Mリーガー 打牌批判はありなのか?という愚問にケリをつける
写真は勝又リスペクト、内容はかなりdeepなものとなり、それなりに長大なnoteとなってしまいました。もし気が向いたら最後までお付き合いください。
それから「今、このnoteが面白い」に今回noteピックアップされました。麻雀関連のnoteでピックアップされるのはおそらくかなり珍しいと思う
ある夜、韓国ラーメンという看板がかかった店があったのでふらりと入ってみた時の話になる。韓国ラーメンがどんなものか期待して席で待っていた。ところがだ、出てきたのはなんと日本のインスタントラーメンよりも数段味が落ちる化学調味料で味付けされたチリジリの韓国インスタントラーメン麺だったのだ。外食でいきなり袋入りの日清の「サッポロ一番」が出てきたようなものだ。
もちろんその店は数か月でつぶれた。美味いか不味いかの評価を下す以前であり論外であった。一方フランス料理の店で美味しいものをリーズナブルな値段で食べられれば、人は美味かったと思わず感想をもらすに違いない。
このように意識せずとも外食した際、人は皆その料理に何らかの評価を下している。もし仮に不味いものを出されても、せっかくプロが作ってくれたものなのだから、その店を批判すべきではないという不文律があったとしたらどうだろう?
あるいは決して美味くない中華料理を食べて、「不味い」という評価を率直に下した時、その食事をしにきた素人に向かって「じゃあ、お前が作ってみろ」というプロの料理人がいたらどうだろうか?
サービスを提供する者とそれを享受する者、根本的な立場が違う以上、筋が違う話ではないだろうか?
例えばかつて多井が「じゃあ、お前の牌譜見せてみろ」と素人に凄んだそうだが、これもプロとして超えてはいけない一線を明らかに越えている。はっきり言って筋違いだ。
同様にプロのすることはすべて正しく肯定するのが正義と思い込んでいる熱烈なファンがある批判コメントに対して、「じゃあ、お前が打ってみろ」という反論もいささか稚拙なのである。
いずれもショービジネスのあり方を根本的にはき違えている。
しかしだからと言ってファンはプロに対して何をいっても許されるのだろうか?SNSが発達した現代において、批判をするにしても直接に本人へ届く時代に入ったために、罵詈雑言を無神経に浴びせればそれは一種のハラスメントとなってしまい、最悪タレントが自殺へ追い込まれる事件がこれまで起きている。これもファンが明らかに行き過ぎている。
観られるプロも、観戦するファンにも、踏みとどまるべき一定のラインというものがあるのではないだろうか?それは明確なラインが規定されていないからこそ、どこで踏みとどまるかが互いにとって極めて重要になるのだ。
先に挙げた多井の行き過ぎた発言も、多井に対して批判を繰り出したファンの方にも何らかの問題を孕んでいた可能性は十分にあると言っていい。
例えば、最下位ドリブンズの丸山は負けが込み監督批判をしないでくれとファンに向かって言っていたが、逆に言えば賞賛だけはOKだということになってしまうではないか。(批判のみを許さないということは、図らずもファンは選手を神の如く崇めるべきだという結論になってしまう)丸山の気持ちはわからなくはないが村上が箱ラス超人であり、丸山がプラスだったにもかかわらず丸山の試合数を大きく絞ったのは完全に監督の采配ミスであり批判されてしかるべきだったと思う。
プロもふつうにミスもするし、神様でもなんでもないのである。
ひたすらに甘い言葉をかければそれが本当のファンだとも思えないが、一方で口汚く罵るところに健全な批判精神が宿っているとも思えない。ファンとしてあるべき健全なる批判精神とは?をテーマにしてその辺の塩梅について深く探求してみたい。
それではいってみましょう。
「お客様は神様です」
三波春夫はそう言った。
果たしてファンとはすべてが許されるべき神様のような存在なのだろうか?まずは三波春夫一流の心得としての「お客様は神様です」の真意から述べていきたい。
人口に膾炙している有名な言葉ではあるが、言葉は完全に曲解されており、ともすれば現代においては大量のモンスタークレーマーを製造する餌ともなっている。
ところでMリーグは現在、ネットでも芸能にジャンル分けされて記事も発信されている。芸能という意味では三波春夫もMリーグも同じジャンルに属すると言える。
では、日本における芸能の原点とは何か?
