『友情結婚』第2話
☆第1話とあらすじはこちらから
※各話へのリンクもあります
《第2話:新しい生活》
春の暖かい空気と柔らかな匂いが過ぎ、木ノ宮広告とのプロジェクトを無事に終えると同時に雨の季節がやって来た。と思ったら、梅雨が明けたのは例年よりも早く、アスファルトを照りつける日差しが日に日に強くなっている。
川辺に会社で待ち伏せされ、無理矢理連れて行かれそうになった日、宮田は川辺に何を言ったのか「秘密です」と教えてくれないので分かっていないが、次に打ち合わせがあった時、川辺は礼の顔を見てビクッと怯えていた。
目を合わせようとせず、単独プレーもしない。あれほど苦痛に感じていたしつこいアプローチも一切なくなり、拍子抜けするほどだった。おかげでプロジェクトの進行のみに集中でき、イベントも大盛況で幕を閉じた。
父が組んだお見合いも、「結婚したいと思った大切な人がいる」と伝えて断り、宮田を連れて三重へ帰った。彼氏が居る気配のなかった娘が婚約者を連れて来たことに母は目を白黒させていたが、宮田と話しているうちに打ち解けていき、家を後にする頃には「いい人に会えてよかったわね」と言っていた。
父はいつものようにぶっきら棒な態度で、反対するつもりなのかと思ったが、結局何も言わなかった。
お見合いは、どうやら親同士が結婚する気配のない子どもたちを心配して勝手に組んだもののようで、礼も議員の息子も望んでいなかったらしい。勝手なことをするなと、息子さんが大激怒していたと後から聞いた。
本来なら、鹿児島にあるという宮田の実家へも挨拶へ行くべきだったのだが、礼の仕事が佳境に入っていて休みを取れず、時間を作れなかった。
機械の操作が苦手なご両親に代わって宮田が実家に置いてきていたパソコンを遠隔操作してビデオ通話をし、自己紹介をした程度で、直接会えていない。
だから、顔を合わせるのは、1週間後に控えた両家顔合わせが初めてとなる。
「あれ、礼さん、緊張してます?」
「はい、とっても・・・」
「気が早いですね。顔合わせは1週間後なのに」
そう言って、宮田は満面の笑みを浮かべる。ここ最近の宮田は、いつも楽しそうだ。
駅までの坂道を、人ひとり分空けて歩く。今日も変わらず、宮田は必ず車道側を歩いてくれる。車が通るとさりげなく守ってくれ、彼の、そういうところがいいな、といつも思う。
「家が無事に決まってよかったですね」
「はい。でも、私の会社の方が近くなってしまいましたけど、本当にいいんですか?」
「大丈夫ですって。俺はリモートもできるので問題ないです」
先ほど、不動産屋で賃貸契約を済ませてきた。物件探しは有給消化期間に入った宮田が率先して情報を集めてくれた。
礼と宮田の会社の中間のエリアで探していたが、希望に合致する物件を見つけられず、礼の会社の近くに希望通りの物件を見つけてくれた。恐縮する礼に、俺は基本的にリモートワークだから、と言って彼は優しく笑った。
「それよりも、明日の作戦会議しましょう。入籍日とか、結婚式はどするのかとか・・・いろいろ聞かれると思うので。礼さんと方向性のすり合わせをしておきたいです」
「分かりました。お昼ご飯を食べがてら会議しましょう」
駅に戻る道中に見つけたカフェに入り、コーヒーと軽食を頼む。宮田は頼んだパスタが届くと、少し取り分けて礼にくれた。
「ありがとうございます」
「いえいえ、美味しそうなものは礼さんにも食べてほしいので」
お返しに礼の頼んだジェノベーゼのピザを取り分けて渡すと、嬉しそうに笑った。礼もつられて表情が緩む。
宮田はパスタを美味しそうに食べながら、切り出した。
「まず、呼び方ですけど、流石に宮田さんと呼ばれると、怪しまれてしまうので、名前で呼んでほしいです。俺はちゃっかり礼さんって呼んでますし」
宮田は、友情結婚をすると決めた後から、「桜沢さん」ではなく、「礼さん」と呼ぶようになった。
「俺の両親とはテレビ通話でしたし、名前を呼ぶ機会もなかったので大丈夫でしたけど、礼さんのお義母さんは・・・はじめは怪しいなって顔をしてましたよ」
「ごめんなさい」
確かに、三重へ宮田を連れて帰った時、「宮田さん」と呼ぶ礼を美保子が怪しんでいた。あわてて「遥斗さん」と呼ぶように意識したが、「宮田さん」と言いかけることが多く、誤魔化すのに苦労した。
「謝らなくていいんですよ。この機会に、両親の前だけじゃなくて普段から名前で呼んでほしいなって思ったんです」
名前で呼ぶ、か。無難に名前にさん付けで呼ぶのが1番良いだろうか。それとも、あだ名・・・?
礼が思案していると、宮田が控え目に提案した。
「遥斗くんって呼んでくれると嬉しいです。あ、もちろん礼さんがよかったらですけど」
よかったらも何も、そう呼んで喜んでくれるなら礼が拒否する理由はない。
「分かりました。遥斗くん・・・とお呼びしますね」
呼び慣れないので、声が上ずってしまった。一瞬、頬が熱くなり、恥ずかしくて顔を伏せる。遙斗くんにばれていないといいのだけど。
「ふふ、ありがとうございます。嬉しいです」
遥斗は照れたように笑った。どうしてこの人は、名前を呼んだだけでこんなに嬉しそうにしてくれるのだろう。
「入籍日は7月の大安の日にしませんか?証人はせっかくなので、両親に頼もうと思っています。は、遥斗くんは、何か希望はありますか?」
まだ遥斗くんと呼ぶのに慣れず、甘噛みした。遥斗はどんな顔をしているのか。恐る恐る見ると、穏やかに微笑んでいた。
「早く慣れてくださいね。今日は特訓にしましょう」
「はい・・・怪しまれない程度には慣れてないと、ですね」
「まあ、あまり気負わないでくださいね。入籍日は7月の大安の日にしましょう。苗字はどちらのものにしますか?」
「え?私が遥斗くんの苗字になると思っていたんですけど・・・」
宮田姓になるとばかり思っていた。遥斗が礼の苗字になるなんて発想自体なかった。
「桜沢礼さんって、素敵な名前じゃないですか。もったいないな~と思いまして。それに、俺の方が時間あるから、名前の変更手続きとかできますしね」
遥斗が、素敵な名前だと言ってくれたことが何よりも嬉しい。考えもしなかったことに面を食らったが、胸にじんわりと温かいものが広がった。
ただ、礼の両親に男性が女性側の姓になる発想はないだろう。少なくとも、礼の母の美保子はそうだ。遥斗が桜沢姓になるなんて聞いたら、泡を吹いて倒れかねない。
「そう言っていただけて、とっても嬉しいです。遥斗くんは・・・桜沢姓になることに嫌だと思わないんですか?25年間ずっと使ってきた大切な名前なのに」
「俺は、特に名前に対してこだわりはないです。宮田よりも桜沢の方が綺麗な苗字だなって、むしろ桜沢姓になりたいなって思っているくらいですよ」
そう言う遥斗は、本心で言っているようで、無理をしている感じはしない。本当にこだわりがないのだろう。
「でも、私たちの気持ちはどうであれ、両親は反対しそうな気がします。私の母は特に。遥斗くんのご両親がどう思われるのかも気になります」
「あー、そうですね。礼さんのお義母さんはそんな感じします。ウチの両親は・・・母は気にしないじゃないですかね。父は反対しそうですけど。俺は次男なので、兄貴ほど強くは言われないですけど、跡継ぎが~とか宮田家を残す~とかよく言っていますからね。大した家柄じゃないのに」
遥斗が顔をしかめる。遥斗の父は典型的な九州男児らしく、男は外で仕事をして稼ぎ、女は男の3歩後ろを歩き、家事や育児をして家を守ることが仕事だと考えるタイプで、宮田家を守ることに必死なのだそうだ。そういった価値観で生きているのは、おそらく礼の両親と変わらない。
「そういうことなら、私が宮田姓になります。私も名前にこだわりはありませんし、変に揉めて結婚自体なかったことになる方が嫌です」
「え、でも・・・本当にいいんですか?手続きも大変なのに」
納得いかない、という顔をしている。礼が両親を気にして苗字を変えると言ったことを気にしているのだろう。
「はい。名前にこだわるよりも、遥斗くんのパートナーになることの方が私にとっては大事です。名前が変わったからといって、桜沢礼として過ごしてきた時間がなかったことにはならいし、思い出もたくさん残っています。私は私、です。宮田姓になれるのも嬉しいですよ」
そう言って微笑むと、遥斗が下を向いて考え込んだ。ややあってから、顔を上げると、真剣な瞳をしている。
