見出し画像

三島由紀夫と寺山修司

武智先生の投稿を読んで、
三島由紀夫と寺山修司は対談してたはず と思ってググってみました。
バナーの寺山追悼の『ペーパームーン』持ってた筈なのに見つからない。

雑誌「潮」の1970年7月号。三島が自衛隊で自決したのが同年11月25日。
三島が寺山を嫌いなのはなんとなくわかる。

下記の「抵抗論」も同じ対談のことだと思われる。
『エロスは抵抗の拠点になり得るか(から抜粋)』

三島が『椿説弓張月』をやって芝居に徹底的に飽きた と言っているのは面白い。実際の芝居の演出はめちゃめちゃ現世的なものだし。

芝居といえば、私は勿論三島の戯曲も好きなんだけど、『女方』が好きなんだよね(新潮文庫『花ざかりの森・憂国』所収)。

で、見つけたのをどんどん貼ってみる。
この投稿は、武智先生の投稿にコメをつけようとしてググりだしたのが勿体ないだけの覚書だからw
三島と寺山について を、ゆっくり考えている余裕は今はないw

きわめて演劇的に自分の最期を決定した文学者・三島由紀夫と、

「短歌による文壇デビュー以降、評論、詩、演劇、映像などに多彩な才能を開花させていくが、寺山にとっては別ジャンルの媒体ではなく、同時に繰り広げられていく世界のものであった。狭いひとつのジャンルに留まることなく、寺山自身のいわば寺山ワールドを様々な形で繰り広げていくのが寺山の芸術の大きな特徴であり、後に「職業は寺山修司です」と自称した寺山は、コラージュ、モンタージュ等の技法を駆使し、事実と虚構が入り混じる世界を構築していった。
1955年、19歳の寺山はすでに

ほんとに自分に誠実であるためには、どんな手段でもとっていいたいことをいうべきだ。そこになんかの形で修飾や風刺や、演技ということが入ってくるんで、そういうものを見ると目の色変えてポーズだなんてけなすのは滑稽だと思う。彼らにはほんとにいいたいことがないってことじゃないか……

と語っている。「チェホフ祭」で第二回「短歌研究」新人賞を受賞。混合性腎臓炎で社会保険中央総合病院入院1955年(昭和30年)、ネフローゼ診断されて長期入院となり、翌年、在学1年足らずで退学、生活保護を受ける。この時代の輸血技術は洗練されたものではなかったが、当時としては唯一の治療法であった。また、前述の説明を医師から受けた寺山は、この頃から自身の死を意識し始め、友人の横尾忠則に「長くは生きられない」ともらしていたと言う。そして、実際これが晩年の肝硬変を引き起こしたと言われている。」(Wikipediaより)
という、謂わば若い頃から病魔に魅入られた寺山修司(雑な括り方だし、Wiki引用で武智先生に怒られそう)。

寺山は「私の墓は私の言葉で充分」と言ったが、彼の著作は膨大且つ多岐に渡っていて、それらがすべて「テラヤマ・ワールド」を形成し、しかも短歌でデビューした際に物議を醸したように、オリジナルの神聖さなどというものとは無縁なのだ。

その誤読を超えた換骨奪胎ぶりは、文学よりも演劇的な身振りなのかもしれない。

ああ、なにも言わないで、単に検索したURLの貼り逃げをしようと思っていたのに、余計なことを書いている。

最後に。
前回、昭和精吾さんのYoutube『アメリカよ』の動画を貼ったんだけど、
あれはあくまでも寺山さんの詩の朗読なので、
寺山演劇というものはまたおのずから別で、それを更に、
令和の閉塞した日本にぶつけていく、
吉野翼企画「虚構喜劇『野外劇 観客席』をよろしくお願いいたします。



いいなと思ったら応援しよう!