海の図書館【4】
4 無知の知
「掛けまくも畏き海の大神よ――」
月夜が送り言葉を唱え、本が“向こう側”へ送られた。傍らで聞いていた花音が、ふと口にした。
「海の大神、というのはクジラのこと?」
花音は、鯨骨生物群集での神秘的な体験を思い出していた。
月夜は、少し考えてから答えた。
「クジラは……確かに、神に最も近い存在かもしれません。でも神そのものではありません。神は……」
彼女は、言い淀んだ。
「目には見えないのです」
花音は少しずつ、海の底の図書館での司書の仕事を、月夜から学んでいた。
目録を作る作業をしながら、花音は尋ねた。
「分類番号は、どうやって決まったの?」
月夜の手が止まった。分類番号――それは、彼女にとって世界の秩序を形作る絶対の法則であり、疑問を差し挟む余地などないものだった。
「はじまりは……渾沌だったといいます」月夜は、記憶を辿るように語り始めた。
――渾沌。花音の心の中には、成熟前の柔らかい書物たちの姿が浮かんだ。
「書物がまだ珍しかった頃は、図書館の本は棚や書見台に鎖でつながれていたそうです。目録は、ただ書名を並べただけの粗いものでした。分類も、たとえば悲劇と喜劇、聖と俗……あるいは、歴史・詩・哲学という三つの枠しかなかった時代もあったそうです」
「分類が三つだけ?」花音は目を丸くした。
「知識は増え続けます。書物に記された叡智は広がり、やがて1から9までの九つで、この世界のすべてを整理できるようになったのです」
月夜の夢みるような眼差しには、分類という秩序に対する確信と誇りが宿っていた。
ある日、月夜が書架の間を歩いていると、通路に一冊の本が落ちていた。それは白い紙に包まれた、未成熟のまだ柔らかい本だった。月夜はすぐさま拾いあげると、花音を呼んだ。
「花音、これはどういうことですか。未成熟の本に触ってはいけないと、あれほどいつも言っているでしょう。しかも書架に戻さず床に置くとは、とんでもないことです」
花音はいきなりの月夜の権幕に、すっかり萎縮しながらも懸命に訴えた。
「私じゃない。本当に知らないの」
「他に誰がこのようなことをすると言うのですか」
「わかりません」
「二度としないこと。もう行ってよろしい」
花音は俯いたまま、その場を離れた。
月夜は白い紙に包まれた本を片手に、書架の間を見て回った。
「なんてこと。どこに戻せばいいのか、わからなくなってしまった」
月夜はその本を、図書館の片隅にある、使われていない空の書架に一旦置いた。
その日を境に、海の底の図書館に「分類不能の書架」が生まれた。
白い紙に包まれた本はそこに収められ、やがて不思議なことにその書架には新たな本が次々と現れ始めた。月夜は、分類不能の本が増えていくことを忌々しく思いながら、本を包んでいた白い紙を書架の側面に貼り付け、自らの手で分類番号を書き記した。
0――と。
『神は目に見えない』と月夜は言った。しかし、それがすべてではない。花音は月夜が何もかも知っているわけではない、ということを知った。花音の中に、これまで受け入れてきた世界への疑いが芽生えた。
花音は、自分がこの図書館の司書になり、本を”向こう側”へ送るところを想像した。
――掛けまくも畏き海の大神よ――自分の神を見つけるまでは、この送り言葉を唱えることはできない。彼女はそう心に決めた。
花音は、分類番号0の紙が貼られた書架に通い詰めるようになった。
耳を澄ませると、そこの本たちは小声で囁いているようにも感じられるし、歌っているようにも、遠い信号を発しているようにも聴こえてくるのだった。
花音は、神について書かれている本を探した。月夜から触ることをきつく禁じられている未成熟の本をそっと引き抜く。
「構わないわ。どうせもう、言いつけを破っていると思われているのだから」
その本の題名は『機械の神』だった。柔らかく、手に載せると細かく震えていた。表紙は灰色で、中の文字はまだ、少ししか現れていない。
――かつて存在した機械の神は――隷属させ――劣化を招き――
「これは違う、私の探している神じゃない」花音は本を戻した。
その隣の『名無しの神』という本を手に取った。表紙は白く、題名さえも白かった。
――初め、神々は言葉も名も持たざりき。
王たる神はその名を刻み、永劫の時を望みけり。
しかして天と地に秩序興り、記しの業が生まれけり。
だがこれに抗う者ありき。
遍くものに名を与えることを拒み、
死者の名を記さず、獣も大地も語らず、海に印を刻まず、
深い黙祷のうちに息づきたり。
彼らの神は、ただ無の相にして、記憶を抱かず、
あらゆる区分けをも拒みたまえり――
花音はその文章を何度も繰り返し読んだ。
「名を残して永遠に刻まれるか、名を持たずに、ただ透明にそこに在ることを選ぶか――」
この神話は、花音の心の中に静かに沈み込んだ。
三番目に取り出した本の表紙は黒一色だった。じっと眺めていると、闇の中央に針の孔ほどの光が生まれ、二つ、三つと増え、楕円を描いて回り始めた。光は星となり、星は星雲を形づくった。
やがてその動きが止まると、花音は息を呑みながら慎重に表紙を開いた。
* * *
~二頭の王の物語~
夜だった。何も見えない漆黒の闇だ。
二つの光る点が現れた。ゆらゆらと、しかし確実な足取りで近づいてくる。獣王だ。反対側からは、漆黒よりも黒い影が上空より音もなく舞い降りた。天翔王だ。二頭の王は、宇宙との境にある峻嶺の、雪の残る頂で向かい合った。
獣王が口を開いた。
「天翔王に問う。虚無とは何か」
天翔王は羽根を膨らませて身震いした。
「虚無とは、鶏の片目」
「どういう意味だ?」
「鶏が右目で物を見る時、左目が見ているものが虚無だ」
「ふむ」
「では、こちらの番だ。獣王に問う。誇りとは何か」
獣王は鼻面で足元の雪を掻いた。
「誇りとは犀の角」
「どういう意味だ?」
「無くても困らないものだ」
「それはどうだろうな、角がなかったら犀は困るのでないか?」
「いや、ないほうが密猟されなくてよい」
「ふむ」
「ではまた、次の巡りの時に、ここで会おう」
「うむ」
二頭の王は、またそれぞれが来た方角へ去っていった。
* * *
花音が目を開けると、そこはクジラの頭蓋骨の中だった。夢と現実の境が溶ける中、彼女はしばらくぼんやりと座り込んでいた。
その日、クジラの骨は、静かに沈黙していた。
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