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『友情結婚』第4話

☆前回の話はこちらから

☆第1話はこちらから(各エピソードのリンクもあります)


第4話:変化

 
 遥斗のことを知りたい。

 鹿児島から東京に戻っても、その気持ちはどんどん強くなっていった。

「子どもの頃は、結構わんぱくな方でしたよ。暇さえあれば、外に出て遊びまわってましたし」

「活発だったんですね」

「はい、常にそこら中に傷を作ってました。礼さんは?」

「私はどちらかというと、室内遊びをする子でしたね。読書とか」

「礼さんっぽいですね」

 こんな風に、子どもの頃の話や、学生時代の頃の話をよくするようになった。遥斗は中学からサッカーを続けており、高校生の時はクラス委員を任されていたようだ。

 彼は特に言わないけれど、常にクラスメイトに囲まれているような、人気者だったのだろう。休み時間になると、彼を見に女子生徒が何人か見に来る―そんな、ドラマみたいな情景が思い浮かぶ。

 もし、学生の頃に出会っていたら、遥斗と礼は交流することはなかっただろう。教室の片隅で友達と本を読んで静かに過ごしていた礼が、遥斗の目に留まることは、恐らくない。

 過去の遥斗の話を聞くたびにそう思うのだから、今、こうして一緒に暮らしていることを、不思議な縁だな、と感じる。

「へえ、仲良くしてるんだね」

 美和が面白そうに目を細めた。

「うん、楽しく暮らしてるよ。休日には、早起き一緒に散歩したり、鉄板料理作ったりするのが習慣化してるかな」

「あの礼がねー!早起きしたり、料理教室に通ったり、変わるものだね」

 鹿児島から帰ってきてから、礼は料理教室に通いはじめた。週末、料理教室が終わったあとに美和たちの家にお邪魔させてもらい、その日に習ったことを美和に改めて教えてもらっている。

 遥斗と暮らし始めてから料理教室を探し、やっと礼に合う教室が見つかったのだ。料理教室に通い始めたことは、遥斗には秘密にしている。あるサプライズをしたいからだ。

 今は、週に1度、料理の基礎から勉強している。包丁に対する苦手意識は相変わらずあって、毎回手に多くの絆創膏が増えていく。

 今は、美和の家でキュウリの輪切りを練習中だ。

「礼、力強すぎ。肩に力入れない。包丁もそんなに握り締めなくていいから」

 美和は、キュウリを切り始めた礼の手元を見て、的確に指示をくれる。美和によると、礼は余計な力が多いらしい。それで包丁を滑らせているようだ。

「この間は礼の誕生日、お祝いしてくれたんだっけ?」

「うん。私の好きな物たくさん作ってくれて、あんこのスイーツを山ほど用意してくれた」

 10月下旬、礼本人ですら忘れていた28回目の誕生日を遥斗はお祝いしてくれた。テーブルには、チーズハンバーグ、白身魚のフライ、サラダなど礼の好物が並んだ。

 礼の好きな物を覚えてくれていたことに驚きつつ嬉しく思っていると、食後にあんこのスイーツの盛り合わせが出てきて、嬉しすぎて涙が出るかと思った。

「いいね。礼、幸せそう」

「幸せ?」

 意外なことを言われて、礼は目を丸くした。

「うん。満たされた顔してる」

 何と返せばいいのか分からなくて、言葉に詰まった。美和も礼の返答は求めていないようで、穏やかに微笑んでいる。

私は、美和から見て、幸せで満たされている顔をしているのか。自覚は・・・なかった。

「よかったね。前よりいい顔してるよ、断然」

「・・・ありがとう」

 礼は曖昧に微笑んだ。いい顔をしていると言われて、嬉しさはあるものの、戸惑いの方が大きかった。

どうして、幸せで満たされているのか。その理由を突き詰めて自分の気持ちを自覚してしまったら、その幸せが壊れてしまいそうな気がする。

「あ、そうだ。来週の料理教室の後に時間取れる?礼に会いたいっていう人がいるんだけど」

「どんな人?」

「礼と同じように、友情結婚した人。聞きたいことがあるんだって」

 え、と小さな声が洩れた。

 礼に会いたい人とは、美和の会社の上司で、昨年、趣味を通して意気投合した人と友情結婚をしたらしい。美和の結婚のお祝いでサシ飲みに連れて行ってもらった際に、結婚後も関係性を維持する秘訣を聞いたら、友達同士で契約結婚をしたので、世間一般の夫婦とは関係性が違うと打ち明けられたようだ。

「礼のことはまだ伝えてない。友達で友情結婚した人がいるって言ったら、紹介してほしいって言われたの。結構、深刻そうな顔してて。礼がよかったら、会ってくれないかな?」

 美和が礼の顔を窺い、言葉を探しながら言う。

 美和の上司は、新卒の頃からお世話になっていると聞いている。力になりたいのだろう。

 礼自身、美和にはたくさん助けられてきたし、今だって「礼の包丁遣い見てるの怖いんだけど」と言いつつ、礼に料理を教えてくれている。

 美和の力になりたいのは、礼だって同じだ。

「いいよ、会う。私でよければ」

「本当⁉ありがとう!助かる」

 美和が弾けるような笑顔を浮かべる。

 礼に聞きたいこととは何なのか。自分が力になれるか心配ではあるが、精一杯頑張ろうと思った。

*****

 翌週の土曜、料理教室を終えて美和に指定されたカフェに赴く。隠れ家のようで、都内とは思えないほど自然の多い住宅街の奥にあった。古民家をリノベーションしたようで、外観は昔ながらの趣があり、中は和モダンで落ち着く雰囲気だ。

 店員さんに案内されて中に入ると、中庭の見える窓側の席に美和の上司と思われる人が、外を眺めていた。ストレートの黒髪がきれいな、すらっとした女性だ。

 礼が入ってきたことに気づいたようで、立ち上がって会釈される。礼も頭を下げて、近くへ行く。

「清水さん、でよろしかったでしょうか?」

「はい、清水です。今日はわざわざお時間を取っていただき、ありがとうございます」

「とんでもないです。宮田・・・礼と申します。よろしくお願いします」

 礼にお冷やを持ってきてくれた店員にコーヒーを注文し、席に腰掛ける。

「ここまで遠かったでしょ?ごめんなさい。でも、知り合いに会わなくて済んで落ち着いて話せる所、ここくらいしかなくて」

「いえ、こういう雰囲気のカフェ、初めてなので来られて嬉しいです」

「そっか。それなら、よかった」

 ホッとしたのか、硬い表情をしていた清水さんの顔が和らぐ。礼の注文したコーヒーも届き、世間話も一通り終わり、静かな時間が流れた。本題に切り込んでいいのか分からず、礼はコーヒーを飲み、中庭を眺める回数が増えた。

「・・・宮田さんは、友達と、友達同士のまま・・・結婚したんですよね?」

 清水さんの、言葉を探すようにゆっくり紡ぐ声が聞こえて、礼は姿勢を正してまっすぐ見つめた。

「はい。一緒に暮らし始めてから、4ヶ月経ちました」

「そう。じゃあまだ、一緒になってからまだ日が浅いのね」

 微かに清水さんの瞳が陰った。

 礼には話せないと思われたのかと不安になったが、清水さんは真っ直ぐな瞳で見返してくれた。

「私は、結婚してから、1年半くらい経ったの。私と夫は、お互い恋愛対象が同性の人で。30を超えて結婚しろって周りがうるさくなって、でも、女性が好きだって、頭の固い両親に言えるわけもなくて。困っていた時に、新宿のバーで夫に出会って『それだったら俺たちが結婚しちゃえばとやかく言われなくなるんじゃない?』って言われて、結婚しました」

