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『雨上がりの航海 ― 君と生きる物語』   

あ ら す じ

 自由奔放で多趣味、海とバイクと猫を愛する蓬莱航(32歳)。
明るく前向きに見える彼だが、仕事では学歴の壁に苦しみ、
容姿へのコンプレックスも抱えていた。
 そんな航の人生を変えたのが、三上千春(28歳)との出会いだった。
2人は少しずつ距離を縮め、 友人の田崎守の支えもあり、航は“生きる
喜び”を取り戻していく。
 しかし幸せの最中、医師から告げられたのは 「中耳がん。5年生存率30〜40%」という残酷な現実。 航は愛する人を悲しませまいと、弱さを隠しながら病と向き合う道を選ぶ。
 死の影が静かに寄り添う日々の中で、 千春は“自分の人生をどう生きるか”を決め、 航は“生き抜く意味”を見つけていく。
 そして現在。 航は終の住み家で、海を眺めながら静かに生きている。
バイク、車、ヨット、音楽―― かつての喜びは今も彼のそばにある。
 明るく楽しい日常の裏側に、 誰にも避けられない“死”の影がある。
永遠はどこにもない。
 だからこそ、航と千春の生き方は美しく、
人の物語は“雨上がりの海”のように静かに輝いている。


前 編 『恋と出会いの航海』

プロローグ
 風が帆を叩く音は、今でも耳に残っている。その音に、千春の肩が小さく震えた。初めてヨットに乗った彼女は、海や風よりも、俺が右手で握る
ラダーと、左手で操るラインの動きを恐れていた。
「どこへ行きたい? 函館でも行こうか」 「あなたのお勧めのところへ」 「じゃあ、あの世か? 心中でもどうだい。君の命は今、俺のものだよ。
浅虫温泉では、昔から愛は命がけなんだ。俺の操船ひとつで、行き先も命の重さも変わる」
「君を死なせはしない。俺も死なない」 「もちろんよ。死ぬのはいや。できれば函館にして。何時間くらいかかるの?」 「風と運しだいだな。明日の夜明けには着くかもしれない」
 俺の愛艇はヤマハ・シーマーチン。13フィートの小さなディンギーだが、何年も操ってきた相棒だ。
ラダーを握る手に伝わる海の重さ。 風を読むたびに変わる艇の姿勢。
そのすべてが、なぜか甘く感じられた。
 俺の操船ひとつで、2人の行き先も命の重さも変わる。
その緊張感が、若かった俺たちをどこか遠くへ連れていこうとしていた、
あの午後の海だった。


 あの海の午後から、1月ほど前、 陸での俺はいま、DUCATI F3を相棒に
している。
 セルを回すと、F3のエンジンが低く唸った。 今日は天気もいい。八甲田のコーナーに挑むことにした。 つづら折りのカーブが好きだ。 ブレーキと
アクセルの絶妙なコントロール、 自分の心との勝負――負ければ転倒。
「さあ行くぞ、F3」 心の中で呟き、アクセルをひねる。 F3は今日も絶好調だ。 しびれるようなエンジン音、風を切る感覚、 身体に伝わる振動と加速に酔いしれていく。 風が心地いい。最高だ。
 信号が変わり、バイパスへ。 時速120キロで1つ目、2つ目のトンネルを抜ける。下見のつもりで流しているだけなのに、長いトンネルを抜ける瞬間、いつも“何かが変わる予感”がする。 実際には何も変わらない。
変わりたいのは、たぶん俺自身だ。
 ここからはコーナーが続く十和田北線。 何十回も走った道なのに、
やはり少し怖いと感じる自分がいる。
臆病なのかと自問しながらも、 そんな自分が少し可笑しくも思える。
 右、左、また右。 ブラインドコーナーが迫るたび、 頼れるのは感覚だけ。 車体を倒すたび、 自分の身体とF3だけが世界のすべてになる。
今日も調子はいい。 萱野茶屋まではもうすぐだ。
 “1杯飲んで3年長生き、2杯飲んで6年長生き、3杯飲んだら死ぬまで生きる” そんな冗談のような話を思い出しながら、 茶屋で少し休んだら酸ヶ湯へ向かうつもりだ。 バイク乗りは変態だ。 怖いのに楽しい。まるでお化け屋敷に入る前のあの感覚。
 ストレートで、音と見た目だけ派手なハーレー軍団を発見。遅い。もっと走れよ。 時速40キロじゃ物足りない。短いクラクション――F3特有の“グゥー”という音を鳴らし、左手でサインを出して追い越す。 男4人、女2人。
バイクショップのツーリングチームだろうか。
 湯けむりが見えてきた。 「酸ヶ湯」だ。 車もバイクも人も多い。
今日は日曜日か。 雲谷そばでも食べて、山を降りるとしよう。

 ドアを押し開けると、カウベルが カラ〜ン、コロ〜ン と軽やかに響いた。
「いらっしゃいませ。あぁ、航さん。今日はどこまで……?」 いつもの店員が笑顔で声をかけてくる。
「酸ヶ湯まで。けっこう混んでたよ」 「日曜だもんね。航さん、アイスコーヒーでいい?」 「うん、アイスコーヒー」 「はぁい、かしこまりました」
俺はいつもの窓際の席に腰を下ろし、 路上に停めたF3をちらりと確認する。 ウエストポーチからロングピースを取り出し、火をつける。 煙草の煙がゆっくりと立ち上り、 行き交う人や車をぼんやり眺める時間が始まる。
知り合いの姿はない。 この喫茶店「マロン」に来ると、 必ず誰かを探してしまう。 俺は“邂逅”を求めているのだろう。 昔の誰かを……。
「お待たせしました。ごゆっくりどうぞ」 「ありがとう」 いつものやり取りが、いつもの午後を作る。
 アイスコーヒーのストローを吸う。 「濃いな……。いつものことだ」
苦味が舌に残り、少しだけ身体が落ち着く。
 店内の大きな古時計が ボーン ボーン ボーン と午後3時を告げた。
濃いアイスコーヒーで僅かな疲れを癒し、俺は浅虫までの帰路につくことにした。

 浅虫までの帰路の途中、千春と出会ったのは、まったくの偶然だった。
信号でF3を止めたとき、横断歩道を真っ赤なブルゾンの女が渡ってきた。
あまりにも鮮やかな赤で、 思わずF3のクラクションを鳴らしてしまった。
千春は立ち止まり、こちらに手を振った。 そして大きな声で言った。
「素敵ね!」
 その一言に胸を撃ち抜かれた俺は、エンジンを切り、F3を押して横断歩道を渡り、 彼女の方へ向かった。 ヘルメットを外すと、風が一気に顔に触れた。
「こんにちは。初めまして。その赤いブルゾン、すごくきれいですね」
そう言うと、彼女は微笑んだ。
「こんな素敵な真紅のバイク、初めて見たわ」
その笑顔に、俺はもう引き返せなかった。
「俺、蓬莱航って言います。 ……5分だけ、時間をもらえませんか?」
「いいわよ。何?」 迷いのない返事だった。
俺はウエストポーチから手帳とボールペンを取り出し、少し緊張しながら言った。
「名前と郵便番号と住所を教えてください。手紙を書きたいんです。
お願いします」
「えぇ〜、なんで私なの?」 彼女は首をかしげた。
「真っ赤が好きだから。 ……お願いします」
少しの沈黙のあと、千春はふっと笑って言った。
「変だけど、面白い人ね。いいわよ。 私は三上千春。030-0000、青森市
浦町〇〇丁目〇-13」
「ありがとう。 じゃあ、またね千春さん。 本当に手紙、送るから」
 そう言ってF3に跨り、手を振ってその場を離れた。
 あの赤いブルゾンが、 信号の向こうでゆっくりと遠ざかっていった。

  俺は、約束通り、千春さんへ本当に手紙を書いた。

 前 略 三上 千春 様
 お元気でお過ごしでしょうか。 突然のお手紙、失礼いたします。
    普段あまり手紙を書くことがなく、 拙い文章になってしまったら申し訳ありません。
 先日は、横断歩道で突然声をかけてしまい、 驚かせてしまったと思います。 自分でも変わっていると感じており、 周囲からもよく“変人”と言われます。
 現在、私は読朝広告社・青森支店に勤務しております。ご存知の読朝新聞の関連会社ですので、どうかご安心ください。私は32歳、独身です。
千春さんは、どちらにお勤めでしょうか。 差し支えなければ、ご年齢やご家族のことなど、少しだけ教えていただけると嬉しいです。 いきなりの質問で失礼いたします。
 真っ赤なブルゾンがとても素敵で、 思わず目を奪われました。 そして、私のバイク F3を 「素敵!」と言ってくださったこと、本当に嬉しかったです。
 あの時、実は千春さんに 一目惚れしてしまいましたこれは本当のことです。
 もしご都合がよろしければ、 今度、一度お茶でもいかがでしょうか。
場所はどこでも構いませんが、もしよろしければ新町の喫茶店「マロン」
などいかがでしょう。
 ご返信を心よりお待ちしております。 (必ず返信くださいね。首を長くしてお待ちしています。)
 どうぞよろしくお願いいたします。
                                草々
平成〇年〇月〇日                                      
                              蓬莱  航
※追伸  この手紙は、ラブレターです。

 俺は、約束通り、三上千春さんへ手紙を投函した。 浅虫郵便局の赤いポストに吸い込まれていく封筒を見届けた瞬間、 胸の奥が少しだけ熱くなった。
その後は、何事もなかったように仕事に追われる日々だったが、心の中ではずっと落ち着かなかった。
――もう届いたかな。 ――読んでどう思っただろう。 ――やっぱり変人だと思われたかな。 ――返事、来るだろうか。
 不安と期待が入り混じり、 手紙を投函した日以降は毎日のように千春のことを思い出していた。 仕事中も、バイクに乗っているときも、ディンギーを操っているときでさえ、千春の姿が頭から離れなかった。
 1週間ほど経つと、
「もう返事なんて来ないよな」 「やっぱり変だったかな」
そんな弱気な声が胸の中で大きくなっていった。
 そして、返事はもうないだろうと思い始めた頃―― 投函から10日ほど経ったある日、家に帰ると、郵便受けに1通のきれいな封筒が入っていた。
 その瞬間、胸が跳ねた。
 「……千春だ」
 直感だった。 慌てて封筒を手に取り、宛名を見る。 美しい文字で、丁寧に俺の名前と住所が書かれていた。
嬉しかった。 心の底から、こみ上げるものがあった。


 前 略
 蓬莱 航 様
 お手紙ありがとうございました。 あれは……ラブレター、なのですよね。
 まずは、返信が遅くなってしまい申し訳ありません。 まさか本当にお手紙をいただけるとは思っておらず、 最初は冗談だと思っていました。 それに、名前と住所を教えてしまったことを 少し後悔していたのも事実です。
「軽い女だと思われたのではないか」 「相手が変な人だったらどうしよう」 そんな不安もありました。でも、航さんのお手紙を拝見して、しっかりとしたお仕事をされていること、力強く丁寧な文字と内容に触れ、 少し安心しました。
 航さんは、本当は真面目で良い方なのかな、今はそう思っています。 ただ……少しだけ疑っています。 とてもナンパが上手なのでは?
誰にでもあんなふうに声をかけているのではありませんか。
 私は28歳で独身です。 仕事は事務員をしていますが、 勤務先はもう少しお近づきになれたらお伝えしますね。
 お会いする件ですが、ゴールデンウィーク明けの16日(日)午後3時、 「マロン」でいかがでしょうか。 私も「マロン」は知っています。市内では有名ですもの。もしご都合が悪ければ、またお手紙をください。でも……できれば都合を合わせていただけると嬉しいです。 私、少しわがままなのかもしれません。では、16日にお会いできることを楽しみにしています。
                               かしこ
平成〇年〇月吉日                     三上  千春

 千春から返事をもらってからの数日は、本当に何も手につかなかった。 せっかくのゴールデンウィークというのに、心ここにあらずで、何も“あった”気がしない。
 雨の日があり、時化の日があり、ただぼんやりと日々が過ぎていった。だらだらと過ごした―― その言い方が一番しっくりくる。
そ れでも俺は、雨の海も時化の海も嫌いじゃない。 海は毎日、違う表情を見せる。夕日は夏至に向けて少しずつ美しくなり、その光が海面に落ちるたび、 胸の奥が静かに揺れた。
海を眺めながら飲むビールは格別だ。 安い発泡酒でも、海風に吹かれれば どんな高級酒より旨く感じる。
 三沢のエアベースにいた頃のことを思い出す。あの異国の甘い匂い、どこか現実離れした感覚―― 海を見ていると、ふとそんな記憶が蘇る。

 今日が、ついにその日だ。16日(日)。
 さて、何を話そうか――いや、その前に何を着て行こう。おしゃべりなら職業柄なんとかなる。服は、黒のリーバイス505に、無地のリネンの薄いピンクのシャツ。 靴はナイキの黒で決まりだ。
 午後3時の約束だから、2時には出よう。 昔、国鉄・JRに勤めていた頃は“5分前行動”が原則だった。遅刻は許されない。
 午後1時55分。 モカとふわり―― 推定10歳の茶色のモカと、推定9歳の三毛のふわりに 「行ってくるよ」と声をかける。2匹はいつものように、こちらを見上げるだけだ。
 準備を整え、愛車のルノー4(キャトル)に乗り込む。 左ハンドルのこの車の助手席には、もしかしたら今日、千春が座るかもしれない。車道側は危ないし、ドアノブも癖がある。 開けてあげたほうがいいだろう。 少しキザかもしれないが、まあいい。
 そんなことを考えているうちに、もう新町に着いていた。約束の3時まで、まだ30分以上ある。
 新町通りをゆっくり流し、いつものように「マロン」の向かいに路上駐車する。ここに停めるのは、もう習慣のようなものだ。
 あとは、千春を待つだけだ。

 カラ〜ン、コロ〜ン。 ドアのカウベルが鳴った。
 その瞬間、俺は思わずストローを噛んでしまった。
「いらっしゃいませ」 店員の声が響く。
――千春だ。 千春が本当に来た。 来てしまった。 どうしよう。
いや、誘ったのは俺だ。 落ち着け、航。気持ちを引き締めろ。まだ俺には気づいていない。
 千春は、薄いベージュのワンピースに薄茶のハイヒール。 先日の真っ赤なブルゾンとはまるで違う印象だ。 ショートカットの髪、28歳にしては少し童顔で “美しい”よりも“可愛い” が似合う。
「やぁ」 俺は手を上げて立ち上がった。
千春は気づき、まっすぐこちらへ歩いてくる。
「こんにちは」 俺は立ったまま名刺入れを取り出した。
「読朝広告社、主事の蓬莱航と申します。今日は来ていただきまして、
ありがとうございます」
ぎこちない。 自分でもわかるほど堅い挨拶だった。
「ご丁寧に……ずいぶん堅苦しいご挨拶ですね。 三上千春と申します」
「どうぞ、お掛けください」 まるで商談が始まるような空気だ。
「なんだか堅苦しいわね。 今日はお見合いだったかしら」
「ごめん、ごめん。こういうの、あまり慣れてなくて」
「本当は慣れてるんじゃないの……?」 千春も少し緊張している声だった。
「いやいや、変な会話になっちゃったね。 ここからは普段通りでいこう」
「ふふ……」 千春は小さく笑った。
その笑顔に、胸の奥がふっと軽くなった。
 
