見出し画像

『友情結婚』第3話

☆前回の話はこちらから

☆第1話はこちらから(各エピソードのリンクもあります)


第3話:義母襲来

 ぐんと気温が上がって、少し歩くだけで汗ばむ季節になった。夕方で日が沈みかけているというのに、気温が下がる気配はない。

 都内で夏を何度も過ごしているのに、大きなビル群に囲まれた熱と、アスファルトに吸収された熱の、独特な暑さに慣れる気配は一向にない。

 この季節になると、仕事帰りにビールを嗜む大人や、サークル等の飲み会や打ち上げで酔っ払っている人が多くなる。夏の暑さが人を大胆にさせるのか、心なしかナンパも増えていると感じるのは、多分、気のせいではない。

 例えば、こんな風に。

「お姉さーん!僕らと飲みませんか?」

 もうすぐ駅の改札にさしかかる、という所で大学生らしき男性たちに声をかけられる。これで3日連続だ。

「ごめんなさい、帰らないといけないので」

「そんなこと言わずに~。1杯だけ!1杯だけでいいので」

 礼が明らかに困っている表情をしていても、「お姉さんキレイだし!」「若い人と飲みたくありません?」「なんならお姉さんの分も払いますんで!」と口々に続ける。口を挟む暇もない。

 大抵は1度断れば引き下がる人が多いのだが、稀にしつこく食い下がってくる人もいる。

「あの。あの!私、結婚してるんです。夫を悲しませることしたくないので、ごめんなさい」

 礼を置いてきぼりで盛り上がる大学生たちに、声を張り上げて言う。左手を掲げて結婚指輪を見せると、一瞬の沈黙の後、お互いに顔を見合わせた。

「あ、失礼しました。僕たち、もう行くんで」

 初めに礼に声をかけてきた男性がそう言って頭を下げると、急ぎ足に離れて行った。遠くから「人妻に声かけてんじゃねーよ!」「結婚指輪に気付かなかったとかアホだろ」と笑い合う楽しげな声が聞こえる。

 食い下がられても、結婚指輪を見せればすぐに引いてくれる。昨年まで、どう断って離れてもらうか四苦八苦していたが、今は指輪を見せればすぐに解決するので気が楽だ。

 自宅に向けて、自然と足が軽くなる。今日は遥斗がリモートワークをしているので、礼が自宅に着く頃に合わせて晩ご飯を作ってくれているはずだ。

 礼としては、仕事から帰って出来立てのご飯が用意されているのは嬉しいが、遥斗の料理をしている所を見るのが好きなので、少しだけ残念だと感じる。

 遥斗と暮らすようになって、半月ほど経っていた。礼も一緒に晩ご飯を作ると言っているのに、遥斗がリモートワークをしている日は礼の帰宅時間に合わせて用意してくれる。

 礼が食い下がっても止めないし、礼が手を出すと余計に時間がかかってしまうため、皿洗いを済ませた後にコーヒーを淹れ、リビングで一緒にテレビや映画を観るのが習慣化されつつある。

「ただいま戻りました~」

「お帰りなさーい」

 玄関のドアを開け、挨拶をすると、キッチンの方から遥斗の声が聞こえてくる。料理をしているようで、何かを焼いている音と、いい匂いが漂ってきた。

「ちょうど晩ご飯できるところですよ。グッドタイミングですね」

「ありがとうございます。すぐに手伝いますね」

 一度自室へ戻り、バッグを置くと、洗面所に手を洗いに行く。キッチンへ向かい、エプロンを着けると、食器棚から茶碗を2つ取り出してご飯をついだ。あれから何度も自宅で晩ご飯を一緒に食べているので、お互いにどのくらい食べるのか、大体分かってきた。

「はい、餃子ができましたよ~」

 ダイニングテーブルで、お茶や箸の用意をしていると、遥斗が大皿に乗った餃子を運んできてくれる。羽根つき餃子のようで、円形に並んでいて真ん中にもやしが乗っている。

「美味しそうですね。この形の餃子は初めて見ました」

「浜松餃子風にしてみました。浜松餃子って、真ん中に茹でたもやしが乗ってるんですよ。まあ、今回はアレンジして普通のもやしナムルですけどね」

 へぇ、と口から零れる。遥斗が大学生の時に静岡へ旅行に行った時に浜松餃子を食べ、あまりの美味しさに虜になったらしい。普通の餃子よりも野菜が多めなことが特徴のようだ。

 礼に浜松餃子のことを教えながら、キッチンを行き来して、野菜たっぷりの卵スープ、豆腐のサラダを運んできてテーブルに並べてくれた。

「食べましょうか。礼さん、お酒飲みます?冷蔵庫でビールが冷えてますけど」

「お酒、大好物です。飲みたいです」

「じゃあ、晩酌しましょう」

「はい、是非」

 礼が笑顔でうなずくと、遥斗がキッチン戻り、冷えたグラスとビールを持って来てくれた。プルタブを開けると、プシュッと小気味の良い音がする。グラスに注がれる黄金色が目に眩しい。

 いつもは2人で手を合わせて「いただきます」と言うが、今日はグラスを合わせて乾杯をし、ビールを先に飲む。

 火照った身体に冷たいビールが行き渡り、「生き返った」と感じた。それから、遥斗が小さく手を合わせて「いただきます」と小声で行ってから餃子に手を伸ばしたのに倣い、礼も手を合わせて「いただきます」と言ってから餃子に手を伸ばす。

 餃子をひとつ口に運ぶと、パリッと音がして、噛んだ瞬間に肉汁が口に広がった。野菜旨味の強い優しい味だが、にんにくも効いていて、ご飯とビールがどんどん進む味だ。

「とっても美味しいです!」

「よかったです。たくさん作ったので、どんどん食べてくださいね」

「はい。これ、皮も手作りですか?」

「流石にそこまではしてません。今日は市販の皮です」

 仕事がない日なら皮から作るんですけどね~と遥斗がぼやく。やはり、基本は何でも手作りするらしい。礼にはない発想だ。

 サラダやスープも餃子に合うように考えて組み立てたようで、両方とも中華風の味付けになっている。豆腐サラダはピリ辛で、とても美味しい。

「礼さん、週末の予定はありますか?」

「特にありません。自宅で過ごそうと思ってますけど…遥斗くんは?」

「俺も予定ないです。明日、商店街をブラブラしてお昼はお好み焼きパーティーしませんか?」

「是非!楽しそうですね」

 先週から、週末のお昼は鉄板料理を2人で作るようになった。先週は、鉄板で大量のチャーハンを作り、翌日はパンケーキパーティーをした。2

 人で作ると言っても、礼はちょっとした手伝いしかしておらず、戦力にはなれていない。もちろん、このままでいいとは思っていなくて、この現状をどうにかしようと、考えて動いているところだ。

「一緒に暮らし始めてから結構日が経ちましたけど、礼さんは何か嫌なこととか、改善してほしいことはありますか?」

 美味しそうにご飯を食べながら、遥斗がサラッと切り出した。

「特に…思い浮かばないです」

 申し訳ないと思うことはあっても、不満なんてない。遥斗と一緒に暮らすようになって、食生活や生活習慣がかなり改善された。

 朝は味噌汁の匂いやパンの焼けるいい匂いで目覚め、仕事の日はお弁当まで持たせてくれる。昼過ぎまで寝過ごし、酷い時は食事を抜くこともしょっちゅうあったのに、今は健康的な生活そのものだ。

 遥斗に負担ばかりいってしまって、皿洗いしかできない自分を不甲斐なく思っているのに。不満なんて、あるはずがない。

「本当ですか?」

「はい。むしろ申し訳ないと思うことばかりです。強いて言えば、今は洗濯物を別々で洗ってますけど、全部私に任せてほしいと思っているくらいです」

 前々から思ってはいたのだ。天候を気にして洗濯を回せない日もあるし、一緒に洗ってしまった方が楽で経済的なのだはないか、と。ただ、遥斗が礼に触られたくないものもあるだろうし、言い出すタイミングが見つからなかった。

「現状の家事の負担、明らかに遥斗くんの方が大きいですし。私も何か遥斗くんにできることしたいと思います。そう思った時に、私にできる家事は洗濯くらしか思い浮かびませんでした」

 我ながら情けなくなってくる。なんでも作れてしまう料理スキルに憧れてやまない。

「そんなことないと思いますけど…」

「ありますよ。不甲斐ないな、といつも思ってます」

「礼さんの掃除、丁寧じゃないですか。俺が掃除し損ねてる場所とか、雑に掃除機かけちゃったところとか、気づいたら隅々までキレイなっててビックリすることありますもん。網戸とか窓の掃除までやってくれてるの、礼さんですよね?」

「ええ、まあ」

 汚れに気づいたら、そのままにしておけないだけだ。遥斗のように特別なスキルがあるわけではなく、誇れるようなものでもない。

「凄いな~常々思っていますよ。俺には多少の汚れならスルーしてしまう癖があるみたいで、そういうのに気づかないですし。気づいても掃除しようとは思わないですし。得意なことと苦手なことは補い合いましょう」

 遥斗に優しく言われて、沈んで張りつめていた心がほぐれていく。

 はじめから、助け合いましょうと約束していた。自分にも、遥斗に凄いと思われるような物があったのが、嬉しいと思う。

「まあ、でも、一緒に洗った方が経済的なのはそうなので、洗濯は当番制にしましょう。俺に触られるのに抵抗のあるものは避けておいてください」

「いえ、私に全部やらせてください」

「そうはいきません。料理のことなら、気にしないでください。趣味の一環なので。負担に思ったことは1度もありません。むしろ、礼さんが美味しそうに全部食べてくれるから、めちゃくちゃ作り甲斐があって楽しいですよ」

 そう言って、遥斗は弾けるような笑顔を浮かべる。無理をしている様子は皆無だ。

「…分かりました。当番制にしましょう」

「はい!」

 遥斗に不満はないのか逆に尋ねると、「何もないです」と笑顔で言い切られた。とは言っても、小さなことでも何かしらあるのではないかと思って何度も確認したが、何も出てこなかった。

「じゃあ、私から1つ、懸念というか、疑問があるのですが…」

「何ですか?」

 遥斗が何もないようなので、お酒の力を借りて、ずっと気になっていたが言えなかったことを言おうと決意した。グラスに残っているビールを一気に飲み干し、言葉を選びながら切り出す。

「友情結婚って、結婚していることのメリットをお互いに享受するためにするものですよね?契約結婚のようなもので、外に恋人を作る場合もあると」

「そうですね」

「だったら、各自、恋愛は自由ってことですよね?」

「…まあ、そうですね」

「そうは言っても、結婚している以上、自由に恋愛しすぎるのは問題があると思うんです。世間的には不貞行為ですし、お相手が友情結婚のこと知らないまま恋人関係になるのは騙しているも同然ですし」

「それは、そうですね」

 遥斗の声が硬い。礼が言葉を重ねるごとに、心なしか、笑顔が引きつっている気がする。

「私は、遥斗くんのプライベートに踏み入るつもりはありませんし、自由に恋愛してほしいと思います。ただ、お互いの知り合いだと気まずいですし、大問題に発展しかねないので、その辺りは避けてほしいです。自分勝手なんですけど…」

「…分かりました」

 一瞬、ほんの一瞬、遥斗が傷ついた顔をした。けれど、すぐにいつもの爽やかな笑顔を浮かべる。

「皿洗い、お任せしてもいいですか?片づけたい仕事が残っているので、部屋に戻りますね」

 そう言って、礼の顔を見ずに自室へ戻って行った。こんなことは初めてだ。何か、傷つけるようなことを言ってしまったのだろうか、と不安になる。

 でも、仕事だと言われたら追いかける訳にもいかなくて、残された食器をシンクに運んで洗うことしかできなかった。

*****

 翌朝、味噌汁の匂いで目が覚めた。布団の中で軽く身体を伸ばして起き上がり、スマホを見ると、8時30分だった。

 アラームではなく、味噌汁の匂いに起こされるのは、とても幸せなことだと思う。休日でも普段と生活リズムをほとんど変えずにいられるのも。最近、身体がとても軽いと感じる。

 軽く身支度をしてリビングに顔を出すと、遥斗がキッチンに立って料理をしていた。昨夜のことを思うと、気まずい雰囲気になるのでは、と身構えていたが、ごく普通に、挨拶をされる。

「おはようございます。ご飯もうすぐできますけど、食べますか?」

 あまりにもいつもと変わらないので、礼の方がポカーンとしてしまう。

「礼さん?」

 怪訝そうな顔をする遥斗が目に入り、ハッとする。

「あ、ごめんなさい。いただきます。準備、手伝いますね」

 慌てて洗面所へ向かい、手を洗う。昨日の話の続きをしようと思っていたのに、切り出すタイミングを失ってしまった。

 これまで、お互いに恋愛に関する話を避けてきたように思う。その一線を超えてしまったのは、礼の方だ。昨夜の遥斗の様子を思い出すと、しばらくこの話題を出せそうになかった。

 キッチンへ戻ってエプロンを着けると、食器棚から茶碗を取り出し、ご飯をよそう。

 ダイニングテーブルに運び、箸やお茶の用意をしていると、遥斗が味噌汁と焼いた鮭を持って来てくれた。

「今日は和食ですよ~」

「ありがとうございます。美味しそうですね」

 2人で手を合わせて、「いただきます」と言う。味噌汁を飲み、鮭に手を伸ばす。味噌汁はだしが効いていて、とても美味しい。鮭は塩のみのシンプルな味付けで、素材の美味しさが際立っている。

「う~ん、すっごく美味しいです」

「よかったです!今日のテーマは、シンプルな味付けです」

 食事をする時や料理をする時に、遥斗は食材のことや味付けについて詳しく教えてくれる。おかげで、口に含むだけで大体の味付けが分かるようになるまで成長できた。

 いつものように食事を終え、礼が皿洗いをする。この後は、近所を散歩しがてら買い出しに行く予定なので、平日に溜めていた家事を片づける。

 遥斗は礼の分まで洗濯を回し、ベランダに干してくれた。礼の今週の当番である共用部分と自室の掃除を終える頃に、スーパーが開く時間になった。

「行きましょうか。礼さん、準備はいいですか?」

「はい、バッチリです」

 身支度は済ませてあるので、自室へカバンを取りに戻ると、玄関へ向かう。散歩をするなら歩きやすい方がいいと思い、スニーカーを選ぶ。座ってスニーカーを履き終えると、立ち上がるタイミングで遥斗が手を貸してくれた。

「ありがとうございます」

 お礼を言って遥斗の手を取ると、立ち上がるのをサポートしてくれる。こういうさり気ない優しさは、会社でよく話をするようになった頃から変わらない。

「礼さんは、この辺りを歩くのは初めてですか?」

「そうですね。基本的に駅とマンションの間しか往復しないので」

 駅とは反対の方を散歩しませんか、と誘われて、普段は行かないエリアを歩く。住宅街を抜けると、学校が見えてきた。

「裏に小学校、あったんですね」

「ここから少し離れた所に中学校もありますよ」

 土曜日だが部活をしているらしく、ボールを打つ音や、楽器を演奏しているの音が聞こえてくる。

「にぎやかですねぇ。懐かしいです」

「ふふ、そうですね。遥斗くんは中学生の時、何部でした?」

「サッカー部でした。礼さんは?」

「私は吹奏楽部でした。小さい学校で、学年に2クラスしかなかったので、部活も種類が少なくて。運動部に入らない人は吹奏楽、って感じでした」

「そうなんですね。何の楽器をやってたんですか?」

「トランペットです。卒業以来吹いていないので、今はもう楽譜の読み方も忘れているくらいですけど。遥斗くんは?サッカー、続けているんですか?」

「大学のサークルでサッカーをやっていたので、今でもたまに当時のサークルのメンバーとフットサルしてますよ」

 お互いに学生時代、どのように過ごしていたのかを話し合う。2歳差の礼と遥斗は、中高では部活が一緒ではない限り交流はないだろうし、大学が一緒だったとしても何かしら接点がなければ出会うことはない。

 そもそも、出身地が三重と鹿児島だ。遠くに住んでいた2人が同じ会社に入り、生活を共にするようになったことに、今更ながら不思議な縁だと感じる。

「あ、礼さん、八百屋がありますよ~!」

 学校のあるエリアを抜けると再び住宅街に入り、しばらく歩いていると昔ながらのお店が並ぶ商店街が見えた。遥斗もここまで歩くのは初めてらしい。

「しかも安い!玉ねぎもにんじんも100円で買えます」

 遥斗が瞳を輝かせ、野菜を指差しながら礼の方へ振り返った。少し前までは、100円で買える野菜が安いと言われてもピンと来なかったが、遥斗と暮らすようになってスーパーの野菜コーナーに足を運ぶことが増えたため、ここまで遥斗が興奮している理由が分かるようになった。

「凄いですね。他の野菜もスーパーより安いですし」

「はい!ここで野菜買って行ってもいいですか?」

「もちろんです」

 礼がうなずくと、遥斗が嬉しそうに笑った。カゴを取りに行き、楽しそうに野菜を選んでいる姿が微笑ましい。きっと、何を作るか考えてワクワクしているのだろう。

 カゴがいっぱいになるくらい野菜を買い、持参した買い物袋は2つになった。礼が片方持つと譲らなかったので、遥斗は軽い方の袋を礼に渡してくれた。

 せっかくなので、八百屋の隣にあるお肉屋さんで売っていたコロッケを1つ買い、半分こした。揚げたてで、衣はサクサク、中はホクホクで凄く美味しい。

「このコロッケ美味しいですね。俺、毎日でも食べられます」

「ふふ、そうですね。また来ましょう」

「はい!」

 幸せそうにコロッケを頬張る遥斗を見ていたら、口元が緩んだ。買い物をしている時も、料理している時も、遥斗は本当に楽しそうだ。


 買い物を終えてマンションに戻ると、ランチに丁度良い時間になった。手を洗い、お好み焼きの下準備を始める。

 遥斗がキャベツを切ってくれている間に、礼はホットプレートの準備をする。前に1度、野菜を切らせてもらったが、手を切ってしまい、「まずはどんな感じで料理をしているのか見て慣れましょう」と提案されたので、今は食材を切る以外のサポートをしている。

 ホットプレートの電源を入れて、プレートを温めておく。先週、温める時は予熱の所にダイヤルを合わせればいいと教わったので、その通りにダイヤルを合わせる。

 キッチンへ戻ると、遥斗は食材を切り終えており、ボウルに卵や薄力粉などを目分量で入れていた。恐るべき手際の良さだ。

「今日はオーソドックスに豚玉にしました」

「いいですね。美味しそうです」

 お好み焼きの準備が終わりそうなので、遥斗に必要な道具を確認してダイニングテーブルに持っていく。箸やお茶も用意し、後は焼くだけという状態になった時、自宅のチャイムが鳴った。

 お皿を並べていた礼と、豚肉を焼こうとしていた遥斗が動きを止め、顔を見合わせる。

「礼さん、通販で何か頼みました?」

「いえ、私は何も。遥斗くんは?」

「俺も頼んでません」

 ということは、誰かが訪問してきたということか。誰かを自宅に招く場合、相手に了承を得てからだと決めていたので、知り合いではない。

 誰が来たのだろう、と遥斗が怪訝な顔になった。

「俺、モニター見てきますね。礼さんはここに居てください」

「分かりました。ありがとうございます」

 遥斗は早足にモニターを確認しに行く。モニターを覗き込むと、「はあ⁉」と驚く大きな声が聞こえてきた。

 普段あまり大きな声を出さない遥斗の大声に、何事かと心配になり、礼もモニターの方へ行く。

「どうしました?」

 礼が声をかけると、困った顔をした遥斗が礼の方を見た。

「すみません。母が、来たみたいです」

「え⁉」

 慌ててモニターを確認すると、画面には遥斗の母である美香子さんが映っていた。モニターを見る限り1人らしく、眉根を寄せてドアが開くのを待っている。

「ごめんなさい。アポなしで来てしまったみたいで…」

 遥斗が申し訳なさそうに頭を下げるので、慌てて頭を上げるように促す。

「帰ってもらいますね。連絡もなしに来るなんて、非常識なので」

 そう言って玄関に向かった遥斗を、礼は腕を掴んで引き止める。

「上がってもらいましょう」

「え、でも…」

「外は猛暑ですし、このまま帰ってもらっても熱中症にならないか心配です。それに、わざわざ鹿児島から来てくれたんですから。おもてなしはできませんけどね」

 やや考え込んでから、遥斗が顔を上げた。

「ありがとうございます。じゃあ、少しの間だけ上げてもいいですか?」

「はい」

 申し訳なさそうにしている遥斗に、笑顔でうなずく。これで、遥斗の罪悪感が少しでも減るといいのだけど。

 オートロックを解除し、玄関まで2人で迎えに行く。ドアを開けると、大きめのキャリーバッグを引く美香子さんがやって来た。遥斗の横顔を窺うと、珍しくムッとしている。

「母さん、連絡もなしに来るなよ」

「いいじゃない、別に。近くに用があったから来たのよ」

「そういうことじゃない。今日はたまたま家に居たけど、居なかったらどうするつもりだったんだよ」

「細かいことはいいのー。それより上げてもらえる?外が暑くてクタクタなの」

 遥斗の眉が吊り上がったのを見て礼は2人の間に入る。

「ご挨拶が遅れてごめんなさい。お久しぶりです、お義母さん。どうぞ上がってください」

「あら、礼ちゃんお久しぶりね。お邪魔しますね」

 礼の方を見てにっこり笑うと、玄関に足を踏み入れる。遥斗の横を通り、中に入って行くと、遥斗が美香子を追いかける。

「ちょ、母さん、少しだけだからな。すぐに帰れよ」

「遠くから来た親に向かって何てこと言うの。ゆっくりしていってね~とか言えないの?」

「そっちが断りもなしに来たんだろ!」

「息子の家に来るのに何で許可がいるのよ?」

「いるに決まってるだろ⁉礼さんいるんだぞ?」

 バッグはそっち置いてー、そことそこのドアは絶対に開けるなー、まず手を洗ってー、など、美香子に言っている声が聞こえる。

 その間に、礼は食器棚の奥からコップを取り出し、洗う。美香子さんに麦茶を飲んでもらうと思ったのだ。来客用に買っておいて助かった。

「ごめんなさい、ありがとうございます」

 遥斗がそさくさと礼の近くに寄って、小声で話しけてくる。

「とんでもないです。お好み焼き、どうします?」

「しょうがないので、今から母の分も用意します。それより…」

 遥斗が言いにくそうに、眉を下げる。

「ちょっと、いいですか?内緒話しても」

「はい」

 言いよどむ遥斗に、礼は耳を近づけた。すると、遥斗が口を隠し、礼に耳打ちする。

「今日の母さん、変です。いつもは連絡なしに来るような人じゃないはずなんですけど…もしかしたら、礼さんに失礼なこと言うかもしれないので、その時はすぐに言ってください」

 たしかに、今日の美香子さんはいつもと態度が違う。礼が会うのは2度目で、多く接してきたわけではないが、謙虚で優しい人、という印象だ。

 結婚式をしないと両家に話した時に、1人だけ冷静に理由を聞いてくれたことを思い出しても、今日の美香子さんは印象からズレている。

「俺が結婚して、寂しくなったとか、そういう感じかもしれません。よくいるじゃないですか。結婚した途端に態度が豹変する人。自分の親がそういうタイプだったとは思いたくないですが、俺に見せる顔と礼さんに見せる顔は違うだろうし…」

 美香子さんが嫁いびりをする人だと信じたくない―そんな、複雑な表情を浮かべる。

 そんなことないと否定したいのに、かける言葉が見つからない。「私と居る時の美香子さんはこういう人だ」とハッキリ言えるほど関係性を築けていないことが、不甲斐ない。

 思わず遥斗の方へ手を伸ばし、触れそう―になった所で、美香子が洗面所から戻ってきた。慌てて手を引っ込める。

 自分が何をしようとしていたのか気づいて、礼は狼狽した。何を、何をしようとしていたんだろう。無意識の行動に、自分で自分が恐ろしくなる。

「ふう~のどが渇いたわ」

 そう言いつつ、美香子さんは礼が普段使っている椅子に座る。

「言わないとお茶も出せないのかしら。気が利かない嫁ね」

 ボソッと、でも確実に、礼と遥斗に聞こえるように呟き、ため息をつく。怒った表情で前のめりになった遥斗の、服の後ろを軽く掴んで止めた。

 振り返った遥斗の顔に、「何で止めるんですか?」という言葉が張り付いている。遥斗に笑顔を見せ、美香子に向かって話す。

「今出しますね。少しお待ちください」

 不満そうな遥斗を置いて、洗ったコップを拭き、冷蔵庫からキンキンに冷えた麦茶を注ぐ。

 美香子に持って行こうとしたら、遥斗に耳打ちされた。

「今日は俺から離れないでくださいね。母から嫌なことされないように見張るので」

「大丈夫ですよ?」

「ダメです。母と2人きりにならないでください」

「なあに、2人して感じ悪い」

 美香子の声が聞こえ、礼はキッチンから「すみません」と声を張り上げる。

「とにかく、嫌なこと言われたりされたらすぐに言ってくださいね!」

 念押ししてくる遥斗に、礼はうなずいて麦茶を運び、美香子の前に置く。

「遅くなってすみません。お代わりする時は遠慮せず言ってくださいね」

「ありがとう。いただきます」

 美香子が礼の顔を見てお礼を言う。そして、聞こえるか聞こえないか微妙な声で、あることを呟いた。

 美香子が麦茶に口をつけてくれ、ホッとする。そして、今のやり取りで、遥斗の心配ごとは恐らく外れていると分かった。

「遥斗は何してるの?」

「何してるって、母さんが急に来るから、母さんの分までお好み焼き作ってんだろ?」

「あんた、料理してるの?礼ちゃんは?」

 美香子の言葉に礼はギクッとなる。やはり、美香子たちの年代からすると、料理を夫に任せるのは「あり得ないこと」だと思うのだろうか。

「私はお恥ずかしながら料理はからっきしで…勉強中です」

「あら、やだ」

「俺が料理したっていいだろ!」

 眉を顰めた美香子に、遥斗の大きな声がキッチンから飛んできた。いつもはおっとりしているのに、今日はキレの鋭い言葉を放っている。

「お父さんが見たら、男が情けないってカンカンに怒るわよ」

「好きで料理してるのに、何で怒られないといけないんだよ」

 母子で言い合いを始めたので、礼は席を離れてキッチンに戻る。

 美香子が礼の席に座っているので、用意した食器類は譲ることにした。食器棚の奥からお皿と来客用の箸を取り出し、箸だけ美香子の前に並んでいるものと交換する。迷った末、遥斗の隣にお皿を置いて椅子に座った。

「はい、じゃあお好み焼き食べよう。礼さん、混ぜてくれます?俺肉を焼くので」

「はい」

 遥斗がボウルを持ってダイニングテーブルに戻ってくる。遥斗が肉を焼いている間に、礼はボウルの中に入った具材を混ぜた。

 美香子に見られていると思うと緊張で手が震えた。少しだけ粉を飛ばしてしまったが、遥斗が肉を焼きながらサッと拭いてくれる。

 混ぜ終えたボウルを遥斗に渡すと、鉄板の肉の上に流し込んだ。数分待ち、キツネ色に変わったことを確認すると、フライ返しを使ってひっくり返す。

「おお~!」

 キレイにひっくり返す様子を見て、礼は歓声をあげて拍手をした。礼にはできない芸当だ。

「礼さん、リアクション大きいですよ」

「焼き目がキレイですし、遥斗くんのひっくり返す手つきが鮮やかだったので思わず・・・」

「ふふ、ありがとうございます」

 照れたように、でも嬉しそうに笑う遥斗に、つられて口角が上がる。

「嫌ねぇ。私は置いてきぼり?」

 不機嫌そうな美香子の声が飛んできた。礼は慌てて遥斗の手元から視線を美香子に戻す。

「あ、ごめんなさい。遥斗くんの料理する所見てるの、好きなんです。気をつけますね」

「礼ちゃんは、家事は何を?」

「お皿洗いを。あとの家事は分担です」

「そう。遥斗は転職したばっかりだし、大変だと思うの。もう少し頑張れない?」

 そう言われて、自分のできる家事を考えた。

 礼が負担できる家事。今のスキルで料理に手を出すのはかえって遥斗の迷惑になってしまうので、掃除か洗濯だろうか。いっそ、料理以外の家事を礼が請け負うという感じだろうか。

 そんなことを考えていると、遥斗が焼き上がったお好み焼きを切り分け、ソースを塗りながら口を挟む。

「余計なお世話。礼さんと都度話し合って決めてるから、母さんが口出すことじゃない」

「でもねえ?大変じゃない?」

「別に大変じゃない」

「あんた、何でぶっきら棒な言い方なの?」

「母さんが礼さんに突っかかるからだろ。止めてくれ」

 淡々と話しながらも、遥斗の手は止まらない。マヨネーズを格子状にかけ、青のりとかつお節をトッピングしていく。

 礼が美香子のお皿を取って渡すと、流れるようにお好み焼きを乗せて美香子の前に置いた。

 礼の分もお皿に乗せてくれ、自身のお皿にも取り分ける。普段しているように、2人で手を合わせて「いただきます」と言うと、少し遅れて美香子も「いただきます」と手を合わせた。

「う~ん、美味しいです」

「よかったです。このお好み焼き、俺の自信作のうちの1つなんです」

 お好み焼きは、生地にだしの味がしっかりと出ていて、とても美味しかった。遥斗の手料理を初めて食べた時から思っていたけれど、彼の作る料理は、1番美味しいと思う。食べる度に、幸せだと感じる。

「夫より先に食べるなんて非常識だと思わないの?」

 美香子の声が飛んできて、隣から「母さん」とたしなめる声が聞こえた。礼は反射的に「すみません」と謝る。

「礼さん、謝らなくていいですから。謝るようなことじゃないです。今日の母さんどうしたの?いつもそんな感じじゃないだろ」

「何よ。私は結婚した時、夫より先に箸を手に持つなっておばあちゃんに怒られたわよ」

「いつの時代の話だよ。俺は、礼さんに好きな時に好きなように食べてほしい。夫である俺がそう思ってるんだからいいだろ?」

「良くない。あんたがそんなんじゃ、先が思いやられるわ。尻に敷かれてるって親戚に情けないって思われるわよ」

「いや、別に誰にどう思われようと関係ないだろ。余所の家のことに口出すなよ。それに、母さん、俺が小さい頃から、『家庭を顧みないのに余計な口出しだけしてくる亭主関白の夫にはなっちゃダメよ』って言い聞かせてただろ?」

 なのに、一体どうしちゃったんだよ、という小さな嘆きが聞こえた。美香子がどういう意図を持って礼に嫁いびりみたいなことををしてくるのかが分からないので黙っていようと思っていたけれど、打ちのめされている姿を見ると申し訳なくなってくる。

「そうだっけ?覚えてないわ」

「そうだよ。『おばあちゃんがお母さんにやってることはハッキリ言って嫁いびりだから、あなたは守ってあげられる人になってね』っていつも言ってたのに、何で嫁いびりする側になってんだよ」

 遥斗は箸を置き、片手で顔を覆う。いつもと違う美香子の態度に戸惑う気持ちと、礼への罪悪感、信じたいけれど嫁いびりをしている事実。いろいろな感情に襲われている。そんな、複雑な表情をしていた。

「あの―、言っていいのか分からないんですけど・・・、多分、お義母さん、演技していると思いますよ」

「え?」

 迷った末に、遥斗が可哀想で口を挟むと、遥斗がバッと顔あげて礼を見る。瞳が揺らいでいた。

「私がお茶を渡した時に、聞こえるか聞こえないか分からないくらい小さい声で『ごめんなさいね』って言っていたの、聞こえたんです。お義母さん、演技してますよね?」

 そう問いかけると、不機嫌そうにしていた美香子が顔を和らげ、姿勢を正した。そして、頭を下げる。

「ごめんなさいね。礼ちゃんの言う通り、わざとやっていたの」

「え?何で?」

 遥斗から気の抜けた声が出た。美香子を訳が分からないという顔で見つめている。

「心配になったの。あなたたち、お互いに敬語で話しているし・・・なんというか、テレビ電話で挨拶してくれた時にカップルっていう感じがしなかったのよ。だから、普段どう過ごしているのか気になって、来ちゃった」

 美香子にカップルっぽくないと言われて、礼は内心ヒヤッとした。確かに、遥斗と礼の関係は、一般的な恋人のように好き同士で結婚した訳ではない。

 交際していた訳でもないし、お互いの利益のために人生のパートナーになった。そういった事情を両家の両親に隠している。

「来ちゃったって・・・それで礼さんにキツく当たる理由にはならないだろ?」

「嫁いびりした時に、遥斗がちゃんと礼ちゃんの味方になるかチェックしたかったの。遥斗は最初から最後まで礼ちゃんを守っていたから安心したわ」

「いや、何でチェックするんだよ?俺、そんなに信用ない?」

「小さい頃から言い聞かせていたのに、結婚した途端にお父さんソックリに敬斗がなっちゃったからね。遥斗もそうならないとは限らないじゃない」

 敬斗とは、遥斗の6歳上のお兄さんだ。大学卒業後に地元に戻って就職し、今は結婚して子どもが2人いると聞いている。

「だからって・・・礼さん、きっと困ってたよ。ちゃんと謝って」

「あ、いえ、私は大丈夫です。お義母さんが演技しているっていうのは途中から分かっていたので」

 礼が謝罪は必要ないと言っても、遥斗は引かなかった。美香子もケジメをつけないといけないから、と再度頭を下げる。

「礼ちゃん、遥斗、連絡もせず突然来てごめんなさいね。礼ちゃんにも失礼なこと言っちゃって・・・。掃除は行き届いているし、他にケチつけるところが料理くらいしかなかったの。本当は2人がきちんと協力して暮らしてるって分かって嬉しかったわ」

「いえ、料理は遥斗くんの負担が大きいのが現状なので・・・精進します」

「別にいいのよ。遥斗は料理が楽しいみたいだし、任せちゃっても。ズボラな所もあるから礼ちゃんも大変でしょ?」

「そんなことはないです。私は助けられてばかりで・・・情けなくなってきます」

「いいじゃない、補い合って生活すれば。夫婦なんだから。ちょっとくらい寄りかかったって遥斗は倒れないわ」

 てっきり、夫に家事をさせるなんてありえないと非難されてダメ嫁の烙印を押されるものだと思っていたのに、美香子は礼のことを悪く言わなかった。

 礼の母が聞いたら「遥斗くんは仕事が大変なんだから、あなたが全部やりなさい」と言うに違いない。

 美香子は優しく微笑む。笑った時の目元が、遥斗と似ていると感じた。

*****

「じゃあ、こっちの友達に会って観光してくるわ。旅行、プレゼントしてくれてありがとうね」

 美香子は用事があるようで、お好み焼きを食べ終えると帰り支度を始めた。顔合わせの時に旅行をプレゼントしたい申し出てから、それぞれの両親の希望を聞いていた。

 遥斗の両親はそれぞれの友人と旅行に行きたいと希望があったため、美香子には北海道旅行をプレゼントしている。これから、東京で暮らしている古くからの友人と北海道旅行について話し合うそうだ。

「楽しんで来てくださいね」

「うん。あ、お盆なんだけど、親戚で集まるから帰ってきてもらえないかな?親戚が会わせろってうるさくて・・・」

 美香子を玄関に送ると、靴を履きながら美香子が言った。礼と遥斗は顔を見合わせる。多分、お互いに困った顔をしている。

「俺だけじゃダメ?」

「礼ちゃんもいないと、おばあちゃんがうるさいわよー。お父さんも何て言うか・・・」

 遥斗が申し訳なさそうに礼を見る。

「1度、きちんと挨拶しに来てくれると嬉しいわ。礼ちゃんには、嫌なこととか、失礼なことたくさん言われちゃうかもしれないのが申し訳ないけど」

 美香子にも申し訳なさそうに言われて、礼は覚悟を決めた。もともと、結婚した以上はこうした親戚付き合いは避けられないと分かっていたし、傷つくようなことを言われたりされたりしても、遥斗は絶対に守ってくれる。今日で、それは実感できている。

「分かりました。結婚の時も直接ご挨拶できませんでしたし、伺います。むしろ挨拶が遅くなってしまってすみません」

「それはいいのよ、お仕事が忙しいって聞いていたし。遥斗、しっかりやるのよ」

 最後に遥斗の肩を強めに叩いて、颯爽と美香子は去って行った。

「すみません、お盆に鹿児島に行くことになってしまって」

 美香子を見送り、玄関の鍵をかけながら遥斗が呟く。

「大丈夫ですよ。親戚付き合いも大切ですからね。ただ、親戚のみなさんの質問に答えられなかったら助けてくれると嬉しいです。自分で捌けるように善処はしますが・・・」

「それは、もちろんです。礼さんに不快な思いをしてほしくないので、必ず守ります」

「ありがとうございます。心強いです」

「約束です。俺は絶対に礼さんの味方になるので、嫌なことをされたり言われたりしたら、すぐに教えてください」

 遥斗は真剣な目をしている。礼がうなずくと、遥斗が右手の小指を礼に差し出す。その指に自分の小指を絡めると、遥斗が「指切りげんまん」とわらべ歌のフレームを口ずさんだ。

*****

 お盆休みに入る前、礼は片づけておかなければならない仕事に追われていた。日曜の夜、仕事を自室でしていると、母の美保子から電話がかかってきた。

「礼、あれから新婚生活はどう?」

「楽しくやってるよ」

 遥斗と結婚する前までは、頻繁に電話がかかってきたが、新婚生活の邪魔をしてはいけないと思っていたのか、電話が来ることはなかった。

「そう、それはよかった。あなた、料理がダメじゃない?それが原因で遥斗くんと険悪にならないか心配してたのよ」

 お嫁さんが料理できないなんて、普通なら嫌だものね、と美保子は軽く続けた。美保子は妻である礼が全て家事をするべきだと考えているのだろう。

 家事は分担で、料理のほとんどを遥斗が担ってくれていると知ったら、泡を吹いて倒れそうだ。間違いなくダメ嫁の烙印を押される。

「どの辺はどうなの?ちゃんと遥斗くんに栄養のあるもの食べさせてるの?」

「あ・・・えっと、遥斗くんが料理上手で、美味しいものをたくさん作ってくれてるよ」

「え⁉遥斗くんが料理してるの?」

 案の定、美保子は仰天した。一段と声が大きくなる。

「ダメじゃない!旦那さんに全部やらせるなんて!遥斗くんはお仕事が大変なんだから、礼がやらなきゃダメよ」

「いや、共働きだから、ちゃんと家事は折半してるよ。料理は勉強中だけど・・・」

「折半⁉遥斗くんが可哀想。結婚したのに、お嫁さんが家事やってくれないなんて」

「だから、私も家事やってるって」

「いい⁉あなたが仕事ばかりしてないで、ちゃんと全部家事をやって遥斗くんを支えてあげるのよ」

 やはり、美保子は夫に家事をやらせるのはあり得ないと思っている。礼も遥斗と同じように働いていると言っているのに、美保子の中で礼の仕事は遥斗よりも簡単で、大変ではないとされてしまう。

 美香子と同年代のはずなのに、美保子の価値観は昔のまま変わっていない。いかに美香子が世の中の変化を理解していて、柔軟な考え方をしているのか思い知らされるようだ。

「そうだ。礼、お盆はどうするの?」

「遥斗くんの実家に挨拶しに行くよ」

「そう。ダメ嫁って言われないように、ちゃんとやるのよ。こっちには帰って来なくていいから」

「え、帰らなくていいの?毎年帰って来いって言ってたのに?」

「結婚したんだから当たり前じゃない。こっちじゃなくて旦那さんの実家に帰省しなきゃダメよぉ。年末くらいは顔を出してほしいなと思うけどね、まあ、でも、旦那さん優先よ」

「・・・分かった」

 てっきり、三重の方にも挨拶をしろと言われるもので、遥斗にどうするか相談しようと思っていたのに、あっさり帰って来なくていいと言われて拍子抜けする思いだった。

「それから、うちに帰って来る時は、あちらの実家に話を通してから来るのよ。嫁に来たのに無断で実家に帰られたら気分悪いじゃない?本当なら、嫁に行ったら実家の敷居を跨ぐなんて許されなかったけど、今はそんな時代じゃないものね」

 そう言われて、礼の頭は若干フリーズした。

 今時、自分の生まれ育った家に帰るのに、義母と義夫の許可が必要なのだろうか。世の中の結婚している人は、相手の実家の許可を得てから帰るの?

 疑問に思うことがいっぱいで、何と返せばいいのか全く分からない。

「じゃあ、そういうことだから。遥斗くんに家事なんかさせないで、お仕事に集中させてあげるのよ」

 何も言えないでいる礼に、美保子は最後にこう言い残して一方的に電話を切った。

*****

「礼さん、疲れていませんか?大丈夫ですか?」

「大丈夫ですよ」

 心配そうに覗き込む遥斗に、礼は笑顔を返す。それでも、大変だろうから、と礼の手荷物を1つ持ってくれた。

「自分で持てますよ?」

「いえ、俺が持ちます。礼さん、結構疲れてますよね?」

「そんなことは・・・」

「あります。この暑さですし、バスを待っている間にバテますよ」

 否定しようとした礼の言葉を遮り、遥斗は断言した。正直なことを言うと、疲れが身体に表れはじめている。

 鹿児島にある遥斗の実家は、飛行機と電車、それからバスに乗り継いでようやくたどり着くようで、移動だけで5時間はかかるそうだ。慣れない移動にてんやわんやし、猛暑もあって体力が奪われ続けている。

「・・・ありがとうございます。助かります」

「・・・せっかくのお休みに、こんな遠いところまで連れて来てしまってごめんなさい。長旅なので、結局3泊することになってしまいましたし・・・」

 移動に膨大な時間がかかるため、遥斗の実家に泊まらせてもらうことになっている。遥斗の実家の徒歩圏内にはホテルや旅館はないし、交通費もバカにならないから、礼が嫌ではなかったら泊まっていって、と美香子が言ってくれていた。

「それに、礼さんの実家に帰らなくて本当にいいんですか?」

「はい。母から遥斗くんの実家に挨拶に行くように言われているので、大丈夫です」

「でも、地元で友達に会ったり、ゆっくり過ごしたりしなくていいんですか?」

「地元で親しくしていた子たち、今は三重にいないんです。名古屋とか、大阪に出ていて。それぞれ家庭を持っていますし、お盆に会う予定はありません」

「そうなんですか?」

「はい。だから気にしないでください。もともと頻繁に帰省していたわけではないので。それから・・・母から、三重に帰る時は遥斗くんの実家に話を通すように言われたんですが、必要ですかね?」

「え⁉ないですよ。自分の実家に帰るだけなのに、どうして俺の両親の許可が必要なんです?」

 遥斗が驚き、目を見開く。

「母が言うには、お嫁に来たのに許可なく実家に帰られるのは不快なんじゃないか、とのことで。お義母さんは・・・多分、不快にはならないと思いますが、お義父さんがどう思うのかは分からないので」

 柔軟な考え方をしている美香子は必要ないと言うだろう。けれど、昔ながらの考えを持っている遥斗の父は、不快に思うかもしれない。

「いや、どう考えても許可はいらないです。例え文句を言われたとしても、気にしなくていいです。普段は離れて暮らしてますし、こっちが何も言わない限り文句の言いようがありませんし」

「そうですか?」

「はい。礼さんの好きなタイミングで三重に帰ってください」

 俺の許可も必要ありません、と遥斗は付け加えた。礼の母が気にするであろうことはお見通しのようだ。

「それから・・・嫌だったら嫌って正直に言ってほしいんですけど、帰省している時だけ礼さんのこと呼び捨てで呼んでもいいですか?」

 遥斗が言いにくそうに、申し出てくる。

「別に構いませんが・・・?」

「ありがとうございます。ウチの親戚、“礼さん”って呼んでいたら、何かとうるさそうで。前みたいに夫婦仲を変に心配されるのも嫌なので、親密感を出したいです」

 礼と遥斗は、一般的な夫婦とは違う。結婚していることのメリットを得るために、夫婦になった。遥斗の母にカップルっぽくないと心配されたのは、つい最近の出来事だ。

「じゃあ、お互い、外ではタメ口で話しませんか?」

「お互い、ですか?」

「はい。親密感を出すためです」

 親密感を出すためには、敬語を止めるのが手っ取り早い。夫婦なのにお互いに敬語で話していれば、距離感があると思われても仕方のないものだ。そう思って、ため口で話そうと提案した。

「分かりました。ごめんなさい、こんな面倒なことをさせてしまって」

 こんな瑣末こと、どうってことない。面倒でもない。それでも、心底申し訳なさそうに眉を下げる遥斗の顔を見ていると、何とも言えない感情になる。

 可愛いな、とも思うし、こんな些細なこと気にしなくてもいいのに、とも思う。胸がギュッとするような、不思議な感覚にも襲われる。

 この気持ちは何なのだろう。思考を巡らせようとしたけれど、遥斗に名前を呼ばれた。ちょうどバスが来たようだ。

 礼は軽く頭を振り、先程まで過っていた考えを振り切るように歩き出した。

*****

「いらっしゃい、わざわざ遠くからごめんね。来るの、大変だったでしょ?」

「いえ・・・いや、はい。ご無沙汰してます」

 遥斗の実家に着くと、美香子が笑顔で迎え入れてくれた。

 バスに揺られること数10分。バスを降りて礼の足で15分ほど歩くと、住宅街を抜け、畑や田んぼが広がるエリアにさしかかる。そこを抜けると、また住宅街に入った。

 その一角にある、広い日本家屋が、遥斗の実家だった。ドラマや映画の時代劇でしか見たことのない、薬医門のような立派な門構えを見て、礼が内心慄いていると、遥斗が呼び鈴を鳴らした。

 美香子の応答する声が聞こえ、遥斗が扉を開けて礼を先に通すと、扉を閉めて歩き出す。遥斗の実家のことを詳しく聞いたことはない。

 以前、「大した家柄じゃない」と言っていたけれど、ただの謙遜で、実際はここら一帯の土地を所有する地主なのかもしれない。

「暑かったでしょー、どうぞ上がって」

「お邪魔します」

 遥斗に続いて家に上がると、遥斗が実家に居た時に使っていたという部屋に案内された。勉強机は処分したようだが、それ以外のものは当時のまま残しているらしい。

 定期的に手入れをしているようで、畳のにおいのする、落ち着く和室だった。

「じゃ、来たところで悪いけど、落ち着いたら1階に下りて来てくれる?おばあちゃんに挨拶したら、遥斗は手伝いに来て。夕飯の準備があるの」

 そう言って美香子は部屋を出て行く。礼は、美香子の階段を下りる足音が遠くなってから、遥斗に近づいて小声で尋ねた。

「あの、遥斗くんの実家って・・・」

 でも、「実家が思っていたよりも立派で驚いた」と言うのは失礼な気がして、どう尋ねればいいのか分からず、言いよどむ。

「ああ、あの門構えですか?」

 遥斗には礼が何を聞きたいのか伝わったらしい。この家は遥斗が幼稚園の頃に亡くなった父方の祖父が建てた家であること、門構えや日本庭園のような小さな庭は祖父の趣味でこだわって作られたものであることを教えてくれた。

「とういわけで、礼さんが思っているような立派な家柄じゃないですよ。じいちゃんの趣味で、そこにお金をかけていたってだけで、母さんは手入れが面倒ってぼやいてますしね。畑はありますが、価値のあるようなものじゃありません」

「・・・そうですか。変なことを聞いてしまってごめんなさい」

「気にしないでください。友達からも、家を見ると『どこの坊っちゃんだよ⁉』って驚かれるので、慣れてます」

 頭を下げた礼に、遥斗は優しく笑いかける。

「それよりも、今からタメ口で話しますよ?大丈夫ですか?」

 遥斗がいたずらっ子のような顔に変わった。今から、遥斗の親族がこの家に集まって来るのだ。気難しいと聞いている、遥斗の祖母にも初めて挨拶をする。

「そうでした。気をつけます」

「ふふ、敬語になってますよ。気をつけてください」

「・・・遥斗くんこそ、敬語ですよ」

「あ、そうですね、人のこと言えませんでした。気をつけるね、礼」

 面と向かっては初めて「礼」と呼ばれて、胸がドキッとした。高まった胸の鼓動に、動揺する自分がいる。動揺している自分が信じられなくて、何が何だか分からない。

 行くよー、とドアから遥斗の声が聞こえて、ハッとする。急ぎ足で駆け寄り、遥斗の部屋を後にした。

*****

「挨拶が遅か。いの1番に私に挨拶に来るのが礼儀っちゅうもんじゃなかと」

 遥斗の祖母である千佳子さんとの初めての対面は、不機嫌そうな一声から始まった。その声を聞いて、無意識に姿勢を正す。

 鹿児島弁を話す千佳子の声は、とても迫力がある。鹿児島弁に慣れていないので、正確に全てを聞き取れていないが、挨拶に来なかったことにご立腹なのは伝わった。

 70を超えているとのことたが、白髪が美しく、背筋もピンとしており、若々しく見える。とても還暦を過ぎていると思えない、美しい人だった。

「先に荷物置きに行ってたからね。東京から来るの、大変なんだよ」

「それよりも、何で私に断りなしに結婚した?嫁の挨拶は?あんた、宮田家のことちゃんと考えてるのか?」

 マイペースに話している遥斗を遮り、千佳子から矢継ぎ早に質問が飛んでくる。礼は話すタイミングが分からず、困惑した。

「えー、何でばあちゃんの許可がいるの?」

「いるに決まっちょい!」

「あの!」

 千佳子の眉間のしわが一層深くなったのを見て、礼は声を張り上げて、両手をついて頭を下げる。その後、少し顔を上げて千佳子の顔を見た。

「ご挨拶が遅くなって申し訳ございません。さ・・・、宮田礼と申します。遥斗さんと結婚させていただきました」

「あんたを宮田家の嫁とは認めてなか」

 ぴしゃりと言い放つ千佳子さんに、「ばあちゃん!」とたしなめる遥斗の声が飛んできた。

「嫁として認められるのは男ん子を生んでからじゃ。女は子どもを生んで一人前になっとじゃ。あんた、身体は健康なんか?ちゃんと子ども産めるんか?」

「あ、あの、・・・えっと、ですね・・・」

 千佳子から飛び出てくるデリケートな質問にどう答えればいいのか分からず、礼は混乱した。

「ばあちゃん、夫婦のことに口出さないでよ。そういうことは、ちゃんと話し合って決めていくから。礼にそんなデリケートなこと聞かないで。失礼だから。どうしても言いたいなら、俺だけにして」

 答えられずにしどろもどろになっている礼を、遥斗がすかさずフォローしてくれる。

「嫁に尻敷かれてどうすっと?どげんして宮田家を残していくの。九州男児が情けなか!」

「俺は別に尻に敷かれてないし、礼のことを大切にしたいだけ。ばあちゃんに文句言われる筋合いはない。これ以上口を出してくるなら、もう行くよ」

 そう言うと、遥斗は立ち上がり、礼に手を差し出してきた。その手を取っていいのか迷っていると、遥斗が礼の右手を握り、引っ張りあげる。

 礼が立ち上がったのを確認すると、手を引いて歩き出した。

 後ろから「待ちやんせ!」という千佳子の声が聞こえたが、遥斗は構わず足を進める。

「あの、すみません。失礼します」

 何とかそれだけ言い残して、礼は遥斗について行った。


 遥斗に連れられてリビングに向かうと、遥斗の父である勝さんがちょうど家へ戻ってきていた。

「お久しぶりです、お義父さん」

 礼が頭を下げると、「ああ…」と少し片手を挙げて、早足にどこかへ行ってしまう。

「気にしないで。敬斗のお嫁さんにもあんな感じだから」

 礼が気に障るようなことでもしてしまったのかと、不安に思っていると、美香子さんがお盆を遥斗に渡しながら笑いかけてくれた。お盆には、魚料理を中心とした和食がのっている。

「息子のお嫁さんにどう接したらいいのか分からないのよ。はい、遥斗、これ持って行って」

「どこに?」

「あんたの部屋。そこで礼ちゃんと食べなさい。私たちと一緒だと気疲れするでしょ」

「お気遣いありがとうございます。何も手伝えなくてすみません」

「いいのよー、明日は朝から大変だから、今日はゆっくり休んで」

 そう言うと、美香子はキッチンの奥に戻って行った。

 慣れない移動と遥斗の祖母への挨拶の緊張で、疲れがピークに達していた。美香子の気遣いは、とてもありがたい。

 遥斗は気にしなくてもいいと言ってくれたけれど、千佳子から「嫁とは認めない」と言われたことが気がかりだった。

 今まで、誰に何を言われようが、遥斗が人生のパートナーとして選んでくれたならそれでいいと思っていた。でも、遥斗の親族に受け入れられないのは、思っていたよりもショックだったのだ。

*****

 遥斗の実家では、4日に渡り、ご先祖様を迎え入れてもてなし、送るようだった。迎え盆は既に終えていて、明日は朝から親族がこの家に集まり、みんなで食事をする。明後日は、遥斗の兄家族たちと一緒に送り盆をする予定だ。その間にも、遥斗の祖父と千佳子さんの顔が広いようで、ひっきりなしに人が訪れるらしい。

 美香子さんに朝から大変だと聞いていたので、早めに就寝しようと思っていたが、1つ問題があった。

 遥斗くんと、同じ部屋で寝なければならない。

 布団を2組用意してくれているのだが、スペースが狭く、ピッタリくっついている。そもそも普段は別の部屋で寝ているので、緊張で寝られる気がしなかった。

「お風呂上がりましたー」

 髪の毛をタオルで拭きながら遥斗が部屋に入って来て、礼は内心ドキッとした。頬が少し赤く、心なしか色っぽく見える。そう思う自分が信じられなくて、遥斗を直視できない。

「あれ?礼さん、どうしました?」

「い、いえ、何でもないです・・・」

 否定する声が上ずってしまった。

「そうですか~?あ、もしかして布団のこと、気にしてます?」

 無邪気に顔を覗き込まれて、礼は視線を少しだけ逸らしながらうなずく。

「礼さんが嫌なら、俺、部屋の隅で座って寝ますよ。さすがに別の部屋にしてもらうのは怪しまれるので止めておきましょう」

「いや、ちゃんと布団で寝てください。疲れと取らないと、明日が大変ですよ」

「でも、礼さん、嫌がってません?」

「嫌がってないです。嫌だと思ってません」

「本当ですか?」

「はい・・・緊張しているだけで」

 遥斗が怪訝な顔をしているので、正直に白状した。実際、遥斗と一緒に寝ることが嫌な訳ではない。初めてのことで、緊張しているだけだ。

「ふふ、礼さん可愛い」

「可愛い⁉」

 満面に笑みで遥斗に言われて、礼は素っ頓狂な声が出た。同時に、顔がボッと熱くなる。

「お顔が真っ赤で、とっても可愛いです」

 か・わ・い・い、と強調して言われた。遥斗の顔は見られないのでどんな表情をしているのか分からないが、声は完全にからかっている。

「・・・その辺で、もう、勘弁してください」

 顔がいつになく熱い。鏡を見なくても、自分が真っ赤な顔になっていることは、分かる。

「私、寝ますね。お休みなさい」

 遥斗からの視線を感じて、逃げるように布団に潜り、ギュッと目を瞑る。心臓がバクバクして、飛び出そうだ。

「本当に可愛いな~」

 追い打ちのように、遥斗の呟きが聞こえた。自分でも驚くくらい、心臓が飛び跳ねる。今日の遥斗は心臓に悪い。年甲斐もなく、「可愛い」と言われてドギマギしている自分が恥ずかしくて、情けない。

 忘れようとしても、遥斗の「可愛い」と言った声が頭から消えてくれない。ずっと、耳の奥で響いている。

 とてもじゃないけど寝られない、と思ったけれど、自覚していたよりも疲れていたらしく、横になったらいつの間にか寝ていた。

*****

 翌朝、珍しくアラームが鳴るよりも早く目が覚めた。横を向くと、遥斗が礼と反対側の布団の端でスヤスヤ眠っている。礼を気遣って、できるだけ離れて寝てくれたようだ。

 そんなに気にしなくていいのにと思うけれど、遥斗らしいな、とも感じて、頬が自然と緩む。

 ふと、近くで寝顔を見たい衝動に駆られて、起こさないようにそっと近づく。顔にかかっている髪の毛をそっと払うと、ゆるふわな見た目通り、さらりとした感触が指に伝わった。

 普段から屈託なく表情をコロコロ変えている遥斗が、寝息を立てて眠っている。寝顔はあどけなくて、眠っている顔も可愛らしいのか、妙に感心してしまう。

・・・と考えて、昨日遥斗に言われた「可愛い」が頭を過り、慌てて離れた。

 遥斗を起こさないように身支度をして、部屋を抜け出す。1階に降りてリビングに向かうと、美香子さんはキッチンで料理をしているようだった。味噌の良い匂いがする。

「おはようございます」

「あら、早起きね。もう少し寝ていてもよかったのに」

「いえ、何かお手伝いできることありますか?と言っても、料理はできませんが・・・」

「じゃあ、5人分のお茶をいれてくれると嬉しいわ。後ろの戸棚にお茶っ葉と急須があるから」

「分かりました」

 美香子に言われた通り、お茶っ葉を急須に入れ、お湯を注ぐ。美香子が出してくれたコップに注いでいった。

「それと、これ、向こうに運んでくれる?礼ちゃんたちのは別にしてあるから、遥斗の部屋で食べてね」

「はい。ありがとうございます」

 朝食のメニューは鮭がおかずの和食だ。サツマイモの入っている味噌汁がおいしそうだ。ご飯にもツヤがある。

 美香子と勝、それから千佳子の分の朝食を運び、机に並べると、別に取り分けくれているお盆を持って2階へ戻った。

「礼さん、おはようございます」

「おはようございます」

 部屋に入ると、遥斗が起きており、布団をたたんで隅に寄せ、机を広げてくれていた。遥斗が寝ている間にしてしまったことを思い出して、遥斗の顔をあまり見られない。

 どうして、あんな、寝込みを襲うような真似をしてしまったのだろう。もう、自分で自分が信じられない。

机にお盆を置き、美香子が作ってくれた朝食を並べる。

「起きるのが遅くなってごめんなさい。礼さんに手伝いをさせてしまいました」

「・・・気にしないください」

 いつものように遥斗と向かい合って座り、「いただきます」と頭を下げて食べ始めた。味噌汁は薄めの味付けだが、だしがきいていて、とても美味しくてホッとする味だった。

「今日の予定ですが、母から礼さんと一緒に挨拶周りをしてと言われているので、よろしくお願いします」

「分かりました」

「基本、俺の隣にいてくれたら大丈夫なので。礼さんの側を離れないようにします」

 遥斗は、礼を安心させるように微笑んでくれた。

 昨日、遥斗の祖母である千佳子さんに言われたことが、まだ気がかりである。好かれたいなんて、おこがましいことは願わないけれど、せめて不快な印象は抱いてほしくない。

 朝食を食べ終えると、遥斗が食器を片づけに行った。その間、礼は広間に机と座布団を並べるように頼まれ、黙々と作業をしていた。

 しばらくすると遥斗に呼ばれ、玄関に向かうと、隣の市に住んでいる遥斗の兄家族がやってきており、紹介された。

「姉さん女房だっけ?遥斗、やるな」

「ちょ、兄さん変なこと言うなよ」

 軽口を叩く敬斗に、遥斗が噛みつく。いつもはニコニコしているが、兄には険しい顔を向けている。これは初めて見る表情で、意外な一面を知れて嬉しい。

「礼ちゃん、初めまして。遥斗くんの兄嫁の、夏帆です。こっちは息子の陸。夫と手をつないでいるのは娘の美羽。よろしくね」

「よろしくお願いします」

 遥斗の義姉である夏帆が挨拶をしてくれた。夏帆さんは、黒髪のショートカットの似合う可愛らしい人だ。

 寝不足なのか、目の下にクマがあり、顔色があまり良くない。胸に抱いている陸くんは生後8ヶ月のようで、夜泣きが大変なのだそうだ。

「じゃあ、私はお義母さんとご飯の支度、してくるから。また後でね」

「私に何かお手伝いできることありませんか?」

 遥斗の実家に着いて早々、夏帆はキッチンに向かおうとした。産後に無理をするのは良くないし、顔色が悪いのが気がかりで、手伝いを申し出る。

「礼ちゃんは遥斗くんの側にいさせてあげてって、お義母さんに言われてるから大丈夫」

「でも・・・夏帆さん、体調が」

「大丈夫。いつものことだから」

 疲れたように、諦めたようなこえだった。息を吐く夏帆を見て、もどかしくなった。礼に料理ができれば、夏帆を休ませてあげられかもしれないのに。

 夏帆は礼の横を通り過ぎ、キッチンに入っていった。

「おい、夏帆。ビール持って来い」

 いつの間にか敬斗さんが広間のテーブルに座っており、声を張り上げた。

「え、もう飲むの?兄さんも何か手伝えよ」

「それは嫁の仕事だろ。俺は仕事で疲れてるの!お前も飲めよ」

「うわぁ」

「仕事が忙しいつって、結婚するまでお盆に帰って来なかったお前に言われる筋合いない」

 遥斗の引いた声が聞こえてくる。

 何もできない自分に、フツフツと怒りが沸いてきた。握った拳に力が入る。でも、キッチンに行ったところで、礼は仕事を増やしてしまうだけだ。

「あんた、ないしちょっと?」

 不甲斐なさに打ちのめされていたら、後ろから声をかけられ、ビクッとした。振り返ると、至近距離に千佳子さんがいる。

「あ、いえ、おはようございます」

 今さらだとは思うが、挨拶をして頭を下げる。千佳子は不機嫌そうな顔をしている。

「料理も手伝わないで、ないしちょっと?」

「あ、すみません。私、料理ができなくて・・・」

 礼が正直に言うと、千佳子が目を剥いた。驚愕している。

「嘘やろ?女が料理できんなんてあり得ん!遥斗はそげん嫁をもろうて可哀想に」

「すみません。精進します」

 女が料理できないなんて、といった趣旨の言葉を絶え間なく言われ、礼は謝ることしかできない。

「ばあちゃん!あっちで美羽ちゃんと遊んであげて。兄さんが酒飲んでて危ないから」

 伏せながら謝る礼の前に遥斗が割って入り、千佳子の背中を押す。礼に対する文句を言い続ける千佳子を「はいはい」と適当に交わし、時には「悪く言わないで」と制止しながら、広間の方へ連れて行ってくれた。

「ごめん。ばあちゃんが失礼なことばかり言って」

「大丈夫。助けてくれて、ありがとう」

「はは、ありがとうのイントネーションがカタコトだよ?」

 遥斗が急にタメ口になるので、内心ドキッとした。他の人たちがいる前だから敬語ではないと分かっているのだが、遥斗のフランクな話し方は心臓に悪い。

 それからは続々と遥斗の親戚がやって来て、礼と遥斗は挨拶に追われた。美香子と夏帆は広間にくることはあっても腰を下ろさず、料理を運ぶとすぐにキッチンの方へ戻る。お酒を催促される度に礼もキッチンに取りに行くが、夏帆は陸を背負ったまま忙しそうにしていて、心配だった。

「遥斗も、もう結婚する年か!」

「子どもは?姉さん女房もらって毎晩励んでるんか?」

「ちょ!おじさん、そういうこと言うなよ!セクハラ!」

「敬斗の所にもようやく息子が生まれたからな!これで夏帆ちゃんも一人前の女だ」

 男性陣はお酒がどんどん進み、このようなことを言い合っては、笑いが起きている。礼にこの手の質問が飛んでくると、すぐに遥斗がかばってくれるので心強いが、それでも、良い気持ちはしない。

「遥斗くん、全員に挨拶って・・・済んだ?」

「さっき、佐久間おじさんに挨拶したから一通り終わったよ」

 まだ遥斗の親戚の顔と名前は一致していないが、終わったと思われるタイミングで遥斗に耳打ちした。

「遥斗くん、お義母さんたちの料理を作るの、手伝ってくれないかな?」

「どうして?」

「夏帆さんを休ませてあげたいの。顔色が悪くて、多分無理してるから」

「でも、この場に礼だけ残すのは・・・」

 不思議そうな顔をしていた遥斗が心配そうな顔に変わった。礼にセクハラまがいの発言が飛んでくるのを気にしているのだろう。

「私は1人でも大丈夫。私じゃ夏帆さんたちの力になれないし、それに・・・ちゃんと、対応するから」

 そう笑顔で告げ、遥斗の背中を押す。

「礼ちゃーん、お酒!注いでくれ」

「はい、お酒取ったらすぐ行きますね」

 ちょうどいいタイミングで声をかけられたので、1度、2階に戻ってから遥斗と一緒にキッチンへ向かう。冷蔵庫からお酒を取り出し、一通り挨拶が終わったことと、遥斗が調理の手伝いをすることを伝えた。

「俺が代わりにやるので、夏帆さんは休んでください。2階の角の部屋に布団があるので、よかったら使ってくださいね」

「・・・ありがとう」

 一瞬、夏帆の表情が消えた。すぐに笑顔を浮かべたけれど、どこか表情が硬い。そのことに気づいたのに、何と声をかけていいのか分からなかった。

「お言葉に甘えて、休ませてもらうね」

 そう言うと、夏帆はキッチンを後にした。夏帆に何も言えなかったことが気がかりで、思わず遥斗の方を見る。

「礼、何かあったらすぐに言いに来てね」

 遥斗は優しく言うと、冷蔵庫から取り出したお酒を持たせてくれた。

 結局何も言えずに広間に戻り、男性陣に呼ばれるままにお酌して回る。完全に酔っており、「礼ちゃん、子どもはたくさん生まないとダメだぞ」「少し歳くってるけど、可愛らしいわ~」「遥斗と夜の方はどうだ?」などとセクハラ満載の発言が次々飛んでくる。

 苦笑いでやり過ごしているが、正直、苦痛だ。

 笑顔が保てなくなりそうだな、と思った時、外から敬斗の怒号が聞こえてきた。ワイワイお酒を飲んでいた男性陣も静まり返る。

「夏帆!お前何考えてるんだよ」

 かなり興奮しているようだ。夏帆も何か言い返している声が聞こえる。心配になり、断りを入れて礼は外に向かった。

「もう、うんざりなの!いつもいつも、こき使われて!」

「だからって、子どもたち置いて行くことないだろ!母親なのに!」

 外に出ると、車の運転席に乗り込もうとしている夏帆と、それを止めようと腕を強く掴んでいる敬斗の姿が目に入った。

「あ、あの、落ち着いて話しませんか?」

 夫婦のことに今日会ったばかりの礼が首を突っ込んでいいのかと少し迷ったが、あまりの剣幕に割って入る。

「何よ!あなたも料理作るの手伝わないくせに!」

「ごめんなさい。私、料理ができなくて、遥斗くんに頼みました」

 夏帆にキッと睨まれ、礼は平謝りする。夏帆の怒りはごもっともだ。同じ嫁の立場なのに、礼は何も力になれていない。

「何よ、それ・・・私は、長男の嫁だからって毎回、親戚の食事の準備をさせられて。お義母さんはかばってくれたこともあったけど、大変そうで見ていられなくて手伝いはじめたらそれが当たり前みたいになったのに。あなたは、それで免除されるの?」

「お、落ち着いてください」

 夏帆は錯乱したように息が荒くなっていく。礼の声は、届かない。

「男の子を生むのが長男の嫁の務めだって言われて!陸が生まれるまで、石女だの、嫁失格だの、言いたい放題言われて!敬斗は全くかばってくれないのに、あなたは遥斗くんがかばってくれてたよね?おまけに料理の手伝いも代わってくれた?どうして?同じ嫁の立場なのに、どうしてこんなに違うの?」

「ちょ、落ち着けよ」

 夏帆の腕を強く掴んでいいた敬斗が、宥めるように背中を摩る。が、夏帆は力強くその手を振り払った。

 その反動で、夏帆の体勢が大きく傾く。

「夏帆さん⁉」

 倒れてしまうのではないかと思い、手を伸ばすが、はねのけられてしまう。夏帆の爪が手の甲に食い込み、ピリッと痛みが走った。

 夏帆は「どうして」と繰り返し呟きながら、気を失ったようにその場にバタッと座り込んだ。

「だ、大丈夫ですか?」

 敬斗とすぐに駆け寄り、顔を覗き込んで何度も呼びかけるが、夏帆は反応せず目を閉じたままだ。完全に、気を失っている。

 家の中からは、娘の美羽ちゃんが夏帆と敬斗を探しているのか、「ママ、パパ」と泣き叫ぶ声が聞こえてきた。

 敬斗には美羽ちゃんの所へ行ってもらって、救急車を呼んだ方がいいだろうかと混乱する頭で考えた時、遥斗が隣にそっと座り込む気配がした。

「礼、どうしたの」

 その声を聞いたら、混乱していた思考がピタッと止まり、落ち着きを取り戻せた。

「夏帆さんが、気を失った」

 礼が端的に状況を伝えると、遥斗はすぐに行動に移した。

「兄さんは美羽ちゃんの所に行ってあげて。パパとママがいないって泣いてるから。俺は夏帆さんを運ぶから、礼は入ってすぐの部屋に布団敷いてほしい。来客用の布団が押し入れに入ってるから」

「分かった」

 急いで家に戻り、玄関脇にある部屋の押し入れを開ける。遥斗が言っていた通り、布団が一式揃っていた。

 猛スピードで布団を敷き終えると、遥斗が夏帆を抱えて現れた。夏帆を優しく横たえたところに、礼が布団をそっとかける。

「ここ数日、陸くんの夜泣きがひどくて、ほとんど眠れていなかったんだって。」

 遥斗が礼の手を消毒しながら、呟く。夏帆の様子を見て、大丈夫そうだと一息を着いた時、遥斗が礼の手の甲の傷に気づいたのだ。

 大したことないから手当は必要ないと主張する礼の手を引っ張り、リビングに連れて行って手当をしてくれている。

「兄さんに助けてほしいって言ったけど、『それはお前の仕事だ』って取り合ってくれなかったって、2人になったタイミングで教えてくれた」

「・・・そうだったんだ」

 心が痛む。夏帆の体調が優れないことに気づいていたのに、礼は何の助けにもなれなかった。

 料理の手伝いの戦力になれないなら、最初から遥斗に頼んで1人で挨拶周りをすればよかったのに、戦力になれない自分に怒りが湧き上がるだけで、その事に気づくのが遅くなってしまった。

 そのようなことをポツリと呟いたら、遥斗は「礼のせいじゃない」と言ってくれた。

「礼のせいじゃないよ。元々の原因は兄さんだ。兄さんが夏帆さんの話を聞いて、ちゃんと支えになれてたら、ここまで夏帆さんは追いつめられなかった」

 でも、と遥斗が付け加える。

「親戚で集まるたびに夏帆さんに負担を強いていたのは、俺たちのせい。昔から、母さんはいつも忙しそうに広間とキッチンを行ったり来たりしてて、ご飯を食べる暇もなかったのに、父さんたちは昼間からビール飲んで酔っ払って『ビールとつまみ持って来い』って偉そうにしてて。おかしいと思ってた」

 礼の傷を消毒し終え、最後の仕上げに絆創膏を貼る。救急キットを棚に戻すと、座っている礼の前に立ち、少しかがんで目線を合わせた。

「誰かに負担を押しつけるのはおかしい。だから、変えられるように頑張るよ」

 遥斗が爽やかに、だけど力強く宣言する。

****

「すごい、本当にボタン1つで繋がるんだね」

 遥斗が学生の頃から友人と一緒に作っていたという、アプリを操作して礼は感嘆の声をあげた。

「そう。とにかく、スマホに慣れてない人でも簡単に操作できるようにって作ったからね。大画面で見たかったら、テレビと繋げればスマホの画面が映るようになってる」

 遥斗は、小さい頃から親戚の集まりの度に美香子さんが大変そうにしているのを気にかけ、負担を軽減できないか、たくさん考えたらしい。

 男性陣にも料理を手伝ってもらえばいい、というのは、「男子厨房に入るべからず」がナチュラルに刻み込まれている年配の人を説得できないと早々に諦め、家に集まらなくても各自、先祖を偲ぶことはできないか試行錯誤していたようだ。

 そうして生まれたのが、ボタン1つ押せば、相手と自分の様子を中継することのできるアプリだ。初期設定をしてしまえば、後はボタンを押すだけで繋がる。

「難しくて1回、開発止めちゃったんだけど、転職を決めてからコツコツ進めたんだ。帰省するのが決まってから急ピッチで仕上げて」

 昨日、夏帆が倒れたあと、遥斗は親戚からスマホを集め、このアプリをスマホに入れて設定を済ませた。

 夏帆が無理をして倒れたことと、料理を用意することの負担を説明し、リモートで食事会をしようと提案をした。

「集まりたかったら、各自料理を持って来てください。それぞれの家庭の自慢の料理を持ってくるんです。持ち寄りパーティーにしましょう」

 反発する声も上がったが、最終的には女性陣が味方についてくれて一旦お開きになった。目を覚ました夏帆は実家に帰ることを希望し、敬斗が送っていった。

 敬斗は後日こちらに戻り、美香子が改めて家事を叩き込むようだ。美香子は「忙しさにかまけて体調が悪いのに気づいてあげられなかったし、敬斗がああなったのは私の責任だものね」と息を巻いている。

 翌日、親戚からリモートで食事会に参加すると連絡がきた。男性陣は妻から、料理の大変さをこんこんと諭されたらしい、と美香子から聞いた。

 数人の親戚は料理を持参して訪ねてきており、広間に案内している。遥斗と礼は、広間にテレビを持ってきてアプリが正常に動くか確認中だ。

「遥斗がねー、そんなに考えてくれてるなんて知らなかったわ」

 美香子が礼と遥斗のお茶をテーブルに置きながら、声をかけてきた。「ありがとうございます」と言うと、優しく微笑んでくれる。

「まあね、ずっと大変そうだったし」

「ありがとうね。お母さん、嬉しかったわ」

 照れているのか、遥斗は少し素っ気なく言ってそっぽを向く。その背中をドンと強く叩いて、美香子は腰を下ろした。

「はあ、お盆にゆっくりご飯食べるなんて、何10年ぶりかしら」

 嬉しそうに呟く美香子を見て、礼の頬が緩む。よかった、と思うけれど、今までの大変さを思うと、何も力になれなかったことに罪悪感を覚えた。

「あ、礼ちゃん、気に病まないでね。午前中に掃除してくれて助かったから」

 礼の内心を見透かしたように、美香子からフォローが入る。礼は曖昧に微笑み、頭を下げた。滞在中は美香子が食事を用意してくれていたため、何かお礼をしたかった。礼にできることを考えて、普段手が届かないであろうところを、遥斗と一緒に重点的にピカピカに磨いた。

「お、大丈夫そう、かな」

 遥斗の声を聞き、テレビに目を向ける。画面には、昨日会った遥斗の親戚の方々の顔が並ぶ。

「じゃあ、始めようか」

 遥斗の父である勝の声をきっかけとし、画面越しに乾杯をする。

 食事会は、映像が乱れることなく、音声も途切れることもなく、和やかに終えた。

*****

「あんた、ないしよっと」

 送り盆を終え、広間のテーブルと座布団の片づけをしていると、後ろか急に声をかけられ、ビクッと身体を震わせて振り返る。この声と話し方は、義祖母の千佳子だ。

「あ、お加減はいかがですか?」

「もう良うなったわ」

 千佳子は朝から体調が優れないと言って、自室でゆっくり過ごしていた。朝見かけた時は顔色が悪かったが、今はスッキリした顔をしている。

よかったです、と礼が言うと、千佳子は露骨に嫌そうな顔をした。

「昨日、遥斗に『礼に失礼なこと言わないで』ってこんこんと説教されたわ。おかげで寝込んだ」

「すみません」

「謝っな。料理は確かに苦手じゃけど、掃除が得意でいつも部屋を綺麗にしてくれるって助かっちょるって言ってたわ」

 謝るなと言われて、礼は驚いた。話の方向性が分からず、「はあ・・・」と口から洩れる。

「ここん家全部、掃除してくれたんやろ?隅々まで綺麗になっちょった・・・じゃっで、あいがとね」

 そう言うと、千佳子は礼の手にお饅頭を1つ乗せてくれた。それから、奥の部屋から何かを持ってきて、礼に差し出す。

「あの、これは・・・?」

「遥斗んアルバム。赤ん坊ん頃からん写真が載っちょる」

「ありがとうございます」

 礼は遥斗のアルバムを受け取る。が、すぐに千佳子の手が伸びてきて、ヒョイッと奪われる。

 唖然とする礼に、千佳子は座るように顎をしゃくった。

 千佳子の考えていることが分からず困惑したが、千佳子の隣に腰を下ろすと、アルバムをめくりながら「これは赤ん坊の頃。食いしん坊じゃった」などと、遥斗の小さい頃のエピソードを教えてくれた。

 遥斗がどのように成長してきたのか、写真だけでなく、実際のエピソードも交えて伝えようとしてくれたのだろう。その心遣いが、嬉しかった。

「ありがとうございます。遥斗くんのことを知れて、嬉しいです」

 最後のページを見終えてアルバムを閉じる千佳子にお礼をすると、フンと鼻を鳴らして奥の部屋に戻っていった。態度は相変わらずに見えるが、初めて会った時よりは当たりが柔らかくなっている。

 まだ、千佳子には遥斗の妻として認められていないかもしれないけれど、今はそれで十分だ。

*****

「あ、礼さん、終わりました?手伝ってくれてありがとうございます」

 2階にある遥斗の部屋に戻ると、布団を敷いてくれていた。後は寝るだけの状態に整えてくれている。

「こちらこそ、布団、ありがとうございます。・・・千佳子さんから、お饅頭もらいました」

「え、本当ですか?」

 手に持っていたお饅頭を見せると、遥斗がギョッとした。

「ばあちゃんに、礼さんに近づかないように言ったんですけどね・・・大丈夫でした?」

「はい。遥斗くんのアルバムを見せてくれました」

 礼が笑顔で伝えると、遥斗が仰天する。

「ええ・・・変なこと教えられてませんよね?」

「ふふふ、小さい頃、サンタさんを見たいってクリスマスの夜に家中走り回って探すから、お義父さんにうるさいってゲンコツ落とされてギャン泣きしたんですよね?」

「わ―!止めてくださいよ!」

 礼が遥斗をからかうようにおどけて言うと、遥斗の顔が真っ赤になって転がった。相当、恥ずかしいようだ。リンゴのように赤面をする遥斗が可愛くて、口元が緩むのを止められない。

「可愛いと思いましたよ。他にも、いろいろ教えてくれました」

「礼さん、面白がってるでしょ?」

 遥斗が恨みがましく、礼を見上げる。

「ふふ、ごめんなさい。でも、遥斗くんのことを知れて、楽しかったです」

「・・・本当ですか」

「はい。私、遥斗くんのこと、もっと知りたいと思いました」

 遥斗の大きな瞳が、ふわっと広がって丸くなる。

 どう育てられて、どのような経験を積んで、何を考えて生きてきたのか。今の遥斗になるまでのルーツを、全部知りたいと思った。

 そう伝えたら、恥ずかしがっていた遥斗の口角がだんだん上がっていった。

「嬉しいです、とっても。俺のこと、もっと知ってください」

 遥斗が、その日1番の笑顔を浮かべた。


☆次の話はこちらから


いいなと思ったら応援しよう!