見出し画像

『友情結婚』第1話

《あらすじ》
 桜沢礼は、誰にでも丁寧に接し、困っている人がいれば迷わず手を差し伸べることをモットーにしている。大学時代に初めてできた彼氏に浮気されて以来、恋愛には消極的で結婚願望もなくなった。25歳を過ぎてから頻繁に田舎の両親から結婚を催促されるようになったことが最近の悩みの種。

 ある日、同じ会社のシステム部にいる宮田遥斗が礼の部署のプリンターを直しに来る。宮田から「俺と友情結婚しませんか?」と提案され、戸惑いながら「私たち、友達ですらありませんよね・・・?」と断る。しかし、友達から関係を始めることを提案され、次の日からランチを一緒に食べるようなる。


《第1話:プロローグ》


「桜沢さん、俺と友情結婚しませんか?」

「・・・はい?」

 目の前にいる宮田遥斗は、子犬のようなつぶらな瞳を輝かせ、ランチを一緒に食べよう、といった軽い口調で提案した。「友情結婚」という言葉を初めて聞いた。ここ数年、マンガやドラマで流行の契約結婚と何が違うのだろう。文字通り、友人同士で恋愛感情の伴わない結婚することなのだろうか。
 
そのようなことを頭でグルグル考えて困惑している礼を、宮田は無邪気な笑顔で見つめている。

***

 この日は1日ついていなかった。毎日幸せなことが続いてほしいなんて不可能に近いことは望まないから、せめて嫌なことは1日に1つだけにしてほしい。そんなことを願うくらいにはついていなかった。

 スマホのアラームを止め、起き上がってお湯を沸かす。暦の上では春になったが、まだまだ肌寒い。少し震えながら、買い置きしているカップラーメンを取り出し、お湯を注いで3分待つ間に、着替えを済ませる。いつもと変わらない礼の日常だ。

 できたカップラーメンを机まで運び、手を合わせて食べ始める。毎日のように食べていると口が飽きてくるが、残念ながら料理は壊滅的にできないので仕方ない。

 スマホでSNSを見ていると、幸せそうな同級生たちの姿が映っていた。高校卒業後に進学せず地元に残っている人たちは20代前半で結婚していて子どもが生まれているし、大学の同期も25歳を過ぎてから続々とゴールインしている。

 子どもが初めて立った瞬間を収めた微笑ましい写真に「いいね」を押した。スクロールすると同時に、スマホが鳴る。間違えて通話ボタンを押してしまい、誰からの電話か確認せず慌ててスマホを耳に当てた。

「あ、礼?やっと出た」

 母の声だ。スマホの画面を確認すると、桜沢美保子と表示されている。数日前から電話が来ていたことには気づいていたが、仕事が忙しいと心の中で言い訳しながら折り返しはしていなかった。

「ごめん。仕事が忙しくて」

「もうー!何やってんの」

「仕事だよ・・・」

 何日も電話に出なかったことと、ここ1、2年実家へ帰っていないことを一通り非難され、結婚の話題に移った。礼が2年前に25歳の誕生日を迎えてから、事あるごとに結婚を催促されている。

「いつまでフラフラしてるの?秋山さんとこの愛香ちゃんは二人目ができたって。あんたはもうすぐ30なのに」

 まただ。どこどこの誰々さんは結婚しただの、子どもが生まれただの報告され、あんたはいつ結婚して子どもを産むのか、と問いただされる。

「フラフラしてないよ、結婚してないだけで。あと、まだ27歳だよ」

「まーた、そんなこと言ってー!そんなんじゃ行き遅れるわよ。彼氏がいる気配もないし」

 母は22歳の時に結婚し、25歳で礼を出産している。今の礼と同じ27歳で弟を出産しており、結婚どころか恋人もいない娘を心配しているのだろう。それはよく分かっている。けれど、しんどいと感じてしまうのはいけないことなのだろうか。

”女の子は結婚して子どもを生んで育てて、仕事はパートでそこそこにやるのが一番幸せなのよ”

 幼い頃から、母からそう言われて育った。実際、高卒で地元企業に就職し、若くして結婚して子どもを産み、産後はパート主婦をしている母は、亭主関白な父に不満を漏らしてはいるものの、娘から見ても幸せそうに見える。三重県の田舎にある地元に残っている礼と同世代の人たちも似たような人生を歩んでいる。自分も周囲の人もそうだったから、そのレールから外れた人生を歩みそうな礼は、不幸に向かっているとしか思えないのだろう。

 高校卒業後に大学へ行きたいと言った時も、「女の子はどうせ仕事辞めるんだから、学歴があったって仕方ないじゃない」と大反対された。それでも、東京にどうしても入りたい会社があり、大卒でないと採用されないから、と押し切って上京してきた。大学卒業後、希望通りの化粧品会社に入社して広報部に配属されたが、母が本音では地元に戻って結婚してほしいと思っていることには気がついている。

「ごめん。仕事に行く準備しないといけないから電話切るね」

 一息で言い切って、電話の向こうで何か言っている母を無視して電話を切った。続けてため息が出る。結婚の話しをされるのが嫌だったから、母からの電話を避けていたのに。

 礼は結婚願望がない。しかし、一生ひとりで生きていくという覚悟もない。自分以外の人の気配のない殺風景なワンルームで過ごすのは寂しいと思う日もあるし、ひとりの方が気楽だと思う日もある。ただ、年に数回あるかないかの“寂しい”という感情を癒やすために結婚したいかと聞かれれば、答えはノーだ。

 大学進学と同時にひとり暮らしを始めて約10年。10年もひとりで暮らしていれば、寂しさの紛らわせ方も分かるし、都内に住んでいれば娯楽はいくらでもある。

 うん、やっぱり結婚はしなくていい。誰かの特別な存在になれるイメージはないし、恋愛で傷つくのは2度とごめんだ。

 そう結論づけて、礼は残りのカップラーメンを啜った。

****

「桜沢さん、ちょっといい?」

 定時まで残り2時間になった時、部長の浜田徹に呼び出された。礼は浜田のデスクに移動したが、場所を変えると言われる。個人的な話をされる時は、大抵ろくなことが起きない。

「今度の新商品のプロモーション、木ノ宮広告で決まった」

 会議室へ移動すると、浜田は切り出した。礼の勤める化粧品会社は、有名ファッションブランドとのコラボ商品の企画を進めている。若者に人気のファッションブランドとコラボすることもあって、CMやイベント、リーフレットなど、宣伝に力を入れている目玉企画だ。そのプロモーションをどこの代理店に任せるか連日会議をしていたのだが、業界大手の木ノ宮広告に決まったようだ。

「分かりました。ですが、なぜ私だけ先に伝えたんですか?」

「桜沢さんに連絡窓口になってもらいたいそうだ。あちらからのご指名でな。週明けに簡単な打ち合わせがあるから同席してほしい」

「それは構いませんが・・・」

 企画の段階から携わっているし、連絡窓口になるのに何ら問題はない。ただ、他にも携わっている広報部員はいるのに、わざわざ指名されたことは気がかりだ。

 浜田は眉間にしわを寄せ、険しい顔をしている。

「1年ほど前、急病の相田さんに代わって木ノ宮広告の対応したの覚えてる?」

「はい、覚えています」

 あの時は確か、ロングセラーになっている口紅の新しいリーフレットを確認した。担当者である相田が急病で休みになったため、代わりに対応したはずだ。

「その時に木ノ宮広告のデザイナーが君をいたく気に入ったそうだ。物腰が柔らかくて丁寧だったってな」

「えっ・・・」

 木ノ宮広告の担当者とたちは数10分話しただけだ。企画の資料には一通り目を通してはいるが、担当ではないし、あくまで代わりにリーフレットを受け取っただけ。礼の名刺は渡したが、営業としか交換はしていない。対応に好印象を持ってくれたのは嬉しいと感じるものの、戸惑いの方が大きい。

「その木ノ宮広告のデザイナーは気難しいらしい。営業を飛び越えて単独プレーをよくするそうだ。おまけに・・・」

 浜田はここだけの話しにしてほしいと言った。

「かなりの女好きでもある。君は彼の好みドンピシャなんだそうだ」

「はい?」

 思わぬ言葉に礼は目を見張る。

「営業担当からしつこくアプローチされるかもしれないから気をつけほしいと言われてな。機嫌を損ねると面倒なことになる」

「・・・分かりました」

 胸がずしんと重くなったが、何とか言葉を絞り出す。

「大きなプロジェクトだし、上は商品の売り上げを爆発的に伸ばしたそのデザイナーに頼みたいと思っている。大きな問題にならないよう上手く捌いてほしい」

 できる限りフォローはすると浜田は言ってくれた。それでも、気が重い仕事になることは間違いない。浜田の出て行った会議室にひとり残り、小さくため息をついた。

 どうして仕事に恋愛を持ち込むのか、よりよって人間関係に一番気を遣う取引先の人間にコトを起こそうとするのか。思ったことは山ほどあるが、全て飲み込んで代わりに深呼吸をした。      

 広報部へ戻る前に、髪の毛をまとめているバレッタを取り、もう一度つけ直す。お腹にグッと力を込めて気合いを入れると、礼は立ち上がった。

 礼が広報部へ戻ると、プリンターの方から小さな悲鳴が聞こえた。様子を見に行くと、この春から礼が教育係をしている神城つばさが、プリンターの前で途方に暮れている。

「どうしました?」

 礼が声をかけると、つばさは泣きそうな顔で振り返る。

「桜沢さ~ん。プリンターが動かなくなりました。助けてください」

「ちょっと見せてください」

 紙詰まりでもしたのかと確認すると、予想通り紙がグシャグシャになっている。つばさに詰まった紙の取り出し方を教えながら取り除くと、プリンターは動いた。しかし、今度は印字がおかしい。

「ぎゃっ、これどうすればいいんですか?」

 つばさは礼に助けを求めるが、礼にも分からない。

「ごめんなさい、私にも分かりません。システム部の人呼ぶしかないですね」

「またですか⁉」

 今月に入ってから3度目だ。この所プリンターの調子が悪く、何度もシステム部の人に来てもらい、直してもらっている。

「しょうがないです。私が頼んでおくので、神城さんは別の仕事進めてください」

「分かりました。あとはお願いします」

「はい、お任せください」

 笑顔で言うと、つばさは安堵の表情を浮かべてデスクに戻っていった。礼はもう1度プリンターの様子を見てから自分のデスクに戻り、システム部に電話をかける。電話に出たのは、いつもプリンターを直しに来てくれる宮田だった。

 礼が謝りながらプリンターの印字がおかしいことを伝えると、宮田は数分後に広報部まで来てくれた。

「何度もお呼び立てしてすみません」

 礼は宮田を出迎えると、頭を下げた。

「いえ、このくらいお安いご用です。頭上げてください!」

 宮田は礼に慌てて頭を上げるよう促すと、逆に頭を下げてきた。

「むしろ、修理が上手くできてなかったみたいで。ごめんなさい」

「いえ、頭上げてください!」

 今度は礼が頭を上げるように促す。頭を上げた宮田と目が合うと、同時に吹き出した。

「前もこんなやり取りしましたね」

「ふふ、そうですね」

 宮田の言葉に同意し、プリンターの所へ案内する。宮田は内部を確認すると、あとは任せて仕事に戻るよう言ってきた。礼は宮田の言葉に甘えて仕事に戻ることにした。

 しばらくは自分の仕事に没頭していたが、大分時間が経っているのに宮田が声をかけてこないことが気がかりだった。

 定時まで残りわずかになっても、プリンターは直っていないようで、明日の会議用に資料を印刷するよう命じていた浜田は、プリンターがなかなか直らないことに時間が経つにつれて苛立ちを隠せなくなっていた。

「一体いつになったら直るんだ⁉」

 宮田に詰め寄る浜田の声と、平謝りする宮田の声がプリンターのある所から聞こえ、礼は立ち上がった。プリンターの調子が悪いのは宮田のせいではない。長年使っているプリンターだし、そろそろ寿命なのかもしれない。礼は宮田をかばうように2人の間に入った。

「まあまあ、部長。落ち着きましょう」

「桜沢さん・・・?」

 宮田の驚く声が後ろから聞こえてきた。もしかしたら困っているのかもしれない。でも、礼には浜田が苛立っている原因に心当たりがある。

 浜田が苛立っているのは、久しぶりに孫が遊びに来ていて早く帰りたいからだ。定時で退社できれば一緒に夕ご飯を食べられると朝から嬉しそうに話していた。

「会議用の資料は別の部署のプリンターを使わせてもらって印刷します。お孫さんが待ってるんですよね?私が責任をもってやっておきますから、早く家に帰ってあげてください」

「・・・ありがとう。頼むよ」

「はい」

 礼の予想は当たっていたようで、あとは引き受けると申し出たら浜田の苛立ちはしぼんでいった。

 帰り支度をしに浜田がデスクに戻っていくのを見送っていると、宮田から「ありがとうございます」と言われる。

「気にしないでください。それよりもプリンターはどうですか?」

「プリンター内部の掃除に時間がかかっていまして・・・」

 清掃にはまだ時間がかかるらしい。定時も過ぎているから、会議用の資料を印刷したら帰るように言われたものの、礼は自分が呼び立てたのに先に帰るわけにはいかない、と固辞する。

 何度か「帰ってください」と「いえ、先に帰るわけにはいきません」の応酬をしていたら、 何かを飲み込んだ後のような顔をしながら宮田はこう言った。

「ありがとうございます。なるべく早く済ませますね」

「慌てる必要はありませんからね」

「分かりました。慌てず急ぎます」

 急かしている訳ではない―と言おうとしたが、宮田があまりにも人懐っこい笑顔をしているから、言葉が出てこなかった。

 宮田は自分の胸を叩き、あとは任せてくださいと言った。礼は男性に対して失礼だと思いつつも、笑顔が可愛らしい人だな、と思い、笑い声が零れた。

「え、僕何か変なこと言いました?」

 礼の反応に、宮田は不思議そうな顔をする。

「言ってないですよ。あとはお願いしますね」

 礼がお辞儀をすると、宮田は笑顔で頷いた。コロコロ表情が変わって可愛いな、と思った。

****

 隣の部署のプリンターを借りに行き、明日の会議用の資料を印刷して広報部に戻ってくると、丁度プリンターの清掃が終わっていた。

「時間がかかってすみませんでした」

 心底申し訳なさそうな表情で頭を下げる宮田に、礼は慌てて頭を上げるよう促す。

「いえいえ、直してくれてありがとうございます。助かりました」

 お礼を伝えると、宮田は嬉しそうに微笑んだ。その顔を見ていたら、何かしてあげたくなり、思わずこんな提案をしてしまった。

「この後少しお時間あります?お礼にコーヒー淹れますけど・・・」

「あります!」

「少し待っていてください。すぐに戻ります」

 給湯室でお湯を沸かし、ペーパーフィルターにコーヒー粉を入れて平らにする。ドリッパーにセットし、丁寧お湯を注ぐと、香ばしい匂いが鼻を突き抜けた。定時近くに呼び出してしまったし、プリンターを直しに何度も来てもらっていることが申し訳なくて、自前のとっておきのお菓子も用意する。

「美味しい!」

 一口飲んで、宮田は瞳を輝かせた。至福の表情でコーヒーを楽しんでいるのが伝わってくる。ここまで喜んでくれるなら、料理は壊滅的にできなくても美味しいコーヒーを淹れる特技があってよかったと感じる。

 それから、プリンターは10年以上使っているので寿命が近いのではないか、といった話や、宮田のパソコン周辺機器の稟議書がなかなか通らない苦労話など他愛ない会話が思いの外盛り上がった。宮田は聞き上手のようで、つい普段なら同僚には話さないことも話してしまう。

 礼が宮田との会話のテンポが心地良いと感じていた時、礼のスマホが鳴った。表示を確認すると、美保子からだ。

「僕に遠慮しないで、出てください。コーヒーも飲み終わりましたし、戻りますので」

礼が電話に出るか迷っていると、宮田が出るように勧めてきた。でも、電話用件は、今朝の話の続きだろう。

会 社でする話しではないし、出たくない、というのが率直な気持ちだ。迷っている内に着信が止まる。

「母からです。用件は分かっているので、後でかけ直します。それより、こんな時間まで引き止めてしまってすみません」

「いえいえ、僕の方こそ長々と居座ってごめんなさい。コーヒー、とっても美味しかったです!」

「喜んでもらえてよかったです」

 礼が笑顔で伝えると、宮田も嬉しそうに笑う。あ、居心地いいな、と思っていたら、和やかな雰囲気を切り裂くように、礼のスマホが再び鳴った。

 相手は美保子である。相当怒っているようで、礼が出ないと分かると電話をキャンセルし、再びかけてくる。このままでは礼が電話に出るまで着信は止まないだろう。

 LINEで仕事中であることと、後でかけ直すとメッセージを送り、思わずため息をついた。木ノ宮広告のこと、美保子からの結婚の催促・・・平穏な生活を送るためにも、どうにか上手く捌いていかなければならない。気の重い案件が同時にのしかかり、正直、気持ちが一杯一杯だ。

「・・・何かお困りですか?桜沢さん、しんどそうな顔してますけど」

 私はしんどそうな顔をしているのか。もう人前で取り繕えなくなっているのが情けなくて、何も答えられない。

「あ、給湯室使ってもいいですか?コーヒー、淹れてきます」

 心配そうな顔をしている宮田に何とか笑いかける。大丈夫です、と言おうとしたが、宮田はカップを持って給湯室の方へ行ってしまった。

 しばらくすると、コーヒーの入ったカップを2つ持って戻ってきて、片方を礼の前に置いてくれた。

「勝手に使わせてもらいました!どうぞ」

「ありがとうございます」

 コーヒーの良い香りがする。両手でカップを持ち、少し冷ましてから口に含めると、まろやかな甘みが広がった。ほっとする味だ。

 宮田は礼がしんどい顔をしていたことには触れずに、別の話をして楽しませようとしてくれた。無理に事情を聞いてこない姿勢がありがたくて、すごく嬉しい。

 身体がじんわりと温かくなり、気づいたら宮田に結婚を催促されて困っていることをポツリと零していた。

「そうですか。ウチも祖母が『早く結婚しなさい』ってうるさいので気持ちは分かります。う~ん、どうすればいいんでしょうね」

 礼の抱えている事情を聞いた宮田は、腕を組んで考え込んでいる。つい最近話すようになった同僚にプライベートの問題を相談されても困るだけだ。礼が謝ろうと顔を上げた時、宮田が手をパチンと叩いた。

「いいこと思いつきました!」

 勢いのある言葉に、礼の謝罪の言葉は消える。

「桜沢さん、俺と友情結婚しませんか?」

 ”結婚”という言葉に思考がフリーズした。そもそも友情結婚とは何だ。ドラマやマンガで流行の契約結婚と何が違うのだろう。宮田の顔を見ると、瞳を輝かせてこちらを見つめている。

「え、あの・・・友情結婚って何ですか?」

 混乱しつつも、何とか一番分からないことを質問すると、宮田もよく分からないと答えた。

「契約結婚との違いは俺もイマイチ分かっていません。ま、友情結婚は、結婚していると得られるメリットを享受するために友人同士で結婚することらしいです。協力して生きていく人生のパートナーって感じですかね」

 たまたま昨日のテレビで友情結婚をした人を見て提案してくれたようだった。テレビに出ていた人たちはお互いに恋愛対象が同性のようで、世間や家族にそのことが知られないよう友人同士で結婚し、それぞれ外に同性の恋人がいる。

 結婚していれば疑われることはないし、世間から白い目で見られることもない。そういう、メリットを享受しているとのことだった。

 友情結婚については何となく分かった。ただ、礼は宮田と友人ではない。同じ会社に勤めるただの同僚だ。困っている礼を助けるために提案してくれたのは理解している。でも、ただの同僚にそんなことをさせられないし、どうしてそこまでしてくれるのかも分からない。

「どうですか?結婚すれば催促されなくなりますよ。まあ、したらしたで子どもを催促されるかもしれませんけど、その時は俺が盾になりますし」

 ダメだ。いくら考えても宮田を巻き込む訳にはいかない。結婚という人生の一大事を、困っている人を助けるという理由で簡単に決めてしまってはいけない。

「・・・私を助けようと提案してくださったんですよね。ありがとうございます。でも、宮田さんを巻き込む訳にはいきません」

「別に巻き込まれたなんて思いませんけど」

「でも、私たち、友達ですらないですよね・・・?お互いのこともよく知らないですし」

 そう言うと、宮田は眉を八の字にし、腕を組んで考え込んでしまった。やや間があり、打って変わって爽やかな笑顔を浮かべる。

「じゃあ、まずはランチ友達になりましょう!」

「え?」

「来週からランチ一緒に食べませんか?」

 ハァ・・・?と間抜けな声が出た。正直、昼休みは一人で気楽に過ごしたい。午後の仕事を頑張るための元気をチャージしたいのだ。人と関わって消耗したくない。

「あ、ご飯だけで大丈夫です!食べ終わったら解散しましょう」

 礼の内心を察したように、宮田は付け加えた。どう断れば角が立たないか、と頭をフル回転し始めると、宮田は続ける。

「それに俺、3ヶ月後にこの会社辞めて転職します。なので、3ヶ月限定です。それに、桜沢さんが断ったとしても態度を変えませんし、3ヶ月後にはいなくなるので気まずい思いをすることはないと思います」

 月曜の昼休み、会社の前の公園で待っています。10分経ってもいらっしゃらなかったら諦めるので安心してください、と言い残して戻っていった。礼が呼び止める暇もなかった。

*****

「何、その面白い展開!」

 礼が大学入学時から仲良くしている佐藤美和は、宮田との顛末を聞くとお腹を抱えて笑い出した。それはもう、気持のいいくらいに。休日の昼時で店内が賑わっているとはいえ、美和の声は大きい。

「そんなに笑わないでよ。こっちは悩んでるのに」

「ごめんって」

 礼がランチに頼んだパスタを巻きながら抗議すると、美和はウインクつきで謝ってきた。笑わないように顔を神妙にしているが、口元が笑っている。

「どんな人なの?」

 どんな人か聞かれても、咄嗟に一言で答えられなかった。

 背は平均的な身長の礼より15センチメートルくらい高く、緩いパーマのかかった茶髪。チャラついた感じではなく、コロコロ変わる表情と笑顔が可愛い人。仕事のお願いをすると、快く引き受けてくれ、丁寧な仕事をしてくれる。

 礼が知っているのはこのくらいだ。内面を見極める能力がないのは自覚しているし、自信はない。

「でもさ、その人、絶妙な距離保ってくれてるよね。連絡先は聞かれなかったんでしょ?」

「うん。一方的に約束取り付けただけって感じかな」

 宮田は一切連絡先を聞くそぶりはなかったし、雑談の時もプライベートに関することは一切聞かれなかった。礼の気持ちを最優先にしてくれていることが伝わる話し方、提案の仕方だった。だから、思わず母からの結婚の催促に困っていることを零したのかもしれない。

「礼はさ、4年前のこと、まだ引きずってるの?」

 引きずってないよ、と答えようとしたが、言葉に詰まった。そんな礼を見て、美和はあっけらかんと続けた。

「話しを聞く限りだと、その人、悪い人じゃないよ。礼の元カレや4年前の上司とは絶対違う。それに、あんな酷い人は滅多にいないって」

「そうかなあ・・・」

 不安げな声を漏らした礼に、美和はドンと胸を叩いて「美和様のことを信じなさい」と言った。

「まあ、嫌だったら行かなければいいじゃん。本人もそれでいいって言ってるんだし。でもさ、礼は笑顔が可愛いって思ったんでしょ?」

「うん。特に満面の笑顔が可愛い。見ている人まで嬉しくさせるような顔」

 そう答えた礼に、美和はにっこり笑って言った。

「可愛いって、最強なんだよ」

 最強?と礼は首をかしげた。可愛いのに最強とはどういうことなんだろう。

「可愛いって思えれば、何しても可愛い。怒るようなことされても許せるし、たとえ格好悪いことをしたとしても、『可愛い』で済んじゃうの」

「・・・美和も、大我さんのこと可愛いって思うの?」

 大我さんは、美和が長年付き合っている恋人だ。美和と礼の大学の先輩で、のサークルで出会った2人は、交際6年で結婚を決めた。今日はそのお祝いを兼ねて美和とランチに来たのだ。

「まあね。ああ見えて甘党な所は可愛いと思うよ」

 大我さんは筋肉隆々で強面だ。初対面では、多くの人を恐れさせる雰囲気を持っているが、気さくで優しい人でもある。甘いものには目がないらしく、特にパフェが大好物らしい。

「嫌なことされても許せる?」

「大目に見れる」

「そっか。『可愛い』って凄いね」

「そうよ~。だから前向きに考えてみるのもいいんじゃない?礼が弱音吐いても良いって判断してるみたいだし。無意識とはいえ」

 美和は大きくうなずいて言った。礼は否定も肯定もせず、曖昧に笑って誤魔化した。何と言えばいいのか、分からなかった。

 自分の悩みよりも美和のお祝いだと思い直し、大きめのトートバッグに隠していたヴィンテージのワインを取り出し、美和に渡す。休日は2人でワインを飲むのが恒例だと聞き、出会った頃や交際を始めた頃を思い出しながら飲んでほしいと、美和たちが交際を始めた年のヴィンテージのワインを選んだ。

 ヴィンテージのワインの作られた年を見た美和は「私たちが付き合った年じゃん!」と嬉しそうに笑っていた。美和たちが、ずっと幸せに暮らしていてほしいと心から思った。

*****

 美和と別れ、自宅に戻ると、礼は電気もつけずにベッドに突っ伏した。視界が寝慣れた布団でいっぱいになる。

”礼はさ、4年前のこと、まだ引きずってるの?”

 考えないようにすればするほど、この言葉が頭から離れなかった。

 約4年前、新卒で今の会社に入り、半年間の研修を終えて経理部に配属された。そこで10歳上の先輩である長谷部勇樹が礼の教育係となり、仕事を教わった。希望した配属先ではなかったが、前向きに仕事をしていれば、いつか広報部へ行けるかもしれないと目の前にある仕事に全力で向き合った。

 はじめは長谷部との関係は悪くなかったと思う。礼の様子をよく見てくれており、手が止まると手助けをしてくれた。それなのに、仕事を教わるうちに、少しずつ休日や仕事終わりに何をしているのかプライベートのことも聞かれるようになり、髪型や服装などを「似合っているね」と言われるようになった。

 通勤に使っている電車は別で、会社に着くのは長谷部の方が早かったが、だんだん通勤時間が同じになって声をかけられることが多くなった。単に通勤時間を変えたのだと思い、特に気に留めていなかったが、3か月後には退勤時にも声をかけられるようになった。

 長谷部が先に上がり、礼が残業をした日も後ろから「お疲れ~!」と声をかけられ、さすがにおかしいと感じるようになった頃、大学卒業前に付き合うことになった礼にとって初めての恋人の態度がよそよそしくなった。

 当時、社会人になって慣れないひとり暮らしをしていたうえ、恋人は休日らしい休日がないほど激務ですれ違いの生活になった。ただ、分かったのは、他に好きな人ができた・・・らしいことだけだ。

 会えないことは承知で、きちんとしたものを食べてほしいと食材を買って彼の自宅を訪れた。合鍵を使ってドアを開けると、見慣れない赤いハイヒールが目に飛び込んだ。ヒュッと喉が鳴り、恐る恐る玄関からそれ程離れていない寝室の方へそっと近づくと、中から甘ったるい声が聞こえてきた。

 聞こえてくる声は、どう考えても同意のうえで愛し合っているものだ。

そこからどうやって自分の家まで帰ったのか、何も覚えていない。気づいたら玄関で靴も脱がずに呆然と座っていた。息が浅く、全身をズタズタに引き裂けられたのではないかと思うくらい、胸が痛かったのを覚えている。

 その日の夜に恋人から「ごめん」とだけLINEが送られてきた。どう返せばいいのかも分からず、既読をつけて連絡先を消去した。それっきり、連絡を取っていない。

 翌日、何とか起き上がって出勤すると、長谷部から声をかけられ、デートに誘われた。とてもデートする気持ちになれなかったので断ったが、長谷部はしつこかった。

 言い寄られないために通勤時間をずらして会わないようにしても、礼がトイレから出ると、入り口に待ち構えられるようになり、言い寄られる。その状態が続いた。

 デートの誘いを断り続けて数ヶ月が経ち、この先礼が首を縦に振らないと判断したのか、長谷部の態度が豹変した。書類や連絡を回されなくなり、仕事を監視されて少しでもミスをすると「桜沢~!」と怒声が響く。それならミスをしないように、と気をつけても、難癖をつけられて残業が重なった。

 どうすればいいのか分からなかった。恋人に裏切られてできた傷も癒えておらず、業務に支障が出るほど長谷部との関係は悪化してしまったうえ、残業で疲れが抜けない。休日に出かける気力もなく、布団にくるまっている礼を見かねて美和が買い物袋を片手に礼の家へ来てくれることが増えた。心も身体も限界だった。

 食べ物が喉を通らなくなり、顔色の悪さをお化粧で誤魔化せなくなった頃、隣の部署の同僚が長谷部をハラスメント相談窓口に申告した。

 長谷部が礼に言い寄っているところを何度か見かけており、心配してくれていたらしい。後に長谷部が地方の営業所へ、礼が広報部に異動することが決まると、「ゲッソリ痩せていくから心配してたんだよ」と声をかけてくれた。

 誰にも相談できずにいたのに、礼が困っていることに気づいてくれていたことが嬉しくて、久しぶりに声をあげて泣いた。

 念願の広報部へ異動してからは、過去を振り切るように仕事に熱中した。どうすればいいのか分からず消耗していった弱い自分から成長できていると思っていたが、どうやら少しも前に進めていなかったらしい。

*****

 鏡の前で、アイラインをいつもより丁寧に引き、つけまつげを付ける。普段はつけないが、気合いを入れる時はつけるようにしているのだ。最後にバレッタで髪の毛をまとめ、両手で頬を叩くと、パンッといい音が鳴った。

 礼なりの戦闘服を身に纏い、化粧室を出て広報部へ戻って浜田の所へ向かう。今日は、木ノ宮広告と打ち合わせの日だ。

「アハハ~!浜田さん、褒め上手!」

 会議室に木ノ宮広告のデザイナーの笑い声が響いた。浜田のトークに気を良くしたのか、打ち合わせは和やかに進んでいる。

 進行は主に浜田が引き受けてくれ、礼は議事録をとることに徹した。名刺交換の際に受け取った木ノ宮広告のデザイナーの名刺をチラリと確認し、気を引き締める。

 名前は川辺俊介。長身でスラリとしており、右が丸で左が三角のオシャレな眼鏡をしている。メディアに顔は出していないので以前会った時は気づかなかったが、名前を見て思い出した。約1年前に最高峰のデザイン賞を受賞している。性格もフレンドリーのようで、浜田とすぐに打ち解けていた。

「桜沢さん・・・?ちょっといいですか」

 打ち合わせ後、川辺から声をかけられた。来たか、と思い、お腹にグッと力を入れる。必要以上に愛想を良くしない。でも失礼になっては信頼関係を築けないので、礼儀は尽くす。そう決めてこの場に臨んだ。

「何でしょう?」

「連絡窓口を担当されるんですよね?連絡することが増えると思うので、これからよろしくお願いします」

「こちらこそ、よろしくお願いします」

 礼が頭を下げると、川辺は片手を差し出してきた。握手を求められたのは初めてだ。先ほど浜田と挨拶していた時は、確かしていなかった。

 少し逡巡してから手を取ると、川辺はもう片方の手で礼の手を包み込んできた。ヌメッとした感触が伝わり、ヒェッと声が出かけるが、かみ殺して平然を装う。

 季節が春でよかった。夏だったら、鳥肌が立っている腕を隠せない。

「桜沢さんの連絡先、教えてくれませんか?」

「すみません。弊社は社用のスマホがないんです。会社の方にかけていただければ私が対応しますので」

 川辺は礼のプライベート用の連絡先を聞いているのだと分かっているが、あえて気づいていないフリをした。

「知ってますよ。以前一緒に仕事しましたし。知りたいのは、桜沢さんのプライベートの連絡先です」

「社内の規則で取引先と個人的な連絡先を交換してはいけないと決まっているんです。ですから、ごめんなさい」

「いいじゃないですか~そんな規則なんて。桜沢さん本人が交換したいって思ってプライベートで交換する分には問題ないと思いますけど」

 ”規則なんて”と言ってしまえる性根が引っかかる。なんのために規則があると思っているのだろうか。

 プライベートで交換するのが嫌なのだとハッキリ言えたらどんなにいいだろうと途方に暮れた。角が立たないように交わそうとしても、のらりくらりと言い返される。どうすれば、気まずくならずに断れるのだろう。

 礼が困り果てていると、浜田が川辺に話があると割って入ってくれた。理由をつけて礼から遠ざけようとしてくれている。

「えぇ~何ですか、急に。桜沢さん、次!次会った時に交換しましょう!」

 川辺は木ノ宮広告の営業に腕を引っ張られてその場を引き離された。内心ホッとし、木ノ宮広告の人たちを見送るためにドアを開けて待つ。

 数分後、浜田と話を終えた木ノ宮広告の営業と川辺がこちらに向かってきた。出て行く際に川辺からジッと見つめられたが、気づかなかったことにして目を合わせず、笑顔でやり過ごした。

 誰もいなくなった会議室の後片付けをし、椅子に腰掛けてだらしなく天井を見上げた。思っていた以上に川辺はやっかいそうだ。礼の気持ちなんてお構いなしと言わんばかりにグイグイくる。

 礼は仕事に恋愛を持ち込んでほしくないと強く思っているが、別に社内恋愛に否定的なわけではない。同期で意気投合して結婚したカップルはいるし、先輩たちにも社内恋愛の末結婚に至ったカップルは多くいる。

 それでも、仕事仲間から恋愛関係になるには、まずは仕事で信頼関係を築く必要があると思う。信頼関係を築いていない段階でプライベートにグイグイ踏み込まれても怖いし警戒する。もっとハッキリ言うなら、距離感がおかしくて気持ち悪い。

 これから川辺をどう捌いていくべきか思案しながら腕時計に目をやると、時計の針が12時30分を指していた。あと15分もすれば昼休みが終わってしまう。

 お昼食べ損ねちゃったな、と思いながら腕を伸ばしていると、あることに気づいて勢いよく立ち上がった。

”月曜の昼休み、会社の前の公園で待っています。10分経ってもいらっしゃらなかったら諦めるので安心してください”

 宮田はこう言っていた。10分なんてとっくに過ぎている。行くか行かないか、ずっと悩んでいたのに、川辺が強烈すぎて頭から抜けていた。

 10経っても礼が来なかったら諦めると言っていたのだ。今さら行ったって宮田はいない。そう分かっているのに、礼は会議室を飛び出していた。

 初めての感覚だ。ここ数年まともに走っていなかったから、会社を出る頃にはもう息が上がっていた。頭では意味がないと思っているのに、身体は公園の方へ向かって走って行く。どうしてこんなことをしているのか、自分でも分からない。

 横断歩道を渡って細い道に入ると、公園の入り口が見えた。そこに、ポールに少しもたれかかって空を見上げている宮田がいた。礼に気づいた途端、満面の笑顔になる。

「なんで・・・」

 両手を膝について肩で息をしながらポツリと零すと、宮田は心配そうに「大丈夫ですか?」と聞いてきた。

「大丈夫です。それより、どうしてここにいるんですか?」

「どうしてって・・・約束したからです」

「時間、とっくに過ぎてますよ・・・」

「関係ないです。だって、桜沢さん、来てくれたでしょ?」

 宮田は、何か問題でもありますか?という顔をしている。

「それにね、俺は桜沢さんに来てほしいと思ってました。だから諦めるって言ったのに、10分経ってもずっとここにいたんです」

 真剣な目で言われて、何と返せばいいのか言葉に詰まった。それでも、じんわり胸に広がった感覚は心地良くて、あたたかい。

 宮田は礼の返事を求めていないようで、コンビニで仕事しながらつまめる物を買おうと誘ってくれた。遅れたお詫びに支払いはすると言うと、「勝手に約束をとりつけて勝手に待っていただけなので」と固辞されてしまった。

****

「うーん!美味しい!この唐揚げマジで美味しいです!桜沢さんもよかったらどうぞ」

 宮田はそう言って豪快にご飯をかきこんだ。良い食べっぷりだ。それはもう、こちらもつられていつもよりも多く食べられそうだと思うくらい。

 宮田は唐揚げ定食が届くとすぐに、取り皿に唐揚げをのせて礼にくれていた。人様の頼んだものをもらうのは悪いなと思って断ろうかと思ったが、宮田の目が輝いているので「大丈夫」とは言えず受け取っている。

 宮田の食べっぷりにつられてもらった唐揚げを口に運ぶと、口内に肉汁が広がった。

「美味しい!」

 礼が思わず声をあげると、宮田は嬉しそうな顔で見てきた。

「美味しいですよね」

 そういって、力強くうなずく。唐揚げは、衣はサクサク、肉汁たっぷりですごく美味しかった。

「私のチキン南蛮も美味しいので、よかったらどうぞ」

 とても美味しい唐揚げをくれたお返しに、取り皿に礼の頼んだチキン南蛮を取り分けて渡す。

「え~いいんですか!ありがとうございます」

 取り皿を受け取り宮田は破顔した。嬉しそうにチキン南蛮を食べる姿を見て、彼の見事な食べっぷりは見ている人も幸せにすると思った。

 礼が約束に遅れた日から数日後、会社から5分ほど歩くと着く定食屋に来ている。ランチが安くて美味しいと評判のお店だ。

 あの日、コンビニへ寄った帰りに礼がランチを一緒に食べないか誘ったら、宮田は嬉しそうにうなずいてくれた。

「あ、すみませーん。お冷やください」

 通りかかった店員に宮田が声をかけた。礼の方を振り返り、「桜沢さんは?」と確認してくる。

「私もお願いします」

「お冷や2つください!」

 宮田は礼の分まで頼んでくれた。彼は誰に対しても低姿勢で礼儀正しい。礼の父は店員に敬語を使わないし、隣を歩く時も礼の歩幅に気にせずスタスタと先を進んでしまう。元カレも同じタイプだった。

 でも、宮田は違う。隣を歩く時は礼の歩幅に合わせてくれるし、さりげなく車道を歩いてくれる。店員にも横柄な態度は取らない。今まで関わってきた男性と何もかもが正反対で驚くことばかりだ。

「宮田さんって、物腰柔らかいですよね」

「え?」

「あ、失礼になったらごめんなさい。店員さんに対しても敬語使っていらっしゃるので、そう思ったんです」

 宮田は不思議そうな顔をしている。

「敬語使うのって当たり前じゃないんですか?」

 心底不思議そうな顔で聞いてくる宮田を見て、愕然とした。宮田にとっては、そうするのが当たり前なのだ。

 ああ、きっとこの人は自然にやっているんだろうな。車道側を歩いてくれるのも、歩幅を合わせてくれるのも。自分よりも他者を優先する人なのだろう。なんて、すごい人なんだ。

「大学の時に飲食店でバイトしてたんですよ。接客業の大変さは知っているので、タメ口なんて口が裂けても使えません」

「分かります。私も飲食店で働いてました」

 意外な共通点が見つかり、礼は明るい声を出した。

「それに、桜沢さんもじゃないですか?後輩の俺にも敬語使ってくれますし」

「うーん、先輩後輩って括りが苦手なんです。一緒に働く対等な人なんだから、年齢とか経歴が自分より下だからってタメ口使うなんて変だと思っていて」

 礼がこう言うと、宮田は「分かります」と言って何度もうなずく。そうしている間に店員がお冷やを2つ持ってきてくれると、「ありがとうございます」と受け取って、礼にも1つくれた。

「あの、答えたくなければ答えなくて構わないんですけど、転職する理由って聞いてもいいですか?」

「ああ、アプリ開発をしたいなと思ったからです。社内システムを構築するのも楽しかったんですけど、大学の時に友人と趣味でアプリを作っていて、そっちの方がより楽しかったので転職することにしました」

 ずっと気になっていて、プライベートに関わることなので踏み込めずにいたことを恐る恐る聞くと、宮田は何てことない顔をして答えてくれた。大学の時に一緒にアプリ開発をしていた友人がいる会社に移ることにしたようだ。

「桜沢さんのチキン南蛮も美味しかったです!ここのご飯はどれも美味しいな~」

 そう言って、宮田は最後まで幸せそうに食べていた。

*****

「桜沢さ~ん。木ノ宮広告の川辺さんからお電話です」

 宮田とランチを食べ終えて広報部へ戻ると、つばさから呼び出された。お礼を言って電話に出ると、用件はイベントで配布するリーフレットのデザインをいくつか作ったので、こちら側と方向性を一致させるため打ち合わせをしたいとのことだった。社内に共有し、日程調整してから折り返すと伝えて電話を切ろうとすると、まだ用があると言われる。

「今日の夜空いてます?食事でも行きませんか」

 またか。顔合わせと簡単な打ち合わせを行った日から、たびたび仕事の電話を掛けてきては、最後にプライベートのお誘いをされている。

「ごめんなさい。今日は都合が悪いです」

「そうですか。残念。いつなら都合いいですか?桜沢さんに合わせますよ」

 どうして、この人は礼が一緒に食事へ行きたいと思っていることを前提に話を進めようとするのだろう。行きたいなんて一言も言っていないのに。

「あの、何度も申し上げていますが、そういった業務と関係ない話をされるのは困ります」

「関係ありますよ~。親交を深めるのは仕事をするうえで大切でしょ?」

 ああ言えばこう言われる。ハッキリ困ると言っても川辺はこの調子で何も響かないし、めげない。こちらの気持ちなんて何も考えていないのが分かるから、苦手だ。

 仕事があるので日程調整ができ次第折り返すと理由をつけて何とか電話を終えると、特大のため息が出た。

「またお誘いですか~?川辺さん、しつこいですよね」

 隣のデスクに座っているつばさがキャスターを転がして礼に近寄り、小声で声をかけてきた。

「前に桜沢さんが席を外してて出られなかった時に、彼氏はいるのか私に聞いてきましたよ」

「えっ、何て答えました?」

思わぬ事実に礼がギョッとすると、つばさは”やばい”という顔を浮かべる。

「よく知らないけど、社内で浮いた話は聞かないので、多分いないんじゃないですかって言っちゃいました」

 まずかったですよね?と申し訳なさそうに言うので、本当は大丈夫ではなかったが、大丈夫だと伝えた。今後はこんなことが起こらないように、念押ししなければ。

「次からは私のプライベートに関することを聞かれても、知らないで通してくれるとありがたいです」

 つばさは了承すると、自分のデスクに戻って仕事を再開した。

 取引先の社員に彼氏の有無を聞くなんて、なかなか肝が据わっている。ここまで来たら、川辺が次にどういう行動をしてくるのか予想がつかない。

 フレンドリーな性格をしているが、仕事に関しては頑固でプライドの高い一面を持っているように見えたので、礼に拒絶されたら態度が豹変するかもしれない。そうなったら、業務に支障が出ることは避けられないだろう。

 どうやって捌いていけばいいのか、見当もつかない。頭を抱えて悩みだした礼に、つばさが驚きの声を上げた。

*****

 宮田と初めてランチを一緒に食べてから、週に何回か一緒に食べるようになった。はじめの頃はランチを食べ終わったら解散していたが、今では昼休みが終わるギリギリの時間まで話している。

 月が変わり、太陽の日差しが眩しくなってきた。今のところ木ノ宮広告と仕事は順調に進んでいる。しかし、礼は変わらず川辺の対応に悩んでいた。

「桜沢さん?どうかしました?」

 日替わり定食を幸せそうに食べていた宮田が心配そうに礼の顔を覗き込んでくる。

「あ、ごめんなさい。ボーッとしてました」

 礼が謝ると、宮田は「謝ることじゃないです」と首を横に振った。

「ここ最近の桜沢さん、思い詰めた顔してますよ」

「そんなことは・・・」

 ない、と言おうとしたのを宮田は遮った。

「ありますよ。よ~く見ると、少しだけ眉間にシワが寄ってます」

 ほら、こんな感じに。と、両手の人差し指で眉根を指し、シワを寄せた。礼が片手で眉間を隠し、シワを伸ばすようにマッサージすると、宮田は続ける。

「出過ぎたことを言いますと、桜沢さんはもっと周りの人を頼った方がいいと思いますよ。桜沢さんって、トラブルが起きても自分ひとりで解決して周りの人に頼らないタイプですよね。責任感の強い所は素敵ですが、一人で抱えられないなら頼るべきです」

 宮田の言葉に、礼はハッとした。前に美和にも同じ事を言われた気がする。確かに、トラブルが起きても一人で解決しようとしてしまう。人に頼るという選択肢を端から持っていない。

 でも、自分だけで抱えきれないからと言って、他部署の宮田に相談してもいいのだろうか。

「俺でも話くらいは聞けます。解決方法も一緒に考えましょうよ」

 礼の内心を見透かしたように、彼は言う。顔を上げると、優しい笑みを浮かべていた。

 話してもいいんだろうか・・・。迷いつつ川辺のことを話すと、宮田は腕を組んで考え込む。

「う~ん、それはなかなか・・・ですね。桜沢さんが苦痛で仕方ないなら、担当を変わってもらうことも考えた方がいいかもしれません」

「・・・私としては、大きなプロジェクトなので波風を立てたくありません。それに、担当を変わったら相手がどういう行動をするのか予想できないので怖いです」

 もし実力行使という手段を選んできたら。礼の力ではとても敵わない。態度が豹変したとしたら。4年前のトラウマがまた甦るかもしれない。

 どう動いても良い方向に進んでいく気がしなくて、身動きがとれない。それが苦しい。

「それに、企画の段階から関わっているので、最後までやり遂げたいです。幸い、部長ができるかぎりのフォローをすると言ってくれているので、頼ろうかな、と」

「分かりました。桜沢さんの意思を尊重します。話を聞くことくらいしができることがなくて心苦しいんですが、いつもで聞くので!くれぐれも無理はしないでくださいね」

「はい。ありがとうございます」

 相談をしたことで、何だか心が軽くなった。話を聞いてもらえるだけで十分だ。

「デザート頼みましょう!甘い物食べたら幸せになりますよ~」

 そう言って、宮田はメニューをペラペラめくる。デザートの欄にあった、あんみつを指さして、これはどうです?と尋ねてきた。

「桜沢さん、前にあんこ好きだって言ってましたよね?このあんみつ、美味しそうですよ」

「よく覚えてましたね」

「コンビニのデザートコーナーで吟味してましたからね~。今日はご馳走します」

「え、いいですよ。払います」

「桜沢さんが大変な中、頑張っているご褒美です。ご褒美って言ったらおこがましいんですけど・・・でも、大変で苦痛な中に少しでも良いことがあったら、後で思い出しても嫌な思い出だけにならないと思いません?」