ボーン ボーン ボーン  と午後3時を告げた。部門

「あぁ、3時だ。千春さん、時間に厳しいんですね」 そう言うと、千春が首をかしげた。
「航さん、今日はバイクじゃないんですか?」
「えぇ、今日は外の車で来たんだ」
「あれって外車よね? どこの車? 初めて見た。赤じゃないんだね」
「フランスのルノー4。キャトルっていう車だよ。赤じゃ仕事で使いづらいからね」
「そうよね。でもすごいわ。バイクも外車よね?」
「バイクはイタリアのDUCATI F3ってやつ」
「航さんって……お金持ちなの?」千春は本気とも冗談ともつかない声で
聞いてきた。
「全然! 月賦だよ、ローン」 俺は少し小さくなって答えた。
「でも、バイクも車も似合ってるわよ」 千春は微笑んだ。
「ありがとうございます。一生懸命働いてますから」
「お給料もいいんでしょうね。じゃないとね」
「まぁ、それなりに……」
そんな会話をしていると、店員が近づいてきた。
「いらっしゃいませ。お邪魔してもよろしいでしょうか」
「あ、すみません」 俺は慌てて姿勢を正した。
「ご注文は?」
「航さんはアイスコーヒー?」 千春が聞く。
「あ、うん」
「私はホットでお願いします」
店員が去ると、千春がまた笑った。
「なんだか変な会話ね。ここからは普段通りでいきましょう」とまた言ってしまった。
「そうね。でも、本当にバイクも車も素敵ね」 千春も、まだ同じことを言って微笑んだ。
「ありがとう。 俺の趣味はバイクと車に、ヨットと読書なんだ。太宰治は
全部よんだよ。 千春さんは?」
「ヨットにも乗れるの? すごいわ。 私は読書は好きよ。あとはね……恥ずかしいけど、絵を描くのが好きなの。でも下手よ」 千春は少し照れながら言った。
「太宰はね、二冊しか読んだことないの。 『走れメロス』と『人間失格』
だけ」
「あ、そうなんだ」 俺はうなずき、少し声を落とした。 「で、本題なんだけど……」
千春がこちらを見る。
「千春さん、彼氏とか……付き合ってる人はいないの? 俺、ブ男だから全然モテなくてさ。 女子とは縁がなくて。 みんな美男子が好きだからね」
千春は一瞬だけ目をそらし、照れたように笑った。
「私も今は全然モテないわよ。男っけなんて、ほんとにないもの」
「今は、ってことは……前にはいた?」
「うん、そうよ。航さんだって、なんだかんだカッコいいから、 今も恋人
いるんじゃない?」
「昔はいたけど、今はいないよ」
「そう“昔”はね……」 千春は意味ありげに微笑んだ。
そこへ店員がコーヒーを運んできた。
「ホットコーヒーです」
「あぁ、ありがとうございます」 俺はいつものように言った。
「ありがとうございます」 千春も慌てて頭を下げた。
「じゃあ、ゆっくりコーヒーでも飲みながら話そうか」
「そうね。せっかくだもの」
千春は砂糖を2杯、ミルクを入れて一口飲んだ。
「わっ、濃い。すごく濃いわね」
「マロンのコーヒーは濃いんだよ。初めて?」
「知ってはいたけど、来るのは初めて」
「俺は中学生の時が初めてでさ。 若い頃はウェイターのバイトもしてたし、仕事の商談でも来るし、ツーリングの帰りにも寄る。 好きなんだ、マロン」
「バイトまでしてたの? 中学生の時は浅虫から汽車で来たの? 友達と?」
「そう。映画観て、その帰りに寄ったのが最初」
「昔からのお客さんなのね」
「煙草、吸ってもいい?」
「かまわないわよ」
俺はジッポーでロングピースに火をつけ、 ゆっくり煙を吐いた。
「いつから吸ってるの?」
「高校2年の春から」
「未成年じゃない。ダメよ」 千春は笑いながら言った。
「みんな吸ってたよ。千春さんは?」
「1、2度吸ったけど、合わなかったの」
俺が緊張で煙草を吹かしすぎていると、千春が眉を寄せた。
「航さん、ちょっと煙いわよ」と煙を千春は手ではらった。
「あ、ごめん、ごめん!」 俺は慌てて“ひょっとこ”みたいな顔で横に煙を吐き、灰皿に煙草をもみ消した。
「千春さん、この後、時間ある?」
「6時くらいまでなら大丈夫よ」
「じゃあ、俺に6時まで時間をくれない?」
「いいわよ。でも航さんって、ずいぶん時間を欲しがる人ね。 初めて会った時も5分あげたわよね」
「そうだったね。3時間5分か……時給にしたらいくらだろう」
「私の時給は高いわよ。ふふ」
「じゃあ、その3時間5分の時間をあげる代わりに…… あの車に乗せてよ」
「もちろん。どこ行きたい?」
「どこでもいいの。ただ、あのフランスの車に乗ってみたいの」
そんなふうに、初めてのデートの時間は過ぎていった。
「じゃあ、そろそろ行こうか」
俺が伝票を手に立ち上がると、千春が言った。
「ご馳走さま。私、時給高いから、しっかり頂いておくわね」
「どういたしまして」
会計を済ませ、ルノー4へ向かうと、千春はいきなり声を上げた。
「左ハンドルじゃない!」
「あぁ、そうだよ。どうぞ」
俺はさりげなく車道側のドアを開けてエスコートした。
「ありがとう。紳士ね。 航さん、そういうところ……好きよ」
俺は照れながら笑った。
「まぁね。意外と紳士かも」
そう言って運転席に乗り込み、 エンジンキーを回した。
「シートベルト、わかる? 大丈夫?」 俺がそう聞くと、千春はカチャッと金具をはめながら、
「うん、なんとかね。 この曲、誰が歌ってるの? アメリカの人?」 と首をかしげた。
「違うよ。レゲエの神様 ボブ・マーリー。 カリブ海に浮かぶ島国、
ジャマイカの人だよ.。この曲は”Got Up Stand UP”という曲だよ」
「ジャマイカなの。こんな音楽、初めて聴くわ」 千春は不思議そうに窓の外を見た。
「俺、レゲエとソウルが好きなんだ。 ところで、どこか行きたいところ
ある?」
「近くだし……善知鳥神社に行かない?」
「いいよ。じゃあ駐車場に車を止めるね」
千春は右側のシートで少し落ち着かない様子だった。
「右側に座ってると、なんだか緊張するわ」
「みんな言うよ。運転してる気分になるんだろうね」
「そう、運転してるみたい。 でも、この車……いろいろ変わってるのね」
「それがまた良いところなの。フランス車だから」
「このパーキングに入れるね」 俺がウインカーを出しながら言うと、
「ごめん、駐車券取ってもらえる?」と頼んだ。
「あぁ、こういう時って左ハンドルは大変ね。 はい、どうぞ」 千春は身を乗り出して駐車券を取ってくれた。
「ありがとう」 俺は受け取りながら、 千春の横顔が少しだけ誇らしげに
見えた。
「ドア開けれる?」 航は駐車を終えて、助手席の千春に声をかけた。
「ドアノブって、どこ?」 千春は少し戸惑っている。
「待ってて」 航は車を降り、助手席側へ回り込んでドアを開け、
軽くエスコートした。
「ありがとう。 紳士しか乗れない車ね。さすがフランス車だわ」
千春は冗談めかして笑った。
2人は並んで歩きながら、善知鳥神社へ向かった。
「何かお願い事でもあるの? 千春さんは」 航が聞くと、
「2人のことかな……なんてね」 千春は小さく微笑んだ。
「俺はね、”仏神尊し、仏紙を頼まずって”宮本武蔵が言ってたからさ。
お参りはするけど、神社でお願い事はしないんだ。
それに、宗教全般あまり好きじゃないんだよ」
「ふ〜ん。車と同じで、ちょっと変わってる人なのね」
千春はくすっと笑った。
「よく変わり者って言われるよ。変な話になっちゃったけど……
2人のことって何?」
「秘密よ。女心を簡単に教えられないわ。 聞かないでね」
「わかったよ。でも秘密が多いね、千春さんって」
千春は答えず、ただ前を見て歩いた。 その横顔は、どこか照れているように見えた。
そうこうしているうちに、2人は善知鳥神社の鳥居をくぐった。
「おみくじでも買ってみたらどう?」 俺が提案すると、
「そうね、やってみようかしら。きっと大吉よ」 千春は笑顔で言った。
「なんでそう思うの? 言霊ってやつ? 言葉で運を引き寄せるのかな」
「それ、いいわね。その言葉、今度誰かに話してみるわ」
「良かったら、その言葉あげるよ」
千春は社務所へ向かい、 「すみません、おみくじお願いします」
「はい、ありがとうございます。百円になります」 巫女のような装いの
女性が応対した。
「はい、大吉お願いします」 千春は百円玉を渡しながら、いたずらっぽく
笑った。
「どうぞ、大吉が出ますように」
「わぁ〜、なんだかドキドキする」 千春は子どものようにはしゃいだ。
「せ〜の……小吉だわ」 しょんぼり肩を落とす。
「確率の問題だからね。大吉は何分の1でしか出ないんだよ」 俺は少し
クールに言った。
「でもね、待ち人来るって書いてある。航さんのことかも」 千春は嬉し
そうに”おみくじ”を見つめた。
「ありがとう。でもどういう意味?」
「秘密」
「そろそろ、お参りしていこう」 俺が言うと、千春はバッグから財布を
取り出し、賽銭を投げた。
俺は武蔵の言葉を思い出し、賽銭は入れない。
「なんだか良いことがありそう。嬉しいわ」 千春は鈴を鳴らし、2人で手を合わせた。
「何をお願いしたの?」 俺が聞くと、
「秘密よ!」 千春は少し拗ねたように言った。
「ごめん、また秘密を聞いてしまったね」 俺は苦笑しながら詫びた。
「さあ、行こう」
2人は並んで石畳を歩き出した。千春の足取りは、どこか軽やかだった。

 お参りを終えて参道を歩いている時、 航は思い切って千春に左手を差し出した。
「手……つながない?」 照れながら言う。
「え〜、どうして? 私たちって付き合ってるの? 恋人同士なの?」
千春は少しつれない返事をした。
もし、千春がその手を素直に握り返してくれたら、 きっとその瞬間、俺は完全に落ちていた。 そしてその場で、正式に交際を申し込んでいたかもしれない。
俺は差し出した手を、さりげなくポケットに戻した。
「まだ……そういう関係じゃないよね」 照れくさく笑う。
「私はね、もう少し親しくなってから。 そしてお互いに本当にそう思えた時じゃないと嫌なの」 千春は静かに、でもはっきりと言った。
もっともだ。 焦りすぎたのは自分だと俺は反省した。
「もちろん、そうだよね。 まずは友達から始めよう。 そして……お互いに分かり合えたら、その時は俺と付き合ってほしい」 真っ直ぐに伝えた。
「そうね。まずは友達から」 千春は凛とした表情で微笑んだ。
俺も照れながら微笑み返し、 なんとなく気まずさを感じて、少し距離を置いて歩き始めた。
「まだ6時までは時間があるし、ドライブでもしながら話さない?」
俺が提案すると、
「いいわよ。もっと航さんのこと知りたいし、車も面白そうだから楽しみだわ」千春は明るく答えた。
2人はあまり言葉を交わさず、パーキングへ向かった。
車に着くと、俺はさりげなく千春のためにドアを開けた。
「どうぞ」
「ありがとう。 でも、この車に乗るたびに毎回お礼を言わなきゃいけない
のね。開け方、教えてよ」 千春は少し怒ったような口調で言った。
「簡単なんだけど、車道側だと危険なんだ。 特に降りるときは気をつけてほしいんだよ」俺が説明すると、
「そうね。でも私も免許持ってるし、車だって運転できるのよ」
千春は負けず嫌いな様子で返した。
俺は、大好きなルノー4のせいで、 少し気まずい空気になってしまったと
感じた。
「そのうち、左ハンドルのルノー4も運転できるようになるよ」 俺は優しく声をかけた。
千春はふっと笑い、 その笑顔に俺は少し救われた気がした。
パーキングを出るとき、俺はまた千春に声をかけた。
「ごめん、駐車券と……お金、入れてくれない?」
千春は眉を上げて、「大変な車ね。1人の時はどうするの?」 と不思議そうに聞いた。
「1人の時は、降りてそっち側に回ってやるんだよ」 俺が答えると、
千春は半ば呆れながら笑った。
「雨の日は?」 少し皮肉っぽい。
「当然、傘をさしてさ。好きな車だから、それくらい平気なんだ」俺が言うと、千春は仕方なさそうに支払いを済ませてくれた。
 その後の車内は、少し気まずい空気が流れた。 けれど、車や音楽、趣味の話をしているうちに、 千春の表情がだんだん明るくなっていった。
「フェリー埠頭に連れていって。お願い」 千春が突然言った。
「私、船を見るのが好きなの。函館には思い出があるのよ」
 フェリー航路に着くと、潮の香りがふわりと漂った。 海辺の家で暮らしているのに、なぜか懐かしさを感じる。 ちょうど函館行きのフェリーが出航する時刻で、 汽笛が低く響いた。 今日の海は、俺のディンギーでは出られないほどの時化だ。
「あぁ〜函館行きのフェリー」 千春は理由もなくはしゃいでいた。
二人はフェリー埠頭で、 レゲエとソウルをBGMに、バイク、車、音楽、本、絵、仕事、ファッション、恋…… 本当にたくさんの他愛もない話を、
小一時間も続けた。
 話しているうちに、千春はすっかり上機嫌になり、俺は心の中で思った。
――元気で、活発で、嘘のない、いい女(こ)だな。
 そして、自分が千春に惹かれていくのを、はっきりと感じていた。
「もうそろそろ6時になるわね。家の近くまで送ってくれない?」 千春がそう言った。
「もちろんいいよ。 次に会う時は……恋人でもいいかな?」 俺は少し勇気を出して尋ねた。
千春は、きっぱりとした表情で言った。 「次はまだ恋人じゃなくて友達よ。もう少し航さんを理解してからでないと、恋人にはなれないわ。 次の連絡も手紙にしてね。私は、急ぎの時は会社に電話するから」
俺は胸の奥がざわつき、思わず言葉が強くなった。 「俺、不細工だから嫌なの? やっぱりカッコいい人がみんな好きになるよな。 見た目のいい奴には叶わないよ。 千春さんの好みじゃないんだろ?もういいよ、嫌われたね。
悲しいよ」
千春は慌てて首を振った。 「航さん、あなたは不細工じゃないわ。本当よ。 逆にバイクや車、考え方も好きよ。 今日で、あなたのことを少しだけど好きになってしまったの。 嘘じゃないし、お世辞でもないわ。 また私とこうして会ってくれない? デートしてよ」
その言葉に、俺の胸の痛みがすっと消えた。
「じゃあ……お互いの電話番号を交換しようよ。もし無理なら、勤務先でもいいし」
航が自宅の番号を伝えると、 千春は少し困ったように言った。
「勤務先は教えられない! 親がうるさいから。よっぽどのことがない限り電話はしないで。手紙での連絡にして。 航さんからのラブレターにしてね……お願い」
そして千春は、自宅の電話番号を教えてくれた。
千春の家へ向かう途中、2人はいろいろな話をした。 そのたびに俺は、 ――本当に千春が好きだと実感していた。
「ここで止めて。あまり家の近くだと親が心配するから。航さん、本当に
また手紙くださいね」
車を止めると、俺は車道側に回り、ドアを開けた。
「どうぞ」
千春は降りながら微笑んだ。 「ありがとう。じゃあまたね。 本当に手紙くれるよね。絶対よ、航さん」
「絶対。わかったよ。じゃあまたね、千春さん」
 キスしたいほどの気持ちを胸に押し込み、2人は手を振って別れた。
帰り道、俺は今日の出来事を何度も思い返した。千春の少し強気で男の子のような雰囲気、今日の服装、会話の中で感じた頭の回転の速さ―― そのすべてが、 俺の心を確かに掴んでいた。