「分かりました。手続き関係は、スムーズに済むように調べておきます」
「ありがとうございます。助かります」
礼が頭を下げると、「俺の方が暇なんだから当然です」と笑って言われた。軽食を食べ終わり、デザートを食べたいと遥斗がメニューを広げる。
メニューをめくっていると、カフェが売りにしている厚めのパンケーキを見つけ、目を輝かせた。一緒に食事をするようになって気づいたことなのだが、遥斗は甘い物が好きらしい。
「礼さんは、結婚式ってやりたいですか?」
店員に遥斗がパンケーキを頼み、その様子を微笑ましく見ていたら、店員が厨房に戻っていったあとに質問が飛んできた。
やりたいも何も、友情結婚なのだから、やる必要性を感じない。それが礼の考えだった。
「えっと・・・やらないものだと思っていたんですけど、遥斗くんはやりたいですか?」
「俺はどちらでも。ただ、結婚式をやらないとなると親がうるさいと思うので、それなりの理由が必要だと思います」
「そうですね・・・」
礼の周囲で結婚した人は、地元に残っている友達は結婚式を挙げていたが、大学の友達は新居や旅行にお金をかけたいとウェディングフォトを撮るだけで良いという人の方が多い。美和も披露宴は行わず、大我さんと二人きりで結婚式を挙げるだけだと言っていた。
形骸化されてきているとはいえ、もともと結婚は家と家同士のことだ。礼の周囲に結婚式を挙げている人の方が少なかったため、しないものだと思い込んでいたが、あの美保子が結婚式を挙げないと言って納得してくれるかは分からない。
「私の友達は、結婚式を挙げる人がほとんどいませんでした。友情結婚のことは、この間話した・・・美和以外には言うつもりはないので、できれば挙げない方向でお願いしたいです」
「説明が難しいですからね・・・結婚式は止めておきましょうか」
「はい。ありがとうございます」
となれば、何かとうるさそうな両親をどう説得するかだ。ただ「やりたくないから」と言っても納得はしてもらえないだろう。
どう説明すれば納得してくれるだろうと思考を巡らしていると、遥斗が少しだけ身を乗り出して礼に悪戯っ子のような顔向けた。
「結婚式を挙げない理由ですけど、俺からどう説明するか提案があります」
「何でしょう?」
礼が首をかしげると、遥斗は内緒話をするように、礼に話す。その内容を聞いて、礼は瞳を輝かせる。
「それ、とってもいいですね」
「でしょう?」
遥斗はいつになく得意げな顔をした。
*****
その日起きた時の天気は、雲一つない晴天だった。ベッドから起き上がった礼は、カーテンを開けて朝日を浴びる。両腕を伸ばして姿勢をキープすると、身体がほぐれていくようで気持ちいい。しばらくその感覚を満喫すると、レースカーテンをシャッと閉めて準備に取りかかる。
今日は、両家顔合わせの日だ。
礼と遥斗は東京、礼の両親は三重、遥斗の両親は鹿児島、と住んでいる場所がバラバラで交通の関係もあり、中間地点で場所を設けることができなかった。1番遠方である遥斗の両親は、前日に飛行機で東京まで来てくれていたので、空港近くの格式高い料亭の個室を予約している。
「礼さん、こっちです」
料亭の近くまで行くと、早めに出たのに遥斗がもういた。スーツ姿で、背筋を伸ばした姿は凜としている。
スーツは仕事をしている時も着ていて変わらないのに、いつもと違う雰囲気が漂っていて新鮮だ。
「早いですね」
礼が声をかけると、遥斗が嬉しそうな顔をして爽やかな笑顔を浮かべた。
「緊張で落ち着かなかったので、早めに来ちゃいました」
「私も同じです。私の格好・・・変じゃないですか?」
今日のためにおろした黒のワンピースのシワを手で直しつつ、本当に大丈夫か不安になって尋ねる。礼の今日の格好は、Aラインのキレイめワンピースにパンプスだ。髪の毛はバレッタでまとめた。
「バッチリです。とっても似合ってますよ」
礼の不安なんて吹き飛ばすような満面の笑みで褒めてくれた。
遥斗がお墨付きをくれたのだから、大丈夫だと自分に言い聞かせる。初めて直接会う遥斗のご両親に好かれたいとまでは言わないが、せめて嫌われたくない。
「あ、母から電話きたので出ますね」
そう言って電話に出た遥斗は、驚きの声をあげた後に、口頭で料亭の場所の道案内をはじめた。ご両親が滞在しているホテルから近い所にあるが、道に迷っているらしい。
大丈夫かと遥斗の様子をうかがっていると、礼のスマホに美保子からメッセージが届いた。最寄り駅に着いたため、数分で着くとのことだった。
「礼さん、すみません。両親が迷ってるみたいなので、近くまで迎えに行ってきます」
電話を終えた遥斗が、申し訳なさそうに言う。
「分かりました。私の両親はもうすぐ着くみたいです」
「ご両親が着いたら、先に中に入っててください。急いで連れてきます」
「いえ、急がなくても大丈夫です。気をつけてくださいね」
と言ったものの、遥斗は早足に立ち去った。
遥斗がご両親を迎えに行ってからしばらくすると、礼の両親が揃ってやってきた。
「わざわざ来てくれてありがとう。遠いのに、ごめんね」
「いいのよーこれくらい。娘のためだもの」
頭を下げた礼に、美保子はあっけらかんと笑った。父の誠治は仏頂面だ。顔合わせのお店を東京にしたのが気に入らなくて不機嫌なのかと思いつつ、店内に入るよう促す。
誠治の背中を追うように歩いていると、美保子に服を少し引っ張られ、耳打ちされた。
「大丈夫よー。お父さん、不機嫌なわけじゃないから」
「え?場所が遠くて怒ってるんじゃないの?」
「違う違う。礼がお嫁にいくのが寂しいの!」
「えぇ⁉お見合いを勧めてきたのに?」
行き遅れになるのではないかと心配していた娘がやっとお嫁にいって安心するなら分かるが、寂しいとはどういうことなんだろう。礼が怪訝な顔をしていると、美保子が呆れたように笑う。
「親っていうのはね、口では早く結婚しろって言ってたとしても、いざお嫁にいくとなると寂しくなって嫌だと思うものなの。身勝手だけどね。理屈じゃない。礼も親になれば分かるよ」
「えー?そうなの・・・」
正直、例え親になったとしても分からないだろうな、と思った。今の時代、結婚しなくても楽しく生きられる方法はいくらだってある。結婚をしない道を選んでも、その子が幸せだったら、それでいい。
「遅れてごめんなさいねー。遥斗がお世話になっております」
礼たちが先にお店の中に入り、お冷やを飲みながら待っていると、遥斗とご両親がやってきた。
にこやかに挨拶をしてくれたのは、遥斗の母である美香子さんだ。笑った時の目元が遥斗によく似ている。隣にいるパーマかかった髪と日に焼けた肌の男性は遥斗のお父さんだ。名前はたしか、勝さん。
「いえ、こちらこそ直接のご挨拶が遅くなってしまい、すみません。遠いところをご足労いただきありがとうございます」
礼が立ち上がって頭を下げると、「気にしないで」と美香子が言ってくれた。
「お仕事が忙しいって聞いてたから。もう落ち着いたの?」
「はい。おかげさまで」
遥斗の両親が席に着いたタイミングで、懐石料理が運ばれてきた。まずは両家の自己紹介を終え、懐石料理を堪能する。
礼は緊張で料理の味が分からなかったが、目の前に座っている遥斗がいつもと変わらず幸せそうに食べる姿を見ていたら肩の力が抜けた。
礼の母である美保子と遥斗の母である美香子が、好きなアーティストが一緒だったようで、意気投合していた。キャッキャと少女のように話す美保子は、初めて見る。
両家の母たちに比べ、父たちは黙々と運ばれてくる料理を食べており、口数が少ない。そういうところがよく似ている。
「ところでー、2人はその、結婚式はどうするつもりなんだ?」
「あら、ごめんなさい。つい2人と関係ない話しで盛り上がっちゃって」
遥斗のお父さんが口を開くと、それまでキャッキャと話していた母たちがハッとしたようにおしゃべりを止めた。
ついに来たか・・・と礼と遥斗は顔を見合わせる。目で合図を送り合い、遥斗が宣言した。
「僕たちは、結婚式を挙げません。礼さんと2人で決めました」
一瞬の沈黙の後、美保子の驚きの声が響いた。礼の父と遥斗の父は眉をひそめ、遥斗の母である美香子さんだけが、冷静に、真っ直ぐに遥斗の顔を見ていた。
「何で結婚式しないの⁉するのが当たり前でしょう?」
「美保子さんの言う通りだ。親戚に示しがつかないだろう」
「どうしてなの?」
遥斗の父の勝さんが礼の母に賛同する。周囲の動揺をものともせず、理由を聞いてくれたのは美香子さんだ。
「僕と礼さんは、すでに人生のパートナーとして生きていくと誓い合っています。そして、結婚式にかかる費用は、今後の生活や旅行に使いたいと話し合いました」
「費用は気にしなくていいのよ。桜沢家からはいくらか包もうと言ってたもの。ねえ、お父さん」
「おう。結婚式は、これから夫婦をやっていくと周りに認めてもらうものだ。2人だけの問題じゃないし、親孝行の一環だろう」
「宮田家からも費用は出すぞ。遥斗は礼さんのウェディングドレス姿を見たいとは思わないのか」
両家の両親から口々に各々の考えを勢いよく話されても、礼も遥斗も揺らがなかった。
「確かに、結婚式にはそういった側面があるのは事実です。でも、認めてもらえるように遥斗くんと協力して生活しますし、結婚式を挙げるのが親孝行なら、私たちは結婚式ではなく、別の方法でやりたいです」
それでも何か言いたいような顔をしている両親たちを手で制し、遥斗が礼の言葉に続く。
「僕たちは住んでいる場所がバラバラで、どこで結婚式を挙げようとしても誰かに負担がかかってしまいます。移動費も時間もバカにならない。僕たちは結婚して幸せになるのに、誰かに負担を強いるのは僕たちの望みと反しています」
「だから、ここまで育ててくれた感謝の気持ちを込めて、私たちから旅行をプレゼントさせてください。結婚式の費用にと用意してくださったお金は、自分たちの楽しみに使ってほしいです」
遥斗と顔を見合わせ、お互いに少し微笑む。そして、2人で頭を下げた。
「どうか、最後のワガママを聞いてくれませんか」
礼と遥斗の声が重なる。
すると、静観していた美香子が口を開いた。
「2人でそう決めたなら、私はいいと思うわ」
「お前は引っ込んでろ。桜沢さんたちにも示しがつかないだろう」
遥斗の父がすかさず反対する。礼の両親からは反応がない。説得はできなかったか、と頭を上げて見渡すと、仏頂面の父の姿が目に入った。
「俺は・・・2人がそこまで考えてるなんて思いもしなかった。ちゃんと話し合って決めたなら、もう反対はしない」
「ええ、どうしたの、お父さん」
父から出てきた言葉だとは思えず、礼は目を見張る。美保子も目をまん丸にして見つめていた。
「今まで娘がワガママを言ったところなんて、見たことはほとんどない。聞き分けの良い子だったからな。だから、最後だと言ってるワガママくらい聞きたいと思ったんだ」
そして、静かに立って頭を下げた。
「私からもお願いします。2人がきちんと考えて決めたことなので、好きなようにやらせてやってくれませんか」
「お父さん・・・」
遥斗の父は、頭を下げた礼の父に驚いたようですぐに立ち上がり、頭を上げるように促す。最後には、渋々といった様子で結婚式を挙げないことに賛成してくれた。
*****
「お義父さんに助けられましたね」
「そうですね・・・」
顔合わせを無事に終え、それぞれ両親を送ったあとに、遥斗と合流した。礼の両親は東京に住んでいる親戚に会いに行き、遥斗の両親は観光をするらしい。
「意外でした。父が頭を下げるところを初めて見た。私がワガママ言ったところを見たことないって言ってましたけど、大学進学の時に東京の大学に行くって結構なワガママ言ったと思うんですけどね」
「反対されていたんですか?」
「はい。母が大反対で。女の子は結婚して仕事を辞めるんだから、学歴は必要ないでしょって言われてしまいました」
遥斗の眉根がわずかに寄った。今は時代が変わり、女性が結婚や出産に伴って仕事を辞めるということは少なくなりつつある。
制度や職場の体制が追いついていないこともあり、家庭を持ちながら仕事をフルタイムで勤めるにはたくさんの困難はあるものの、壁にぶつかりながら仕事を続ける選択をする人が多い。特に都会では。
それでも、田舎では、男は外で働き、女は家の中で献身的に家族を支えるものだと考える人が多くを占めるのだ。
「でも、どうしてもやりたい仕事があるって人生で初めて我を通しました。今は、無事にその時やりたかった仕事に携われています」
礼がピースサインを作ってできるだけ柔らかく微笑むと、遥斗の寄っていた眉が八の字に変化した。
「礼さんはワガママだと思っているかもしれませんが、お義父さんはそうじゃないのかもしれないですね」
「ん?どういうことですか?」
礼が要領を得ない顔で首をかしげると、遥斗が優しく笑いかけてくれた。
「礼さんが真剣に考えて、自分で決めたことはお義父さんにとってワガママじゃないってことなんじゃないかな、と思いました」
その視点はなかった。確かに、母は大反対していたが、父はそうではなかったかもしれない。いつもの仏頂面で、礼の言葉を聞いていただけだ。
「・・・そう、なのかもしれないですね」
遥斗に言われて、自分の中で何かがストンと落ちる感覚があった。親子では近すぎて見えなかった一面が、遥斗によって違う視点を与えられて見えるようになった。それが、すごく嬉しい。
「あ、礼さん。この後って時間ありますか?」
「はい。何も予定はありません」
「空港から見える夜景がキレイだって評判なんです。よかったら、一緒に見ませんか?」
空港にある展望デッキからは、東京ベイエリアや千葉の湾岸エリアの絶景を見渡せるようだ。
「ぜひ、一緒に見ましょう」
遥斗の誘いを断る理由なんて、礼にはない。
それから、空港のターミナル内にあるお店でお土産を見て回った。礼は「空港限定」のスイーツの数々に目を奪われて、いくつか購入した。
遥斗も買っており、それぞれ買ったものを分け合いっこして食べる。遥斗はいつものように、幸せそうに食べていた。
空港内を散歩していると、日が沈みはじめた。遥斗に案内され、展望デッキに行くと、茜色の空が広がっている。東京湾に光が反射して、幻想的で目を奪われる。
「キレイ・・・ですね」
「そうですね。喜んでもらえてよかったです」
心の声がポロっと出てしまった。遥斗の顔を見ると、満足そうな顔をしている。その表情を見ていたら、自然と頬が緩んだ。
「礼さん」
2人で並んで夕焼けを眺めていると、ふいに遥斗に名前を呼ばれる。
「はい」
返事をして遥斗の方を見ると、真剣な眼差しをしていた。ポケットから何かを取り出し、ひざまずく。手の平に隠していたケースを開けると、礼に差し出した。
ケースの中央には、先日一緒に買い物をした時に選んだ指輪が輝いている。
「桜沢礼さん。俺と、パートナーとして人生を一緒に歩んでくれますか?」
突然の出来事に何も言えないでいると、遥斗が真剣な顔で問いかけてくる。礼はハッとすると、背筋を伸ばした。
「はい、喜んで。これからも、よろしくお願いします」
笑って返事をすると、遥斗の顔が安心したようにフニャッとなった。立ち上がってケースから指輪をとると、礼の左手薬指につけてくれた。
「うん。よく似合っていますね」
「ありがとうございます」
左手薬指にはめられた指輪を、礼は見つめた。表に宝石のついていないシンプルなデザインの指輪だ。内側には礼と遥斗のバースデイスト―ンが隠れている。
入籍日を決めた日に、選びに行った。それが今、礼の指に収まっている。何とも言えない感情になりながら指輪を触っていると、遥斗が自身の左手に指輪をつけようとしていた。
「あ、私がつけてもいいですか?」
「え?」
「指輪。私が遥斗くんにつけたいです」
そう言うと、不思議そうな顔をしていた遥斗の口元が弧を描いた。
「お願いします!」
遥斗から指輪を受け取り、差し出された手を取って薬指につける。指に通している間、なぜか緊張した。
「嬉しいです!ありがとうございます」
嬉しそうに左手をヒラヒラ見せてくれる。つられて礼も嬉しくなった。
「指輪、いつの間に受け取りに行っていたんですか?」
「今日の午前中です。もう一度、きちんと言葉で伝えてから渡したいと思ったんです」
「嬉しいです、とっても。ありがとうございます」
今日、遥斗が空港で夜景を見ようと誘ってくれたのは、このためだったのだ。指輪を渡すためにキレイな景色をわざわざ探してくれた。そう思ったら、身体の内側が熱くなった。
****
「礼さーん、こっち部屋の段ボールの片づけ、終わりました。何か手伝えることありますか?」
「私の方もすぐ終わるので大丈夫です。ありがとうございます」
7月の晴れた日の午前中、礼と遥斗は新しく借りたマンションに引っ越してきた。間取りは2LDK。個室にはそれぞれが元々持っていた家具や家電を持ち込んでいる。
「今日は荷解きで1日が終わりそうですね」
「そうですね。1日だけでは終わらないと思うので、寝床だけは確保しておきましょう」
午後からは新しく買ったリビング用の家具と、冷蔵庫と洗濯機が届く予定だ。礼も遥斗もひとり暮らし用のサイズのものしか持っていなかったため、2人では冷蔵庫と洗濯機が手狭になってしまうと買い直すことにしたのだ。
個室の方の片づけをある程度済ませ、リビングに戻る。そろそろお昼ご飯の時間だ。
「ちょうど良かった。礼さん、駅前にお昼食べに行きませんか?」
「はい、そうしましょう」
キッチンで荷解きをしていた遥斗が礼の足音に気づいたのか、振り返って言った。礼も返事をしながらキッチンの方へ近づく。
すると、目の前には、ミキサーやホットサンドメーカー、ホームベーカリーなど、料理はできない礼が持っていないアイテムがたくさん広がっていた。
「すごいですね。キッチン用品がたくさん・・・」
「料理が趣味なんです。基本外食せずに自分で作りたいと思うタイプなので、ひとり暮らしなのにどんどんキッチン用品が増えていくんですよね~」
礼さんが食べたい物あれば作りますよ、と満面の笑みで言ってくれたけれど、内心焦っていた。
共働きなので家事は折半するのが当たり前なのだが、料理に関しては折半できそうにない。というより、礼の作った料理を出したら遥斗にガッカリされてしまうだろう。
「あれ?どうしました?」
遥斗に目の前で手のひらを振られ、礼は我に返る。心配そうな瞳と目が合い、慌てて笑顔を作った。
「いえ、何でもないです。ご飯食べにいきましょう」
「そうですか~?」
不思議そうな顔をされたが、外に出る準備をはじめてくれた。
駅に隣接しているショッピングモールへ足を運ぶと、平日の昼間ということもあって、空いている。引っ越しには蕎麦が定番だということで、レストラン街にある蕎麦屋ののれんをくぐった。
「礼さんは温そば派ですか?それともザルですか?」
「私はザルそば派ですね」
「お、一緒です。温そばも好きなんですけど、外食ではいつもザルを頼みます」
お祝いですし天ぷらもつけましょう、と遥斗が店員を呼び止め、天ざるそばを2つ頼む。
礼の分まで注文を済ませてくれた遥斗にお礼を言い、ある疑念を口にする。
「遥斗くんは・・・その、そばも自分で作るんですか?」
彼の口ぶりからすると、家で蕎麦を食べる時は温そばを作るのだろう。キッチン用品が充実していることを考えると、麺から手作りしていそうだ。
「作りますね~。時間がある時は市販の麺じゃなくて自分で打ちます」
「やっぱりそうなんですね。すごいです・・・」
家事は分担することは決まっているが、細かくは決めていない。でも、礼の料理のスキルは遥斗に全く届かないレベルだ。
こちらは食材を切れば自分の指まで切り、食材を炒めたら真っ黒に焦がしてしまうのだから。
「あの、とっても申し訳ないのですが・・・」
礼がおずおずと切り出すと、安心させるように遥斗は満面の笑みを浮かべてくれた。
「何ですか?あ、俺が家で作る時は、遠慮されても礼さんの分まで作りますよ」
「いえ、そうではなく・・・。実は、私、料理ができません。からっきしです」
「へぇ、そうなんですね」
てっきり、もっと驚かれるのかと思ったが、遥斗は興味深そうな声を出しただけでニコニコしている。
「家事は折半すると言っていましたけど、料理に関してはできそうにありません。遥斗くんに私が作った料理を出せないです。本当にごめんなさい」
テーブルにおでこをぶつける勢いで深々と頭を下げる。人目があるのでしないが、本当なら床に手をついて深々と頭を下げたい。
しかし、早々に遥斗に頭を上げるように優しく言われてしまった。ゆっくり顔を上げるが、申し訳なさすぎて遥斗の目を見られない。
「そういえば、家事の分担決めようって言ってそれっきりでしたね。苦手なことは補い合いましょうよ。俺は料理が得意だと思っていますが、コーヒーは礼さんほど美味しく淹れられません。料理に関しては、俺に任せてほしいです。その代わりに、食後の皿洗いをお願いしてもいいですか?」
「もちろんです。でも・・・」
「申し訳なくて仕方がない、ってことなら、一緒に料理しませんか?教えられることは教えますし。人様に教えられるほど上手くはないと思いますけどね。たまにでいいので、礼さんの淹れたコーヒーが飲めたら最高です」
礼が言おうとしていたことを先回りされた。遥斗は人に教えられるほど上手くないと謙遜しているが、おそらく、相当な腕前を持っているはずだ。蕎麦の麺を打つくらいなのだから、料理にこだわりもあると思う。
苦手だからと逃げずに、きちんと料理を習いに行けばよかった。そう悶々と考えていると、頼んだ天ざるそばが届いた。
遥斗は礼に割り箸を渡すと、いただきますと手を合わせて割り箸を割る。パキッと小気味よい音がした。
「まあ、そんなに深刻に考えないでくださいよ。もともと、土日のどちらかは一緒に作って食べたいと思っていたんです。今、礼さんの申し訳ないって気持ちにつけ込んで、ちゃっかりワガママを通そうとしてますよ、俺」
「ワガママなんて、そんな・・・風に思っていません」
「じゃあ、お願いです。俺と一緒にご飯作って食べてくれませんか?」
遥斗は人懐っこい笑顔で爽やかに言う。この表情でお願いされたら、無下にはできない。
「・・・分かりました。早急に料理の腕を上げられるよう、頑張ります」
「頑張り過ぎちゃダメですよ。さっきも言いましたけど、俺にとって料理は趣味です。ストレス解消方法でもあります。全面的に任せてくれてもいいくらいなんですからね!」
「・・・はい」
返事をしつつ、遥斗に教わるだけではなく、自分でも料理を勉強しようと決めた。そして、個人的に家事の中で1番手間がかかると思っている料理をほとんど任せてしまう以上、他の家事は率先してやる。
「他の家事を俺よりやろう、とかも考えないでくださいね!役割分担です」
礼の考えていることは何でもお見通しなのだろうか。先読みされて、何も言葉が出てこない。
「得意不得意に合わせて役割分担しましょう。ちなみに俺、掃除が苦手です」
「そうなんですか?」
「大ざっぱなので、部屋の片隅がちゃんと掃除できてないとか、しょっちゅうですよ。多少の汚れは気になりませんし。礼さんは?」
「私は隅々まで掃除するタイプですね。掃除は家事の中で1番好きです」
「じゃあ、礼さんは掃除が得意で、俺は苦手ってことですね。もしかしたら、礼さんの許容範囲を超えるくらい酷いかもしれないので申し訳ないです」
「いえ、こだわりがある訳ではないので・・・気にしないでください」
それから、共有部分の掃除は交代制、洗濯は各自で行うことを決めた。料理は、礼が慣れるまでは遥斗が教えながら作ってくれることになった。遥斗の負担が大きい分、お皿洗いは礼の仕事だ。
「あ、あと、お互いが快適に過ごせるようにルールを作りませんか?」
「ルール、ですか・・・?」
遥斗からの提案に、要領を得ない顔で礼が首をかしげる。
「何て言えばいいですかね・・・。例えば、休日は昼まで寝るから静かにしてほしい、とかです。絶対にしてほしくないこととかあれば、事前に知っておきたいです」
「う~ん、特に思いつかないですね。遥斗くんは何かあります?」
「俺は、話し合いをする場を定期的に設けたいと思います」
お互いの生活リズムがまだ分からないし、あとから相手に対する要望が出てくるかもしれない。家事の分担ややり方に対しても、こだわりがあることに気づくかもしれないので、確認をして共有しておきたいとのことだ。
「分かりました。週に1度、話し合いをしましょうか。タスク表を作っておきますね。負担がどちらかに偏りすぎないように気をつけましょう」
「ありがとうございます!」
礼が同意すると、遥斗は嬉しそうに笑った。こんな些細なことにも遥斗は満面の笑みを浮かべてくれるから、礼まで気持ちが明るくなる。
蕎麦を食べ終え、生活に必要なものを買い足してマンションに戻る。買い物袋は、礼が持とうとしても「俺の方が力ありますし、軽いので」と頑なに固辞され、遥斗が全て持ってくれた。
*****
何かが焼ける良い匂いに空腹を刺激されて目が覚めると、見慣れない天井が目に映る。寝ぼけた頭でどこにいるのか考えながら起き上がると、徐々に頭が冴えてきた。
そうだ。昨日、引っ越して来たんだ。
寝間着から着替えて軽く身を整えてから、リビングに顔を出すと、キッチンに遥斗が立っている。
「あ、おはようございます!」
礼と目が合うと、遥斗はすぐに挨拶をしてくれた。朝から元気だ。もう10時を回っているので、朝と言うのは遅いけれど。
「おはようございます。良い匂いですね。バター・・・ですか?」
「正解です。早く目が覚めたので、パンを焼いてます」
「パン・・・⁉って、焼けるんですか?」
「はい。ホームベーカリーで一次発酵までやっているので結構簡単ですよ」
一次発酵とは何だ。礼にとって、パンは自分で作るものではなく、買うものだ。聞き慣れない言葉を聞いて、何が何だか分からない。
「今日は手の込んだものではなくて、バターロールです。礼さんも一緒にどうですか?」
パンを作っているのに、手の込んだものじゃないと言える遥斗くんがすごい。手作りしている時点で手は込んでいるのに。
「いいんですか?」
気後れしながら尋ねると、遥斗は満面の笑みでうなずいた。
「はい、是非。焼き立てのパンって、格別ですよ」
「ありがとうございます。お礼と言ってはなんですが、コーヒーを淹れますね」
「えー!いいんですか」
甘めのパンにも合うよう、少し苦みのあるコーヒー豆を選ぶ。前に住んでいた家から持ってきた自前のコーヒーミルに豆をセットし、手動で丁寧に挽く。
しばらくすると、香ばしい匂いが鼻を突き抜けた。電動のものも持っているが、手動の方が味に深みが出て美味しいので、今日はこっちを選んだ。せめてものお返しだ。
ドリッパーにセットしてお湯を注ぐと、ちょうどパンが焼き上がったようだ。
「サラダも作ったので、ブランチにしましょう」
遥斗はダイニングテーブルに焼き立てのパンと彩り鮮やかなサラダを並べた。パンを発酵させている間に作ったらしい。
マグカップに注いだコーヒーを置いて席に着くと、「ありがとうございます」と言われた。遥斗の顔見たら、嬉しそうな顔で瞳を輝かせている。
「いただきます」
手を合わせてあいさつする2人の声が重なった。それは、一緒に食事をするようになって初めてのことだった。
遥斗が作ってくれたパンに手を伸ばして一口食べると、濃厚なバターの味が口に広がった。外側少しカリッとしているのに、中はフワフワだ。焼き立てでなければ味わえない食感と味を堪能するのは、贅沢な時間だと思った。
「どう・・・ですか?」
緊張気味に尋ねてきた遥斗に、礼は笑顔を返した。
「とっても美味しいです!今まで食べたパンの中で1番」
「よかった~!」
遥斗は両手で口元を隠し、脱力する。お世辞ではなく、本当に今まで食べたパンの中で一番美味しいと思った。コーヒーともよく合い、口の中が幸せだ。
「礼さんの淹れてくれたコーヒーもかなり美味しいです。優雅な朝って感じでいいですね」
「ふふ、そうですね」
食後の皿洗いは、ルール通りに礼が引き受けた。遥斗にコーヒーのおかわりを運ぶと、早速取りかかる。
「礼さんって、有給は明日まででしたっけ?」
「いえ、今日までです。本当は明日まで取るつもりだったんですけど、取引先との打ち合わせが入ってしまって・・・」
「じゃあ、今日中に市役所で書類関係の手続きは全部済ませておきたいですね」
「はい。銀行の氏名変更もやっておきたいです。1つだけネットで手続きできない口座があるので」
今日は、婚姻届を市役所に提出する日だ。大安吉日。礼の姓が宮田になるため、マイナンバーカードや運転免許証、銀行の口座など氏名変更をしなければならない。
引っ越しもしたので、住所変更も。それらの日は平日の昼間にしか手続きができないため、引っ越しもそこに合わせて数日有給を取った。
「身支度が終わったら出ましょうか。準備してきてもいいですか?」
「はい。遠慮なく」
ちょうど礼のお皿洗いも終わった。宮田は料理をしながら洗い物を済ませていたようで、礼が洗ったのは食べる時に使った食器とマグカップくらいだった。調理と同時に洗い物も済ませることができるということは、スキルは相当高い。
遥斗は趣味だから気にしないでください、と何度も言うけれど、やはり任せっぱなしになってしまうのは気がかりだった。
*****
最寄りの市役所へ赴き、まずは婚姻届を提出する。それから転入届を出して氏名変更と住所変更の手続きだ。これは、遥斗も一緒に行う。隣にマイナンバーの氏名変更や住所変更を行う部署があったため、同時に手続きを進めた。
氏名と住所変更に伴う手続きをスムーズにできるように、遥斗は前もって調べてくれていた。広い市役所内のどこに足を運べばいいのかも事前に調べていたようで、礼を案内する足に迷いはない。
必要な書類に記入を終わらせ、運転免許証の氏名と住所変更、会社での手続きのため住民票の写しをもらう。「宮田礼」と書かれた住民票の写しを受け取った時、肩の力がふっと抜けるような、何とも言えない感覚に襲われる。
今まで、反対を押し切って上京してから、夢だった仕事に就けるように勉強し、しっかり生活をしなければ、と肩肘張って生きてきた。
その気持ちは今も変わらないけれど、ひとりきりで頑張るのではなく、疲れた時に寄りかかれる存在ができたのは、心強かった。
「礼さん?どうかしました?」
住民票の写しを受け取ったまま少し考え込んでいた礼を、遥斗が不思議そうに見ている。
「何でもないです。ただ、嬉しいな、と思っていただけです」
「そうですか~?」
遥斗はまだ不思議そうにしていたが、礼が笑顔を見せると、ニコニコ笑い返してくれた。礼が心強いと思ったように、遥斗にとっても、そういう存在になれたらいいな、とその時思った。
市役所での手続きを終え、その足で最寄りの警察署へ行って運転免許証の氏名と住所変更した。銀行にも足を運んで、口座の氏名と住所変更を行う。遥斗が最短で手続きが済むように調べてくれていたおかげで、1日で結婚に伴う手続きを全て終えられそうだ。
「ありがとうございます。遥斗くんのおかげで、1日で手続き終わりますね」
「いえ、大変なのは礼さんなので、このくらい当然です」
銀行からの帰り、いつものように人ひとり分空けて歩く。相変わらず遥斗はさりげなく車道側を歩いてくれるし、礼の歩幅に自然と合わせてくれる。それがなんだかくすぐったくて、足取りが軽くなった。
別の道に入って礼が車道側になった時、背後から猛スピードを出している車がやってきた。危ない、と思って反射的に目をつぶりそうになる。
「危ない!」
遥斗のせっぱ詰まる声が聞こえ、力強く腕を引っ張られる。トン、と厚い胸にぶつかり、何かに包み込まれた。
「大丈夫ですか⁉怪我はないですか?」
遥斗に抱きかかえられている状態だ、と気づくまでに少し時間がかかった。焦った遥斗の声が耳に入り、ハッとする。
「だ、大丈夫です。ありがとうございます」
急に近づいた距離感に戸惑いつつ、何とか声を絞り出す。遥斗が礼から離れ、心配そうな顔で礼をのぞき込む。目が合った途端、顔がボッと熱くなるのが分かった。力強く引っ張られた時の腕の感覚が、まだ消えていない。
「怪我がないなら、よかったです」
「は、はい・・・」
熱くなった顔がなかなか冷めない。赤くなったところを見られたくなくて、遥斗から視線を逸らす。
「行きましょうか。スーパーに寄って行きませんか?」
「・・・はい。マンションの近くのですよね?」
礼が歩き出すと、遥斗がさりげない動作で車道側に回ってくれた。微妙に遥斗から顔を逸らしつつ、手で顔を扇ぐ。
「そうです。あそこ、安くて品揃えがいいんですよ」
遥斗は引っ越す前にもマンションの近所を散策していた。スーパーやドラッグストア、商店街などに顔を出し、お得に食材や日用品を購入できる所を見て回ったらしい。
礼は引っ越しの準備が終わらず、まだ散策できていないため、初めて目にすることになる。
「礼さん、夕飯は何が食べたいですか?」
「え?」
「リクエスト、聞きたいです。一緒に作りましょう」
何を食べたいか尋ねられても、パッと思い浮かばなかった。食べたい物・・・、礼が作りやすくて、教えてくれる遥斗に負担があまりかからない料理は?
料理を全くしてこなかった礼には、分からなかった。
そんな礼を、遥斗はキラキラした目で見ている。
「あ、俺の負担は考えなくて大丈夫ですからね。簡単に作れるものって何だろうって考える必要はありません。礼さんの好きな物を知りたいです。純粋に」
考えていたことを言い当てられて、礼はビクッと反応した。遥斗には何でもお見通しなのだろうか。
「・・・遥斗くんの好きな料理は何ですか?」
「俺ですか?ロールキャベツです。ミネストローネで煮込んだやつ」
「ミネストローネ、ですか?」
礼の実家では、ロールキャベツが出される時、スープはコンソメだった。ミネストローネで煮込んだものは食べたことがない。
「ロールキャベツに必要な食材とミネストローネで必要な食材って、ほとんど一緒なんですよ。だから相性抜群です。チーズにも合いますしね」
「そう、なんですね」
「礼さんは、コンソメ派ですか?」
「実家ではそうでした。ミネストローネで煮込んだロールキャベツ、美味しそうですね。食べてみたいです」
「じゃあ、今日の夕飯はロールキャベツにしましょう」
遥斗はニコニコして魅力的な提案をしてくれた。礼も笑顔を向け、うなずく。
「はい。作り方、教えてください」
「もちろんです」
礼さんと料理、楽しみだな~と呟く声が聞こえた。楽しみにしてくれている遥斗の前で、挽回できない失敗をしなければいいな、と密かに思った。
遥斗の足を引っ張ってしまう予感しかしない。包丁を握るのも何年ぶりだろう。それくらい、料理とは無縁で生きてきた。
*****
スーパーで買い物を終えて帰宅すると、手を洗って食事作りに取りかかる。
遥斗は慣れた様子で食材を洗い、切っていく。包丁で食材が切られていくリズミカルな音が響き、礼は唖然とした。あっという間に玉ねぎがみじん切りされた。手元が、目で追えない。
「礼さんって、ロールキャベツににんじんは入れる派ですか?それとも玉ねぎだけですか?ってあれ?どうしました?」
ボウルに玉ねぎを移しながら、遥斗が笑顔で振り向く。礼の顔を見ると、不思議そうな表情に変化した。
「あ、いえ、手際がよくて圧倒されてました」
「そんなに凄いものじゃないですよ」
「凄いですよ!私が包丁を握ったら血の海ができます」
「血の海⁉」
ええ、と礼は深くうなずく。冗談だとか比喩ではなく、最後に包丁を握った時、血の海としか言いようのない悲惨な状態になった。
「女の子なんだから」と何かと礼に家事を覚えさせようとしていた母も、料理に関しては匙を投げた。危なっかしくて見ていられないし、仕事が増えるから、と。
「そうだったんですね。今日は、包丁を使う食材は俺が切ります。礼さんはお米洗ってくれますか?炊くの忘れてしまいました」
「はい。あ、私の実家では、ロールキャベツににんじんは入っていなかったと思います」
炊飯器の釜を取り出しながら、今さらだと思いつつ、遥斗の質問に答える。礼の知っているロールキャベツに、にんじんが使われていた記憶はない。
「入れてもいいですか?」
礼の様子を探るように尋ねる遥斗に、笑顔を向けてうなずく。
「もちろん。遥斗くんの作ったロールキャベツを食べたいので、私のことは気にしないでください。いつも通りに作ってもらえたら嬉しいです」
そう言うと、遥斗は嬉しそうな笑顔を浮かべて冷蔵庫からにんじんを取り出した。手際よくにんじんの皮を剥いていき、みじん切りにする。
礼もお米を炊こう、と米びつと計量カップを探し、お米を量る。そこで、ある疑問にぶち当たった。
どのくらい炊けばいいだろう。男性は女性の倍食べるらしい、と聞いたことがある。遥斗がたくさん食べるなら、多めに炊いた方がいいのか、と思案していると、遥斗が声をかけてきた。
「2合炊いてもらえれば大丈夫です。米びつに入っている計量カップ1杯が1合なので、2回入れてください」
「分かりました」
1合の分量が分かっていないことも見通して教えてくれた。正直、1合がどのくらいの量なのか覚えていないので助かった。教えてくれた通りに、慎重に1合を量って釜入れた。
あとは、洗うだけ。シンクに移動し、ふと横を見ると、遥斗が食材を切り終えていた。
食材ひとつひとつが、大きさが揃っている。種類も豊富で、何に使うのか礼には少しも分からないけれど、ロールキャベツのためだけに用意したものじゃないことは分かる。ロールキャベツの他にもおかずを作るつもりなのだろう。
早く、お米を炊かなくては。遥斗の手際はかなり良い。早くしなければ、ご飯が炊き上がるよりも前におかずが完成する。
「あ、礼さんストップ!」
遥斗の制止する声が大きく響き、礼の身体がビクッとなった。
「驚かせてごめんなさい。でも、お米洗う時、洗剤は必要ありません」
遥斗の言葉に驚き、「え・・・」と口からこぼれた。手元を見ると、右手に食器用の洗剤を持っている。
「あっ、ごめんなさい・・・つい・・・」
焦ったことで、混乱して洗剤を入れようとしてしまった。顔がカッと急激に熱くなった。
いくら料理に不慣れな礼でも、お米や野菜を洗う時に洗剤が必要ないことくらいは学生の時に家庭科の授業で習ったので知っている。水洗いだけでいいんだな、と意外に思ったことを覚えている。
なのに、どうして―こんな、こんなことをしてしまったんだろう。
「謝らなくていいですよ。お米を洗うときは、1回目に入れた水はすぐに捨てます。2回目以降に入れた水で研ぐと、炊き上がりが美味しくなりますよ」
呆れられるかと思っていたのに、遥斗は柔らかく笑った。1回目の水は、お米のついたゴミを水で浮かせて流すためのもの。その後、3~4回水を変えてお米を研ぐと美味しくなると、優しく教えてくれる。
水を流す時に、お米をこぼしても、「こぼれるものです。気にしないでください」と優しく声をかけてくれ、一切責めない。
「何でこんなこともできないの⁉」と美保子に責められて料理をしてきた礼は、そんなことを一切言わずに、優しく、辛抱強く教えてくれることに胸がいっぱいになった。
「教えてくれて、ありがとうございました。私にできること、他にあるでしょうか?」
「あ、じゃあ、サラダ作ってくれますか?サニーレタスとレタスを手でちぎってくれると嬉しいです」
「サニー・・・?」
聞き慣れない言葉に、礼が首を傾げる。さすがに普通のレタスは知っているが、サニーレタスは聞いたことがない。今日の買い物では、レタスは買っていなかったはずだ。スーパーの野菜コーナーにもあるのだろうか。
「見てもらった方が早いですよ。冷蔵庫の野菜室に入っています」
遥斗に言われた通り、冷蔵庫の野菜室を開ける。そこには、ぎっしりと野菜が詰まっていた。
「右側にある、赤みがかった葉っぱの野菜がサニーレタスです。丸い形じゃないレタスで、赤みがかっているやつをサニーレタスって言うんですって」
「へえ、そうなんですね。遥斗くん、物知りですね」
そう言ったら、ネットにそう書いてありました、と遥斗は笑う。ネットで調べたから知っているだけで物知りな訳ではないと謙遜しているが、礼にしてみればサニーレタス自体を知らなかったし、知ろうとも思わなかったかもしれない。
凄いことだと、思う。礼はサニーレタスと呼ばれる野菜を取り出した。
「あ、野菜を洗う時も洗剤は必要ありませんからね。水洗いで十分です」
レタスの葉を1枚1枚剥がしていた礼に、遥斗が言う。礼は遥斗の顔を見て微笑んだ。すると、レタスを洗ってちぎりはじめた礼の隣で、遥斗が小さいボウルでヨーグルトやマスタード、オリーブオイルを混ぜ始めた。
「何を作っているんですか?」
「これですか?シーザーサラダのドレッシングです」
「ドレッシング⁉って、手作りできるものなんですね・・・」
驚きで目を見開いた礼に、遥斗は楽しそうに笑った。
「できますよ~。2人分なら市販のドレッシングを買うよりも、手作りしちゃった方が節約になりますしね」
「やっぱり凄い・・・」
「え?何か言いました?」
思わず漏れた言葉に、遥斗が怪訝な顔をする。
