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失敗したところでやめてしまうから失敗になる

クイズマニアはいつも問題を探している、とよく言いますが、同じように活字中毒者はいつも読むものを探しています。

たとえば私はカメラや洗濯機の説明書も、グラノーラの袋の栄養紹介も、折込チラシの売り文句も、ファッション誌の「トレンドのワイドシルエットに長めの丈、センタープリーツが現代的なシックカジュアルを実現し……」といった豆粒級に細かい文章も、ほぼ必ず目を通します。
もしも、そういった文章を書く担当の「こんなの誰も読んでないし」と腐っている人がいれば、僭越ながら、いえいえ、ここにちゃんと熟読している人間がいますよ、とお伝えしたい気分です。

特に意図や目的がなくとも、そこに山があるから、と同じ仕組みで活字さえあれば何でも自動的に読み始めてしまうのですが、あまり共感はしてもらえません。


それでも私の知る何人もの人が、ああ、あれは読むよね、とか、結構好き、などと口を揃えて言うのが〈伝道掲示板〉です。お寺の入り口前などに掲げられた、何らかの連絡事項や行事予定、仏典の一節などが記されたボードです。

日本はお寺の数がコンビニよりも多いと言われるように、私が暮らす地域にも半径500メートル以内に各宗派のお寺が5軒は建ち、うち3軒の門前には、やはりこの掲示板が置かれています。

中でも私のお気に入りは自宅からほど近い浄土真宗のお寺で、そこに記された文句の破天荒ぶりはなかなかなのです。
普通こういった場合に選ばれる言葉は〈和顔愛語〉や〈実るほど首を垂れる稲穂かな〉など、なるほどごもっともです、とうなずきたくなるものが多いのですが、そのお寺の住職さんはご年齢、それとも精神がお若いのか、引用する語句や人物がかなり風変わりです。

もちろん聖典の言葉などの場合もありますが、他にはジャンプ連載漫画の名台詞、人気YouTuberのつぶやき、ヘビーメタルバンドの歌詞、峰不二子のクールな決め文句まで。
ご年配や真面目なタイプの信者さんに叱られないか、やや心配になるほどです。
それでもご近所の方とその文言について盛り上がったこともあり、案外私のような固定ファンも多くついているのかもしれません。


そしてもう5月も終わりながら、今月の言葉の主役は松下幸之助さんでした。このお寺の住職さんにしては、かなり手堅い人選と言えるでしょう。
ボードには、手書きの美しい文字でこうあります。
「失敗したところでやめてしまうから失敗になる。 松下幸之助」

自転車で通り過ぎざまに読み、思わず、おお、と声が出そうになります。さすが経営の神様。どこかで触れた覚えのある名言ですが、私はこちらのお寺の住職のファンのため、あらためて読むとことさら味わい深い思いがします。

お寺の前を離れ、自転車を漕ぎ続けながら、頭の中にはその言葉が誘うイメージ、広がっていく思考の波紋でいっぱいです。

失敗したままでいるから失敗、ということは、全てはカテイということです。この場合のカテイには、過程と仮定、ふたつの漢字が当てはまります。
そしてそこから、これはまさしく流れる川で、岡本太郎で、〈人間万事塞翁が馬〉で、“揺れる心と旗”だと連想がつながります。

もとより日本人は短いフレーズに世界を閉じ込めるような言葉遣いが得意な民族ですし、
ラ・ブリュイエールの箴言のような鋭さはなくても、これは一言で人生の極意を表し、豊富な地下水脈のありかを示す目印のような言葉ではないか、と一人で軽い興奮状態に陥ります。


けれどあながち間違った解釈はしていないはず、と思うのは、経営の神様のその言葉は、人は常に連続性の中に生きている、という事実を下敷きにしているという確信があるからです。