 前 略  三上 千春さんへ
 お元気ですか。 先日は本当にありがとうございました。
 あの日から、私は毎日あなたのことを思っています。 これはもう恋です。 気持ちは募るばかりで、抑えようとしても抑えられません。 もし一方的な想いなら悲しいですが、それでも仕方ないと思っています。
 最近は仕事がとても忙しく、なかなか会えません。 県の仕事で、来週は
東京へ出張しなければなりません。 私は高卒ですが、大卒のエリート気取りで私を下に見る人間には負けたくありません。 営業職は数字がすべてです。 今回の仕事は大きな数字が動きます。絶対に成功させたいと思っています。 千春さんのためにも、負けません。(関係ないかもしれませんが)
ということで、しばらくお会いできません。 帰ってきたら、青森駅から
1番に電話します。 またデートしてください。お願いします。
 帰ってくるのは来週の水曜日、午後5時ごろです。午後6時ちょうどに、
千春さんのご自宅へ電話しますので、 必ず出てくださいね。
                               早 々
平成〇年〇月〇日  海辺の家にて  蓬莱 航より  恋する 三上 千春様へ

詩を贈ります(マロンでの思い出)
「君は煙いと言った」
 甘い思い出の中には
今も君がいた
丸くて白いテーブルの向こう
君はホットコーヒー 俺はアイスコーヒー
 
煙草くわえて
君に煙を吹きかける
君は「煙い」と手ではらう
いつも君はホットコーヒー
俺は苦いアイスコーヒー
とっても苦いけど 甘い思い出
 
純喫茶のホットコーヒーとアイスコーヒー
マロンのホットコーヒーとアイスコーヒー
 
甘くて苦い思い出は
ホットコーヒーとアイスコーヒー
甘くて苦い思い出は
ホットコーヒーとアイスコーヒー

 ラブレターを投函し、俺は東京出張へ向かった。 県職員も同行し、いくつもの打ち合わせを重ね、時に胃が痛くなるような場面もあったが、仕事は
契約の方向へと確実に進んでいった。
――あとは県の偉い方の最終判断だけ。 ここまで来れば、ほぼ決まりだ。 都内で、およそ100万部の発行部数を誇る世界最大の読朝新聞だ。他社に
負けるはずがない。
 帰りの新幹線。 盛岡までは「やまびこ」、そこから「はつかり」。
缶ビールを開ける音があちこちで響き、 同行した県職員たちもすっかり
気が緩んでいた。
 俺も数本飲んでいるうちに、車内アナウンスが遠くで揺れて聞こえた。
「この列車はまもなく……」 「後10分ほどで終点、青森……」
ついに青森駅に着いた。
「ありがとうございました」 同行者たちに挨拶を済ませ、出張は終わった。

 そして―― 午後6時。千春への電話の時間だ。
プルルルル……プルルルル…… 2回目の呼び出しで電話がつながった。
「はい」 「三浦さんですか?」 「航さん」
「うん、今帰ってきたよ。金曜だし、これから古川まで出て来られる?」 「大丈夫よ。そんな気がしてたから、待ってた。 あと2~30分もあれば古川に着くわよ」 「じゃあ、古川のピザ屋プラザの前で待ってる」 「すぐ準備して出るわ。少し待っててね、航さん」 「OK!待ってるよ」
電話を切った瞬間、 航の胸の奥で、何かがふっと灯った。

 駅から古川まで歩き、「ピザ屋のプラザ」の前で、ピザの香りに包まれながら煙草を吸っていると、タクシーが滑り込むように停まった。
千春が降りてきて、俺に気づくと、 まるで何年ぶりかの再会のように、最高の笑顔を向けてきた。
「航さん、待った?」 「千春さん」
千春は少し照れたように言った。 「手紙、読んだわ。詩まで書いてくれて……本当に嬉しかった」
「下手な詩だけど、書くの好きなんだ。マロンでのことを思い出して書いてみたよ。それにしても早かったね」
「多分こうなるだろうと思ってたの。 着替えて、6時にはもう準備できてたのよ」
「本当、察しがいいね。お腹空いてない?」 俺が尋ねると、千春は首を
振った。
「ううん、大丈夫。 会えると思って、ちゃんと食べてきたから、この間話してた“銀魚(ぎんとと)”に連れていって」
「もちろんいいよ。すぐそこだ。じゃあ行こう」
歩き出すと、千春が少し照れたように言った。
「腕は組まなくても大丈夫?」
「いいよ。あと20メートル位だよ」 本当は腕を組みたかったし、手も握りたかった。 でもその気持ちは胸の奥にしまった。
「2階なんだ」 階段は少し急で、俺は自然に手を差し出した。
千春はその手を取った。2人の間に、ほんのり甘い空気が流れた。
銀魚のドアを開けると、ソウルミュージックが流れ、懐かしい香りが漂ってきた。東京から戻ったばかりのせいか、この匂いが妙に嬉しかった。
「毎度! 航、早いな〜! 新しい彼女さん?」 カウンターの田崎守が、
いつもの調子で余計なことを言う。
「馬鹿。俺が付き合ってる女性と来たことないだろ。何言ってんだよ、守」
「いらっしゃい! 可愛い子ちゃん」 守はさらに余計なことを言う。
「馬鹿、黙ってろって。少し静かにしてろ、守」
俺は千春を紹介した。 「守、紹介するよ。三上千春さん。今はまだ友人。 でも……ラブレター友達だよ」
「初めまして、三上千春です。BARで自己紹介なんて初めてだわ」
「航はまずビール? あぁ〜千春さんは何を?」
守は相変わらず調子がいい。
「じゃあ、私もビールを……」 千春は小さな声で言った。
「マスターは?」 俺が聞くと、
「まだだよ〜ん。絵でも描いてるんじゃない?」
守がいつもの変なトーンで答えた。
「マスターって、絵を描く方なんですか?」 千春が興味深そうに聞く。
「は〜い! ビール二丁! 結構有名なクレヨン作家の“孫内あつし”なんだよ」 守が胸を張るように言った。
「わぁ、すごい……そうなんだ」 千春は少し感動したように目を輝かせた。
俺と守は、マスター(孫内あつし)のことを 少しだけ千春に説明した。
「お願いがあるんだけど、ちょっと2人で話をさせてくれる?」
俺が言うと、
「もちろん。けどまだ早いから客、航しかいないもん」
守はすねたように言った。
俺と千春はグラスを手に取った。
「じゃあ、乾杯」
グラスが軽く触れ合い、 銀魚の夜が静かに動き出した。

  俺は東京出張のこと、そして千春に会いたかったことを話しながら、
ビールをちびちび飲んだ。
 やがて他の客も入り始め、 店内にソウルが流れ、ようやく落ち着いて
話せる空気になった。
 俺はバッグから、小さな銀色の箱を取り出した。
「これ、東京土産。 俺と……真剣に付き合ってください」
照れながら言うと、 千春は目を丸くした。
「ありがとう。開けていい?」 「どうぞ」
「わぁ……素敵。指輪だ。つけてくれる?」
千春はしばらく指輪を見つめていた。
「つけてあげるよ。俺の心だよ」
千春は左手を差し出した。 俺はその中指に指輪をはめながら言った。
「俺たち別れるか…… もし俺か、誰かと結婚するまで、大切にして」
千春の目が潤んだ。
「ありがとう。絶対に大切にするわ。 私……航さんと結婚する。決めたわ」 涙声だった。
その瞬間、さりげなく見ていた守がレコードを取り出した。
「俺から2人にプレゼント!」 針が落ちる。
ミニー・リパートンの “Lovin’ You”
曲が流れた途端、 千春は胸に手を当てて言った。
「私の大好きな曲よ。 航さんとの曲にするわ……」
涙声のまま、笑っていた。
 その後は、守や他の客も交えて賑やかになったが、俺は急に疲れがどっと出てきた。 千春は千春で、他の客とは交流せず、ずっと指輪を見つめていた。
 俺の話にも上の空で、 酔いが回ってきたのか、思いが溢れてきたのか、 千春は頬を赤くしながら言った。
「航さん……好きよ」
その言葉が、 俺の胸に深く落ちていった。

 前 略
 蓬莱 航 様
 お元気でいらっしゃいますか。 先日は本当にありがとうございました。  いただいた指輪、とても嬉しく、胸がいっぱいになりました。 改めて心からお礼申し上げます。 一生大切にしていきますね。(もし重いと思われたらごめんなさい)
 私たちはまだ3回しかお会いしていませんのに、 過ごした時間の濃さのせいでしょうか、 まるで何年もお付き合いしている恋人同士のような気持ちになります。 航さんがどう思っているかは分かりませんが、 私はそう感じています。
ですので、この手紙は私の一方的な想いになってしまうかもしれません。 そのことをお詫びした上で、書かせていただきます。
 私と航さんが出会った、あの“偶然のような必然”。あれはきっと運命だったのだと思います。マロンでの時間、フェリー埠頭での会話、銀魚での夜―― どれも私にとって忘れられない、大切な思い出です。
航さんのご職歴のお話も、とても印象に残っています。 トヨタ、新町の
デパート、国鉄からJR、そして読朝広告社まで。それぞれの場所で、
たくさんの経験を積んでこられたのですね。
 特に、国鉄時代に三沢駅でベース担当をされていた時のお話。アメリカ軍の方々との交流から学んだ 「肌や目の色で人の価値は変わらないこと」「学歴ではなく心で人を見ること」「命の重さは誰も同じであること」 そして,デパートでのファッションの話まで、どれも私にとって初めて聞く世界で、胸が熱くなりました。
 私は今、親から“結婚、結婚”と言われています。女性は結婚して子どもを産み、夫に尽くして生きることが 人生なのだろうかと考えてしまうことがあります。子どもは大好きですし、友人の幸せそうな家庭を見ると 「いいなぁ」と思うこともあります。 でも、女性が生きる意味って何なのでしょうね。 愚痴のようになってしまい、ごめんなさい。
 こんなことも含めて、 航さんともっともっとお話したいです。 またぜひお会いしたいです。 お仕事でお忙しいとは思いますが、できるだけ早くお会いできることを願っています。いつも会いたいと心から思っています。
 長文になってしまい、まとまりのない手紙になりましたこと、 どうかお許しください。
ご連絡をお待ちしております。
                               かしこ
平成〇年〇月吉日  二度目のラブレター           三上 千春

 千春から届いた手紙を読み終えたとき、 俺は思わず深く息をついた。
――この女(こ)、頭がいいな。 文章の端々に、芯の強さと優しさが滲んでいる。
 同時に、胸の奥が少し痛んだ。 銀魚でのあの夜、俺は浮かれていたし、酔ってもいた。 あんなに色んなことを話したなんて…… 正直、覚えていないところもある。
 自分のことばかり喋ってしまったな。 少し言い過ぎたかもしれない。 そう思うと、恥ずかしさが込み上げてきた。
 けれど、手紙の最後まで読み進めるうちに、 胸の奥がじんわりと熱くなった。
――また会いたい。 俺、本当に千春を好きになったんだな。 惚れてしまったんだ。
 手紙を胸に置きながら、 次はいつ誘おうかと考えている自分がいた。
 忙しい日々は相変わらず続いていたが、 その合間にふと千春の顔が浮かぶたび、 心のどこかが柔らかくなるのを感じていた。

 前 略  三上 千春 様
 お元気ですか。私は相変わらず元気に過ごしていますが、左耳の調子が少し悪く、松原通りの耳鼻科に通っています。 (耳かきのやり過ぎだそうですので、どうかご心配なく)
 長いお手紙――2度目のラブレター、本当にありがとうございました。
千春さんがあれほど丁寧に気持ちを書いてくれたこと、 胸が熱くなるほど嬉しく思いました。
 銀魚での会話は、酔っていたせいもあり、 少し記憶が曖昧なところもあります。もし失礼なことを言っていたら、本当にすみません。
ただ、指輪を喜んでくれたことは、心から嬉しかったです。
 さて、次のデートですが、11日に浅虫へ行きませんか。 水族館やキディーランド、海辺も歩きましょう。 もし11日で都合が悪ければ、 会社か自宅へお電話いただければ調整します。
 またお会いできる日を、心から楽しみにしています。 短い手紙になりましたが、 続きは会ったときにゆっくり話しましょう。
                               早 々
平成〇年〇月〇日  二度目のラブレターへ、愛と心を込めて・・ 蓬莱 航
P.S. 服装はパンツとスニーカーで、 寒くないようにして来てくださいね。

 手紙を投函したあとも、 俺は週に一度の耳鼻科通いを続けながら、 相変わらず忙しい毎日を送っていた。
そんな日の夕方、家に帰ると、 母が妙な顔をして立っていた。
「航、電報来てるよ。 チハルって誰? 女? 結婚?」 何だか変に含みのある言い方だった。
「読んだの?」と聞くと、 母は当然のように言った。
「読んだよ。電報だもの。で、何これ?」
「寄こせ」 俺は電報を受け取り、目を通した。
そこには、たったこれだけが打たれていた。

ホウライ ワタル サマ
  11ヒ アサムシエキ 10:12 チャク  
                 ミカミ チハル

……一瞬、固まった。
「電報かよ。なんでだよ」 思わず声に出た。
母も目を丸くしていた。 「これ、どういう意味なのさ。あんた、何考えてるの」
俺は頭をかきながら、 怒りとも驚きともつかない感情が胸に湧いた。
――何考えてんだよ、千春。 でも……千春らしいな。
気づけば、口元が緩んでいた。 面白い女(こ)だ。 こんな電報を送ってくるなんて、普通じゃない。だけど、それが妙に嬉しかった。
母には、「こういうわけでさ」と事情を説明し、 なんとか納得してもらった。
電報をもう一度見つめながら、 胸の奥がじんわりと熱くなった。

