ナワリヌイが夢見た国、カナダはまだそこにあるか
30年前、カナダで暮らし始めたころの話。
Canada is the best country to live in. (カナダは世界一住みやすい国)と、カナダ以外に住んだことのないカナダ人が言っているのをよく耳にしました。
外国に住んだことがない人がそれを言うのか?と思った当時の私、若かったよ。
その頃のカナダ人同僚がキューバのリゾート地で休暇を過ごし、帰ってきて開口一番「キューバの人って、貧乏で可哀想」。
グローバルノースの傲慢、ここに極まれり。しかし若き日の私も傲慢でありました。その言葉を聞いて思ったのが、「いやそれキューバの人に失礼じゃね?カナダ人より貧乏でも幸せかもしれないし!!」だったから。
つまり、経済事情を相対化して「貧乏な国は貧乏なりに良い」と認識するのがリスペクトだと思っていた自分。恥ずかしいです。
あれから30年経ちました。「カナダは世界一住みやすい国」説、最近はあまり聞かなくなりました。アメリカほどではないにしろ、貧富の差は広がり、政治は分断し、「住みやすい国」の大きな根拠であった医療制度は崩壊寸前です。
先日、アレクセイ・ナワリヌイの自伝を読み、彼が理想とする自由なロシアが「カナダのような国」であったことを知りました。
人口密度が低く、天然資源に恵まれ、国民みんなが豊かな暮らしをしている北の国。プーチンが国民のものであるべき富を盗まなかったら、ロシアはカナダのようになれたはず。
カナダ人として、とても複雑な気持ちになりました。
カナダにしか住んだことがないのに、国民が「ここが一番」と実感できる国は、確かに素晴らしい国だったのでしょう。しかしその豊かさは、グローバルサウスの犠牲のもとに成り立っていました。
ソ連崩壊を十代で経験し、混乱と腐敗に満ちた1990年代のロシアで青年期を過ごしたナワリヌイ。彼にとって、法が機能し、誰もが一定の暮らしを保障される社会は、ロシアが目指すべき理想だったのでしょう。
自伝の中では、物質的な豊かさを渇望するロシア庶民の姿が描かれています。故郷の新潟でも、ロシア人が新潟市内のデパートの豊かさに涙を流し、抱えきれないほどの買いものをしていく、という話を聞いたことがあります。
ナワリヌイが「カナダのような国」を夢見た気持ちはよくわかります。けれど、その夢が西側モデルの無邪気な輸入であったなら、そのモデル、憧れちゃダメなやつです、と言わなければなりません。
かつての「豊かで善良な国カナダ」は、構造的不平等のもとに築かれていました。(キューバの人貧乏で可哀想、でも私たちカナダ人はお金を落として楽しませてもらうんだからいいわよね?)
不平等を基盤に豊かさを生むグローバリズムは、経済合理性優先でカナダの福祉国家モデルを蝕み、いまやかつての「世界一住みやすい国」に格差と断絶をもたらしています。
住宅価格は天井知らずに上がり、中流階級の凋落が始まり、リベラル政権への不信はメープルMAGAと呼ばれるポピュリズムの波をもたらしました。
2020年代前半。ワクチン義務化や環境税に反発するメープルMAGAが、「カナダは独裁国家だ」「ジャスティン・トルドー(前首相)はプーチンと一緒だ」と言い出すに至り、カナダの幸せな時代は終わったと感じました。
多分、メープルMAGAの多くはナワリヌイという人物の存在も知らないのでしょう。プーチン政権の暴力と腐敗と中で命を賭して闘った人がいるのに、「ワクチン義務化はプーチン並みの独裁だ」という言葉は、比喩としても破綻しています。
「カナダは独裁国家だ」という言説と、「カナダのような国になりたい」というナワリヌイの夢が、同じ時代の中で、同時に存在している奇妙な国、それがカナダの現状です。
かつての私は、「カナダは世界一住みやすい国」と聞いて、うっすら違和感を持ちながらも、「豊かさとは、他の国より快適で安全であること」だと思っていました。
「アジア人はみんな貧乏」だと思っているカナダ人から、「これ使って」と古着や不用品をもらうことがありました。「日本人、貧乏じゃないんだけどな」と苦笑したものです。あれは「豊かさランキング」に参加していないと出てこない苦笑でした。
今、豊かさの定義とは、「格差を拡大しないこと」なのだと思います。
格差が拡大すると民主主義も衰退する。それは日本も含め世界中で起こっているポピュリズムの波を見ると明らかです。
さんざん豊かさを享受してきた人間が、今それを言うのはずるい。そうかもしれない。
それでも、過去30年のカナダを美化するのは、ちょっと違う、と言っておかなければなりません。
ナワリヌイ自伝、感想文はこちら:
