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海の図書館【2】

1話

2 漂う者

 火喰は漂う者だった。表層海流にのって東から西へ。深層海流にのって西から東へ。自分がどこで生まれ、何のために存在しているのかもわからない。ただ、世界の海を果てしなく巡ることだけが生の証しだった。
 旅の途上で出会う光景は、いつも彼の好奇心をかき立て、さらに未知なるものへの渇きを呼び起こした。
 はるか彼方まで連なる海嶺を尾根伝いにたどり、壮大な景色に見とれたこともあった。海底火山の噴き上げる熱水を目にしたときは、胸の奥が震えるほど興奮した。海底平原に降り立っては深い沈黙と対話し、海溝の縁に立つと、悠久の時の流れに己の小ささを感じた。
 漂い、見つめる――それが、火喰という存在の唯一の意味であった。
 他者と交わす言葉など、ほとんど必要なかった。
 
 それは偶然だったのか運命だったのか、彼はある日、海の底の図書館にたどり着いた。遠くから魚の群れ越しに書架が現れたときには、珊瑚礁の迷宮のように見えた。近づいてみると、書棚に隙間なく並んだ本の静謐な存在感が、彼の好奇心を沸きたたせた。
「触らないで」
 火喰が書架に手を伸ばしたとき、背後から冷ややかな声がした。驚いて振り向くと、そこに立っていたのは月夜だった。すらりと背が高く、切れ長の目が真っすぐに彼を見据えていた。
 火喰は長い間一人だったので、うまく言葉が出てこなかった。苦労して唇から絞りだしたのは、問いかけだった。
「これは……なに?」
 月夜は質問には答えずに、火喰を見つめたまま静かに近づいた。そして本に伸ばしていた彼の手をそっと取り、書架から遠ざけた。火喰は自分の鼓動が速まるのを感じていた。
 
 生まれてからずっと漂い続けていた火喰が、初めて一つの場所に留まった。彼の楽しみは、図書館で、粛々と司書の仕事をこなす月夜を眺めていることだった。
 授け台で本を“向こう側”に送る儀式は、彼にとって神秘そのものだった。月夜が「掛けまくも畏き海の大神よ――」と、送り言葉を唱えるとき、頬に赤みが差して、とりわけ魅力的に火喰には感じられた。
 時には、館長の流浪と旅の思い出を語り合った。かつて同じように海流を渡っていた流浪は、懐かしそうに頷きながら火喰の話を聴いていた。
 
 火喰が海の底の図書館に居着いてしばらく経った頃、月夜は花音を産んだ。司書の仕事に明け暮れている月夜は、娘を顧みることが殆どなかった。火喰が幼い花音の面倒を見て、花音も火喰に懐いていた。
 火喰は、自分が旅の中で出会ったさまざまな海の風景や出来事を、物語に変えて花音に話して聞かせた。花音は、初めて聞く世界の話に目を輝かせて夢中になっていた。火喰の心の中には、初めて得た家族というものへの愛しさに、戸惑いと喜びが芽生えていた。

 あるとき、火喰と花音は、書架の間で隠れん坊をしていた。立ち並ぶ書架は恰好の遊び場で、二人とも書物そのものにはあまり関心がなかった。
 花音に隠れて書架に身を寄せていた火喰は、ふと目の前の本に目が留まった。その本はまだ未成熟だったが、背表紙には既に題名と著者名が浮かび上がっていた。
『海遊記――火喰』
 そこには、火喰自身の名が刻まれていた。彼は混乱し、その本から目が離せなくなった。
――同じ名前の誰かが書いたのか。
 未成熟の本に触ってはいけないと月夜から言われていたが、火喰はどうしても中を見たくなった。まだ少し柔らかい本を慎重に書架から引き抜き、開いてみる。そこには、まぎれもなく彼自身がこれまでの旅で経験してきた海の光景と、その場で自分が感じた思いが克明に記されていた。
「どういうことだ」火喰は思わず呟いた。
 頁を捲っていくと、途中から真っ白になった。まだ整っていないのだ。そして最終頁には、一言だけ書かれていた。

『――青空だった』

「青空?」
 深海に暮らす火喰にとって、海面よりも上は禁忌の世界だった。たとえ憧れても、行ってはならないと本能が教えていた。空を見ることなど――
「あり得ない」
 火喰はそっと本を閉じて書架に戻した。動悸が止まらなかった。
「父さま、見つけた!」花音が書架の影から現れた。
「ああ、花音の勝ちだよ」
 火喰は上の空で応えた。