 それからは、周囲から「結婚しろ」の圧はなくなったようだ。結婚してからは「まさか、お前、女が好きなの?」と冗談で言われることもなく、快適に思っていた。清水さんと夫は、互いに外で恋人を作り、順風満帆の生活を送っていた。

「でも、夫の昇進を機に、関係が壊れていきました」

 清水さんは、目を伏せて、続ける。

「まず、夫が全く家事をしなくなりました。結婚当初に、共働きだから家事も折半だと決めていたのに」

 礼は眉をひそめた。

 清水さんが共働きなのは今も変わらないし、生活費だって折半なのにおかしいと抗議しても、「俺の方が稼いでるから」と話にならなかったようだ。

「昇進したことで、自分が家庭内でも偉くなったと錯覚したみたいです。明らかに、私を見下している」

 何と、何と言ったらいいのか、全く分からない。

 会社のことなんて、家庭でのことに関係ないのに。夫が上司で、妻が部下・・・そんな関係を勝手に決めつけて家庭内に持ち込むなんて、絶対に変だ。

 そう思うのに、何も、言葉が出てこない。

「極めつけに、自分の子どもがほしいと言い出しました。私に産んでくれって迫ってくるんです。子どもは作らないと約束していたのに、それも反故にされました」

「え・・・でも、お互いに恋愛対象ではないのでは?」

 礼が戸惑いつつ、疑問に思ったことを尋ねると、清水さんの目が遠くなった。

「そう思いますよね。私も思いました。でも、夫に言わせると、本能には関係ないんですって。男が子孫を残したいと思うのは当然だって、言われました」

 礼は絶句したまま、固まった。清水さんの「気持ち悪い」と吐き捨てる声が聞こえる。

「だから、宮田さんの所はどうなのか聞いてみたかったんです。旦那さんに迫られることはありますか?」

 ない、と即答できる。子どもについて話したことはないが、友情結婚をした以上、作らないことが当たり前だと思っていた。そもそも、恋愛の話は礼と遥斗の間では、礼が1度話題に出してからタブーになっている。

 お互いの恋愛対象が同性なのか、異性なのか、それすら知らない。

「・・・ありません」

 短く礼が答えると、清水さんは肩を落とした。

「そう、よね。ごめんなさい。おかしな事を聞いてしまって」

「いえ・・・」

 気まずい空気が流れた。

 清水さんの抱える問題は、礼には荷が重すぎる。かといって、他の誰かに相談できる問題ではない。この手の話は、自分の知らない人であっても話されたら嫌だと感じるだろう。

 でも、相当の勇気を振り絞って礼に話してくれたであろう清水さんの力になりたい。困っている人を、見ていることしかできないなんて嫌だ。

「清水さんは・・・どうしたいですか?」

「え?」

 清水さんの口が、意表をつかれたようにポカンと開く。

「清水さんは今、大変な思いをしていますよね。改善しようと思っても、旦那さんとお話にならない。そんな中で、何を望みますか?」

 夫ときちんと話し合って、関係性を改善して夫婦生活を続けるのか。それとも、この人とは生きていけないと見限って離れるか。選択肢は、他にもある。

「清水さんが『こうしたい』って思ったことは全力で協力します。相談にも乗ります。だから、1人で抱え込まないでください」

 清水さんと夫の関係を変える術を、礼はまだ分からない。だけど、清水さんの気持ちに寄り添うことはできる。

 そう思って伝えたら、清水さんの顔が泣きそうに歪んだ。唇を引き結び、涙をこらえている。

「・・・ありがとう。1つだけ、お願いしてもいいかな」

「はい。遠慮なくどうぞ」

 やや迷ってから、清水さんは希望を口にした。礼の家にお邪魔したい、と。

*****

「礼さん、お帰りなさい。清水さんも、いらっしゃい」

 玄関のインターホンを鳴らすと、遥斗が笑顔で迎え入れてくれた。

 友達を自宅に連れて行きたい、という礼の急なお願いに、遥斗は嫌な声を出さず二つ返事で了承してくれた。

「ただいま戻りました。急に電話したのに、ありがとうございます」

「いえ、気にしないでください。さ、清水さんも上がってください」

「・・・お邪魔します」

 清水さんを先に通し、礼も後から家に上がる。礼の部屋に案内すると、遥斗がお茶を2つ持ってきてくれた。

「ありがとうございます」

「とんでもないです。夕飯はどうします?清水さんも食べていきますか?」

「いえ、私は結構です。すぐにお暇するので」

 お茶を受け取る礼の背後から、清水さんの声がした。

「え、そうなんですか?遠慮しないで食べていってくださいよ。礼さんの友達が来るって聞いたので、張り切って途中まで作っちゃいましたし」

「え⁉作ってくれたんですか?」

 礼の電話から1時間ほどしか経っていない。そんな、短時間で準備してくれているとは思っていなかった。

 礼が驚いていると、遥斗は不思議そうな顔をした。

「はい。電話が来たときに夕食の時間が近かったので、一緒に準備しました。礼さん、ご飯は何も食べてないって言ってたし」

「そんな、気を遣わなくてもよかったのに・・・お手伝いもせずごめんなさい」

 非常識なお願いをしたのに、おもてなしまでしてくれるなんて、申し訳ない気持ちで一杯になった。自然と頭が下がる。

「俺が勝手にやったことなので、礼さんは悪いと思わないでくださいね」

 頭上から、遥斗の優しい声が降ってくる。きっと、いつものように穏やかな笑顔を浮かべてくれている。

「あの・・・じゃあ、夕食、いただいてもいいですか。急に訪ねたのに図々しいかもしれませんが」

 後ろから、清水さんの控えめな声がした。

「もちろん!図々しいだなんて思いません。もうすぐ用意ができるので、少しだけお待ちくださいね」

 そう言うと、遥斗は早足にキッチンへ戻っていった。お礼を言いそびれていたことに気がついて焦ったが、後で遥斗にコーヒーと取り寄せしておいたお菓子を出そう、と思い直す。

「いい方ですね」

 遥斗から受け取ったお茶を清水さんに渡すと、お礼と共に遥斗を絶賛された。礼が褒められた訳ではないけれど、遥斗のことを褒められるのは、嬉しくて、どこかくすぐったい。

「はい。私にはもったいないくらい、素敵な人・・・です」

「羨ましいな」

 清水さんが目を細める。

「あの・・・どうして家に来たいと思ったのか、聞いてもいいですか?答えたくなかったら、答えなくても構わないんですけど」

 清水さんに礼の家に行ってみたい、と言われた時、それが今は望んでいることなら叶えたいと思って深くは聞かずに了承した。

 でも、どうして家に来たいと思ったのか、ずっと不思議だったのだ。

「ああ、宮田さんと旦那さんが、どんな風に暮らしているのか見てみたかったんです。何が私たちと違うのか、確かめたかった。それで、これからどうしたいか考えようと思いました」

「・・・そうですか。何か気になることがあったら遠慮しないで聞いてくださいね」

 清水さんは少しだけ笑顔を浮かべてお茶を飲む。それから、お茶を時折飲みながら、考え込んでいた。

 そうして過ごしていると、遥斗から夕食の準備が終わったと声をかけられた。

「俺は自分の部屋で食べるので、礼さんたちは2人でゆっくり食べてくださいね」

「ありがとうございます。何から何まで・・・」

 礼が頭を下げると、遥斗がフッと優しく笑い、頭を上げるように言われる。

「そんなに気にしなくても大丈夫ですよ。好きでやってることなので。清水さんも、ゆっくりしていってくださいね」

 礼の背後にいる清水さんにも声をかけると、遥斗は自室に戻っていった。清水さんをダイニングテーブルまで案内する。

 テーブルの上には、サラダにグラタン、ポテト、ピザなど、豪華なメニューが並んでいる。取り分ける小皿やスプーンなども用意されており、気配りが細かい。

「こんなに凄いもの、作ってくれるんですね」

 清水さんが、絞り出すような声で呟いた。料理を見て、圧倒されている。

「はい。料理上手で、よく作ってれますね」

「そう、いいな」

 清水さんの瞳の色が濁った。目の前にいる礼を見ているのに、ずっと奥の何かを見つめている。

「いただきましょうか」

 礼がそう言って微笑むと、清水さんは「いただきます」と手を合わせて食べ始めた。礼も同じように手を合わせる。

「美味しい!」

 グラタンを一口食べ、清水さんが一段と大きな声を出した。切れ長の綺麗な目が、大きく見開き、輝いている。

「たくさん、食べてくださいね」

 元気のなかった清水さんに、活力が戻っていく様子が見ていてよく分かる。箸がどんどん進み、「美味しい」と何度も呟いていた。

遥斗の料理は、優しくて温かい味がする。それが、こんなにも人を元気づける力があるのだと実感して、遥斗くんは凄いな、と改めて思った。

「ありがとうございました。夕食までいただいてしまって」

「いえ、とんでもないです」 

 夕食を食べ終え、清水さんを駅まで見送る。日中も寒くなっているが、夜は一段と冷え込み、話しているだけで白い息が出る。

「凄く、羨ましくなりました。協力して生活しているんだなと伝わってきて。私たちとは大違い」

「・・・そうでしたか」

 夕食を食べながら、清水さんは遥斗との暮らしについて質問してきた。礼が料理の勉強中で今は主に遥斗が担ってくれていること、その他の家事は当番制で、定期的に話し合ってその時に合ったやり方を模索していることを話すと、清水さんは目を丸くしつつ、穏やかに笑っていた。

 改札の前に着き、礼は足を止める。清水さんがクルッと振り返り、微笑んだ。

「お互いを、大切にされているんですね。旦那さんの、宮田さんを見つめる目がとても優しかった。宮田さんも、大切で、大事にしたくて仕方ないって顔してましたよ」

 え・・・、と礼の口から小さく声が洩れた。耳元に風がビュッと吹き、目の前の景色が急に遠くなる。

「気づいてなかったんですか?友達同士で結婚したって聞いてたけど、そうは見えませんでした」

 清水さんの言葉が、頭をすり抜けていく。言われたことは分かっているが、礼の頭が理解することを拒むように、何も入ってこない。

「ひとまずは恋人の家に逃げて、これからどうしたいか、よく考えます。今日はありがとうございました」

 そう言って頭を下げると、清水さんは改札を通っていった。

 結局、礼は何も言えず、清水さんの姿が見えなくなっても呆然と立ち尽くしていた。

****

 礼さんの様子がおかしい。

そう思うようになったのは、11月の終わり頃、礼が突然友達を連れて来た時からだ。礼と微妙に目が合わなくなり、遥斗の視線に気づくと、焦ったような顔で逸らす。

 礼は平然を装おうとしているが、どこかよそよそしい。そんなことが、増えた。

 いや、礼に変化があったのは、もっと前かもしれない。夏に鹿児島へ一緒に帰ってから、礼は週末に出かけることが多くなった。

 何をしているのか、気になって仕方がない。でも、礼さんは詮索されるのを絶対に嫌がる。

 ハッキリと嫌だと態度では示さないけど、困ったように微笑む。

だから、聞けない。悶々とする日々が続き、そんな遥斗の気持ちと比例するように料理に凝るようなった。

 1ヶ月後には、手に絆創膏をつけて帰ってくるようになった。細くて長い綺麗な指に、どんどん血のにじむ絆創膏が増えていくのは、とても痛々しくて、ずっと心配している。

 そんな状態でも、礼は食事の支度をするのを手伝ってくれようとしてくれて、遥斗が手をケガしているから休んでほしいと言っても、料理を任せっきりにするのは申し訳ないから、と引かない。

 そして、ゆっくりだけど確実に、礼の料理の腕が上がっていった。できることが増えるたび、顔には出さなかったけれど、驚いていた。教えていないのにどうして、と。

 きっと、週末にどこかで料理の練習をしているのだろう。

 もっと甘えていいのに、と礼さんと暮らしていると何度も思う。

でも、そういう、責任感が強くて、控えめで、優しいところが、昔から好きだった。

 礼さんと初めて会ったのは、就活が本格的に始まった大学3年の秋だった。着慣れないリクルートスーツに悪戦苦闘し、右も左も分からないまま、周りに流されるように説明会に参加していた。

 当時、化粧品会社には興味はなかったものの、社内システム開発やネットワーク強化に力を入れる予定だと耳にし、なんとなく説明会に参加することにした。

 説明会前日、就活で会えないことが原因で彼女に振られた友達を励ます会をしていた。酒をしこたま飲み、昔懐かし失恋ソングメドレーを歌っては涙を流す友達の背中をさする。その会が夜明け近くまで続き、完全に泥酔した友達を介抱していたら、自宅に戻る頃には説明会の始まる3時間前だった。

 絡み酒に巻き込まれて許容範囲を超えて飲んでいたことと、寝不足が原因でコンディションは最悪。説明会の最中は何とか耐えたが、終わって気が抜けた途端、猛烈に気持ち悪くなった。