私の大好きな、古代ギリシアの哲学者ヘラクレイトス、そして鴨長明。2人は洋の東西と時代を超え、全く同じ例えで世の真理を語っています。同じ川の流れであっても、同じ水に触れることは不可能、すなわち、どのような場面状況でも、2度と再び同じことが繰り返される可能性はない、と。

ヘラクレイトスはこれを万物流転と言い表し、まさに人も物事も、この世の総てはたちまち変化し、移ろうものだと看破しました。

“失敗した”というのが事実でも、いつまでもそれにこだわる道理はなく、ある時点で派手に転んでも、倒れたままでいる必要もありません。あらゆる状況も自分自身も刻一刻と変わっていくのであれば、またやり直せばいいだけです。

「負けたって構わない。輝くような敗北者にだけ、何度でも再挑戦の権利が約束される」
岡本太郎の言う通りです。


それに、もしかしてその失敗は成功のための布石であり、必要不可欠なことでさえあるのかもしれません。
巷で聞くような、あの人に振られてよかった、おかげで今の恋人に出会えた、という話。
面接に落ちてどん底だった、でも今の会社の方が自分に合ってる、という話。
急いでも特急に乗れなかった、ただあれに乗ったら途中の事故で何時間も缶詰だったんだよね、という話。

災い転じて福となす、〈人間万事塞翁が馬〉そのままです。
このいかにも大陸的で大らかな故事の世界では、世知に長け何物にも動じない老人が、全てにただ一つの言葉で応えます。
「そうかもしれない。そうでないかもしれない」

大切な馬が逃げても。その馬が別の馬を伴って戻って来ても。一人息子が落馬で大怪我を負っても。おかげで徴兵を逃れても。
周囲の人は都度ごとに老人に災難でしたね、良かったですね、などと口にしますが、老人は決まって先の一言しか答えません。

起こる出来事のいちいちに反応して騒ぐのは無駄でしかなく、物事の真の意味はより大きな流れの中でしか見定められない、という達観ゆえです。


少し連想が飛躍しますが、禅の公案に面白い話があり、ある二人の僧が、風になびく旗を前に口論します。一人は揺れているのは旗であり、もう一人は風だと言い張るのです。
それを聞いた師は一喝します。
「揺れているのはお前たちの心だ」

意識を持たない旗は吹く風の方向や強弱、それに対しどう動こうか、などということを考えるはずもなく、強風に吹かれる時はそれに任せ、穏やかな時にはただ垂れ下がります。
もしも自分自身をこの旗、吹く風を世の出来事と考えたなら。

風の意を問うこともなく、その時々に合わせてただたなびけば、身は揺れても心は揺れずにいられそうです。
これは自分の意思を放棄するということではなく、たとえば強風や嵐のような、自らのコントロールの範疇を超えた出来事に対する心構えです。風を読んで帆船を走らせる船乗りと同じく、暴雨風の中で少しも動かないでいようとか、そよ風もないのにはためこうとか、意味のない頑張りを続けていても仕方がありません。

もしこういったことを心に留めていられれば、あの賢老に近づくことも、太郎さんの不屈の精神に倣うことも、ヘラクレイトスと鴨長明の慧眼を活かすことも可能になるかもしれません。

何せまだ物語の途中なら、たとえ大敗を喫しはしても、その先に痛快などんでん返しが待つ展開だってあるのですから。
あきらめずにもう一勝負挑む頃には、もう風向きも変わっているかもしれませんし。


などと、たった一行の言葉を大いに楽しみながら、目的地に到着しました。駐輪場に自転車を停め、渋々建物の入り口へ向かいます。

松下さんの言葉は心を鼓舞し、励ましてもくれましたが、今はまた別の励ましが要りそうです。
今度、住職にお願いしてみましょうか。“歯医者の受診を勇気付けるものを”などとリクエストすると笑われるかもしれませんが、博識な方ゆえ、ぴったりな言葉をご存知かもしれません。『スヌーピー』あたりに、ぴりっと効いた一言がある気もします。

もしも心当たりのある方がおられれば、何とぞご一報を。



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