも肌に張り付くような薄手の格好をしているためか、引き締まった綺麗なボディラインが浮いて見える。
真琴の体はさることながら、立花さんも程よく乗った脂肪が繊細な筋肉に後押しされて、アスリートのようなハリのある体をしていた。
華奢ながらも確かな立体感のある体幹、そしてスラリと伸びた四肢は健康美という言葉を体現したかのような美しさだ。
ジムにはやたらと鏡が置いてあるからいっそう自分の体を客観視できて、そんな二人との差が浮き彫りとなる。
そうして自分の体への卑下か、あるいはカッコいい体への憧れがひしひしと募る。
「それじゃあプロテイン飲むか。シゲも買ったんだよな、トレーニング後三十分がゴールデンタイムだぞ」
「水汲みいこっか!」
「あ、うん。今立つから……」
薬局で最後に買った一品はプロテインだった。シェイカー付きとはいえ一キロ五千円というあまりの値段に最後まで買うのを渋っていたが、熱烈なアピールに押されて購入してしまった。
というか、当たり前のように真琴も立花さんもプロテインを持参していて、要らない要らないと駄々を捏ねていた俺がマイノリティのように感じてしまう。
「あーっうまい! 筋肉に染みる〜」
「あはっ! 筋肉って、ウケる!」
「……そんなにうまいか、これ?」
味は薄めのチョコ味で、ジュースの方が何倍も美味しいと思う。
「これでも最近のプロテインはだいぶ飲みやすくなったんだ。俺が中学生の頃なんて鼻つまみながら飲んでたよ」
「へぇー! あたし飲み始めたの高校からだし、ほんと最近なんだね」
「我慢するくらいなら飲むなよ……」
「いやいや、俺は全人類プロテインを飲むべきだと思ってる!」
「いや何でだよ!」
「人間一日に必要なプロテイン、つまりタンパク質の量は体重かける一グラム以上って言われてんだ。つまりシゲなら四十グラムくらいだが、これは卵七個分に相当する」
「な、七個?! だいぶキツくないか、それ」
適当に突っ込んだつもりが、かなり真面目な返答が真琴から帰ってきて正直ビビった。
「ほんとほんと! それだけとってもあくまで維持するだけで、体を大きくしたいなら体重かける二グラムは欲しいし。けどこれは相当意識しないと取れないんだよねー」
続く立花さんも案外シビアなプロテイン事情を語る。
なんで二人はこんな筋肉に詳しいんだ……?
「じゃあ俺は卵十四個か……絶対無理だ」
「だからこそプロテインで足りない分を補給すると良いんだ!」
確かに、それなら納得のいく道理ではある。
普段の食事から肉多めを心がけてプロテインもしっかり飲んでいれば、こんな枯れ枝ボディともおさらばできるかもしれない。
「てか立花さんも飲んでるけど、女子って筋肉つくの嫌がるんじゃない?」
「んー、プロテイン飲むだけじゃ筋肉はつかないよ?」
「えっ、まじで?」
純粋な疑問を口にしたが、立花さんはちょっと困った顔で言ってきた。
素人あるあるの認識ミスなんだろうか。こういうことを普段から聞かれているのかもしれない。
「うんうん、タンパク質はあくまで筋肉のもとだからね。大きくしたいならめっちゃきつい筋トレをコンスタントにやり続けないといけないし。それにタンパク質は髪の毛と肌の原料でもあるから、ちゃんと摂ってあげるとツヤとかハリが出てきてむしろそっちの方がメインて感じ! 変な誤解があるみたいだけど、筋トレしなくてもプロテインは飲んだ方がいいってあたしは思うなー」
プロテインに対する認識が一気に変わった気がする。
今まではゴリマッチョだけが飲んでいるイメージがあったが、これからの時代健康品や美容投資の一環としてプロテインを買い出す人が多くなるのかもしれない。
「なるほど、筋トレとプロテイン……なんか一気に考え方が変わった気がする」
「ならよかった!」
「うっし、じゃあ良い時間だし今日はシャワー浴びて帰りますか!」
「うん、お疲れー! また合トレしようね、森くんも!」
「あ、はい……お手柔らかに」
そんな感じで今日の合トレが終わった。
一人じゃあ絶対に続けられなかったかもしれないけど、二人が一緒ならあるいは継続できるかもしれない。
いつか真琴のようなカッコいい体になったら、小手先の会話術やデートテクニックなどでは決して手に入らない、本物の自信だって身につくかも。
ムキムキのバキバキになった自分を妄想しながらシャワーを浴びる。
三人がロビーで揃うと最寄りの駅までだべりながら向かった。
駅に着くと真琴は「ちょっと寄るとこがあるから」と徐に言った。
じゃあまた明日と軽く別れを告げて、俺と立花さんは駅のホームへ向かう。
どうやら立花さんと俺は同じ方面らしい。
「森くん家こっちの方だったんだ」
「うん。まあここから一駅で最寄りだけど」
「へぇ近いじゃん!」
「立花さんは家どの辺なの?」
「うちは十三駅先かな」
「遠っ?! 一時間くらいかからない……?」
「まあ慣れれば苦じゃないよ? それに……」
「……?」
続く言葉を言い淀む立花さん。
今までこんなことはなかったから少し驚いた。
「……高校は、小中の知り合いが居ないとこがよかったんだ」
「何で? ……あっ、言いにくいことなら全然答えなくていいから!」
疑問を口にしてから気がついた。
聞いてはまずいことだったかもしれない。
せめて少し前に察することができていれば……
「んー、まあ色々あって。……実はあたし、中学まで超地味ぃーな感じの子だったの」
「そんなまさか……」
カーストトップの今の姿からは決して考えられなかった。
美意識の高い人間の自己評価なんて正直当てにならないとすら感じてしまう。
しかし、次の瞬間戦慄した。
「これ、他の人には絶対見せないけど。……森くんだけ特別ね?」
「っ!? ……これ、立花さん?」
「……うん」
スマホに映っていたのは中学の卒業写真と思しき一枚だった。
そこには知らない制服を着た立花さんらしき人が映っている。
「全然違う。別人……じゃあないか、流石に」
「ふふっ、褒め言葉として受け取っとくね」
今日佐藤さんから見せてもらった写真の変化を、何倍にもしたような違いがそこにはあった。
「あたし結構自分磨き頑張ったんだよね、まあ現在進行形だけど!」
「すごっ……イケてる人ってそういう星の元に生まれるもんだって思ってた」
「あはっ、なにそれ〜! とにかく最近の森くん見てたら昔の自分見てたみたいで……つい応援したくなっちゃった!」
「だから……」
服の件と言い筋トレといい、何でここまで献身的にサポートしてくれているのかと思ったら俺に過去の自分の面影を見ていたようだ。
「あたしにできることは何でもするからさ! 相談してよね、特に好きな子のこととか……!」
「えっ、いやそれは……あっ、最寄りだから降りるね」
「ちぇっ、タイミング悪いなぁ。じゃあ今度に取っとこう! また明日ね、森くん」
「うん、また明日」
近くにいるのに大きなそぶりで手を振る立花さんに、俺は控えめで応じる。
夕陽に向かって進む電車を見送ると、立花さんの過去への衝撃が遅れてやってきた。
それは同時に、俺も立花さんみたいに変わりたいという鮮烈な憧れにも似た感情だった。
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