子どもが壊れるかどうかは、親の初動で決まる
先日、SNSである言葉を綴ったところ、予想以上に広く読まれました。
「不登校になるかどうかは、親の初動にかかっている。 腫れ物に触れるようにして、子どもから、そして起きている問題から逃げる親が多すぎる」
少し強い言い方かもしれません。ですが、これは息子との経験の中で、実感として持っているものです。
私の息子は、小学校1年生から5年生までの間に、学級崩壊や暴力、そして離婚による複数回の転校にコロナ禍という、客観的に見ればいつ不登校になってもおかしくない経験を重ねてきました。それでも一度も登校を止めることはありませんでした。
その差を分けたのは、出来事ではなく、その場で親がどう動いたかだと思っています。何が起きていたのか、そして私はどう動いたのかを綴ります。
1. 教室の異変は、面談から始まった
都心のS区にある公立小学校に通っていた1年生の時のことです。
面談で担任がまるで仲の良い知り合いに相談するような口調で「すいません、愚痴っていいっすか」と言いました。その一言で、現場が限界に近いことはすぐに分かりました。担任は帯状疱疹を患っていました。
クラスでは走り回る子や暴れる子が絶えず、授業が成立しない状態だと聞いて、その場で私は「先生一人では無理です。補助をつけてください。」と伝え、なんと翌日には3人の補助がつきました。
21人のクラスに大人が合計4人、異常な状態です。
しかし、問題はそれだけではありませんでした。鉛筆を向けて「刺すぞ」と脅す、階段の上から押すといった行為が、1年生の教室で日常化していたのです。
2. 保護者会で露呈した「認識の分断」
状況を共有するために保護者会を開きましたが、学校は正面から説明することを避けました。担任ではない、話の上手い教師が前に出て、「この子たちは悪くない」「みんなで守りましょう」と涙を流しながら感情に訴える形で場を収めようとしました。
問題への具体的な対応ではなく、受け止め方の話にすり替えられていきました。保護者たちの中にも涙する人がいて、正直私は呆れてしまいました。
そしてその場で、保護者の認識の差がはっきりと現れました。
「すぐに安全確保と具体的な対応を求める側」と、「そのうち落ち着くだろうと様子を見る側」です。
実際に暴力が起きているにもかかわらず、「子ども同士のことだから」「成長の過程だから」と受け止める保護者もいました。
中には、暴力を振るっている側の親が「うちの息子は、私がこう育ってほしいと思った通りに育っているので、これでいいんです」と言い切る場面もありました。その言葉を聞いたとき、この問題は家庭の認識の問題でもあると強く感じました。
ここで私が感じたのは、環境の影響は確実にあるということでした。子どもが置かれている生活環境や過ごし方は、そのまま行動に表れます。放置や愛情の欠如といった状態はネグレクトであり、明確に問題です。そうした状況が続けば、攻撃性として表に出てしまうことは現実として起きていました。
ただ同時に、それ以上に大きいと感じたのは「見ているかどうか」の差でした。子どもを日常的に細かく見ている家庭と、物理的にそれが難しい家庭。その違いは、子どもの状態の把握や異変への気づき方に、そのまま現れていました。
問題は環境だけではありません。環境の影響を受けたとしても、それをどう認識し、どう動くかは親に委ねられています。異変を異変として捉え、向き合うかどうか。その差が、その後の対応を大きく分けていたと感じています。
3. 「見守り」という名の現場介入
保護者会のあと、私たちは「様子を見る」という選択を取りませんでした。実際に危険な行為が起きている以上、現場を放置することはできないと判断しました。
そこで、保護者同士で連携し、時間を分担して学校に入り、できる範囲で見守りを行うことにしました。毎日、誰かが教室や廊下にいる状態をつくる。完全に防げるわけではありませんが、「大人の目がある」という状況を維持することが目的でした。
町内会の役員をされているおじいちゃんたちも協力してくださり、一時的には複数の大人で見守る体制ができました。ただ、それでも常に張り付いていられるわけではありません。人の手には限界があります。
その中で、実際に被害は起きました。息子も腕を強く握られたり、殴られたりしました。見守りをしていても完全には防げない現実を突きつけられました。
私はすぐに病院へ連れて行き、状況を記録し、学校の管理職と話をしました。そして警察にも相談しました。小学生は逮捕されない、親が謝るしかないという枠組みは理解しています。それでも、何も起きていないことにはできません。