 ふらつく足でトイレを探すものの、見つけられなかった。限界が来て、誰もいないオフィスのロビーでうずくまった時、遠くの方からヒールの音が聞こえてきた。

 ゆっくり鳴っていたヒールの音が、速く急いでいる感じの音になったな、と思っていたら、遥斗の前でピタッと止まる。

「だ、大丈夫ですか⁉」

 ふわっと花のような香りが舞い、澄んだ声が降ってきた。目を開けると、心配そうに覗き込むクリッとした瞳の可愛らしい人と目が合った。

「会社の説明会に来てた人ですかね?どうしました?立てますか?それとも、救急車を呼んだ方がいいでしょうか」

 焦ったように、遥斗に聞いたりスマホを確認したりする彼女を見ていたら、気持ち悪さがどこかへいった。

「大丈夫です。立てます。すみません、2日酔いで・・・」

「立つの、支えますね」

 そう言って遥斗の方へ手を延ばすが、ハッとしたように止まった。

「あ、いや、でも、許可なく知らない人に触れられるのも嫌ですよね。触れても平気ですか?男性がよければ別の者呼んできますけど・・・」

「大丈夫です。自分で立てます」

 何て細やかな気遣いをする人なんだろう、と驚いた。大抵の人は、焦っている時にそこまで気が回らない。

 自分で立てると言ったが、立ち上がる時に少し支えてくれた。休憩できるスペースまで案内してくれ、椅子に座るように促される。

「えっと、何か飲み物買ってきますね」

 クルッと振り向き、早足にどこかへ行ってしまう。大丈夫だと言う暇もなかった。

 遠くなっていく後ろ姿を見ながら、優しい人だな、と思った。2日酔いというバカな大学生の自業自得の理由なのに、嫌な顔ひとつしないで救いの手を差し伸べてくれる。

 どうしてかは分からないが、彼女の後ろで髪の毛をまとめているアクセサリーを目に焼きつけた。

 就活を続けながら、あの日、助けてくれた女性のことがずっと忘れられなかった。彼女は、ミネラルウォーターを買って戻ってくると、遥斗にくれた。お金を払う何度も言って渡そうとしても、決して受け取らない。

 それどころか、就職活動中の大学生であることを知ると、会社の選考のことを詳しく教えてくれて、「頑張ってくださいね」と言って見送ってくれた。

 就活中に何度お祈りメールが届いても、圧迫面接を受けても、助けてくれた彼女の顔を思い浮かべれば踏ん張れた。

 たとえ企業にぞんざいに扱われても、お前は要らないと判断されても、当たった人がたまたまそうだっただけで、彼女みたいに親切な人はいる。それが、長くて辛い就職活動の救いだった。

 化粧品会社を含む複数の会社から内定をもらい、どこの企業に就職しようか考えた時も、真っ先に浮かんだのは彼女の顔だった。学生から社会人になるには、何かと不安がつきまとう。上司と上手くやれるのか、自分が自立した大人としてきちんと働けるのか。

そう不安になった時に、思った。彼女に、もう1度会いたい、と。

そんな邪な気持ちで選んでいいのか散々悩んだが、社内システム開発に携われることを魅力的に感じて就職を決めた。

 次に礼さんを見かけたのは、入社して2日目の朝だった。乗り換えのために駅のホームに並んで待っていたら、隣の列に並ぶ女子高校生が急にしゃがみ込んだ。その瞬間、真っ先に助けに入る女性がいた。

「だ、大丈夫ですか⁉」

 澄んだ声と、女子高校生の容態を確かめるためにしゃがみ込む後ろ姿を見て、ハッとした。

 髪の毛をまとめているアクセサリーが、あの日、助けてくれた彼女がつけていたものと一緒だったのだ。

 胸が、ドクンと跳ね上がる。

 遥斗にしてくれたように、女子高校生に触れてもいいか確認してから、身体を支えて立ち上がる。そして、そのまま救護室に案内していった。

 約1年半ぶりに見かけた彼女は、相変わらず親切で優しい人だった。困っている人に、迷わず手を差し伸べる。

 それから、駅で見かける度に、人助けをしていた。重い荷物を持っているおばあちゃんに声をかけ、荷物を持って階段をあがる。

 小さなお子さんを連れたお母さんが、ベビーカーを片手に抱っこじゃなきゃ嫌だと駄々をこねる我が子に途方に暮れていたら、ベビーカーを持つことを申し出て、一緒に階段を下りる。最後には子どもと笑ってハイタッチをしていた。

 そんな姿を、何度も見かけた。

 研修を終えて、システム部に正式に配属されてから半年後、礼さんと一緒に仕事をする機会があった。採用ページの更新をするため、広報部と人事部、それからシステム部で会議をした時に、広報部のメンバーとして、あの日、助けてくれた彼女が座っていて、驚くと同時に、ワクワクする気持ちがあふれ出した。

 自己紹介をした時に、桜沢礼という名前であることを知った。

「桜沢さんって、いいですよね。年下の俺にも丁寧に接してくれるし。彼氏とかいるのかなー」

 システム部の1年先輩が、会議で広報部が来るまで待っている時間に、なにとなしに呟いた。

「え、まさか狙ってるの?止めてよね!あの子、いろいろ大変だったんだから。そういうの、シンドイと思うよ」

 先に来ていた人事部の女性が先輩の呟きに反応し、顔をしかめる。

「えー!何でですか?何があったんですか?」

 人事部の女性は口ごもっていたが、しつこく聞く先輩に根負けするように、大まかな出来事を教えてくれた。

 研修後に配属された経理部で先輩社員から社内ストーカーをされ、食事の誘いを断り続けていたらパワハラをされるようになったこと。その間、ゲッソリと痩せていき、顔色がどんどん悪くなっていったこと。人事部の社員がハラスメント相談窓口に申告したこと。

「それ以来、恋愛事が苦手みたい。少しでも気がある素振りをされると、困った顔をして苦笑いするの。だから、止めてあげて」

 礼さんに起きたこと全てを聞いて、腹の底が、マグマが噴き出すかのように熱くなった。腸が煮えくりかえる。文字通り、内蔵が煮えくり返りそうなくらい、怒りが湧き上がってきた。

 だけど少しして、礼さんが大変な目に遭っていた時に、遥斗を助けてくれていたのだと気づいた。

 辛くて苦しい時でも、困っている人を見たら迷わず手を差し伸べる。

 何て、清廉で美しい心の持ち主なのだろう。

 その時に自覚した。初めて会った時から、彼女に惹かれている、と。

 自覚をしても、礼さんの過去を知ってしまった以上、気持ちを伝えることはできない。彼女を困らせたいわけでも、苦しませたいわけでもない。

気持ちを伝える代わりに、彼女に似合う人になりたい、と強く思った。

 そう思って仕事に邁進し、IT関係のスキルを高めてきた。街中で困っている人がいれば声をかけて、自分にできることは何でもやった。

 今年に入って、礼さんに広報部のプリンターの調子が悪いと相談を受けることが増え、少しずつ親しくなっていった。春頃から思い詰めたような顔をしている時があり、心配だった。

 だから、礼さんが心の内を打ち明けてくれた時は、本当に、本当に嬉しかった。俺にできることは何でもしたい。それだけを思って行動に移してきた。

 礼さんは俺のことを誰にでも親切で優しいと思っているようだけれど、そんなことはない。

 礼さんに言い寄って怖がらせていた川辺のことは今でも許していないし、本人にも脅しをかけている。

 あの日、礼さんの腕を掴んでいる川辺を見て、怒りで目の前が真っ赤になった。割って入って礼さんを背中に隠し、礼さんには聞こえないようにドスの利いた声で言った。

「次、こんなことがあったらお前のこと社会的に殺す。絶対許さない」

 そう言ったら、川辺は「ひぃ」と声にならない声を上げて小さくなった。礼さんの感じていた恐怖と苦痛を思うと、このくらいの脅しでは気が済まなかった。

 礼さんに捨てゼリフを吐いて逃げ出した川辺を追いかけ、電車に乗せるまでどのような方法で社会的に抹殺しようとしているのか詳細に説明をしていた。

 川辺の家族構成や仲のいい人、連絡先まで把握していることをほのめかすと、電車がホームにくる頃には顔が青くなっていた。

 2度と個人的に礼さん近づかないことと、仕事上で態度を豹変させないことを約束させ、電車に乗った川辺を見送る。

 こんな脅しをしたのは人生で初めてだ。礼さんには絶対言えない、遥斗の黒い一面。

 礼さんと違って、誰にでも優しい訳じゃない。礼さんに献身的な態度を取っているのは、そうでなければ彼女の隣にいる資格がないと思っているからだ。

 清廉で、責任感が強くて、とても優しい。
 そんな彼女の、隣にいられるだけで幸せだった。

 でも、人間というのは、とても欲深い。礼さんに人生のパートナーとして選んでもらえて、信用に値する人だと思ってもらえた。それだけで充分だと思っていたのに、「遥斗くんのことをもっと知りたいと思いました」と言われて欲が出た。