 約束の11日。 10時05分、俺は浅虫駅のホームで千春を待っていた。
10時12分。 汽車が定刻で到着した。 千春は必ずこの汽車に乗ってくる――そう信じて、改札口の近くで目を凝らした。
しかし、千春は降りてこない。
「バスか……?」 そう思いながらも、しばらく駅で待った。
だが、やはり来ない。
 次の汽車は1時間後の11時16分。 一度家に戻り、母に電話が来ていないか尋ねたが、「何も来てないよ」とのこと。
胸の奥がざわついた。 ――まさか、何かあったんじゃないか。
心配しながら駅の周辺を歩き、時間をつぶし、11時16分の汽車を待った。
 汽車は定刻通りに到着した。 俺は改札口の前で立ち尽くした。
そして―― 1番最初に飛び出すように降りてきたのが千春だった。
「航さん、ごめんなさい! 前の汽車に遅れちゃったの!」
駅員が慌てて声をかける。 「お客様、切符を……」
「すみません、これです!」
千春は駅員にも周りの客にも、何度も頭を下げていた。
「航さん、本当にごめんなさい。 青森駅でホームを間違えたの。こんな大切な日に……」
「家に電話くれたら良かったのに」
「そうよね……それもあったわね。でも、そんなこと思い浮かばなかったの。とにかく次の汽車に乗らなきゃって、それだけで…… 本当にごめんなさい、ごめんなさい……」
千春は半泣きで、息も荒い。
「もういいよ。さあ行こう」
俺が歩き出すと、千春が小走りで追いかけてきた。
「待って、航さん……ごめんなさい……」
立ち止まって振り返ると、千春は今にも泣き出しそうな顔をしていた。
「もういいって。許すから。 俺が市内まで迎えに行けば良かったんだよ。 こっちこそごめん」
空気が少し重くなったので、 俺は言った。
「まず、何か飲んで落ち着こう」
自動販売機の前で、 俺は缶コーヒー、千春はオレンジジュースと言った。
「落ち着いた?」 そう尋ねると、千春は息を整えながら言った。
「もう大丈夫……本当にごめんなさい」
「ジュース飲んじゃおう」
「うん……ホーム間違えて、もうビックリして…… 死ぬかと思ったわ」
「大げさだよ。ホーム間違えて死ぬ人はいないって」 そう言うと、千春は吹き出した。
「ほんと、おかしいわね……」 笑いながら、まだ涙の跡が残っていた。
その笑顔を見て、 俺はまた千春に惚れ直した。

 千春が遅れてきたこともあり、 まずは駅のベンチで少し休んでもらった。 気づけば昼時になっていて、2人は駅前のラーメン屋で少し早めの昼食をとった。
 母は用事で外出中だったので、そのまま俺の家へ向かった。
部屋に入ると、 俺はレゲエのカセットテープをかけた。Playのボタンを
押すと、ボブ・マーリーの"Redemption Song"が流れた。
その瞬間、千春は畳に手をつき、丁寧に頭を下げた。
「今日は、本当にすみませんでした」
猫のモカとふわりが驚いて 「ニャー、ニャー」と鳴いた。モカはチャッカリ膝の上に乗って抱かれていた。
「もう謝るのは終わり。 少し休んだら、ヨットに乗ろう」
「航さんって、ヨットに乗れるだけじゃなくて……持ってるのね」
「まあな。こんな場所に住んでるんだもの。 知人から預かってるんだよ」
「そうなんだ……でも、ここって海抜3メートルくらい? 津波が来たら
終わりね。 でも眺めは最高。ずっとここに住んでるのよね」
「そうだよ。フランス語で“プラージュ”さ」
「プラージュって、どういう意味?」
「海辺だよ」
「あぁ、海辺……ぴったりね。 この家 “プラージュハウス” って名前にしたらいいわ。 素敵。私もここに住みたいくらい」
千春は微笑んだ。
「好きなカセットテープかけていいよ。 俺は準備してくるから」
「私も手伝います」
朝のうちに艇の準備はしていたが、 千春が隣にいるだけで、同じ作業が少し違って見えた。
東の風3メートル。これなら安心だ。
「これから出航前の注意事項を話します。 しっかり聞いてください」
「はい、分かりました」
「船に乗ったら、私は船長です。 命令や指示は絶対に守ること。 従わないと命の危険があります。 私に命を預けられますか?」
千春は背筋を伸ばし、真剣な顔で言った。
「はい。航さんになら、命も身体も預けます。誓います」
「よし。そのつもりで指示を出すから、絶対だよ」
「はい、船長。分かりました」
「ところで、船酔いは大丈夫?」
「分かりません。手漕ぎボートとフェリーしか乗ったことがありません。
でも、多分大丈夫です。船長!」
「じゃあ、まずは近場で練習しよう。 さあ、出航します。 まず乗って、
浅虫駅側のへりに座って。 その下の白いベルト――フットベルトに足を引っかけて、 身体を安定させてください」
「はい、船長!」
千春の声は少し緊張していたが、 その表情は期待で輝いていた。
 ヤマハ・シーポッパー13Fは、静かに海へ滑り出した。 まずは千春に、
何度も同じ動作を繰り返し教え、 身体が自然に動くようになるまで練習させた。
「よし、これなら大丈夫だな」 そう思いながら、俺はゆっくりと湯ノ島の方向へ進路を取った。
千春は何も話さず、 ただ俺の右手のラダーと、左手のラインをじっと見つめていた。
「怖い? 緊張してる? 大丈夫?」 そう声をかけると、
「はい船長、大丈夫です! 問題ありません!」 まるで警察官か自衛隊員のような返事。
その真面目さが可愛くて、思わず笑ってしまった。
「船長、何が可笑しいのですか?」
「いや、緊張しすぎ。普通にしてていいよ」
「はい船長!」
「普通に話していいんだよ」
「まだ……はい船長。でも、だんだん慣れてきました」
その言い方がまた可愛い。
「じゃあ、タックするよ。さっき教えたよね」
「はい船長。分かりました!」
「はい、タック! ……お、上手い!」
「ありがとうございます!」
「次、ジャイブ! ……いいね、上手いよ」
「ありがとうございます!」
「その調子。君の命は俺が絶対守るから、心配しなくていいよ」
「ありがとう……何とかなりそうです」
「じゃあ、湯ノ島へ向けて出発!」
「はい船長!」
千春はそればかり言う。 俺が何を話しても、返事は「はい船長」だけ。
緊張しているのが丸わかりだった。
ゆっくり航行しながら、 裸島と鴎島の間を抜け、キディーランドの沖を通り、 東北大学浅虫臨海実験所の話や、 運が良ければイルカが見えること、
ウインドサーフィンの人たちのことなどを話しながら進んだ。
 やがて湯ノ島に到着。 風の弱い裏側に回り込み、 俺はラダーとラインから手を離した。 セイルは少しパタパタしていたが問題ない。
そして、思い切って言った。
「……キスしてもいい?」
千春は一瞬固まり、 「え……はい船長。してください。お願いします」 と、なぜか敬語。
「本当にいいの? キスするよ」
「はい。大丈夫です。してください」
ロマンチックさはゼロだった。
俺はまず頬に軽くキスした。 すると千春は、自分から唇を重ねてきた。
驚いたが、自然と千春の身体を抱きしめ、深く、ゆっくりとキスをした。
千春のシャンプーの香り、柔らかい身体の温もり―― すべてが心地よかった。
「すみません船長……つい、キスしたくなりました」 千春は真っ赤になっていた。
「俺も抱きしめてごめん。でも……いい思い出になったね」
「はい船長……」
まだ真っ赤なままだ。
「じゃあ、陸地へ寄港します」
「はい船長!」
寄港のとき、千春にジブセイルのラインを任せてみた。 千春は楽しそうに
ラインを扱い、 無事に寄港できた。
この日の風の匂いを、 俺は今でも忘れられない。

 千春は駅へ向かう車の中で、 興奮したまま今日1日を振り返っていた。
――今日は遅れてごめんなさい。 キスも素敵だったし、ヨットも本当に最高だった。 イルカ、見たかったな……でも潮の香りが気持ちよかった。
またヨットに乗りたい。 航さんの家の裏庭の藤の花、もう終わりかけていたけど、 満開のときにも来てみたい。 今度も、また誘ってほしい。
そんな思いを胸に、浅虫駅のキヨスクで 千春はイルカのキーホルダーを選んだ。 今日の記念に――そんな気持ちが伝わってくる。
しかし、時間は容赦なく過ぎていく。
「もう汽車の時間だよ」 そう声をかけると、
「本当に……時間って早いわ。 今度はいつ会えるの?」 千春は名残惜しそうに尋ねた。
「また連絡するよ」
「今度は絶対に遅刻しないから……連絡してね」
そう言ってから、 千春は少し間を置き、 聞こえるか聞こえないかの声でつぶやいた。
「……大好きよ」
そのまま改札へ向かう。
「分かったよ。じゃあ、またね」
千春は振り返り、 少し涙ぐんだ顔で言った。
「今日はありがとう。さようなら。 またね……連絡してね」
改札を抜けたあとも、千春はその場に立ち尽くし、ちぎれるほど手を振っていた。 涙が頬を伝い、ハンカチで拭きながら、何度も何度も振り返る。
俺は心の中で思った。
――もう2度と会えないわけじゃないのに。 ちょっと大げさだな……
でも、可愛いな。
そう思いながらも、 胸の奥が少しだけ寂しくなった。
 千春は、涙を拭きながら跨線橋を渡り、 何度も振り返りながらホームへ向かっていった。
その後ろ姿が見えなくなるまで、 俺はずっと手を振り続けていた。


後 編 『生と死を越える航海』

 その後、俺は仕事が忙しく、 千春に連絡を取る余裕もなく、 デートの約束もできない日々が続いた。
そんな中、県の仕事が決定するという嬉しい出来事もあり、耳鼻科への通院も欠かさず続けていた。
 何度か耳鼻科の診察を受けるうち、 医師が首をかしげながら言った。
「何かおかしいですね。ここでは対応できません。 紹介状を書きますので、青森県東病院で診てもらってください」
胸の奥がざわついた。
 3日後、青森県東病院の外来で診察を受けたが、 医師は淡々と告げた。
「詳しい検査をしましょう。今日は採血をしCTの予約をして帰ってください」俺はその日、東病院で採血をしCT検査の予約を2日後に取り東病院を後にした。自身は自覚症状もなく、「大したことはないだろう」と軽く考えていた。

 勤務先にも事情を伝え、PC検査を受けた。その結果、念のため弘前PETセンターでPET-CT検査も受けることになり、 1週間後に東病院で結果を聞くことになった。
  
 弘前PETセンターでの検査の日、受付を済ませ支払いを終えると、地下の検査室へ案内された。 薄暗い通路、消毒液と薬品の独特な匂い。その空気だけで、胸が少し締めつけられた。
 説明を受け、承諾書にサインをすると、看護師が鉛入りのガラス越しから 放射線を体内へ注射してきた。
まるで映画のワンシーンのようで、 現実感が薄れていく。
 その後、放射線が体内に回るのを待つため、 静かな休憩室で1時間。
慣れない場所で、ただ時間だけが流れた。
いよいよ検査が始まった。 ドーム型の機械に横たわると、 薬品の匂いがふわりと漂い、 未知の体験への怖さがじわりと押し寄せた。
 精神的な余裕はなく、 技師や看護師との会話もほとんどできなかった。
「これより検査を開始します」
室外から技師の声が響く。 ベッドがゆっくり動き、 ドームが回転し、
光を放つ。
重低音の唸りだけが響き、 無機質な機械の動きと、 時折聞こえる人間の声だけが現実をつなぎ止めていた。
約20分。 静かな緊張と孤独の中で、 検査は淡々と進んだ。
「はい、お疲れさまでした」
 看護師の優しい声で、 張りつめていたものがふっと緩んだ。 身体を固定していたベルトが外されると、 現実に戻されたような感覚があった。
「この後、放射線が抜けるまで休憩室で1時間30分ほどお過ごしください。 具合が悪くなったらこのブザーでお知らせてください。 水を1リットルは飲んで、放射線物質をできるだけ排出してくださいね」
返事もまともにできず、ただ頷いた。
1時間40分後、お礼をし病院を出た。 外の空気はいつもと同じはずなのに、 どこか違って感じた。
――俺は、本当に大きな病気を抱えているのかもしれない。
その思いが胸に重く沈み、呆然としたまま青森市内へ帰った。
あの日の病院の匂い、静けさ、そして胸の奥に広がった不安は、
今でも忘れられない。
  
 PET-CT検査の1週間後に青森県東病院で結果を聞く日がやってきた。
「蓬莱様、5番診察室へお入りください」
静かな廊下に、はっきりとした声が響いた。 胸の鼓動が一気に早くなる。 立ち上がる足が少し震えていた。
診察室のドアを開けると、ひんやりとした空気が肌にまとわりつく。
中には医師が二人、看護師が三人、事務員が二人。予想以上の人数に、胸の奥で嫌な予感が膨らんだ。 消毒液の匂いが、むしろ現実を突きつけてくる。
――まさか、本当に悪い病気なのか。 ――ガン……?
「こんにちは。蓬莱航さんですね?」
医師の声は柔らかいが、どこか緊張を含んでいた。
「はい……そうです」
自分の声がかすれているのが分かった。
「どうぞ、深く椅子に腰を掛けてください」
冷たい椅子に身を沈めると、 医師はカルテを閉じ、こちらをまっすぐ見た。
蓬莱さん。 これからお伝えすることを、しっかり聞いてください」
その前置きだけで、 胸の奥がぎゅっと締めつけられた。
「蓬莱さん…… あなたは 中耳ガン です」
その言葉が空気を切り裂いた。
世界が止まったようだった。 音も、匂いも、視界も、すべてが遠のく。
喉が締めつけられ、声が出ない。 やっと絞り出した。
「……あ、はい……そうなんですか……」
自分の声とは思えないほど震えていた。
医師が心配そうに覗き込む。
「大丈夫ですか?」
「……はい。大丈夫です」
大丈夫なはずがない。 でも、しっかりしなければと思った。
「蓬莱さん、治療はされますか?」
「はい。もちろん治療します。 先生……お願いします」
すがるような声だった。
医師は深く頷き、言葉を続けた。
「では、近日中にご家族と一緒に来ていただく必要があります。 診断結果と治療方針を説明し、ご納得いただいた上で入院治療となります」
「家族と言われましても…… 私と母だけです。 母は年老いておりますし、説明を受けても理解が難しいと思います。正直、困ります」
俺は母との再来院を断った。
医師は少し困ったように眉を寄せた。
「そうですか……分かりました。 では、蓬莱さんお一人で結構です。
5日後、25日に来院してください。 その時に詳しい治療方針をお伝えします」
そして、医師は深刻な表情で続けた。
「私は耳鼻科医として30年以上診てきましたが…… この“耳のガン”は、正直申し上げて初めてのケースです。 耳鼻科学会および院内で検討し、最善の治療方針を決めておきます」
「……はい。よろしくお願いします」
口ではそう言ったが、 心はどこか遠くに置き去りにされたようだった。
診察室を出た瞬間、 消毒液の匂いと冷たい空気だけが現実に引き戻した。
――俺は、ガンなんだ。 ――まだ32歳なのに。
千春にはどう伝える? 母には? 仕事は? これからの人生は?
次々と浮かんでは消える思考の渦の中で、 ただ呆然と立ち尽くすしかなかった。
 
 千春にだけは、まだ何も言えなかった。 あの日の笑顔が胸を刺す。 母にさえ言えない。 ――俺は死ぬのか。 そんな不安が頭をよぎり、まだ32歳なのに、これも運命なのかと、目の前が暗く沈んだ。
 