 宮田は優しい笑みを浮かべている。多分、礼のことを本気で心配して、元気づけようとしているのだろう。

 その気持ちが嬉しくてあたたかくて、胸がいっぱいで言葉が出てこない。その間に宮田は店員呼び、あんみつを2つ頼んだ。

「やっぱり、自分で払います」

「遠慮してますか?」

「いえ、代わりに1つお願いがありまして・・・笑ってくれませんか?私、その・・・宮田さんが笑っていてくれたら頑張れる気がするんです」

 そう言うと、「遠慮しなくていいのに」という顔をしていた彼の顔が驚きに変わって、口元を手で隠して横を向いた。何かゴニョゴニョ言っているのが微かに聞こえて、気に障るようなことを言ってしまったのかと不安になっていると、横を向いていた宮田が勢いよく正面を向いた。

「桜沢さん、とっておきの笑顔見せますね」

「・・・?はい」

 急にどうしたのかと不思議に思いつつ、姿勢を正して向き合うと、宮田は片手を頬に添えて愛嬌のある笑みを浮かべる。小さな子がシャッターを切る親に向けるような笑顔だ。可愛らしいと思ってニコニコ見つめると、彼が恥ずかしそうに手で顔を隠してしまった。

「え、どうしました?」

「いや・・・何か言ってくださいよ・・・俺、ただの恥ずかしい人じゃないですか」

「可愛らしいな~と思ってましたよ」

「かわっ・・・まあ、小さい頃によくしていたポーズだから、伝わったってことでいいんですかね・・・」

 何となく、宮田の顔が赤い気がする。気恥ずかしさと嬉しさがない交ぜになっているのだろう。初めて見る表情に、自然と頬が緩んでしまう。

「ありがとうございます。元気でました」

「それなら、よかったです」

宮田が少しだけ恥ずかしそうに微笑むと、ちょうど店員があんみつを2つ持ってきてくれた。その時食べたあんみつは、礼が今まで食べた中で1番美味しいと感じた。


 翌日、浜田に川辺の件を相談した。礼の想定よりも深刻に受け止め、プロジェクトに関わるチーム全体に共有された。木ノ宮広告のコンプライアンス室に通報した方がいいという声が出たが、礼の大事にしたくないという気持ちを尊重してくれることになった。

 先方に伝えないのであれば、担当を変更した方がいいのでは、という声も挙がったが、最後まで携わりたいと頭を下げ、やはり礼の意思を尊重してくれた。

 チーム全体に共有されてから、打ち合わせで川辺が個人的接触をしようとしたら手の空いている人が礼にピッタリと付き添うになり、以前のようにしつこくアプローチを受ける機会は減った。電話でのデートのお誘いは相変わらずだったが、都合が悪いの一点張りで断り続けていた。

 このままイベントが終わるまで、つかず離れずの状態を維持できれば。大事にせず、川辺を交わせる。

 そう思っていた頃、出勤の準備をしていると、母の美保子から電話がかかってきた。いつものように結婚の催促かと思い電話に出ると、事態はもっと深刻なものだった。

「こっちで年頃の良い男性を見つけたから、一度お会いしに帰ってきなさい」

「え⁉どういうこと?」

「お父さんがお世話になっている議員の息子さんがお相手を探しているそうなのよ。それで礼が彼氏もいないみたいだし、どうかって言ったの」

三重の役所で働いている礼の父が持って来た話しらしい。まさか、この令和の時代に親からお見合いを持ち掛けられるとは思っていなかった。

「いや、急に言われても困るよ。仕事もあるのに」

「まあ、一度会ってみるだけ会ってみなさいよ。京都大学卒業してるから頭がすごくいいみたいなの。こんないい人、この先現れないかもよ。仕事は有給でも取って都合つければいいじゃない」

 ただでさえ大きなイベントを控えていて忙しいのに、気の進まないお見合いのために有給を取って地元に帰ることは考えられない。というか、考えたくない。考える余地もなく、断固拒否だ。

「お見合いとか、そういうの興味ないから話持ってくるの止めて。今の仕事を辞めるつもりもないよ」

「そう言わずに。お母さんも一度見かけたことあるけど、感じの良い好青年だったよ。礼も気に入ると思う」

 仮にそうだとして、三重の人と結婚するなら、別居婚をしない限りどちらかが転職をしなければならない。母の想定では、礼が仕事を辞めて三重に戻り、結婚して子どもを産んで落ち着いた頃にパートでもすればいい、となっているはずだ。

 男性側が仕事を辞めることは考えない。議員の息子ということは、いずれは三重県の議員になることを期待されているだろうし、それを支えてくれるパートナーを探しているのだと思う。

「興味ないから止めて」

「もう!そんなこと言ってるから、行き遅れるのよ。周りは結婚して孫が生まれてるのに。恥ずかしいったらありゃしない」

 どうして、結婚していないだけでここまで言われるんだろう。別に恥ずかしい生き方などしていない。仕事もきちんとしているし、自分で稼いで暮らしている。実家を出て完全に自立しているのに、どうして娘のことに首を突っ込んでくるの。

 そう言っているのに、何一つ届いている気がしない。

「3週間後の日曜に食事の予定が入ってるから。必ず帰ってきなさいよ。土曜日になっても帰って来なかったら、東京まで迎えに行くからね」

 礼が言葉を尽くしても、美保子には何も伝わらなかった。礼が了承していないのに、一方的に予定を話して電話を切った。

 あまりの身勝手さに、ツーツーと音が鳴るスマホを耳に当てたまま呆然とする。あの調子だと、礼を強引にでもお見合いの場に連れていくつもりだ。

 どうすればいいんだろう。

 答えの出ない問題に、礼は頭を抱えた。

*****

 お見合いの件をどう断るか頭を悩ませながらその日の仕事を終えた。気づいたら広報部に残っているのは礼だけだ。

 急いで帰り支度をし、戸締りを確認してオフィスを出る。オフィスの入っているビルを出てしばらく歩いた所で、後ろから肩を叩かれた。

「桜沢さん」

 名前を呼ばれて振り返ると、ニヤニヤしている川辺が目に入り、凍りつく。

「桜沢さん、電話で誘ってもなかなか来てくれないので、直接誘いに来ちゃいました」

 来ちゃいました、ではない。礼が帰るのを待ち伏せしているなんて、やっていることはストーカーと変わりない。

「あの…」 

「今からご飯食べません?いいお店知ってるんですよ。桜沢さんに食べさせたいなってずっと思ってて」

 礼の戸惑いなんて気にしていないようで、何も答えていないのに、どんどん話を進めていく。

「あれ?どうしました?遠慮してますか?そんな遠慮しなくてもいいんですよ。どうせあなたは僕と付き合って結婚することになるんだから、もっとドーンと構えてください」

 私から一切好意を見せていないのに、どうしてそう思うの。どこからその自信が湧くの。

―怖い。相手がどう思っているのか微塵も考えていない、この人が怖い。

誰か、助けを求められる人は―。

 残業したせいで、広報部に残っている人は誰もいない。知り合いが偶然通りかかることも、恐らくない。この状況を、一人で切り抜けなければならない。

「じゃあ、行きましょう!ここからすぐ着くので」

 腕を掴まれ、連れて行かれそうになる。拒否したいのに、怖くて声が出せない。腕も振り払いたいけれど、力が強くて振りほどけそうにない。

 嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ―。私は行きなくない。

 そう心の中で叫んだ時、後ろから「礼?」と声をかけられる。

「礼?どうしたの?」

 会社に、礼のことを名前で呼ぶ人なんていない。でも、聞き覚えのある声に信じられない気持ちでいると、さりげなく川辺と礼の間に入り、礼を背中に隠してくれた。

「あの、彼女が戸惑っているので、手、離してくれません?」

 そう言われた川辺は、「あ・・・」「う・・・」と声にならない声をあげながら礼の腕をパッと離した。自由になった腕をさすり、自分の身体が震えていることに気づく。

「遅れてごめんね。こちらの人は誰?」

 礼をかばってくれた人が振り返り、顔を覗き込む。宮田だ。心配そうな顔をしている宮田を見て、自分の顔が歪むのが分かった。

「例の、取引先の人…」

 この一言だけで、宮田は全てを察してくれたらしい。礼をかばいながら川辺に向き合い、少しだけ詰め寄る。

「彼女はこれから俺と食事に行く予定なので、お引き取りください」

「あ、あんた誰だよ・・・」

 宮田が登場してから、川辺の態度はオドオドしたものに変化した。先程のマシンガントークはどこにいったのかと思うくらい、明らかに怯んでいる。

「婚約者です」

 思わぬ言葉が宮田から飛び出て、下を向いて唇を噛み締めていた礼は勢いよく顔を上げた。川辺を見ると、唖然としている。

「は・・・?婚約者・・・?彼氏はいないって言ってた・・・」

「今、流行の交際0日婚です。そもそも、職場や取引先でそんなプライベートなこと、普通は話しませんよ。今時コンプライアンスに引っかかってしまいますから」

「あ、いや・・・」

 それっきり、言葉をなくして川辺は黙り込んでいる。宮田は川辺に近づくと、耳元で何か囁く。表情は笑っているものの、いつものニコニコ笑顔とは違う。怒りを笑顔で抑え込んでいる、という感じだ。礼には何を言っているのが全く聞こえなかったが、川辺の顔が青くなったことは分かる。