学校側は「成長すれば落ち着く」「みんなで見守りましょう」と繰り返すばかりで、具体的な対応には踏み込みませんでした。それどころか、こちらが動けば動くほど、煙たがられている空気すらありました。子どもの安全より優先されるものはありません。何を思われようと見守りは続けました。
警察の方が状況を重く見てくださり、学校に連絡を入れてくださいました。その際、学校長が居留守を使うという対応を取り、結果として学校側の姿勢も問題視されることになりました。
最終的には、相手の親と学校に対して厳重注意が入りました。
ここで私が感じたのは、「見守る」だけでは足りないということでした。現場にいるだけでは、子どもを守りきれない場面がある。だからこそ、外部の力も含めて動く必要がある。
そしてもう一つ、「ここまでやるのか」というラインは、親が決めるしかないということでした。
4. 「ミニ先生」は教師の怠慢
その後、関西の学校へ転校しましたが、別の形の問題に直面しました。
いわゆる「ミニ先生」をさせられたのです。
息子は計算が速く、問題を早く解き終わるタイプでした。
すると教師が「はい、今から〇〇くんがミニ先生です。できた人は持っていって丸つけしてもらってね」と、息子の了承もなくその場で一方的に役割を決め、クラス全員分の丸つけをさせるようになりました。
1人や2人ではありません。算数の問題20問を40人分です。授業時間の大半を丸つけに使い、ぐったり疲れて帰ってきたことでこの件が発覚しました。
私はすぐに学校の管理職へ連絡しました。すると開口一番「ミニ先生、私も昔よくやっていました。子どもが喜ぶんですよねー。」と軽く言われ、呆れ果てました。
この量の丸つけをして、子どもが喜ぶと思いますか。
喜ぶ子も中にはいるのかもしれませんが、800問の丸つけは、ただの労働です。学習でも教育でもありません。完全に職務怠慢です。
その場で明確に抗議し、二度と同じことをさせないように約束させました。ここまで書くと、「それはモンスターペアレントではないのか」と思われる方もいるかもしれません。
ですが、私はそうは思いません。子どもに明らかにおかしいことが行われているのであれば、それを止めるのは親の役割です。
5. 首を絞められたという事実
5年生のとある日の昼休みに、同じクラスの子どもに「勉強ができるからむかつく」という理由で、いきなり首を絞められました。そのまま胸倉をつかまれ、教室の壁に身体を打ち付けられました。
その場には複数の子どもがいて、すべてを見ていました。後から証言も取れています。
私はすぐに病院へ連れて行き、状況を記録しました。診ていただいた小児科の先生からは、「暴力を振るう子は、家庭で同じようなことを受けている可能性が高い」と言われました。
正直、その言葉を聞いたときに腑に落ちました。小学生が、何の経験もなく首を絞める、殴るといった行為に至るとは考えにくい。どこかで見ている、もしくは受けているからこそ出てくる行動です。暴力は連鎖します。
だからこそ、私は直接その親と話をするという選択は取りませんでした。同じ認識の土台に立てない可能性が高いと判断したからです。
担任と管理職と話をし、行政にも入っていただき、この件は重要事案として扱われました。そのうえで弁護士を入れ、相手側に内容証明を送りました。事実関係を明確にし、責任を曖昧にしないためです。結果として、正式な謝罪をさせました。
ここまでやるのか、と思われるかもしれません。ですが、首を絞めるという行為は殺人未遂です。ここで曖昧にすれば、「これくらいなら許される」というラインを子どもに示してしまうことになります。
その後も息子が堂々と登校できるように、きっちりと線を引いただけです。
6.結び
ここまで書いてきたことを振り返ると、不登校になるかどうかは、出来事そのものよりも、そのときに大人がどう動いたかに大きく左右されると感じています。
環境の影響は確かにあります。ですが、それ以上に決定的なのは、親が子どもの現実を直視するかどうかです。
見ないふりをするのか、「そのうち落ち着く」と言って時間に任せるのか、
それとも、事実を受け止めて動くのか。
この差が、その後を分けます。
私は、子どもに我慢をさせて守るのではなく、環境を変えて守る選択をしました。必要であれば外の力も使い、守るための線を引き、不当なことには一切引き下がりませんでした。
不登校という選択が、自分を守るための大切な避難所になることもあります。
ただ、もし親の初動によって、子どもの絶望が「安心」に変えられる可能性があるのなら。
腫れ物に触れるように問題から目を逸らすのではなく、しっかりと子どもの隣に立ち、盾になること。その覚悟が、子どもが再び前を向くための力になると信じています。
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