 25日。指定された通り東病院へ向かい、診察室に入ると、 医師はすぐにモニターを指し示した。
「蓬莱さん、まずこのPET-CTの画像をご覧ください。ここです。耳骨の部分にもがんが進行しています。 耳骨は軽石のようにスカスカの構造で、このまま進めば……脳に到達する寸前です」
医師の指先が示す“影”を見つめながら、 俺はただ、
「あぁ……そうですね」
と返すしかなかった。
――終わりだ。 ――俺は死ぬんだ。
そんな考えが頭の中を支配していた。
医師は淡々と続けた。
「この状態では手術はできません。ですから、化学療法でがんを抑えるしかありません。 まず放射線治療を行い、その結果を見て抗がん剤治療へ進む。これが最善だと考えています。いかがですか」
俺は深く息を吸い、震える声で答えた。
「もう……先生に全部お任せします。 先生が一番だと思う方法でお願いします」
医師は頷き、静かに言った。
「蓬莱さん、そうなると2ヶ月の入院が必要です。本当に大丈夫ですか」
「はい……お願いします」
諦め半分、覚悟半分。それでもはっきりと答えた。
「では、来週の木曜日――から入院となります。 詳しいことは帰りに事務の者へ確認してください」
「ありがとうございました。よろしくお願いします」
そう言って診察室を出たが、足元はふらつき、頭の中は真っ白だった。
家に帰ると、もう何も考えられなかった。
――仕事のことなんて、どうでもいい。 ――生きられるのかどうか、それだけだ。
それが本心だった。

 支社長に、「中耳ガンを宣告された。2ヶ月の入院が必要だ」と伝えると「病気休暇届を書いて、今日はもう帰れ」と促されたが、まだ午後5時だった。 いつもなら早くても七時頃に帰るのが習慣だ。 この時間に帰れば、母が必ず不思議がる。余計な心配をかけたくない。
千春に電話しようか―― そう思った瞬間、胸が強く痛んだ。
それは絶対できない
彼女に話せば泣き叫ぶだろう。その姿を想像しただけで、胸が締めつけられた。 取り返しがつかなくなる。 今はまだ言えない。
昼食も取っていなかった。 これから始まる“ガン“との闘い”の前に、せめて腹ごしらえをしようと思った。
少し早いが、いつもの料理居酒屋へ向かうことにした。
  
 店に着くと、幸いにももう開店していた。 暖簾をくぐり、店内に入る。
「毎度様、もういい?」 と声をかけると、
「いらっしゃい、当たり前よ!」
と、いつもの大きくて元気な声が返ってきた。
その声につられて、 沈んでいた心が少しだけ浮かび上がる。
カウンターに座り、軽く食事をとり、ビールを2杯飲んだ。
喉を通る冷たい苦味が、 張りつめてい――酒の力ってすごいな。
何となく力が湧いてくる。
そう思った瞬間、ふと顔が浮かんだ。
「……守に会いに行こう。 どうせなら『銀魚』に行こう」
そう決めた。
た心をゆっくりと溶かしていく。

 ドアを開けた瞬間、 スロウなソウルの曲が流れ、 いつもの――なぜか懐かしい香りがふわりと漂った。
「よう、毎度!」
酒の力で少しだけ元気を取り戻した俺は、 いつもの調子で店に入った。
「おう! 毎度、航! いらっしゃい」
守が威勢よく声をかけてくれる。 その声を聞くだけで、胸の奥が少し温かくなる。
「ジャックダニエル、ロックで」
そう注文すると、守が眉を上げた。
「あいよ。……もう飲んできたのか?」
「うん。昼食べてなかったから、夕飯とビールね」
「今日はロック? どうした?」
「別に。まあ……県の仕事が決まって、祝杯だよ」
「おお、良かったじゃないか。 じゃあまた東京か? 千春ちゃんはどうしてる。ラブラブなんだろ?」
「仕事忙しくてさ。女にかまってる暇なんてないよ」
苦笑いしながら言うと、守はニヤリと笑った。
「はいよ、ジャックダニエル」
氷がグラスに触れる音が、 いつもより澄んで響いた。 ジャックダニエルの香りが、やけに良く感じる。
「今日は誰もいないな。貸し切りだ」
店内を見渡しながら言うと、
「ウィークデイだもん」
と守が肩をすくめる。
「あ、そうか。曜日忘れてた」
「航が曜日忘れるなんて珍しいな」
「俺だって忘れることもあるさ」
守はグラスを拭きながら、ふと真顔になった。
「今日は何の仕事してきた?」
「いつも通りさ」
「……航、お前、今日なんか変だぞ。 千春ちゃんに振られたか? 長年こんな仕事してると分かるんだよ。 何かあっただろ。話しちゃえよ」
その言葉に、胸の奥がぎゅっと締めつけられた。
俺は何も言えず、 ただカウンターの木目を見つめた。 木の香りまでしてくるほど、 視界がにじんでいた。
そして、絞り出すように言った。
「……実は、俺……ガンなんだ。中耳ガン。……もう終わりさ」
言った瞬間、こらえていた涙が一粒だけ落ちた。
守は目を伏せ、低い声で言った。
「……嘘だろ。お前、そんな顔で言うなよ」
店内には、 レイ・チャールズの切ない歌声と、 グラスを置く音だけが
静かに響いていた。
「今日はウィークデイで店も暇だ。とことん飲むぞ。 航、お前、今日は家に帰らず俺のアパートに泊まれよ」
守は、いつもの調子のまま、しかしどこか優しい声で言った。
「そうだな……もうどうでもいいや。 今日は飲むぞ。思いきり飲もう。
今日はお前のアパートに泊まるよ。 明日は仕事なんて行かなくていいんだ。 休みだ、病気休暇だ」
酒の勢いを借りて、俺は無理に明るく叫んだ。
守はグラスを置き、真剣な眼差しで言った。
「航……お前の病気のことは、誰にも絶対に言わない。 誓うよ」
その言葉が胸に染みた。
その後、俺と守は、 出会った頃の話、 若い頃にしたどうしようもない悪さ、 誰が誰を好きになっただの、 誰に振られただの、 どうでもいい思い出を、 レゲエとソウルミュージックを聴きながら語り合った。
気づけば、記憶がほとんど途切れるほど飲んでいた。
守のアパートに着いた頃には、 俺はすでに足元がおぼつかず、どうやら午前1時頃には潰れて寝てしまったらしい。
翌朝、癖で8時には目が覚めた。 守のアパートの木の匂いが、妙に落ち着く。
――母に、入院のことを話さなければ。
胸の奥が重く沈む。
守を起こさないように、 俺は静かに部屋を出た。

 守のアパートに泊まった翌朝、 俺は会社へ向かい、支店長を交えて 今抱えている仕事を後任の社員へ引き継いだ。
 支社長は俺の顔を見て、 「もう病気休暇届を出しているんだから、家に帰って入院の準備をしなさい。 何かあったらこちらから電話する」 と優しく言ってくれた。
その言葉に甘え、俺はいつもよりずっと早い時間に帰宅した。
玄関に入ると、母がすぐに気づいた。
「どうしたの。何があったの」
その声に、胸が痛んだ。
俺は治療計画書を見せながら、できるだけ軽く言った。
「軽いガンだって言われたよ。 手術はしないで、放射線と抗がん剤で治すんだ。 だから入院する」
母は治療計画書を握りしめ、 震える声で叫んだ。
「本当に死ぬことはないの? 私が代われるものなら代わりたい……!」
泣き叫ぶ母を前に、 どうすることもできなかった。
「もういい!」
俺は怒鳴ってしまい、 そのまま部屋へこもった。
本当は―― 泣きたいのは俺の方だった。 叫びたいのも俺だった。
俺の変化を見破ったのか、 猫のモカとふわりが 「ニャー、ニャー」
と寄ってくる。
2匹を交互に抱きしめた瞬間、こらえていた涙がこぼれた。小さな体の
温もりが、 胸の奥の痛みを少しだけ溶かしてくれた。
夕方になり、 窓の外にはやけに綺麗な夕日が広がっていた。
俺は酒を飲んだ。 飲むしかなかった。結局、 酒に頼って忘れて眠るしかない夜だった。
翌朝、母は真っ赤な目をしていた。
「本当に……死ぬことはないの?」
まだ涙声だった。 昨夜、ほとんど眠れなかったのだろう。
俺は心の中で、 母に対する親不孝を深く詫びた。
出かける当てもないのに、 「仕事に行ってくる」 と嘘をついて家を出た。
外に出ても、 心ここにあらずだった。
 千春のことばかりが頭をよぎる。 どうしても、 彼女の姿が脳裏から離れなかった。


  放射線治療の準備の日。 東病院に午後に着き受付を済ませると、「地下の放射線科へどうぞ」 と案内された。
エレベーターで地下へ降りると、 廊下には人の気配がなく、 空気がひんやりと薄暗く感じられた。
放射線科の待合室にも誰もいない。 静けさが、かえって不安を増幅させる。
すぐに診察室へ通され、 医師から放射線治療の説明を受けた。 淡々とした説明が、逆に現実味を帯びて胸に刺さる。
説明が終わると、 技師に案内され、隣の音のない準備室へ移った。
「蓬莱さん、まず上半身の写真を撮ります。こちらへどうぞ」
技師の声は優しいが、 部屋の静けさがその声を吸い込んでいく。
撮影が終わると、次の指示があった。
「次は放射線治療で使うフェイスヘルメットを作ります。こちらの椅子へお座りください」
椅子に座ると、技師が尋ねた。
「歯の治療で型を取ったことはありますか?」
「はい、あります」
「同じような方法で、顔と頭の型を作ります。 少し熱いですが心配いりません。はい、被せますね」
温かいザルのような素材が顔に被せられ、 技師がそれを押しつけて形を取っていく。 息の音だけが自分の耳に響く。
作業は10分もかからずに終わった。 ――歯型と同じことか。 そう思うと少しだけ気が楽になった。
「次は、こちらのベッドへどうぞ」
そこには、 鉄製で穴の空いた、見慣れないベッドが置かれていた。
「仰向けで寝てください」
言われるままに横になると、 先ほど作ったフェイスヘルメットが再び持ち込まれた。
顔に被せられ、 ベッドの穴に合わせるために 固定用の穴を開ける作業が始まる。
「そのまま、少々お待ちください」
技師は作業台で何かをしている。 部屋は静かで、 自分の鼓動だけがやけに大きく聞こえた。
「はい、もう1度被せますね」
再びヘルメットが顔に密着し、 クリップのようなもので頭部が固定される。
「痛いところはないですか?」
「大丈夫です」
「問題ないですね。完成です」
フェイスヘルメットが外され、 技師は優しく言った。
「これで今日はおわりです。お疲れさまでした」
俺は「ありがとうございました」とだけ言い、部屋をあとにした。
冷たいベッドの上で目を閉じていた間、 千春、母、そして守の顔が 次々と浮かんでは消えていった。
 
 
 放射線治療の準備に行って来た日、母にはもう一度、「軽いガンだったから心配いらないよ」 と伝えた。 本当はそんな軽いものではないのに、 母を安心させるためには、それしか言えなかった。
母にはこれまで心配ばかりかけてきた。 これ以上、何も言えなかった。
夕方までの時間、 俺は海を眺めて過ごした。
行き交う船、 空を舞う海鳥たち、そしてゆっくり沈んでいく真っ赤な夕日。
――これがもう見納めになるかもしれない。
そんな思いが胸を締めつけた。
小さなころから、海はいつも俺を慰めてくれた。今日もまた、何も言わずに寄り添ってくれた。
日が暮れると、他にすることも見つからず、 ウイスキーをロックであおった。
ガンであることも、 今日という現実も、 全部忘れたかった。
ただ飲み続けて、 酔いに身を沈めて眠った。
そうすることでしか、 俺の心は平静を保てなかった。 それ以外の方法を、俺は知らなかった。
 翌日。 会社から仕事の案件で何度か電話が来たが、もう俺のやるべきことはほとんどなかった。
 今週の、木曜日の入院に備え、必要な買い物を済ませた。
古本屋では、 ジャンルを問わず十数冊の本を選び、家へ持ち帰った。
それから、何人かの友人に連絡した。
「初期のガンで入院はするが、見舞いには来ないでほしい」
噂を聞きつけた友人には、 「もし尋ねられても、見舞いには来てほしくないと伝えてくれ」 と頼んだ。
弱った自分の姿を誰にも見られたくなかった。もしかしたら死ぬかもしれない―― そんな覚悟が、心のどこかで静かに固まりつつあった。
千春は今、何をしているだろう。 笑顔を思い浮かべると、胸が痛んだ。
俺の本当の弱さは、 彼女には見せられない。
そう思った。
 
 千春には、「2ヶ月ほど東京出張で青森を留守にする。 会いたいけど、
しばらく会えない。 元気にして帰りを待っていてください」 という、
事務的な手紙を送った。
これで、しばらく連絡がなくても 彼女は心配しないだろう―― そう考えた。
 
 5日、木曜日。 ついに入院の日がやってきた。
朝九時、予約していたタクシーが家の前に静かに停まった。母は、少し覚悟ができたのか、どこか毅然とした表情で「頑張れよ」と声をかけてくれた。当然だが、愛猫達への「さようなら」もした。
その顔に励まされながら、 僕は「じゃあ、行ってくるよ」といつもの調子で手を上げ、 タクシーのドアが開いた。
 病院からは「10時までに4階病棟の受付へ」と指示されている。
予定どおり病院に到着し、4階の病棟受付で手続きを済ませた。
受付を担当したのは事務職員らしき女性で、入院案内を手短に説明してくれた。
手続きが終わると、白衣の女性が現れた。
「蓬莱さん、私は本日の担当看護師の酒井と申します。 病室までご案内しますね」
柔らかい声に、少しだけ緊張がほぐれた。
酒井看護師に導かれて病室に入ると、
「まずはこちらの収納棚にお荷物を入れて整理をお願いします。 片付けが終わりましたら、受付カウンターまでいらして、私をお呼びください」
そう言い残して、彼女は出ていった。
荷物を整理し終え、受付へ向かう。
「蓬莱さん、終わりましたか?」
先ほどの酒井看護師が声をかけてくれた。
「はい」
「では、こちらの部屋へどうぞ」
案内されたのは、薬品の匂いが漂う検査室だった。
「これから検査のための採血をします。 何本か取りますので、こちらにお座りください」
針が刺さる瞬間、思わず顔をしかめる。
「チクッとしますよ。大丈夫ですか? あともう少しですよ。痛いですよね、我慢してくださいね」
酒井さんの優しい声が、 冷たい検査室の空気を少しだけ温めてくれた。
気づけば、採血は無事に終わっていた。
「採血の結果は来週の月曜日の朝に出ます。 問題がなければ、その日から放射線治療が始まります。」「はい」
「入院前の血液検査では特に異常はありませんでしたので、ご安心ください」「あ、はい」
「治療の時間は当日の朝、担当看護師からお伝えしますので、ご自身で地下の放射線科へ行き、治療を受けてください」「はい」
「それから、担当医師が16時ごろ病室に来て、少しお話しと確認をする予定ですので、必ずそれまでには病室にいてくださいね」「はい」
もちろん、それまでは病室でも談話室でも構いませんが、外出、院外はダメですよ」酒井さんは、少し笑顔を添えて言った。「はい」
俺は『はい』という言葉しか出てこなかった。
看護師の笑顔に “ああ、もう本当に始まるんだ” という実感が胸に広がった。