「こ、婚約者がいるなら、はじめから言っておけよ!」

 川辺はそう言うと、逃げるように駅へ走って行った。

「あ、ちょっと!礼、すぐに戻って来るから、会社の中で待っててもらってもいい?俺はこの人を電車に乗るところを見届けるから」

 宮田は川辺を追いかけ、振り返りながら礼に言った。

「う、うん・・・」

 礼がうなずくと、宮田は走るスピードをあげ、川辺に追いついた。川辺を止め、腕を掴んで駅の方へ歩いて行く。何を話しているのか分からないが、川辺が怯えている様子なのは伝わってくる。

 遠ざかっていく2人の背中を見て、礼は座り込んで動けなくなった。

 怖かった。人生で1番。

 今まで言い寄られることはあっても、あそこまで話しが通じない相手は初めてだった。断っているのに、川辺は「自分が好きなんだから、礼も好意を持っているに違いない」と自信で満ちあふれている風だ。

 礼の戸惑いも、震えた身体にも気づくことなく、強引に連れて行こうとしていた川辺が、宮田の登場で初めて怯んだ様子を見せた。礼の名前を呼ぶ親しげな男性の存在が、川辺の勢いを簡単にくじいた。

 正直、もう二度と同じ思いをしたくない。

 しつこく言い寄られるのも、ストーカーと変わりないアプローチを受けるのも、嫌だ。

母から何度も何度も結婚を催促された挙げ句に望まないお見合いを組まれるのも、帰省して親戚の集まりに顔を出せば「いつ結婚するんだ?」と聞かれることにも疲れた。

―結婚していれば・・・

結婚したら、言い寄られることはなくなる。少なくとも、不倫願望のある倫理観のおかしい人以外からは。大抵の人は、結婚していることを知れば引くだろう。

母から結婚を催促されなくなる。結婚したらしたで、次は子どもを催促されることは分かっている。一時的な逃げにしかならない。

でも、それでも、もう独身でいることがシンドイと思ってしまった。

「え⁉何でこんな所で座り込んでるんですか?」

 駅から戻って来てくれた宮田が、道端で座り込む礼を見て、焦ったように駆け寄る。座り込んでいる礼に合わせて、手をついてかがんだ。先程、川辺と相対していた時と異なり、いつもの可愛らしい雰囲気に戻っている。

「宮田さん・・・」

 宮田の顔を見た途端、視界の端が涙でにじんだ。

「泣かないでください~!あの人はちゃんと電車に乗せて来ましたから!もう大丈夫ですよ。あっ、俺のことも怖いですか?なれなれしく呼び捨てでタメ口きいてしまいましたし!」

 婚約者とか大嘘ついてごめんなさい、と頭を深く下げる。

「ち、違うんです・・・頭上げてください」

「あああ、どうしよう。ハンカチ・・・は持ってないから、ティッシュ!ティッシュあるので、拭いてください」

 宮田は鞄の中をせわしく探し、ポケットティッシュを一枚取り出してくれた。ありがたくいただき、涙を拭う。

「宮田さん、助けてくれてありがとうございます」

「いえ、無事でよかったです。連れ去られそうになっていたので、ビックリしました」

 間に合って本当によかったです、と優しく笑いかけてくれる宮田を見て、ある考えが頭をよぎった。

「今から、とてもおかしな事を言います。聞いてくれますか?」

「もちろん、いいですよ」

「私と、友情結婚してくれませんか?」

 宮田が目を見張るのが分かった。もしかしたら戸惑っているのかもしれない。

 結婚という人生の一大事を、礼が独身でいるのが辛いからという理由だけで宮田の人生まで巻き込んでしまって本当にいいのか、とても迷う。

でも、宮田との3ヶ月限定のランチ友達も終わりに近づいている。彼との関係をこのまま切れてしまうのは、とても嫌だ。そう思っている自分が、確かにいる。

「しつこく言い寄られるのも、母から結婚を催促されるのにも、嫌気が差しました。お見合いもしたくありません。こんな理由で宮田さんの人生を巻き込んでしまって良い訳がないって分かってます。でも・・・なにより、宮田さんと一緒に過ごす時間がもっとほしいと思ってしまいました」

 言いながら、なんて自分本位なんだろう、と自然と目線が下にいった。宮田がどんな顔をしているのか怖くて見られない。

「桜沢さん、顔上げてください」

 無理だ。怖くてとても顔なんて上げられない。「ごめんなさい・・・」と零すと、宮田がフッと柔らかく笑った。

「忘れちゃいました?友情結婚しましょうって初めに言ったの、俺ですよ」

「・・・はい」

「いいに決まってるじゃないですか。俺の人生を巻き込んでくれるなんて光栄です。だから、顔を上げてくださいよ」

 恐る恐る顔を上げると、満面の笑みを浮かべる宮田と目が合う。優しい瞳に見つめられて、身体から力が抜けていくのが分かった。

「これからも、よろしくお願いします。桜沢さんは人生のパートナーに俺を選んでいいんですか?後悔しません?」

 そう言って、立ち上がった宮田が右手を差し出す。迷わず手を取ると、礼が立ち上がるのを手助けしてくれた。

「・・・宮田さんがいいです。後悔なんてしないです」

「そう言ってくれて嬉しいですよ」

「宮田さんこそ、私を選んで後悔しませんか?」

「しません。絶対に」

 宮田は力強く言い切ってくれた。本当にこれでいいのか、迷う気持ちは少し残っている。それでも、礼を選んで後悔しないと言ってくれた宮田の言葉を信じたい。信じるからには、やるべきことは1つだ。

「ふつつか者ですが、よろしくお願いします。宮田さんの人生のパートナーとして、支えられるように頑張ります」

「こちらこそ、ふつつか者ですが、よろしくお願いします。辛いことや大変なことは協力して乗り越えて、楽しいことは、一緒にとことん楽しみましょうね」

 お互いに頭を下げて、同じタイミングで頭を上げた。動作がピッタリ重なり、思わず2人で笑い合う。流れている空気が和やかで心地良かった。

「あ、でも、どうして私のためにこんなに良くしてくださるんですか?私は何もしていないのに・・・」

 宮田は本当に良くしてくれる。それだけのものを礼は何も返せていないのに。どうして、人生を巻き込んでしまうことを光栄だと言ってくれるのか、全く分からない。

「何もしていない、なんてことはないですよ。桜沢さんは俺の恩人ですから」

 恩人?恩人と言われるようなことは、していない。礼が覚えていないだけなのだろうか。

 恩人とはどういうことなのか聞きたかったけれど、「覚えてないんですねー」と嬉しそうにニコニコ笑う宮田の顔を見ていたら、何となくタイミングを逃してしまった。

続きのエピソード(全5話)

  • 第2話:あたらしい生活

  • 第3話:義母襲来

  • 第4話:変化

  • 第5話:エピローグ






いいなと思ったら応援しよう!