それは日本の神話にあり、天の岩戸にお隠れになったアマテラスオオミカミのご機嫌を伺うべくアメノウズメノミコトが八百万の神々の前で踊りを披露する神話が原点と言われる。古代の乃木坂こそが日本芸能の原初にあると言ってもいいだろう。
芸能にはその根底に神への奉納、神事としての部分がある。三波春夫にとって歌うとは、一種の神事でもあり、その心得として語った言葉であった。
三波春夫はこのように語っている。
「歌う時に私は、あたかも神前で祈るときのように、雑念を払って、心をまっさらにしなければ完璧な藝をお見せすることはできないのです。
ですから、お客様を神様とみて、歌を唄うのです。また、演者にとってお客様を歓ばせるということは絶対条件です。だからお客様は絶対者、神様なのです」
八百万の神々の前で踊りを披露するという芸能における原初の風景。目の前にいるお客様の一人ひとりを神様と見立て、厳粛な気持ちで芸能と向き合い、歌を表現していたのが三波春夫であった。
ショービジネスのMリーグにとって「お客様」とは「ファン」に相当する。Mリーグを例に取るならば、すなわち客観的にファンそのものが神様だと三波春夫は言いたいのではない。
あくまで三波春夫の主観としてお客様の一人ひとりを神様と見立て、居住まいを正し、歌唱を披露したという話に過ぎないのだ。
ところがレッツゴー三匹が三波春夫の「お客様は神様です」を漫才の笑いとして取り入れて以降、気が付けば日常のお茶の間でもすっかりおなじみの言葉になったのきっかけに、いつしか三波春夫の芸能に対する深い哲学めいた言葉は本来の意味が失われ、サービスをする店側を下に見るモンスタークレーマーの都合のいい文言になってしまったようなのだ。
結論としては、Mリーガーに視聴者がコメント欄で好き勝手、何を言っても許される免罪符として「お客様は神様です」という言葉を安易に使ってはならない。
やはり超えてはならない一線をファンも自ら設定し、健全なる批判精神を涵養していかなければならないと考えている。特に後知恵バイアスに嵌り結果論で乱暴に批判することは避けなければならない。
三波春夫一流の心構えの話は、芸を究めようとするMリーガーにとっても参考になる部分はあるのではないだろうか。神事としてMリーグの舞台に立つ、そんな選手がいてもいいではないか。
一方で三波春夫とは真逆の意味を有するエピソードとしてホークス前監督の王貞治の話を是非、ご紹介したい。
より抜粋
《翌8年5月9日の近鉄戦(日生球場)で敗れて9勝22敗と低迷。その時、事件が起こった。帰りのバスがファンに囲まれ、「王、やめろ!」コールに加え、バスに生卵を投げつけられたのだ。
有名な生卵事件。Mリーガーが時には酷い誹謗中傷を受けようとも、王監督のように卵まで投げつけられた選手はなかなかいないはずだ。
酷い仕打ちを受ければ人情としては、それに耐え忍んだり、あるいは法的手段も含めて対抗したくなるのかもしれない。ところが、勝敗の厳しい世界で生きてきた王貞治は本物のプロフェッショナルはどうあるべきかを示してみせた。
帰路のバスの中で指揮官は口を開いた。
「ああいう人たちが熱烈なファンなんだ。勝っても負けてもすぐに帰ってしまうような人たちより、ああいう厳しさを出してくれるのが本当のファンなんだ。あの人たちが喜んでくれるような戦いができるようなチームにしよう」と話しました。熱烈なファンがわざわざ卵を持ってきて投げたのです。選手たちもびっくりしたでしょう。でも恨むのではなく大事にしようと。
生卵を投げつけてきたファンこそが、本物だと言い切れる境地までたどり着くまで、人はどれだけの道のりを歩いて行かねばならないのだろう。
この生卵事件を梃子にして、ホークスは2010年代黄金期を迎え、プロ野球の盟主として君臨することになった。全盛期を迎えるにあたってすべての始まりはこの王監督が示した気迫こそが原点にあると言っても過言はない。
以上、我々がこれらから学べることは、三波春夫の例からわかるように何を言っても許されると勘違いしているファンは一定数いるが、決してファンとは神様そのものなどではない。しかし同時に、王貞治のエピソードに学ぶならば、モンスター化したファンこそが真の神様にもなり得るということにもなる。
こうした二つの矛盾する側面を孕みつつも、ではファンの健全なる批判精神はどうのように醸成されるべきなのだろうか。
打牌批判はありか?という繰り返される問い
もしそう問われたならば設問自体が、もはや愚門であるとしか言いようがない。なぜならショービジネスの醍醐味とはファンにとって結果についてああでもないこうでもないと、下らない話を通しコミュニケーションを交わせるところにあるからである。
打牌批判はありの一択である。
しかしながら神目線ですべての状況を見渡せるからこそ、結果論に陥ることなくファン自らもまた観る目を鍛え上げてゆく努力が必要になるのではないだろうか?
最後に当noteの観る麻雀のポリシーを示してこのnoteを締めくくることにしたい。
より再掲
戦いである以上、勝者と敗者は必ず生まれます。
勝者を褒めたたえ、敗者になった時は慰める、こうした応援のスタイルが良心的なファンの多くには広がっています。一方、ガチ勢と言われる者たちは、女流が勝てば運だけ、負ければ鬼の首でも取ったかのように罵詈雑言を浴びせるというスタイルを確立しています。
このnoteではそもそも勝者と敗者の両者を分けている根源的な「戦いの原理原則」に着目し、そこに開かれているであろう言葉をつかみ取るべく、ロゴスの深みへと降りてゆくべく知的な試みをしている。
過去のnoteでも世阿弥の花伝書やアリストテレスの哲学を足場にしていたのはそうした事情があるからです。自分の主観だけではとても頼りにならない。どうしても過去の膨大な時間の中で消費されえない人類における不滅の言葉、古典を大事にするスタイルが必須になる。
当noteはMリーグの戦いにおけるロゴスの獲得を目的としていると言ってもいい。
そして更に申し上げるならば、ロゴスの獲得ために重要になるのが「見る」のではなく、「観る」という行為です。
では「見る」は「観る」とはどこが違うのでしょうか?
ギリシャ哲学で「観る」ことを観想と言い、テオーリアと言います。このテオーリアこそがセオリーという英語の語源ともなっている言葉なのです。
「見る」のが勝って喜び、負けて悔しがるといった感情レベルでのものであるならば、「観る」とは少なくとも私にとっては根源的な戦いのセオリーにまで透徹するような深い眼が必要となってくるのです。
追伸
下記のnote結論部分について加筆修正を加えました。フェニックスはチームとしてどう打つべきのか?さらに一歩具体的に言及させてもらった。購入してもらった人は是非ご覧いただきたい。わずか100文字に過ぎないが、よりすっきりしたと思う。
