海の図書館【3】
3 クジラの歌
父の火喰が去ってから、花音はいつも一人で遊んでいた。
海の中は、音楽に満ちている。小さな魚たちの群れが奏でる、幾重にも連なる輪唱。ゆれる海藻の浮かれた鼻歌。珊瑚たちは色とりどりに、鼓動で競い合っている。
花音が最も心を震わせるのは、遥か彼方から響いてくるクジラの歌だ。それは、祈りのように、厳かな予言のように届く。時に、仲間クジラの返歌が、別の方角からゆったりと伝わって来る。そんなとき花音は目を閉じて、クジラたちの長い時間と距離を隔てた会話にじっと耳をすますのだ。
花音は、はじめ図書館の本には興味を持たなかった。本は歌わないからだ。花音にとっては、海に広がる賑やかな世界のほうが魅力的だった。
流浪が昼寝をしている間に、彼のエチゼンクラゲに乗って、あちらこちらへ出かけるのも好きだった。海蛍を捕まえて手の中で光らせてみたり、立ち泳ぎしている竜宮の使いに並んで真似をしてみたり。遊びに夢中になりすぎて迷子になっても、エチゼンクラゲが連れて帰ってくれるので安心だった。
あるとき花音は海底に沈んでいるクジラの骸を見つけた。腐肉はあらかた死肉喰いに食べられたあとらしく、骨格だけになっていた。それでも、巨大な頭蓋骨は威厳を保ち、いまだ海の王者の風格を漂わせていた。
花音には、クジラが布を被っているように見えた。仄かにきらめく光がまとわりついていたからだ。
「誰かが、このクジラに着物を着せてあげたのね」
近づいてみると、骨にはびっしりと細長い糸のような生き物が取り付き、微かな生命のざわめきを放っていた。耳を澄ませば、それらもまた小さな歌を口ずさんでいる。リオラは恐れを忘れ、その歌に導かれるように、頭蓋骨の中に入った。
そこは、祈りと記憶の残響が満ちる、静謐な大聖堂だった。死したクジラは、その身を差し出してなお、無言の讃歌を奏で続けているようだった。花音は、生と死を超えて紡がれる命の連なりに心打たれた。自分と、この骨となったクジラと、周りの小さな命たちが、どこか深い場所で確かにつながっている――その思いが、胸を満たした。
いつものように書架の点検をして回っている月夜の背中に、花音はそっと話しかけた。
「母さま。今日、大きなクジラの骨を見つけたの。なんだか、とても……」
月夜は振り返らずに言った。
「クジラについて知りたければ、分類番号4の棚を見てみなさい。ただし触ってもいいのは成熟している本だけです。わかっていますね?」
「……はい」
花音が、自分の小さな世界に起きている、真珠の輝きのような日々の出来事を月夜に伝えても、返ってくるのはいつも分類番号の数字だった。それは冷徹な正確さで、花音を沈黙へと追いやった。彼女はただ静かに、月夜の傍を離れるしかなかった。
月夜は、花音が図書館に興味を持たずに遊びに行ってばかりなのを放っておいた。
――きっと火喰に似たのだ、いずれ出て行ってしまうかもしれない。
それならそれで良い、とさえ思っていた。花音に司書としての教育をするべきなのはわかっていた。しかし心の底には、この図書館のすべてを把握しているのは自分であるという誇りと、他の者に――たとえ娘でも――触れられたくないという複雑な思いがあった。
月夜が何より愛しているのは、分類そのものだった。
1 哲学
2 歴史
3 社会科学
4 自然科学
5 技術
6 産業
7 芸術
8 言語
9 文学
1から9の数字と、割り当てられた分類が、とても美しいと彼女は思っていた。分類に従い整然と並んだ本が、書架の中で位置を間違えられたりすることは、最も嫌悪することだった。
この世界にあるものは、すべて整然と分類され、順序をつけて並べることができる――こんなに確かで明快なことがあるだろうか――と月夜は思っていた。本の背に分類番号の札を貼ることは、彼女にとって世界の座標を定める行為だった。この秩序を誰にも乱されたくなかった。
花音は、初めて自分から本を探してみようと思った。分類番号4の一角には、動物学の本が集められていた。その中から、クジラについて書かれた本を探した。そして、目指す本を見つけたとき、これまで感じたことのない高揚感を覚えた。
本の背が、花音に語りかけていた。
《よく見つけてくれましたね》
指をかけ、そっと引き抜く。それだけで鼓動が速まった。
表紙は、深く澄んだ青だった。
「海の色だ」花音は表紙をなで、その手触りを楽しんだ。
表紙を開き、さらに頁をめくる。そこに並んだ未知の言葉たちに引き込まれていった。
「鯨骨生物群集――」見てきたものの、名前を知った。
花音はその場に座り込み、夢中になって読み始めた。海を巡るのとは違う言葉の昂揚が、彼女の中になだれ込んできた。
しかし、クジラの頭蓋骨の中で感じたあの神秘的な感覚については、どの頁にも書かれていなかった。
――もっと、知りたい。
花音は、触ってはいけないと禁じられているまだ柔らかい本に、そっと手をのばした。
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