自分なんか大したことない、という態度をとるけれど、さらっと蕎麦の麺を打つと言えるところも、食材をあっという間に切れるところも、節約のことを考えながら自炊を楽しんでいるところも凄いと思う。
そして、そのことを大したことないと言えるところも、心から凄いな、と思う。
「遥斗くんは凄いな、と思っただけです」
「そんなことはないと思いますが・・・」
やっぱりそう返された。思った通りの反応が返ってきて、自然と口角が上がる。
「何で礼さんが嬉しそうなんですか?」
「ふふふ、すみません。何でもないです」
「え~?まあ、礼さんに凄いって言ってもらえるのは、俺も嬉しいですけど」
料理が全くと言って良いほどできない礼の言葉でも嬉しいと言ってくれるのなら、礼だって嬉しい。そんなに嬉しそうな顔をしてくれるなら、何度だって言う。
礼がサニーレタスをちぎっている間に、遥斗はドレッシングを作って、トマトを切っていた。サラダに彩りがほしかったようだ。
「ここからは腕の見せ所なので、見ていてくださいね」
「・・・?はい」
何を始めるのか、不思議に思いつつ返事をすると、遥斗は鍋を取り出して水を入れると、火にかける。温めている間に、冷蔵庫からキャベツを取り出すと、芯を切ってからまな板の上に逆さまに置いた。
「え⁉逆さまですよ?」
「まあ、見ててください。キャベツをキレイに剥がしてみせます」
キャベツの根元に包丁で切り込みを入れると、根本から葉を外す。どこも破れることなく、キレイに葉を剥がした。あっという間だった。
礼だったら、キャベツを葉の方から手で1枚1枚剥がす。あんな風に、キレイに剥がすことはできない。絶対ボロボロになる。
「凄い!とってもキレイです」
礼が驚きで興奮しながら言うと、遥斗が嬉しそうに笑った。
「キャベツは手で剝がすよりも、根元に切り込みを入れてから剝がした方がキレイにできるんですよ~。包丁だけで気軽にキレイに向けるので、おすすめです」
礼に教えてくれながら、遥斗の手は止まらない。簡単にやっているように見えるが、根元に切り込みを入れる時に下の葉を切らないように細心の注意を払っていると分かる。
10枚ほど葉を剝がして水で洗うと、ちょうど沸いた鍋に次々入れていく。
「礼さん、冷蔵庫から玉ねぎとにんじんのみじん切りが入ったボウル取ってくれます?ロールキャベツのタネ作るので」
「分かりました」
頷いて、冷蔵庫からボウルを取り出す。玉ねぎとにんじんはフライパンで炒めてから冷ましていたようで、玉ねぎがきれいな飴色をしている。
遥斗の方を振り返ると、キャベツの葉を茹で終えたようで、流水にさらしている。礼がボウルを持っていくと、お礼を言って受け取ってくれた。
「俺、味付けするので礼さん手でこねてくれませんか?」
「もちろんです」
礼がそう返事をすると、遥斗はボウルに卵、パン粉、塩コショウを入れていく。全部目分量だ。
ドレッシングを作っている時にも思っていたけれど、遥斗は調味料を量らない。それから見慣れないスパイシーな匂いのする調味料を入れた。瓶には、ナツメグと書いてある。
「これ入れるの好きなんですよね~」
肉の臭みを消し、野菜の旨味を引き出してくれるものらしい。仕上げにひき肉をボウルに入れると、満面の笑みで礼の方を向いた。
「はい、こねてください!」
礼はうなずき、ボウルからこぼさないように、慎重に手で混ぜる。気をつけていてもどこかに飛ばしてしまいそうで、身体に余計な力が入ってしまう。
「そんなに緊張しなくても大丈夫ですよ」
ぎこちない動きでボウルの中をゆっくりこねる礼を見かねたのか、遥斗が優しく声をかけてくれる。
「こぼしたって、拭けばいいだけですよ。料理した後はどうせ掃除するんですから、何も気にせず自由にやってください」
「ありがとうございます…」
遥斗は不器用な礼に優しく接してくれるけれど、礼にはキッチンのあらゆる所を汚し、時にはキッチングッズを壊し、料理を台無しにしてきた過去がある。遥斗に呆れられたり、見放されたりするのが怖い。
慎重にこねていても、余計な力が入って少しだけ壁に飛ばしてしまった。礼が内心焦っていると、遥斗が何も言わずにサッと拭き取る。
少しも礼を非難することを言わないのはとてもありがたいけれど、同時に申し訳なくなる。料理ができないならできないなりに、せめて余計な仕事を増やしたくない。
「ごめんなさい」
「ん?どうして謝るんですか?こねてくれたのに」
いたたまれなくなって謝罪すると、遥斗が不思議そうな顔をした。
「壁を汚してしまいましたし、私がやると…その、時間かかってますよね。遥斗くんの負担になっているんじゃないかと思いまして」
「気にしないくださいって。それに、もともとは礼さんと一緒に料理したいって言い出したの俺ですよ?」
「でも、余計な仕事を増やしてしまっている気がして、申し訳ないです」
「俺のことなんて気にしなくていいのに…。申し訳ないって思うよりも、俺と一緒にする料理を楽しいって思ってほしいです。楽しいと思うか、やっぱり料理は苦手だと思うかは礼さんの自由ですけど、楽しいって思ってもらいたいです。そのために、一緒に料理したいってお願いしたし、頑張ろうって張り切っているので」
困ったような微笑みを浮かべる遥斗を見て、これ以上申し訳ないと思うのは止めようと思った。これ以上、彼を困らせたくない。
料理自体を楽しいとは、苦手意識の方が高くて今は思えない。けれど、遥斗と料理をするのは楽しい。礼が知らないことをたくさん教えてくれるし、なにより、遥斗が楽しそうに料理をするのだ。
包丁を握る手や、食材の扱い方、丁寧な下処理。それを見ていると、遥斗は本当に料理が好きなのだと伝わってくる。その様子を見るのは、とても楽しい。
「遥斗くんが料理している所を見るの、私は好きです。料理もできるようになりたいです。だから、呆れずに見守ってくれると嬉しい…です」
「もちろんです!」
礼の言葉に、遥斗が弾けるような笑顔を浮かべた。
「ロールキャベツ、どうやって包むのか教えてください」
「喜んで。見ていてくださいね」
キャベツの葉を広げ、肉ダネをレモンのような形に整える。それを芯の方へ置き、横のキャベツを折ながらクルクルと巻いていく。あっという間にロールキャベツの形になった。巻き終わりを爪楊枝で固定すると、鍋に並べていく。
「最後の一個、礼さんが包んでください」
「はい」
「コツは、タネをレモンの形にすることです」
遥斗に言われた通り、肉ダネをレモンの形に整える。遥斗に比べると不格好になってしまったが、許容範囲だろう。
「こんな感じですか?」
「そうです、そうです。上手です」
遥斗は大げさなくらい、褒めてくれた。自分では上手だと思わないけれど、彼に褒められたら素直に嬉しいな、と思う。
先ほど遥斗が見せてくれたように、キャベツの芯の方へ肉ダネを乗せる。見様見まねで横のキャベツを折りたたみ、慎重に芯の方から巻く。
礼が戸惑って少し止まると、遥斗がさり気なくサポートしてくれた。「いい感じですよ~」と声もかけてくれる。
やや不格好な形になってしまったが、何とかロールキャベツの形にすることができた。
爪楊枝で止める時に何度も指に刺してしまい、「痛っ」と声が出て遥斗を心配させてしまったのが申し訳ないが、初めてきちんと料理らしいことをやり遂げられたので良しとする。
鍋の空いたところに包んだロールキャベツを置くと、遥斗がお礼を言ってくれる。特に大したことはしていないのに、お礼や労いの言葉を欠かさない彼の態度に、胸の奥がギュッとした。
「ミネストローネには、トマト缶を使います。水と合わせるだけで簡単にできるんですよ」
そう言いながら、鍋にトマト缶と水を入れる。塩コショウを振り、火にかける。火が通るまで待つのかと思っていたが、隣のコンロでフライパンを温めはじめる。
「何をするんですか?」
「トマトスープだけだと寂しいな、と思ったので、じゃがいもとにんじん、ベーコンを追加します」