  月曜の朝。 放射線治療がいよいよ始まる日が来た。
「蓬莱さん、おはようございます。本日担当看護師の佐川です。よろしくお願いします。 体調に変わったところはありませんか? 今日から治療が始まりますので、地下の放射線科へは10時に行ってください。 必ず10時前には到着していてくださいね」
佐川さんは優しくそう言い残し、部屋を出ていった。
俺は指示どおり、10分前に放射線科の受付を済ませた。
待合室にはすでに12人の患者が座っていた。その中で、俺だけが妙に“場違いな場所に迷い込んだ”ような気分になる。
病院の寝巻きを着ているのは3人だけ。 残りの9人は私服姿だ。
空いている席に腰を下ろすと、隣の私服のおばさんが突然話しかけてきた。
「何ガン?」
この場所では、初対面でも遠慮はないらしい。
「中耳と耳の骨です」
そう答えると、
「あら〜、若いのに大変ね。だから入院なんだ」
まるで昔からの知り合いに話すような口調だった。
「私は乳がんなのよ。通院治療なの」
微笑みながら言うその表情に、 “ここにいる全員が何かを抱えている” という現実を改めて感じた。
患者たちが名前を呼ばれ、順番に診察室へ入っていく。
やがて俺の番が来た。
廊下よりもずっと明るい診察室に案内される。
「こちらにお掛けください。おはようございます。蓬莱航さんですね」
医師は、先日撮影した写真付きの名札を確認しながら声をかけてきた。
「はい」
返事をすると、医師は少し表情を曇らせた。
「蓬莱さん、ガンの治療の前に肝臓の治療が必要です。 血液検査の数値がかなり高いですよ」
その言葉が胸に刺さる。
――ガンだけでも十分なのに、まだ他にも問題があるのか。
思考が一瞬止まった。
「多分、ガンの告知をされてから毎日のように酒を飲んでいました。そのせいだと思います。肝臓の数値は1週間くらいで良くなると思います。来週の検査で良くなっていなければ治療をお願いします」
そう言うと、医師は眉をひそめた。
「自覚するほど飲んだのですか?」
「はい、飲みました」
正直に答えると、医師は小さく頷いた。
「ではそうしましょう。 今日から放射線治療を行います。大丈夫ですか?」
「はい、お願いします」
看護師が声をかけてきた。
「では、向かいの『放射線室』と書かれた部屋へ行ってください」
廊下に出て、表示のあるドアのそばの小窓に向かう。
「すみません」
声をかけると、中から返事があった。
「氏名認証を見せてください」
写真付きカードを差し出す。
「蓬莱航さんですね。お待ちしておりました。 先生とはお会いしましたか?」
「はい」
「では、中へどうぞ」
ドアの向こうには、 仰々しい機械が並んだ広い部屋が広がっていた。
――いよいよ始まるんだ。
その現実が、静かに胸に沈んでいった。

 放射線室に入ると、 白衣を着た技師が静かに声をかけてきた。
「こちらの機械の前へお進みください」
促されるまま、 写真撮影機器のような装置の前に立つ。
ピーッという電子音が鳴り、 技師が言った。
「はい、良いですよ。 次は手首のバーコードを見せてください」
手首に巻かれたバーコードをスキャナーで読み取る。
「はい、結構です。今日は初回ですね。治療を始める前に、間違いのないよう、この二段階認証が必要なのです」
――なるほど。 顔認証とバーコードで患者を確認するのか。
俺は妙に感心した。
「では、こちらのベッドへ仰向けで寝てください」
技師に促され、「はい」と答えてベッドに横たわる。
「失礼します。お腹をめくらせてもらいます」
そう言って、へそのあたりまで寝巻をそっと上げられた。
何をされるのか、 痛みはあるのか―― 緊張で身体が固くなる。
上部のライトが点き、 技師はフェイスヘルメットをセットし
「身体をもう少し左へ」
天井からのライトに身体を合わせるように、 軽く押される。
「動きすぎ、右へ」
また押される。
「は〜い、動かないでくださいね」
俺は息を殺し、じっと動かずにいた。
そのとき、 へその上にマジックのようなもので線を引かれたのが分かった。
そして、腹部にベルトが回され、しっかりと固定された。
冷たいベルトの感触が、 “治療が本当に始まる”という現実を 静かに、
確実に伝えてきた。

「では、これより放射線治療を始めます。約 20 分ほど放射しますので、蓬莱さん、くれぐれも動かないでくださいね。よろしいですか?」技師が優しくそう告げると、私は「はい」とだけ返事をした。技師たち二人は静かに隣室へ向かい、窓越しに私を見守る。心臓の鼓動が高鳴り、緊張は頂点に達していた。
「放射を開始します。」スピーカーから技師の声が響くと同時に、機械が重々しい音を立てて動き出した。私は鉄製のベッドにしっかりと固定され、身動き一つ取ることもできない。ただ、まるで遊園地の絶叫マシンに乗った時のような感覚に身を任せるしかなかった。ベッドは上下に動き、放射線を照射する機械が周囲を静かに回転する。匂いは特に感じない。ただ、機械の唸る音と、背中に感じる鉄の冷たさと硬さだけが現実感を与える。痛みはなかったが、長時間同じ姿勢のせいで背中がじわじわと痛くなってきた。やがて音が止み、機械も静かになった。
「はい、終わりです。」技師が2人、再び隣室から現れた。おそらく 20 分ほどが経過していたのだろうが、私には時間の感覚がすっかりなくなっていた。技師たちは「お疲れさまでした。本日の放射線治療はこれで終了です」と明るく声をかけながら、私を固定していたフェイスヘルメットと腹部のベルトを丁寧に外してくれた。私は思わず「あ~」と安堵の溜め息を洩らす。
「まずは、上半身を起こしてベッドに座ってみてください。それと、目印のお腹のマジックのラインはシャワーを浴びても消さないでください」と言われ、返事もままならず何とか起き上がる。すると、体がふらふらと揺れるような奇妙な感覚に襲われた。「めまいや、ふらつきはありませんか?」と技師が心配そうに尋ねる。「少しふらっとするというか、変な感じがします」と答えると、「そうですよね。脳に放射線が直接当たっていますから、今日は車椅子で病室までお送りします。」と言い、女性看護師が車椅子を持ってきてくれた。「お一人で移れますか?」「はい」と答えても、やさしく車椅子へと移乗を手伝ってくれる。
「それでは病室へ戻りましょう。私は体験したことはありませんが、脳への放射線治療を受けた方は、めまいやふらつきがあるそうです。」看護師はそう言いながら技師たちに声を掛け、車椅子を押して病室へ向かった。医師のいる部屋の小窓が開き、何やら短く会話を交わすと、「では、病室へ行きますね。しっかり掴まっていてください」と微笑む。エレベーターを降りて病室へ向かう途中、看護師がいろいろ話しかけてくれたが、私はそれどころではなく、誰も悪く無いのに世界が遠く感じていた。病室に到着し「立てますか?ふらつきやめまいはありませんか?気分が悪くはないですか?」と訊かれ「いいえ」とだけ答える。さらに「少し歩いてみてください」と促され、歩いてみると何とか大丈夫だった。「ベッドで休んでいて構いません。もし具合が悪くなったら、このブザーでいつでも呼んでください。また明日も放射線治療がありますよ」と、やさしい言葉をかけて病室を後にした。
優しい声なのに、俺の胸はざわついていた。
 しばらくすると、担当看護師の佐川さんが病室に入ってきた。「大丈夫でしたか?車椅子で帰って来ましたね。最初はどうしてもめまいやふらつきが出るみたいです。気分が悪ければ、すぐブザーを押してくださいね」と笑顔で言い残し、去って行った。いくら笑顔で、話されても俺の心は追いついて行けなかった。
こうして、今日の治療が無事に終わったことに私はほっとして、深く息をついた。そしてベットで横になり、もう戻れないところまで来たんだと思った。

 夜はどうしても眠れなかった。
千春には嘘をついたままだ。 守は今も店にいるのだろうか。 母は悲しんでいないだろうか。 元気でいてくれるだろうか――。
そんな思いが次々と巡り、 ますます眠れなくなっていった。
結局、さまざまな感情に苛まれたまま朝を迎えた。
 看護師に声をかけられてようやく目を覚ますと、今日の放射線治療は9時30分からだと告げられた。
不味い朝食をなんとか口に押し込み、 治療へ向かった。
2回目の放射線治療は、 めまいもふらつきもなく、感覚としてはすぐに終わった。
ひとりで病室へ戻った。
 入院6日目ともなれば、 余計なことに慣れてしまい、ベッドでゴロゴロしていても落ち着かない。
買いだめしてきた本を読みながら過ごしたが、 思いだけはどうしても巡ってしまう。
読書をしていても目が疲れ、治療のせいなのか、あるいは孤独のせいなのか―― ふと、幼い日の記憶が浮かんできた。
 神童と呼ばれていた頃。 中学1年のとき、112名中ベスト3に入ったと 担任に褒められたこと。
大学進学には金がかかると知り、家が裕福ではない現実を悟り、中1で大学を諦めたとき、胸がすうっと冷えた感覚。
高校時代は読書ばかりしていたこと。
地元のトヨタへの就職で、 “大学が必要だったのかもしれない”
と感じたこと。
国鉄で三沢エアベースを担当したとき、 フェンスの向こうがアメリカだと
知り、 世界の広さを初めて実感したこと。
三沢の英会話スクールに通い、ベースの外国人と仲良くなって酒を飲み、
価値観が大きく変わったこと。
JR を辞めたのも、あの頃の出会いが影響していた気がする。
その日は、幼かった頃の思い出ばかりが 次々と浮かんできた。
気づけば、病室の天井をぼんやり見つめながら、 過去のことばかり思い返している自分に、 ふと苦笑いがこぼれた。

 月曜日、六度目の治療のため放射線科を訪れたとき、 医師から採血の結果が告げられた。
肝臓の数値は正常に戻り、特に問題はないという。
その言葉に、胸の奥で小さく安堵の息が漏れた。
何度も治療を受けるうちに、放射線治療にもすっかり慣れ、ふらつきやめまいも感じなくなっていた。
――人間の身体は、本当に不思議だ。どんな状況にも順応していく。そう思わずにはいられなかった。
しかし、どうしても慣れないものがあった。それは、無為に過ぎていく“暇な時間”のやり過ごし方だった。
治療に慣れたおかげで目の疲れはなくなり、俺は本を貪るように読むようになった。
ベッドに横になりながら、談話室の椅子に腰かけながら、食堂のテーブルに向かいながら―― とにかく、どこでも本の世界に没頭した。
そんなある日、 偶然手に取った一冊の中に、 エミール・M・シオランという哲学者の名があった。
それは、まさに運命的な出会いだった。
誰にも言えなかった痛みを、 初めて言葉にしてもらったような気がした。
生きる意味なんて考えたこともなかったのに、 病室の静けさが、そんな問いを勝手に呼び起こした。

 シオランはこう語る。
『どうしてこんな始末になったのだ? 生まれて来たからだ』 『生まれたという侮辱を、いまだに消化しかねている』 『何を断念しろというのだ? 投げ棄てるべき何が、この私に残っているのだ?』
その言葉が胸に突き刺さった。
貧しい家に生まれたことも、 病気になったことも、 結局は“生まれてきたからだ”――。
その一文に、 心の奥底に雷が落ちたような衝撃を受けた。
もっと彼の思索に触れたい。 その思いが抑えきれなくなった。
病院1階の売店を覗いてみたが、 当然シオランの本など置いていない。
そこで、守に電話をかけた。
「書店か、なければ古本屋でいい。 エミール・M・シオランの本を2~3冊買ってきてほしい」
こんな頼みをするのは気恥ずかしかったが、 どうしても読みたかった。

 3日後の遅い午後。 守が手を上げ、ニコニコしながら病室へ入ってきた。
「よう航、生きてるみたいだな。良かった、良かった」
守はいつもの調子で笑いながら声をかけてくる。
「当たり前よ。まだまだ、これからよ」
俺も冗談めかして返した。
「ようやく古本屋で見つけたぜ」
守は袋から本を取り出し、誇らしげに見せた。
「そうだろう。エミール・M・シオランなんて聞いたことないもんな」
俺が言うと、守はあちこち古本屋を巡った苦労話しを得意げに語った。
「ところで、治療はどうなんだ?」
「放射線治療が主だけど、もう慣れたよ」
「変なものに慣れたな」
守は苦笑しながらも、急に真剣な顔になった。
「千春ちゃんが店に来てさ。お前のこと、東京出張って疑ってたぞ。 寂しそうだった」
胸が痛んだ。
「それで、何て答えたのよ?」
「もちろん本当のことは言わなかった。でも、変な手紙が来たって、疑ってるみたいだった」
守は困ったように眉を寄せた。
「俺、千春を巻き込みたくなくてさ。だから東京出張って嘘を書いたんだ。しばらく会えないって手紙を送った」
そう説明すると、守はきっぱりと言った。
「そんな嘘つかずに、本当のことを伝えた方がいいよ。千春ちゃんは真面目だし、勘の良さそうな女(こ)だからさ」
「でも、話しようがないんだよ。もしかしたら死ぬかもしれないんだぞ。
別れようって言うのか?」
俺は悲しげに言った。
「何とかしろよ。お前が嘘の手紙なんて送るから悪いんだよ。そう思わない?」
守は本音をぶつけてきた。
「弱ったな……ガンと知ったら悲しむだろう」
俺はため息をついた。
「嘘はダメよ。 千春ちゃん、本当に心配してたぞ」
守はきっぱりと言い切った。
「あ〜……何とか考えてみるよ」
俺はまたため息をついた。
「そうしろ。とにかく嘘はダメだ。 俺、そろそろ店の準備もあるから帰るわ。 何とかしろよ。また来る」
守は念押し、手を振って病室を出ていった。
静かになった病室で、俺は思った。
――そうだよな。 嘘をついたままでは、どうにもならない。
本を読んでいる間だけ、俺は現実から逃げていたのかもしれない。

 入院してから2週間が過ぎた。千春のことは気になりつつも、病院での生活には次第に慣れていった。
 毎朝8時ごろになると、担当看護師がベッドまで来て、 検温、血圧測定、体調の確認をしてくれる。8時半ごろには医師が問診と診察にやってきて、月曜から金曜(祝日を除く)の午前中は放射線治療が続く。
月曜日の朝には採血があり、 その日に食堂の3食の献立表が掲示板に貼り出される。
そんなふうに、1日が始まるのだ。
 2週間も入院していると、 暇であることにも不思議と慣れてしまっていた。
治療以外の時間は、 読書をしたり、テレビを見たり、院内を散歩したりして過ごした。
抜け毛が気になり、 思い切って院内の理容室で五厘刈りにしてもらうと、 頭も気分もすっきりした。
嫌いな昼食のときは食堂に足を運び、ラーメンやカレーなど好きなものを食べた。
五厘刈りにしてからは、 売店や食堂で「お先にどうぞ」と声をかけられることが増え、ガン患者に対する思いやりを感じて、 少しだけ心が温かくなった。
 そんなある日、朝目覚めると、 なんとなく体調が優れなかった。
看護師の検温では37度の微熱。
「少し様子を見ましょう。風邪かもしれませんね」
そう言われた。
 そのまま午前中の放射線治療を受けたが、ふらつきとめまいがひどく、
その日は2度目の車椅子での移動で病室に戻った。
ベッドに横になると、今度は寒気がしてきた。
不安になり、看護師の詰め所へ行き、 もう一度熱を測ってもらうと、
今度は38度。
看護師はすぐに言った。
「ベッドで休んでいてください。先生に確認して対応します」
昼食をとる気にもなれず、 俺はそのままベッドに横になった。
病室の天井を見つめながら、 胸の奥にじわじわと不安が広がっていった。
 その後、解熱剤を処方されてベッドで横になっていたが、 熱は一向に下がらなかった。
看護師が体温計を取り出して測ると、 体温はなんと41度。
身体が震えるほどの寒気に襲われ、 「寒いです……」と訴えると、 看護師は少し硬い声で言った。
「夕食を取ってから服用してください。こちら、もう一種類の解熱剤です」
しかし、何度飲んでも熱は下がらなかった。
夕方6時過ぎ、 医師と看護師が病室へやって来て、次々と検査が行われた。
そして、とうとう点滴が始まった。
俺は、 点滴の薬液がポタ、ポタと落ちていくのを ただ見つめるしかなかった。
それでも熱は下がらず、 翌日も朝食は取れず、 点滴は腕につけたままだった。
高熱と寒気は3日間続いた。
朝、看護師に検温してもらうと、ようやく体温は37.5度まで下がり、寒気も消えていた。
食事も少しずつ取れるようになったが、その3日間は、昼なのか夜なのかもわからず、 ただ時間だけが溶けていった。
熱が下がった朝、ぼんやりした頭の奥に、千春の笑顔がかすかに浮かんだ。
その笑顔は、 遠い夢のように揺れていた。

 体調も回復し、いつものように院内を散歩していると、売店の前で花屋さんが花の入れ替えをしているのが目に入った。
ふと足が止まり、「花の注文はできますか?」 と声をかけた。
花屋さんはにこやかに微笑んだ。
「はい、できますよ。何号室ですか?」
「院内じゃなくて、院外への配達をお願いしたいんです。できますか?」
少し驚いたように、花屋さんが問い返す。
「院内から、市内のどこかへですか?」
「はい、浦町までお願いしたいんですが……毎日来ているんですか?」
「はい、大体午前中の早い時間に来ていますよ」
「それなら、明日にします。カードを添えて贈りたいので」
「もし今カードがあれば、ご注文を承りますが」
「今は書いていないので、明日にします」
花屋さんは頷き、「お花の指定はありますか?」と尋ねた。
「白百合を三本、お願いします」
「それだと、今すぐには金額も分かりませんし、住所やお名前もお聞きしないといけませんが……どうしましょう」
少し困ったような表情だった。
「では、配達料も含めた金額を、こちらの売店へ連絡しておきます」
「あ、売店でのお会計でよいんですね。それなら、カードや届け先も、
明日の午前中にレジの方へ渡せます」
「そうしておいていただければ、 明日中か明後日の配達は大丈夫ですよ」
花屋さんは笑顔で応じ、 レジの方にも俺のことを伝えてくれた。
売店の店員も快く頷いてくれた。
「では、明日の午前中に売店で会計を済ませて、カードも渡しておきます。 よろしくお願いします」
「こちらこそ、よろしくお願いします」
花屋さんは少し不思議そうに首をかしげた。
「病院からのプレゼントですか?彼女さん?」
その問いに答えず、 俺は病室へ戻った。
そして、千春に―― カードではなく、手紙を書いた。

御 詫 状 
三上 千春 様
 夏の柔らかな光が病室の窓から差し込む中、 貴女へこの手紙を書いております。
 どうしても伝えたいことがあり、思い切って筆をとりました。 先日お送りした私の手紙――あれは、すべて嘘でした。 本当に申し訳ありません。
 私は5日より青森県東病院に入院し、 がん治療を受けております。 嘘をついてしまったのは、ただ貴女に余計な心配を掛けたくなかったからです。
 もしかすると、このまま命を落とすかもしれません。医師からは「5年生存率30〜40%」と告げられました。つまり、5年後には60〜70%の確率で私はいないということになります。入院期間は約2ヶ月の予定です。
 今は放射線治療を受けておりますが、思いのほか気力もあり、こうして貴女に手紙を綴れる状態でいます。
 どうしても貴女を心配させたくなかった。 弱っていく姿を見せたくなかった。その二つの思いが、嘘の手紙を書かせました。
 本当は別れを告げる手紙にしようとも考えました。しかし、その理由もなく嘘を重ねてしまったことを、心より悔やんでおります。
 嘘をついてしまったこと、心からお詫び申し上げます。
本当に、申し訳ございませんでした。
 今の私の状況を考え、どうか病院へのお見舞いはご遠慮いただきたいです。わがままを申して申し訳ありません。
平成〇年〇月27日  心をこめて    
                              蓬莱 航

 翌日、院内の売店でお金を支払い、手紙を渡し、白百合の花束と手紙の
配達手続きを終えた。                           

 その後の毎日は、 いつものように治療を受け、読書をし、院内を散歩し、入院中の人たちと何気ない会話を交わして過ごした。
「来なくてもいい」と伝えていた友人がふらりと顔を出したり、どこから聞きつけたのか親戚が見舞いに来たりと、ありふれた日常が静かに続いていた。
 千春へ花束と手紙を手配した直後は、無事に届いただろうかと気にしていたが、 やがてその思いも薄れていった。
 ある午後。 ベッドで静かに本を読んでいると、 ふとページをめくる指が止まった。
――視線を感じた。
入口に目を向ける。
 そこに立っていたのは、 真紅の薔薇の花束を抱えた千春だった。
俯き、泣きそうな顔を必死に笑顔へ変えようとしている。 笑おうとしているのに、どうしても笑いきれない顔。
その表情を見た瞬間、 胸の奥がきゅっと痛んだ。
千春は一歩だけ近づき、何か言おうとして、 言葉にならず、 小さく息を震わせた。
俺はベッドから立ち上がり、 彼女のもとへ歩み寄った。
その瞬間―― 千春は突然、俺に抱きついた。
震える肩。こぼれ落ちる涙。 腕の中で、彼女は声にならない嗚咽を漏らしていた。
抱きしめた千春から、薔薇の花の香りがふわりと立ちのぼり、胸の奥に静かに沁みていった。
俺は少し照れながらも、そっと千春を抱き返した。
千春は、涙声で確かめるように言った。
「……生きてる」
俺はただ、「うん」と小さく答えた。
「もう嘘はつかないで」
その言葉は震えていた。
いつまでも抱き合っていたかったが、 周囲の視線が気になり、それも叶わなかった。それでも、30秒ほど―― 互いの体温を確かめるように身を寄せ合った。
病棟の窓から差し込む午後の光が、千春の涙を静かに照らしていた。
やがて俺は、千春の右肩にそっと手を添えたまま、彼女を廊下へと導いた。
2人で病棟の東側にある談話室へ向かい、並んでソファに腰を下ろす。
「死なない。死ねない」
俺が静かにそう告げると、 千春は「絶対よ」と力強く言い、 まっすぐ俺の顔を見つめた。
その瞳には、もう涙はなかった。
そして千春は、気を取り直すように微笑んだ。
「お見舞いに真紅の薔薇を持ってくるなんて、ちょっと変よね。赤い薔薇の花言葉、知ってる?」
「分からない」
そう答えると、千春は少し照れたように言った。
「航さん、赤い色が好きでしょう? それに薔薇の花言葉は……情熱、恋、愛。私の恋や愛のために、生きる情熱を持って、とにかく生き抜いてよ。
それだけでいいの」
その真剣な眼差しに、胸が熱くなった。
「まあ……死なずに退院はできる。でも、その先は……正直、分からない」
そう言うと、千春はそっと俺の手を握った。
「私、前に一緒に行った善知鳥神社に祈りに行ってるのよ」
「ありがとう。きっと千春の祈りは届くと思う。 ……おみくじのような確率かもね」
千春は小さく笑い、続けた。
「航さん、白百合の花言葉はね――純潔、無垢、威厳。 私に贈ってくれたのは、その意味も考えていたんでしょう? あんな見たことない詫状と一緒にね」
その笑顔には、ようやく本心が少しだけ表れていた。
「千春さんには、すごく似合っていると思ったんだ」
「私には少し不釣り合いかもしれない」
千春は恥ずかしそうに言った。
「窓の外を見てごらん。 2人でヨットに乗った時の湯ノ島、鷗島が遠くに見えるよ」
そう促すと、千春は少し拗ねたように言った。
「前にヨットの上で“死なせない、死なない”って約束したじゃない」
「そうだったね」
俺は静かに応えた。
「退院したら、またヨットに乗せてね。約束して」
千春は少し甘えるように頼んだ。
「ああ。また一緒にクルージングしよう」
2人はしばらく黙ったまま、 ただ互いの目を見つめ合っていた。
沈黙の中、時間だけが静かに流れる。
――できることなら、この時間が止まってくれたらいいのに。
俺の命も、2人の愛も永遠ではないことは分かっている。それでも、終わりが来るのはこの瞬間ではないと、 窓の向こうの海にそっと祈った。
「長居はできないわ。後で、これ読んでね」
千春はそっと手紙を差し出した。
「分かった。返事は書けないけど、必ず読ませてもらうよ」
「そろそろ帰るわ。本当に元気で退院してね。また……来てもいい?」
少し照れたように尋ねる千春が、 どうしようもなく愛おしかった。
「ああ、いいよ」
そう答えた瞬間、 “死んでいられるか”と心の中で思い直した。
エレベーター前まで、 周囲の目も気にせず、2人で手をつないで歩いた。
エレベーターが来るまでの間、千春はずっと下を向いたまま、
何も言わなかった。言えば泣いてしまうと、自分で分かっているように。
「元気でね。また来るわ」
千春はそう言って手を振り、静かにエレベーターに乗り込んでいった。

前 略
蓬莱 航 様
 初秋の陽射しが心地よい季節となりましたが、 私の心は暗闇に包まれているような思いで、この手紙を書いています。
あなたが元気ではないことを、突然のご連絡ではじめて知りました。 どうして、病気が分かったとき、入院前に私へ伝えてくれなかったのでしょうか。  私は航さんにとって信頼されていなかったのかな、と少し思ってしまいました。すぐに教えてもらえなかったことに、正直、怒りも感じています。
 私は航さんを心から愛しています。これは、決して嘘ではありません。
愛する人には、何があっても先立つことを許したくありません。
 航さんは、生存確率や死亡確率など、数学のように病気について説明してくれますが、先生のおっしゃる「%」とは一体何なのでしょうか。ただの確率だとおっしゃったのは、航さん自身ではありませんか。
航さんの病気を知り、私はさまざまな覚悟を決めました。
 生きるとは何か、人生とは何かを深く考えています。 航さんに余計な心配をかけたくないので、今はまだお伝えできませんが、一つだけお知らせできることがあります。
 近々、私は仕事を辞めるつもりです。 自分自身の人生を歩んでいきたいと思っています。
 私は航さんを心から愛しています。これは、決して嘘ではありません。
私は……信頼されていなかったのかな、とやはり思ってしまいます。
愛する人には、何があっても先立つことを許したくありません。
 どうか、頑張って一日も早く病気を克服してください。 私の愛があなたを癒せるならと、いつも願っています。
 この手紙を航さんが読んでいるということは、 私が航さんの思いを守らず、病院にお見舞いに行ったということです。 そのことについて、心よりお詫び申し上げます。 どうしても航さんに会いたかったのです。
 本当にごめんなさい。
                               かしこ
平成〇年〇月吉日日                     三上 千春
 P.S. 航さんを愛し、回復を祈る愚かな女より

 手紙を読み終えたとき、 俺は泣き笑いのような顔になっていた。
千春が仕事を辞め、 自分の人生を歩き始める―― その言葉の意味が胸に重くのしかかる。
俺の性格がそうさせたのか。それとも、俺が病気で“生の縁”に立っているからなのか。
どちらにしても、 いまの俺には千春の人生まで背負って悩む余裕などなかった。
退院までに少しでも快方へ向かうこと。 そして、千春に会って、直接聞くこと。
それだけが、いまの俺にできる唯一の答えだった。
そう思いながらも 千春の、言葉は胸の奥で静かに疼き続けていた。

 そうしているうちに、放射線治療は予定の30回をすべて終えた。
治療の効果を確かめるため、2度目のCT検査を受けることになった。
もう慣れた手順のはずなのに、胸の奥だけはざわついていた。
結果は、その日のうちに出た。
医師は画像を見つめたまま、少し首を傾げて言った。
「……ガンの影が、ないですね」
その言葉が耳に届いた瞬間、胸の奥が熱くなった。
その熱は、久しぶりに感じる“希望”に近かった。
「本当ですか」
思わず声が震えた。
医師は慎重な口調で続けた。
「CTには写らないだけかもしれません。PET-CTなら映る可能性があります。退院後もう一度、弘前のPETセンターで検査を受けてください」
喜びと不安が入り混じったまま、俺は静かに頷いた。
こうして、49日間の入院生活は幕を閉じた。
病棟の廊下を歩く足音が、やけに軽く感じられた。

 49日間の入院生活は、思っていた以上に長かった。
病院を出た瞬間、 外の空気が胸の奥まで染み込んでくる。
そのまま自宅へ向かい、玄関を開けると、母が駆け寄ってきた。
「本当に……よかった……」
母は泣きながら、何度も俺の腕を握りしめた。その手の温かさに、ようやく “生きて帰ってきた” という実感が湧いた。
次に迎えてくれたのは、愛猫のモカとふわりだった。
2匹は足元にまとわりつき、 鳴き声を上げながら俺に飛びついてくる。
思いきり抱きしめると、柔らかな毛並みと体温が胸に広がり、帰ってきた
喜びが静かに込み上げた。
「まずは……ビールだな」
まだ昼間だというのに、 冷蔵庫から一本取り出して栓を開けた。
喉を通る冷たさが、 49日ぶりの“日常”を思い出させる。
そのまま自分のベッドに倒れ込み、 深い眠りに落ちた。
夕方近くに目を覚ますと、 台所からいい匂いが漂ってきた。
母が、俺の好きなものばかりを食卓に並べてくれていた。
箸をつけた瞬間、 懐かしい味が胸を締めつけ、 思わず少しだけ感傷的になった。
  
 午後六時。 俺は電話を手に取り、千春の番号を押した。
2回目の呼び出し音で電話がつながる。
「はい、三上です」
その声を聞いただけで、 胸の奥が熱くなる。
「千春さん」
「……航さん?」
「俺だよ。今日の午前中に退院して、家に帰ってきた」
一瞬の沈黙のあと、千春の声が震えた。
「……よかった。本当に……よかった」
その涙声に、 俺は言葉を失った。
しばらくして会う約束をし、電話を切った。
受話器を置いたあと、静かな部屋に、自分の心臓の鼓動だけが響いていた。

 退院から3日後、俺は再び弘前のPETセンターを訪れた。 2度目の検査は、前回とまったく同じ手順のはずなのに、 胸の奥だけは落ち着かず、どこかざわついていた。
検査を終えると、事務の女性が丁寧に言った。
「本日中に青森県東病院へ画像を送っておきますので、予約を取って、そちらで結果をお聞きください」
その言葉に頷き、俺はすぐに予約を入れた。 そして翌日、東病院の診察室の扉を叩いた。

 担当医師は、モニターに映る画像をじっと見つめ、やがてはっきりとした声で言った。
「蓬莱さん。PETーCT検査でも、ガンは消えています。思った以上に放射線治療が効きましたね。これなら抗がん剤治療は必要ありません」
その瞬間、胸の奥が熱くなった。 思わず前のめりになり、声が震える。
「……本当ですか。もう完全に治ったということですか」
医師は首を横に振り、慎重な口調で続けた。
「いえ、完全に治ったわけではありません。これから5年間、定期的に通院して検査を続けます。5年間再発がなければ、その時点で“寛解”と判断します」
5年――長いようで、短いようで、それでも確かに“未来”のある言葉だった。
「……分かりました」
自分でも驚くほど明るい声が出た。きっと笑っていたのだと思う。
医師は軽く頷き、カルテを閉じた。
「よかったですね。では次の予約を取って帰ってください」
「ありがとうございます」
弾む声で礼を言い、俺は診察室を後にした。 病院の廊下を歩く足取りは、 退院の日よりもずっと軽かった。

 東病院でPET-CTの結果を聞いた日の翌日、俺は会社へ向かった。 久しぶりの出社に、少しだけ胸がざわつく。
フロアに入ると、皆が一斉に声を掛けてくれた。
「退院おめでとう、蓬莱。治ったのか」 「よかったな、本当に」
その言葉に、胸の奥がじんわり温かくなる。
「CTも、PET-CTの精密検査でもガンの影は消えました。 これから5年間は経過観察で通院が必要ですが……とりあえずは治ったようです。 長く休ませていただき、ありがとうございました」
そう頭を下げると、支社長が近づいてきた。
「蓬莱、本当によかった。君がいない間、支社は大変だったんだぞ。だが、無理せずに仕事をしてくれればそれでいい」
そう言ったあと、支社長はふと思い出したように続けた。
「ところで蓬莱、以前ホールのイベント台本を何本か書いていたな」
「はい。4本ほど書きました」
「なら、休業も兼ねてだ。 読朝新聞社主催の“創作大賞”に小説を書いてみないか。今の仕事はサポートで十分だ。支社としても、入選者を出したいんだ」
突然の提案に驚きつつも、胸の奥が少しだけ高鳴った。
小説は読むのは好きだが、書くとなると話は別だ。それでも、どこかで“面白そうだ”と思っている自分がいた。
「どんな小説ですか?」
「ジャンルは何でもいい。恋愛でもミステリーでもホラーでも。 短編でも長編でも、詩や俳句でも構わないらしい。 詳しくはこれだ」
支社長はパンフレットを手渡してきた。ざっと目を通すと、本当に何でもありの自由な募集だった。
――これは、挑戦してみてもいいかもしれない。
「支社長、今の私の身体ではあまり動けませんし…… 良い機会なので、ぜひ書かせてください」
そう言うと、周りの社員たちが口々に言った。
「蓬莱なら大丈夫だ」 「書けるよ、お前なら」
支社長は満足そうに頷いた。
「決まりだ。蓬莱、在宅でも構わんぞ」
「はい。頑張ります」
言葉にしてみると、不思議と気持ちが前へ動き出した。 ――これから、小説を書こう。
「まだ病気休暇の期間中だ。さっそく本屋に寄るなり、自宅で構想を練るなりしてくれ。 何かあれば電話する」
「では、まず素材を考えます。お言葉に甘えて、今日は失礼します。 何かありましたら連絡ください」
そう言って、俺は支社をあとにした。
外の空気は、昨日よりも少しだけ軽く感じられた。

 医師から「CTでもPET―CT検査でも、ガンは映らない」と告げられた週の土曜日。午後の光が傾き始めたころ、俺は千春とマロンで待ち合わせをした。退院後、初めての再会だった。
 店に入ると、千春はすでに席に座っていた。俺が近づくと、彼女は立ち上がり、小さく微笑んだ。
「お待たせ。……待った?」
「退院、おめでとう」
それだけ言うと、千春はそれ以上何も言わなかった。 その沈黙が、かえって胸に沁みた。
「毎度様。航さん、アイスコーヒーでいい?」
店員の声に、俺は軽く頷いた。
「はい、アイスコーヒーで」
千春はホットコーヒー。 苦くて、少し甘い――初めてのデートの日の記憶が、ふっと胸をよぎる。
 あの日は、俺ばかりが饒舌だった。 けれど今日は、千春の目を見つめたまま、言葉がひとつも出てこない。 千春もまた、俺の顔を見つめるだけで、
何も話さなかった。
話したいことは山ほどある。 病気のこと、手紙のこと、千春の決意のこと。それなのに、どれも声にならず、 2人はただコーヒーを口に運ぶだけだった。
ようやく千春が、ぽつりと言った。
「……濃いわね」
「濃くて、美味しいな」
「入院、大変だったわね」
「まあ……取りあえず、治ったらしい」
どれも他人行儀で、どれも本音じゃない。それでも、言葉を選ぶしかなかった。
しばらくして、千春が困ったように視線を落とした。
「……車で、二人だけになりたい」
その言葉に、胸の奥が静かに揺れた。
「俺も、そう思ってた。コーヒー飲んだら、出よう」
千春はカップを手に取り、 俺はストローを咥えゆっくりと最後の一口を飲み干した。

 2人は車に乗り込み、ゆっくりとフェリー埠頭へ向かった。エンジンの音と、車内に流れるレゲエが、どこか懐かしいリズムで鼓膜を揺らす。
走り出してすぐ、千春がぽろぽろと涙をこぼした。 その横顔を見ていると、俺も胸が締めつけられ、泣きそうになった。
「……検査でガンの影はなかった。とりあえず治ったらしい。でも、5年間は通院して、それで再発がなければ寛解だって」
そう伝えると、千春は涙を拭いながら言った。
「もう……死ぬことなんて、ないのよね」
「いつかは死ぬだろうけど、今回は大丈夫みたいだ」
しばらくして、千春の涙はようやく落ち着き、泣き笑いの顔で俺を見た。
「誰だって、いつかは死ぬわよ。でも航さんは、死なない。だって……何%かの確率で死ぬ予定だったんでしょう?私の愛の祈りが届いたのよ」
その言葉に、胸の奥が熱くなった。
「ありがとう。千春の愛って、強いね。ところでさ……会社、辞めるの?」
冗談めかして笑いながらも、真剣に尋ねた。
千春は前を向いたまま、落ち着いた声で言った。
「その話は、後でちゃんと説明するわ。長くなるし……運転中は危ないもの」
「そうだよな。人生の話だもんな」
そう言うと、千春はふっと笑い、少し意地悪そうに俺を見た。
「東病院、綺麗で若い看護婦さん多いわよね。49日も入院してたんだから…… 好きになった人の1人や2人、できたんじゃない?」
「いやいや……」
冗談とも本気ともつかない会話を交わしているうちに、 車はフェリー埠頭に着いた。
空いている海の近くに車を止める。 潮の匂い、波の音、風の温度――
どれも久しぶりで、胸の奥がじんわりと温かくなった。
 海はいい。 匂いも、音も、雰囲気も。生きて戻ってきたことを、改めて実感させてくれる。

「改めて……退院、おめでとう」
千春がそう言い、俺は「ありがとう」と返した。 次の瞬間、2人は自然に引き寄せられ、長いキスを交わした。 涙の味が少し混じっていた。
長いキスが終わると、千春は息を整えながら切り出した。
「私の……仕事のことなんだけどね。聞いてくれる?」
「もちろん。しっかり聞かせて」
千春は頷き、ゆっくりと言葉を選び始めた。
「私、会社では事務員って言っても、半分は雑用とお茶くみなの。やりがいなんて全然ないのよ」
「女性事務員って、どこもそんな感じだよな」
そう言った瞬間、千春の表情がきゅっと強くなった。
「その考え方が、間違いなのよ。親は結婚と孫のことばかり。会社の男性社員も、しょっちゅう言うの。 “誰かいい人いないの?”って。 寿退社を待ってるのよ、あれは。口には出さないけど、28歳もう直ぐ30歳の私より若い子に替わってほしいって思ってる」
そして、まっすぐ俺を見つめてきた。
「航さんも……会社の女子事務員に、そう思ってない?」
「いや、うちは違うよ。女性事務員も終身雇用で、責任ある仕事を任されてる」
「大きい会社はそうよ。でも青森の地元企業は違うの。結婚したら再雇用はパート“女はそういうもの”って空気が、ずっとあるの」
千春の声には、長い間押し込めてきた思いが滲んでいた。
「話を戻すけど……だから私は会社を辞める。硝子職人になるの。もう津軽ビードロの北海硝子に面接に行ってきたのよ “やる気があれば歓迎します”
って言われた」
その目は、迷いのない光を帯びていた。
「千春に覚悟があるなら、硝子職人になればいい。1度かぎりの人生なのだから、決めるのは千春だよ」
俺がそう言うと、千春は小さく息を吐き、続けた。
「それでね、失業保険をもらっている間に、 フランス、イタリア、
チェコ…… 観光も兼ねて、いろんな硝子工房を見て回りたいの」
千春は、海を見つめながら静かに言った。
「賛成だよ。 俺なんて嫌なことは続けられなくて、転職ばかりしてきた。 大事なのは“決意”だよ、千春」
そう言うと、千春はゆっくりと頷いた。その横顔には、迷いよりも光があった。
「来週、辞表を出すわ」
「実は俺も、小説を書くことになったんだ。 読朝新聞の“創作大賞”に応募しろって、支社長の命令でさ。これも、俺なりの人生の挑戦だ」
「じゃあ……祝わなきゃね。銀魚に行こう」
「いいわね」
二人の声は、海風にさらわれるように静かに溶けていった。

 二人は手をつないで、銀魚への階段をゆっくり上がっていった。 階段の途中から、スザンヌ・ヴェガの「My Name Is Luka」が微かに聞こえてくる。 ドアを押すと、いつもの匂いがふわりと漂った。
薄暗い店内で、守がカウンター越しに声を上げた。
「毎度! 航、退院おめでとう。やあ、千春ちゃん、いらっしゃい」
席に着く前に、俺は言った。
「守、クール&ザ・ギャングの“Get Down on It”かけてくれ」
千春をカウンター席に促し、俺も隣に腰を下ろす。
「飲む前からリクエストかよ」 守は笑いながらレコードを取り出し、
すぐにターンテーブルに乗せた。
軽快なリズムが店内に広がる。 俺の気分は、もう浮かれ始めていた。
「今日は、2人のお祝いなんだ」
そう言うと、千春は小さな声で「こんばんは」と微笑んだ。
「退院祝いは分かるけど……もしかして婚約?」 守が冗談めかして言う。
千春はまだ一口も飲んでいないのに、少し頬を赤らめていた。テーブル席には3組ほど客がいたが、カウンターは俺たちだけ。音楽が心地よく響き、
店の空気がゆっくりと温まっていく。
「何にする?」
俺は千春に「ビールでいい?」と確認し、「2人ともビールで」と守に告げた。
途中から俺はウイスキーに切り替え、千春はソルティドッグや他のカクテルを楽しんだ。
守は相変わらずだ。
「航、いつ死ぬの? 婚約したの?」 そんな訳のわからないことを言いながら、好きな曲を次々にかけてくれる。
酒のせいもあるが、気分はとても良かった。千春もずっと微笑んでいて、その笑顔を見るだけで胸が温かくなった。
 俺はふと、ジミー・クリフの ”Many Rivers to Cross ”が聴きたくなり、
最後にその曲をリクエストした。 店内に流れ始めたあの深い声とメロディが、 今日までの長い道のりを静かに包み込んでいく。
 曲が終わり、二人は店を出た。 その夜、俺たちは長い時間をかけて、
互いの無事を確かめるように寄り添っていた。

エピローグ
「さあ――2人の未来に向けて、出航だ」
俺は声を張り上げた。幸いにも雨は上がり、南西の風は4メートルほど。
ディンギーにはちょうどいい風だ。 日差しも柔らかく、かもめの声さえ2人を祝福しているようだった。
「はい、船長」
千春が笑いながら返事をする。 初めてヨットに乗ったときは震えていた
彼女も、いまでは“タック”“ジャイブ”“ランニング”の指示に 自然と身体が反応する。すっかり頼れるクルーになった。
「3時方向、見てみろよ」
「わあ……虹だわ。なんて素敵なの」
千春の声が弾む。
「雨上がりだからな。だから雨も、悪いことばかりじゃないんだよ」
「どこへ行きたい?函館でも行くか?」
「航のお勧めのところへ」
その言葉が、風よりも優しく胸に届く。
「千春を死なせないし、俺も死なないよ。安心していい。しっかり操船しよう。3日後は空の上だな」
「待っていてね」
「ああ、いつまでも」
2人の人生の航海は、これから始まる。 時化の日も、雨の日もあるだろう。 2人の操船で、行き先も、命の重さも変わっていく。
その緊張感が、なぜか甘く感じられた。 あの若い日の午後だった。
  
 千春は硝子を吹き、航は言葉を紡ぐ。 それぞれの工房で、それぞれの熱を抱えながら、 2人は静かに未来へ歩き出した。
航は読朝新聞の「創作大賞」に応募する。千春は新しい硝子の炉に火を入れる。
 2人の未来は―― まだ誰にもわからない。 けれど、どこかでまた、同じ風が、きっと2人を運んでくれる。


あ  と  が  き
  何十年という時間が過ぎても、二人は変わらず毎日、海を見つめていた。 海はいつも同じようで、決して同じではない。 風が波をつくり、海鳥が軌跡を描き、船が一瞬の影を落とす。その絶え間ない変化だけが、世界の唯一の誠実さのように思えた。

 蓬莱と三上という苗字のまま、子を持たずに生きてきた。 それは喪失ではなく、選択だった。 2人きりの人生――その静けさを守るために。
2人は、とても幸せな人生の選択をしたと思っている。
ただ、猫たちだけは例外で、彼らはいつの間にか家族になった。
人よりも、時間の残酷さを知らない存在のほうが、2人には似合っていた。

 航はいつものようにアイスコーヒーを、 千春は変わらずホットコーヒーを手にしている。 航が煙草に火をつけると、千春はわずかに顔をしかめて
「煙い」と言った。 その一言に、航は笑った。 若い日の午後から、何ひとつ変わらない笑い方で。

 あの日からずっと、 2人はそれぞれの工房で、それぞれの熱を抱えながら生きてきた。 熱はいつか冷めると思っていたが、 冷めたのは世界のほうで、 2人の熱だけが奇妙に残った。

 今日の海は静かで、 風は南へ流れていた。その風がどこへ向かうのか、 もう追いかける必要もない。2人はただ、そこに座り、 世界がゆっくりと
遠ざかるのを見ていた。
 
        

#創作大賞2026 #恋愛小説


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