 次第に、火喰は気持ちが落ち込むようになった。海流に乗って旅をしていた日々が懐かしく思い出され、またあの心躍る日々に戻りたいと思うようになった。今はただ日がな一日、図書館の前の岩に腰かけて、行き交う魚たちを眺めるばかりだった。
「父さま、見て」
 花音が、海星の形の折り紙を、幾つか手のひらに乗せて見せに来る。
「うまく折れたでしょう。父さまに一つあげる。どの色が好き?」
 花音が火喰の顔を覗き込む。火喰は目を逸らせた。
「僕はいらないよ。花音が全部持っていたらいい」
 花音は目を伏せると、折り紙を足元に落として言った。
「ねえ、遠くの海のお話聞かせて」
 火喰は立ち上がった。「また今度ね」

――僕は、ここに長く居すぎたのかもしれない。
 自分の名前が書かれた、あの本を見つけたときから、心の奥にうずまいていた思いが、はっきりと形を取り始めていた。
――僕は、もう一度、旅に戻らなければならない。この物語を、僕自身の手で最後まで描ききるために。
 そしてある日、誰にも告げることなく、火喰は静かに姿を消した。月夜も流浪も、それが避けられない別れであると、あらかじめ知っていたかのように、何も言わなかった。 
 父がいないと気付いた花音が、月夜に尋ねた。
「父さまはどこ?」
「もう、ここにはいません」月夜は抑えた口調で答えた。
「どうして――どこへ行ったの?」
「彼はもともと漂う者でした。どこへ行ったのかはわかりません。」
 それ以上、月夜は何も語らなかった。
 
 火喰は再び海流に乗って旅を始めた。
 彼が海の底の図書館に留まっていたのは、どれくらいの期間だったのだろうか。海の世界はすっかり様変わりしていた。
 あるときは、見渡す限りの白化した珊瑚礁を見た。またあるときは堆積した死骸、吐き出された廃液、奇怪な掘削機械、そして大量の廃棄物の山を見た。
 おかしな光景を見るたびに、そこにいる者に尋ねてみると、「あいつらのせいだ」と誰もが言うのだった。
――あいつらとは誰なのか。
 火喰はふと、図書館にあった膨大な書物を思い浮かべた。月夜が恍惚の表情で送り出していたあの書物は、いったい何だったのか。海がこの様な変貌を遂げたことと、何か関係があるのだろうか。火喰は、この現状を月夜や流浪に伝えた方がいいのではないかと思い始めた。
 その時、黒い影が火喰の頭上を覆った。いつものような船だろうかと見上げたとき、途轍もなく大きく膨れ上がった禍々しさが、彼をのみ込んだ。
――何かが違う。
 火喰は焦りを感じた。
――ここから逃げなくては。
 本能がそう叫んでいた。しかしどこにも逃げる場所などないし身を隠せるような物陰もない。火喰は、生まれて初めて、この海から外へ出たいと思った。初めて、海の上を目指した。
――上へ、上へ。
 自分が泳いでいるのか、海水に押し上げられているのかわからなくなった。得体のしれない死の恐怖が胸を押しつぶした。
 ふいに、花音の無邪気な笑顔が彼の脳裏を掠めた。
――可愛い花音。僕に向けた愛くるしい瞳。僕をあんなに慕ってくれたのに、僕は君の手をふり払ってしまった。僕はただ、もっともっと世界を見たかったのだ。僕にはそれしかないから。僕の花音――赦してほしい。
 巨大な振動に弾き飛ばされた。
 月夜の後ろ姿が現れ、振り向いて微笑んだ気がした。
――月夜にもう一度会いたい。話したいことがたくさんあるんだ。
 海面から飛び出すと同時に、火喰の身体は魂もろとも破裂した。
 最後に見たのは――湧き上がる茸雲の向こうに広がる――青空だった。

 *    * *

――愛する月夜へ
 僕は、僕の物語に、こう付け加えよう。
 僕が見た空の青さを、君に伝えたいけれど、その言葉が見つからない。
 君が鮮やかに仕分けていた分類番号の中に、この青はない。
 ないけれど、その青は、確かに、そこにあった。

 


3話
(全10話)

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