具材は既に切っていたらしく、温めたフライパンにオリーブオイルを引いて入れる。ジュウっと具材の焼けるいい音が聞こえ、遥斗がフライパンを手慣れた様子で振る。何度か繰り返し、火が通ったであろうタイミングでロールキャベツを煮ている鍋に入れる。
「蓋をして煮込んでいる間に、もう一品作ります」
「何を作るんですか?」
「じゃがいもとにんじんをバターで炒めて、塩で味付けする副菜です」
「おお、美味しそうですねぇ」
「そうなんです!簡単で美味しいんですよ」
遥斗は鼻歌を歌いながら冷蔵庫からバターを出して包丁で切り、温めたフライパンに入れる。続けて、キッチンの横から、ボウルに水でつけていたじゃがいもを取る。じゃがいもは、フライドポテトのように細長い切られていた。それの水気を切り、同じように細長く切ったにんじんと一緒にフライパンに投入する。
しばらくすると、バターにいい匂いが香ってきた。遥斗は手際よくフライパンを振り、塩を振りかける。
「前から思っていたんですけど、目分量で味付けできるの、凄いですね」
「ん?そうですか?」
「レシピを確認する様子もありませんし…私にはできないです。レシピがあっても成功しないのに…」
「ずっと作っていると、いちいち調味料を測るのが面倒になるんですよ。何回か作れば分量が分かるので、感覚で味付けしちゃいます」
お菓子を作る時は目分量でやると痛い目みるので止めました、と遥斗は付け加える。サラッと言っているが、ご飯モノやパンだけでなく、お菓子も作るのかと、衝撃で礼は目を剥いた。
「お菓子も作るんですか⁉」
「はい。そんなにビックリすることですか?」
「驚きますよ!私なんて、お菓子も作ろうと思ったこと、一度もありません」
「基本的に、気になった物とか食べたい物は自分で作ります。必要な器具があれば、置く場所とか考えずに買っちゃいますしね」
礼と話しながら、遥斗はフライパンからお皿に盛り付け、仕上げにパセリを振る。続けて、洗い物を手際よく済ませ、礼が気づいた頃にはシンクの中に何も残っていなかった。
その間に炊飯が終わり、ロールキャベツも煮立ったようだ。
「もうすぐ完成するので、礼さんはご飯よそってくれますか?」
「はい。お任せください」
礼は頷くと、食器棚を開けて茶碗を探す。礼の元々の家にはマグカップ以外の食器はなかったため、礼の分だけ食器類を新調した。白をベースに桜の花びらが散る可愛らしいデザインの茶碗を、遥斗が選んでくれた。
遥斗の茶碗である柄の入っていない、黒一色のシンプルなデザインの茶碗も割らないように取り出す。
「遥斗くん、どのくらい食べますか?」
ブランチを食べてから時間が空いているし、お腹も空いているだろうと思って気持ち多めについでからから尋ねる。
「そのくらいで大丈夫です。足りなかったらおかわりするので」
茶碗からはみ出るくらい盛りつけたのに、これでも足りないかもしれないのか、と内心驚く。礼は遥斗の半分の量で事足りる。
どちらかというと遥斗は細身なのに、たくさん食べるのだと意外に思ったが、礼より体格はいいのだから倍食べるのも当たり前かと思い直す。
礼がダイニングテーブルにご飯を運び、箸やお茶を用意している間に、遥斗がサラダと副菜を運んできてくれた。再びキッチンへ戻ろうとする礼を制し、遥斗は今日のメインであるロールキャベツを持って来てくれた。
白色のシンプルなデザインのお皿に、ミネストローネの赤色が映えている。ロールキャベツの上には、チーズが乗っている。
「礼さんと初めて手作り晩ご飯を食べるので、特別仕様です。とろけるチーズを乗せてみました!」
特別仕様のロールキャベツは本当に美味しそうで、食欲がそそられる。ロールキャベツが輝いて見えた。
「礼さん、目がキラキラしてます。喜んでくれてよかった」
遥斗にそう言われて少し恥ずかしくなったけれど、彼が嬉しそうに微笑んでいるので、自分まで嬉しくなった。
2人で手を合わせて、「いただきます」と言う。メインのロールキャベツを箸で割ると、肉汁が溢れ出してきた。口に含めると、肉汁と野菜の旨味、チーズの味、そしてミネストローネのトマトスープが広がる。どれも、それぞえの良さを引き立てていて、相乗効果が凄まじい。
「美味しい!遥斗くん、本当に美味しいです!今まで食べたロールキャベツの中で1番!」
衝撃的な美味しさに興奮しながら伝えると、少しだけ硬い表情をして礼を見ていた遥斗の顔が緩んだ。
「大げさですよ」
「大げさじゃないですって!本当に、今まで食べた中で1番美味しいと思いました」
「そう言ってくれて嬉しいです。たくさんあるので、どんどん食べてくださいね」
「はい。ありがとうございます」
じゃがいもとにんじんのバダー炒め、手作りドレッシングのシーザーサラダ、ミネストローネで煮込んだロールキャベツ、どれも美味しくて、優しい味がして、口に運ぶ度に感嘆の声が零れる。
そんな礼を、遥斗が嬉しそうに見ながら食べているのが、少し恥ずかしかった。
「ごちそうさまでした。とっても美味しかったです。ありがとうございます」
「いえ、こちらこそ。たくさん食べてくれて嬉しかったです」
あれから、箸が進んで止まらなくなった礼は、ご飯とロールキャベツをお代わりした。
ご飯をお代わりするなんて、何年ぶりだろう。ずっと食べていたい、と思うくらい、美味しかった。
「食後のコーヒー、淹れてきますね。お皿洗いは私がやるので、お部屋でくつろいでください」
「ありがとうございます。でも、皿洗いは一緒にやりましょう」
「え?お皿洗いは料理を作っていない方がやるっていう約束では?」
「今日は2人で作ったじゃないですか。それに、一緒にやった方が早く終わりますしね。礼さんが嫌じゃなければ、終わった後に一緒に映画観ませんか?」
「…じゃあ、お言葉に甘えます。よろしくお願いします」
2人で作ったと遥斗は言ってくれるが、ほとんど遥斗がやってくれたし、礼は何もしていないに等しい。迷いつつ甘えることにしたら、遥斗の瞳が輝いた。
遥斗にコーヒーの準備をお願いされ、終わったら皿洗いに加わろうと思っていたのに、準備している間に全て済ませてくれていた。
遥斗が料理をしながら皿洗いもしてくれていたので、元々洗い物は少なかった。とはいえ、早すぎる。恐らく、家事全般の手際が良いのだろう。
「ありがとうございます。私の出る幕、ありませんでしたね」
「こちらこそ、美味しいコーヒーを淹れてくれてありがとうございます」
それぞれ自分のマグカップを持ってリビングへ移動し、ソファに1人分間を空けて座る。遥斗はテレビを点けると、サブスクに切り替えてリモコンを操作しながら礼に尋ねる。
「観たい映画あります?好きなジャンルとか」
「あまり映画を観ないので、遥斗くんのおすすめを観たいです。ただ、ホラーやパニック系の映画は苦手なので避けてくれると嬉しいです」
「分かりました!」
しばらくリモコンをいじり、最終的に数年前に話題になったアニメ映画を選んでくれた。話題になっているので気になってはいたが、仕事で忙しくて結局観に行けていない。
「これでいいですか?」
遥斗のおすすめの映画を観たいとリクエストしているのに、律儀に確認してくれる。礼が笑顔で同意すると、ホッとしたように息を吐いた。
映画はとても面白かった。遥斗がどんな顔で観ているのか気になって横を見ると、終盤の感動的なシーンで涙ぐんでいた。
映画の内容に没頭して、表情がコロコロ変わる様子を見ていたら、自然と頬が緩む。こんなに充実した休日を過ごすのは久しぶりだ。きちんと食事を摂るのも。
「遥斗くん、ありがとうございます」
「何のお礼ですか?」
映画のエンドロールが終わった後に言ったら、遥斗は涙目で不思議そうな顔をしてこちらを見た。
「楽しい1日でした。ありがとうございます」
「どういたしまして、でいいんですかね?」
「はい」
ずっと遥斗と一緒に、穏やかに、楽しく、日常を過ごしていけたらいいな、と心から思った。
☆第3話はこちらから