礼さんと、もっと親しくなりたい。そう、願ってしまった。

****

 冬の寒さが深まって、街中が一気にクリスマスモードになった。並木通りはイルミネーションが施され、元々華やかだった街が、より一層彩られている。

 清水さんは恋人の家に逃げ込んだまま、夫の住む家へは帰っていないようだ。時折、夫とは別れた方がいいのかといった趣旨の相談がくる。

 でも、礼は「別れた方がいい」と断言して背中を押すことはできない。清水さんの夫に会ったことはないし、人となりも清水さんを通してしか知らない。

 それなのに、無責任に背中を押すことは、どうしてもできなかった。礼にできるのは、清水さんが決めたことを全力でサポートすることだ。それくらいしか、できない。

 あれから、礼は遥斗の顔をあまり見られなくなった。

”旦那さんの、宮田さんを見つめる目がとても優しかった。宮田さんも、大切で、大事にしたくて仕方ないって顔してましたよ”

 清水さんの言葉が頭から離れなくて、目が合うとパッと視線を逸らしてしまう。礼の態度が変なことに気づいているだろうに、遥斗は何も言わない。ありがたいと思うけれど、とても申し訳ないとも思う。

「礼さーん、日曜恒例の鉄板料理を作りましょう!」

「よろしくお願いします」

 午前中に分担している家事を済ませ、お昼どきになると、遥斗がそう声をかけてきた。週末のランチにホットプレートで調理しながら食べることが習慣になり、今では日曜のランチに固定されている。

 料理教室に通っている甲斐があって、礼の料理の腕前はゆっくりだが上達している。でも、指を切らずに食材を切れるようになった程度で、切った食材は不格好だし、1人で何品も作る技量はない。相変わらず、遥斗との料理のスキルの差は広まっていく一方だった。

「俺、食材の準備するので、礼さんはホットプレートとご飯の用意をお願いします。ご飯は、炊飯器ごと持って行ってくれると嬉しいです」

「分かりました。何を作るんですか?」

「できるまでのお楽しみです。何を作っているか、考えてください」

 語尾に音符がつきそうなほど、遥斗はご機嫌だ。つられて礼の頬も緩んだ。

 遥斗に言われた通り、ホットプレートを取り出し、温める。初めて触れた時は、どう温めればいいのかも分からなかったが、今ではもう遥斗に聞かなくても準備できるほど慣れた。取り皿やお茶の用意も済ませ、キッチンを覗くと、にんじんの千切りをしていた。

 ほうれん草、もやし、牛肉には下処理をして味付けまで終わっているようだった。料理の手際が鮮やかで、どうすればここまでできるようになるのかと、本気で思う。いくら練習をしても、遥斗に追いつける気がしない。

「準備できましたか?」

「はい。バッチリです」

「ありがとうございます。こっちも終わるので、始めましょうか」

 礼はうなずき、ボウルを持って行く。遥斗もボウルといくつかの調理器具を持って、ダイニングテーブルの席に着いた。

「俺が食材を入れていくので、礼さんはこれで炒めてください」

 そう言いながら、遥斗が礼にフライ返しを渡す。礼が受け取ると、遥斗がごま油を引いてにんじんを入れた。

「こんな感じで大丈夫ですか?」

 前みたいに食材を飛ばすことはなくなっていたけれど、きちんとできているか常に不安だ。そんな礼の気持ちを察しているのか、遥斗は満面の笑みで「バッチリです」と言ってくれた。

「そんなに不安にならなくても大丈夫ですよ。できてますから」

「料理に不慣れなのは変わらないので・・・」

「ふふ、礼さん、初めて一緒に料理した時、お米研ぐときに洗剤入れようとしてましたもんね」

「ちょ、忘れてくださいよー!」

 礼の頬が一瞬で赤くなった。悪戯っ子のような笑顔を浮かべる遥斗を、恨みがましく見つめる。

「忘れません。こんな可愛い顔してくれる礼さん、レアなので」

「いや、本当・・・勘弁してください」

 不意打ちで可愛いと言われて、心臓が飛び出るかと思った。最初に赤くなった時は羞恥からだったが、今、顔が熱いのはそれだけじゃない。

 優しい瞳で礼をじっと見てくる遥斗の視線から逃げるように、プレートに乗っている食材を凝視する。遥斗はそれ以上、何も言わなかった。

 にんじんを炒めて遥斗がさっと味付けをし、牛肉を焼いて火が通ったら取り出した。再度ごま油を引いて、ご飯を入れる。礼はご飯の山をほぐすように炒めると、プレート全体に広げるようお願いされた。

「ここまできたら、ほぼ完成です。何か分かります?」

 そう尋ねながら、広げたご飯の上に、先ほどまで炒めていたにんじんや牛肉、ほうれん草、もやしを順に並べていく。それを見て、ようやく何を作っているかピンときた。

「分かったかもしれません」

「何だと思います?」

「ビビンバ・・・ですか?」

「正解です!」

 自信なさげに答えた礼に、遥斗は満面の笑みで肯定してくれる。仕上げに卵を落とし、白ごまを振りかけた。

「じゃあ、食べましょうか」

「はい」

 遥斗の声に礼がうなずくと、2人で手を合わせて「いただきます」と呟いて頭を下げる。これも、ずっと続けている。

 遥斗が完成したビビンバを豪快にかき混ぜて、礼が用意したお皿に取り分けると、礼に渡してくれた。お礼を言って受け取り、遥斗が箸を手に持ったのを確認してから一口食べた。

「美味しい!」

 食材の味付けが絶妙で、ご飯との相乗効果も相まってすごく美味しかった。おこげになっているところがあるのも、嬉しいポイントだ。

「そう言ってくれるから、作り甲斐があります」

 遥斗は嬉しそうに笑うと、ビビンバを食べ始めた。

 一緒に暮らし始めてからもう少しで半年くらいになるけれど、遥斗は新しいレシピをどんどん開拓していく。礼はまだまだその域に到達できる気はしないけれど、早く自分1人だけでも美味しい料理が作れるようになりたいと思う。

 そう考えていたら、遥斗が箸を置いて礼を真っ直ぐ見てきた。礼も少しだけ目線を合わせて、すぐに逸らす。

「礼さん、俺、明日から出社しますね。帰りも・・・遅くなると思います」

「分かりました。気をつけくださいね。簡単なものしかできませんが、明日は私が夕食を作ります」

 遥斗は、最新アプリのリリースを控え、多忙を極めているようだ。バグが起きたときに修正がすぐにできるように、と出社する機会も増えている。

「助かります。ありがとうございます」

 そう言って遥斗は微笑み、ぺこりと頭を下げた。遥斗の笑顔を見ると、いつも胸がドクンと高鳴る。どうしてそうなるのか、考えるのは止めている。自覚してしまったら、その先に何が起こるのか恐ろしくて、身動きが取れない。

*****

 翌朝、礼は目が覚めると、のどに違和感を覚えた。寝ているうちに乾燥したのだろうと考え、のど飴を舐めてから出勤したが、定時が近づくにつれて調子は悪化していった。

 定時で仕事を切り上げて帰宅して熱を測ると、平熱だった。そのことに安堵し、食事の支度に取りかかる。と言っても、今日のメニューのほとんどはスーパーのお惣菜で、礼が作れるのはサラダだけだ。

遥斗からは残業で遅くなると連絡が入っている。先に食べてほしいと言われていたので、ひとり分ダイニングテーブルに並べ、手を合わせて食べ始めた。

 1人で初めて作った小松菜の煮びたしは、まずまずといったところだ。料理教室で教わった通りに作ったので、うまく出来ていると思うが、イマイチ自信を持てない。美和に食べてもらった時に「美味しい」と太鼓判を押してもらったが、自分で作ったものを食べると、不思議なことに味がしないのだ。

 1人でご飯を食べるのは久しぶりだ。ほんの半年前までは、1人で食べることが当たり前だったのに、寂しさを感じている自分に戸惑う。

 いつもは気にしないのに、時計の針の音が大きく響く。遥斗がいないだけで―食事の楽しさが半減している。

 食事を済ませてお皿を洗い、お風呂を上がっても、遥斗は帰って来なかった。きっと、今頃仕事を頑張っている。礼も本調子ではないので早めに寝ることにし、布団に入った。

 目が覚めて、まずいなと思った。身体が重い。何とか布団から抜け出して熱を測ると、38度と表示されている。

数年ぶりに風邪を引いたようだ。誰かに移してしまわないように、会社は有給を取ることにして、遥斗にもスマホで連絡を入れた。

連絡を入れてから少しして、控えめにドアをノックされた。

「礼さん?熱があるみたいですけど、大丈夫ですか?」

ドア越しに、遥斗の声が聞こえる。

「大丈夫です。寝ていれば良くなると思います」

 声がひどく枯れていた。自分の声じゃないみたいだ。声がかすれて、思うように言葉が出てこない。

「ああ、声が枯れてますね。話すのが辛かったら、スマホで送ってください」

 遥斗の配慮がありがたい。スマホで「ありがとうございます」と送ると、部屋に入ってもいいか聞かれた。

「飲み物と薬、あとはヨーグルトとフルーツを用意しました。食欲があれば、お粥も作ります。礼さんが部屋に入られるのは嫌だったら、ドアの所に置いておくので、食べてくださいね」

 この短時間で、ここまで用意してくれていたのか。温かいものが胸にじんわりと広がった。

食欲はないので、ヨーグルトをいただくことにして、部屋に入っても構わないと伝えると、「失礼します」と控えめな声がして、遥斗が部屋に入ってきた。

「ありがとうございます。すみません、何から何まで」

「しゃべらなくて大丈夫ですよ。うなずくか首を振ってもらえれば分かるので」

 遥斗の声が、普段よりも柔らかくて優しい。礼を心配してくれているのだと、仕草や声で伝わってくる。

 遥斗は、礼の枕元にミネラルウォーターのキャップを1度開けてから置き、フルーツの乗ったヨーグルトと風邪薬を机の上に置くと、部屋を後にした。

「食欲があれば、冷蔵庫にお粥があるので温めて食べてください。何かあれば連絡を。お大事にしてくださいね」

 遥斗は、遅刻ギリギリまで出社することを躊躇っていた。リモートワークにしようとする遥斗に、ただの風邪だから大丈夫だと告げて、会社に行くように説得すると、後ろ姿を引かれるように出勤していく。

 自宅に1人残り、会社に連絡を入れて眠ることにした。風邪を引いた時は、ひたすら寝る。それでいつも治してきた。次に目が覚めたら、幾分かマシになっているはずだと信じ、礼は目を閉じた。

 次に目が覚めたのは、夕陽が沈み始めた頃だった。礼の期待に反して、体調はあまり良くなっていない。何か食べて薬を飲もうと、キッチンに向かおうとするが、立ち上がった瞬間、視界がグラリと傾いた。

 ベッドに手をついて落ち着くのを待ち、ゆっくりと足を進める。フラフラする身体で、冷蔵庫まで残り半分となった時、突然、身体から力が抜け、視界が真っ暗になった。

「礼さん!礼さん!大丈夫ですか?」

 焦ったように何度も名前を呼ばれ、意識を取り戻した。でも、まだ朦朧としたままで、呼びかけに何も返事ができない。

「ごめんなさい、勝手に触ります」

申し訳なさそうな声が降ってきたと思ったら、温かい腕が背中に回ってきた。慎重に持ち上げて運ばれ、そっとベッドに寝かせてくれる。

 おでこに手が当てられて、ああ、安心する大きな手だな、と思った。

 早足にキッチンの方へ向かう足音が聞こえてきて、氷を何かに入れている音がして、またこちらに戻ってくる音がした。

 頭を優しく持ち上げられて、再び下ろされると、ひんやりとした感触が伝わってくる。おでこには冷えピタを張ってくれて、心地良さにうっとりしていると、だんだん意識がクリアになってきた。

「あれ・・・?」

「ああ、よかった。目が覚めたんですね」

 目を開けると、心配そうに覗き込む遥斗が視界に広がっていた。

「遥斗くん、仕事は・・・?」

「早めに切り上げて帰ってきました。そしたら、礼さんが倒れていて。ビックリしました」

 早く帰ってきてよかった・・・と呟く声が聞こえた。どうやら、仕事が忙しいのに、礼を心配して会社を抜け出してきてくれたらしい。

「風邪、移るといけないので・・・もう大丈夫です」

「なーに言ってるんですか。こういう時くらい、頼ってくださいよ。こう見ても、身体は頑丈です」

 礼が大丈夫だと言っても、遥斗はタオルを持ってきて汗を拭いてくれたり、風邪に効く食材をふんだんに使ったお粥を作って持ってきてくれたり、かいがいしく世話を焼いてくれた。礼が起き上がる時には、背中を支えてくれる。

「食べやすいものもいくつか買ってきましたけど、食べたいものあります?」

 お粥を食べていた礼に、袋の中を見せながら、遥斗が尋ねる。袋の中には、プリンやゼリー、ヨーグルト、カットフルーツがたくさん入っている。

「プリンが、食べたいです・・・」

「分かりました。少し待っていてくださいね」

 少しすると、スプーンとプリンを持って戻ってくる。礼が食べやすいように、プリンの蓋を開けて渡してくれた。

 至れり尽くせりだ。ひとり暮らしをしていた時は、風邪を引いても嵐が過ぎ去るのをただ待っていた。自分の代わりに食事を用意してくれる人はいないし、飲み物だって自分で取りに行かなければ飲めない。だから、辛くて動けない時は、ただ身体が良くなるまで待つしかない。

 それが当たり前だったのに。遥斗に優しくされて、風邪の時に側にいてくれる人がいるのは、とても心強いものなのだと、久しぶりに思い出した。

「え、何で泣いてるんです?そんなに辛いんですか?」

 遥斗が礼の顔を見て驚愕する。涙を拭おうとしたのか、手を礼の目元に持ってきて、ハッとしたように止まった。

 その手におでこをつけて、目を瞑る。所在なさげに固まっていた手が、礼の涙を拭ってからゆっくりと礼の頭を撫でた。

「大丈夫ですよ。治るまで、側にいます」

 頭を撫でてくれる手が、とても優しい。礼を安心させようとしてくれる、優しくて落ち着く手だ。

 仕事が忙しいのに、わざわざ仕事を抜け出して早く帰ってきてくれた。礼の風邪が早く治るように、お粥を作ってくれた。熱のある礼が食べやすいように、プリンやゼリーを袋からはみ出るほど買ってきてくれた。

 そのことが、すごく嬉しくて、胸が温かい。

 そして、思った。ああ、どうしようもなく、彼のことが、好きだと。

*****

 遥斗のことが好き。

 風邪を引いた時の出来事を機に、ストンと腑に落ちる感覚があった。あれほど自覚するのを避けていたのに、素直にそう思える。

 ただ、同時にどうしようもなく怖くなった。

 定期的に行っている話し合いで、近場で恋愛するのは避けましょう、と言い出したのは礼だ。その時は、遥斗のことを素敵な人だな、と思うことはあっても、異性として惹かれるようになるとは思っていなかった。

 礼に分からないようにしているだけで、遥斗はもう、外に恋人がいるのかもしれない。

 世間的には夫。結婚している。でも、夫に片想いしている。

 そんな奇妙な状況に、戸惑うことしかできない。

 だけど、ひとつだけハッキリしている。礼の気持ちは、遥斗には迷惑になる、ということだ。友情結婚を提案した相手に、恋愛感情を抱かれる。それは、面倒だと思われるだけだ。

 礼の体調が全快した後、入れ替わるように遥斗が多忙を極めるようになった。ここ数日、顔を合わせていない。

 自然と礼が家事を担うようになり、ほとんどお惣菜だが、夕食の用意もしている。

 朝、礼が起きてリビングに顔を出すと、遥斗はもう出勤している。礼が夕食の用意をするようになってから、テーブルの上に、メモが置かれるようになった。

礼さんへ

おはようございます。

昨日は夕飯、ありがとうございました。美味しかったです。


 遥斗に比べたら、大したものは何1つ作れていないのに、美味しいと思ってもらえて、すごく嬉しい。気持ちが舞い上がる。顔がニヤけるのを止められない。

 わざわざメッセージを手書きで残してくれたことも、言葉で言い表せられないくらい、嬉しかった。

「残業続きでごめんなさい。夕食も作れなくて・・・病み上がりなのに礼さんに負担かけてしまって、本当にすみません」

「いえ、無理しないでくださいね。むしろいつも作ってくれているんですから、これくらいお安いご用です」

 電話で連絡をくれる時、遥斗はいつも申し訳なさそうにしている。普段は礼が甘えっぱなしなのだから、気にすることないのに。

 礼が用意した夕食を食べて、メモを残してくれる日が続き、迎えた週末。午前中に分担している家事をしていると、遥斗の電話が鳴った。

 電話に出た遥斗は、一瞬、険しい顔をして自室に戻っていく。

「分かりました。すぐ向かいます」

 何かあったのかと心配しながら掃除していると、遥斗の声が小さく聞こえた。

「ごめんなさい。急遽呼び出されました。もしかしたら、今日帰れないかもしれません」

 遥斗はリビングを掃除している礼に近づくと、申し訳なさそうに言った。操作にバグが発生し、修正してほしいと依頼がきたようだ。

「分かりました。こっちのことは気にせずに行ってきてください」

「すみません。担当している家事は帰ったらやるので、そのままにしておいてください」

 慌ただしく支度を済ませた遥斗は、そう言って早足で自宅を出て行った。

 休日に呼び出されるなんて、一緒に暮らすようになってから初めてのことだった。仕事だから仕方ないけれど、せっかくゆっくり休日を一緒に過ごせると思っていたのに、と残念に思う気持ちが止められない。

 でも、そう思ってしまう自分が不甲斐ない。気持ちを自覚してから、なんだか欲張りになってしまった気がする。前より増して、遥斗と一緒に過ごしたいと思うようになってしまった。


 仕事を頑張っているのだから、応援しなければ。こういう時、支えられる人でありたい。


 礼は、モヤモヤする気持ちを振り切るように、遥斗の当番だった洗濯を代わりに引き受ける。遥斗は残しておいてほしいと言っていたけれど、忙しい遥斗には、家事よりも身体を休めることを優先してほしい。

そう思って遥斗の分まで家事を終えると、ちょうどお昼どきになっていた。

 キッチンにある冷蔵庫の中を見ようとすると、食器棚の上にあるホットプレートが目に入った。

「今週はほとんど作れなかったので、今日は気合いを入れますね!」

 そう言って、遥斗が張り切って準備していた。

 ホットプレートの側面に触れ、目を閉じる。張り切っていた遥斗の横顔を思い出して、少しだけ胸が痛んだ。

 冷蔵庫の中身を礼が見ても、遥斗が何を作ろうと思っていたのか分からなかった。買い物がてら昼食を食べに外に出たが、メニューを見ても遥斗くんが選びそうだな、とか、美味しいから遥斗くんにも食べてほしいな、とか考えてしまう。

 買い物をしていても、遥斗と一緒の時のことを思い出して落ち着かない。

 早々に家に帰り、礼は掃除を始めた。午前中に済ませているのに、家具を動かして掃除機をかけ、キッチンのシンクをピカピカに磨く。

 無心で掃除をしていると、いつの間にか日が暮れていた。急いで洗濯物を取り込み、畳む。遥斗のワイシャツを畳んでいたら、朝から動き回っていた疲れがドット押し寄せてきた。少しだけ休憩しようとソファに横になり、遥斗のワイシャツを持ったままだと気づく。

 気づいたけれど、手放すことはできなくて、ワイシャツの匂いを嗅いだ。遥斗の匂いがして、すごく安心する。そう思ったら、いつの間にか意識が遠のいていた。

「礼さん?こんなところで寝ていたら風邪引きますよ」

 遠くの方で、遥斗の心配そうな声がする。

 遥斗は仕事に行っているし、きっとこれは夢だ。

 寝ぼけているのか、まとまらない頭でそう判断して、声のする方へ歩いて行く。

「礼さん、可愛い」

 そう言って、優しい瞳で見つめてくれる。まるで、恋人に向けるような、愛おしくて仕方がない、という顔を向けてくれる。

 都合の良い、礼の願望が入った夢だった。

 もう少し、この心地良い世界に浸っていたい。そう思うのに、頭は覚醒していく。

「え・・・?」

 目が覚めて、まず戸惑った。天井が、見慣れている自室のものより広い。そして、掛けた覚えのない毛布が、礼の胸元まで掛かっている。

「あ、起きましたか?」

 どういうことなのだろう。寝ぼけた頭でぼんやりと考えていたら、居るはずのない人の声がして、飛び起きた。

「え、どうして・・・仕事はどうしたんですか?」

「思っていたよりも早く終わりました。おかげで午前様回避です」

 礼の方を向いて、遥斗が微笑む。

 急激に頭が冴えて、礼は状況を確認した。場所はリビング。洗濯ものを畳みながらソファで寝てしまったらしい。起き上がった拍子にずり落ちた毛布は、礼のものではない。恐らく、遥斗が掛けてくれたものだ。

 畳みかけの洋服は、遥斗が畳んでくれたようだ。ソファの前に座る、遥斗の横にきれいに畳んで積み上げられている。

「ごめんなさい。寝てしまったみたいで・・・洗濯もの、ありがとうございます。毛布も」

「いえ、気にしないでください。むしろ、俺の分まで家事をしてくれてありがとうございます」遥斗は嬉しそうに笑って、軽く頭を下げる。

 ソファから出て、夕食の準備をしよう。そう思って毛布をめくると、お腹の辺りに遥斗のワイシャツが掛かっていた。

 え・・・、と声にならない声が口から洩れ、思考が停止する。

「礼さん、それ」

 遥斗がワイシャツを指さし、言葉を続けようとするのを、礼は遮った。

「ごめんなさい。ご飯!ご飯の用意をしてきます。遥斗くんは待っててください」

 そう言ってソファから立ち上がり、逃げようとした礼の手を優しく、でも力強く握られ、引き止められる。

「待って、礼さん」

 心臓がドキッとして、礼はその場に固まった。

「どうして、俺のワイシャツを抱きしめて寝ていたんですか?」

 ああ、ついに私の気持ちが遥斗くんにバレてしまった。

 これから、どうなるのだろう。約束と違うと、パートナーを解消しましょうと言われるのだろうか。

 そう考えただけで、胸が張り裂けそうだ。実際に言われたら、いい歳した大人なのに、泣き出してしまうかもしれない。

「いや、あの・・・」

「礼さん、寂しかったんですか?」

 遥斗の声は凛としている。その声に寂しいと言われて、顔が一気に熱くなる感覚があった。

 名前を呼ばれて、礼の気持ちを正確に言い当てられて、逃げ出したくなった。逃げたい。とにかく遥斗の手から逃れて、全部なかったことにしたい。

 でも、優しいけれど、礼には振りほどけない強さで手を握られていて、逃げられそうにない。

「勘弁してください・・・」

 礼は顔を覆ってその場にしゃがみ込んだ。すかさずに遥斗が、礼の方へ近寄ってくる気配がする。

「寂しかったんですか?」

 改めて聞かれて、身体がビクッとなった。多分もう、誤魔化せない。

「無言は肯定と受け取ります」

「はい・・・」

 礼が観念すると、ふふっと楽しそうに笑う声が降ってきた。

「礼さん、顔、上げてくれませんか」

「無理です。無理。絶対に無理です」

 顔を上げたら、真っ赤になったところを見られてしまう。その顔を見て、遥斗がどう思うのか怖かった。とても、顔を上げることなんてできない。

 だけど、遥斗は、優しく礼の頬に両手を添えた。そのまま、ゆっくりと、礼の顔を覗き込むように上を向かせる。

「ふふふふ、礼さん、顔が真っ赤」

「笑わないでくださいよー!」

 いつになく満面の笑みで言われて、礼は抗議した。

「ごめんなさい、つい。礼さんがあまりにも可愛くて」

 本音が洩れちゃいました・・・と心底嬉しそうに言われて、より顔が熱くなるのが分かった。心臓が飛び出るんじゃないかと思うくらい、ドキドキしている。

「礼さん。俺ね、礼さんともっと仲良くなりたいです」

「・・・はい」

「礼さんは?俺のこと、どう思っていますか」

「それは・・・」

 本当のことは、言えない。言えるわけがない。言ってしまったら、元には戻れない。言ってしまったら、その先に何があるのか、怖い。

 でも、遥斗は優しい。きっと礼の気持ちなんてとっくに気づいているだろうに、優しくしてくれる。もしかしたら、と淡い期待をしてしまうのも、事実だった。

「俺、礼さんのことは、どんなことがあっても受け止めます。離れたりしません」

 礼を後押しするように、遥斗が優しい声で紡ぐ。

 もし、気持ちを打ち明けたら、彼はどんな顔をするのだろう。1度気になったら、どんな顔をするのか確かめたいという気持ちを抑えられなくなった。

「私・・・遥斗くんが好きです。素敵な人だと思っています。人としても好きだけど、それ以上に、もっと深い意味で、好きです」

 途中でつっかえながら、正直な気持ちを告白した。最後の方は声がかすれた。

 遥斗は―とても、とても嬉しそうに笑っている。どうしてこんなに嬉しそうなのか分からなくて、礼は困惑した。

「嬉しいです。すごく。人生で1番、嬉しい」

 遥斗が噛み締めるように、続けた。

「白状するとね、俺は最初っから礼さんのこと、好きでしたよ」

 思わぬ言葉に、礼は目を見開く。

 遥斗くんに、「好き」だと言われた気がする。

 いや、それより、最初って、いつのこと?友情結婚を提案された時から?

「礼さんは覚えてないかもしれませんが、俺が大学生で就活している時に会っているんです。その時、礼さんに助けてもらいました」

 就活で会社の説明会に参加したこと。前日に失恋した友達を慰める会をしていて、2日酔いで気分が悪くなった時に、礼に助けられたと教えてくれた。

 約4年前、すでに礼は遥斗と出会っていた。

「ごめんなさい・・・覚えてないです」

「いいんですよ。礼さん、いつも誰かを助けてますし。それが、いつでも当たり前なんだって、よりいっそう惹かれました」

 礼は何も覚えていないのに、遥斗はニコニコしている。

 会社の説明会。遥斗くんが大学生の頃だから、4、5年前。思い出そうと思っても、それらしきことは思い出せない。

 思い出せないということは、礼のしたことなんて大したことではなかっただろうに、魅力的だと言ってくれることが、とても嬉しい。彼のことを好きだと、改めて思った。

「礼さん、触れてもいいですか?」

 遥斗の言葉に余韻に浸っていたら、不意に遥斗に尋ねられた。面食らった礼は、意味を考えて―理解して、固まった。

「あ、あの・・・」

「嫌だったら、突き飛ばしてください」

 そのまま遥斗の顔が近づいてきて―一瞬、唇が触れた。

 心臓が、より強く飛び跳ねる。

 反射的に閉じてしまった目を開けると、真剣な瞳をした遥斗と目が合った。

「嫌、でした?」

 胸がいっぱいいっぱいで、言葉は出てこなかった。代わりに、首を横に振る。

 すると、再び唇が触れた。礼の形を確かめるように、何度も触れた。

 やがて、力が抜けた礼の身体を支えるように腕を回し、横抱きにされて遥斗の部屋のベッドに連れて行かれた。

 優しく寝かされて、月明かりに照らされた遥斗と、目が合う。いつもより色っぽくて、引き込まれて目が離せない。

 心臓が飛び出るんじゃないかと思うくらい、ドキドキして胸が痛い。でも、遥斗が触れてくれて、すごく嬉しい。

 言葉に出来ないかわりに、遥斗に微笑んで目を閉じると、キスの嵐が降ってきた。

 その日は、それだけで終わらなくて、甘い夜が2人を包み込んだ。


☆次の話はこちらから


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