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「本音」はどこから凶器になるのか:W杯の炎上騒動と『Radical Candor』の教訓

こんにちは、うさぎ部長です!

先日行われたサッカーW杯決勝トーナメント1回戦、パラグアイ対フランスの一戦をご覧になった方も多いのではないでしょうか。試合はエムバペ選手のPKによる1-0でフランスが勝利しましたが、ピッチ上では激しいラフプレーが目立つ、お世辞にもクリーンとは言えない展開でした。

サッカーの世界には、ルールを戦略的にグレーに解釈する「マリーシア(Malícia:ずる賢さ)」という概念があります。しかし、この試合で見られたプレーの多くは、そんな戦術的な駆け引きの範囲を超えた、単に荒っぽいだけの応酬だったように感じます。

そして事態は、試合後にピッチの外でさらに悪い方向へと転がっていきました。

パラグアイのセレステ・アマリージャ上院議員が、SNS上でフランス代表のキリアン・エムバペ選手に対する一連の投稿を行ったのです。その内容は、エムバペ選手の出自、生い立ち、教育、容姿までを嘲笑する、極めて差別的なものでした(内容があまりに酷いため、ここでの引用は控えます)。

この投稿は瞬く間に国際問題化しました。エムバペ選手本人が「あからさまなレイシズム」と強く非難し、フランスサッカー連盟(FFF)は「言語道断で容認できない」として刑事告発。パリの検察当局は、公然侮辱と憎悪扇動の疑いで捜査を開始しました。マクロン大統領までもが「エムバペのもう一つのゴール。今度はレイシズムに対して」とSNSで投稿する事態です。

一方のパラグアイ政府も、外務省名義で「議員の発言は政府ともパラグアイ国民とも一切関係なく、我が国が推進する人間の尊厳の尊重に反する」と、自国の議員を公式に非難する声明を出さざるを得なくなりました。

この騒動を見ていて、私はビジネスや組織マネジメントにおける一つの重要な問いを考えずにはいられませんでした。

「正直であること、率直(キャンダー)であることは美徳とされるが、一体どこからが『害』になるのか?」

近年、マネジメント手法として「本音」の重要性が注目されていますが、今回の騒動は、正当な怒りや本音を免罪符にしたときに起きる「コミュニケーションの暴走」の最悪のサンプルだと感じます。

■ 1. 『Radical Candor(徹底的な本音)』の真の教訓

シリコンバレーを中心に、組織マネジメントの分野で広く支持されている一冊に、キム・スコット(Kim Scott)氏の『Radical Candor(邦題:GREAT BOSS)』があります。

この本で提唱されているのは、組織の心理的安全性と成長を両立させるためのコミュニケーション・フレームワークです。しかし、この「徹底した率直さ」という言葉は、しばしば「心に浮かんだ残酷なことを何でも口にしていい免罪符」だと致命的な誤解をされがちです。

スコット氏は、真のラジカル・キャンダーには以下の2つの軸が同時に不可欠であると説いています。

  • 心から配慮する(Caring Personally)

  • 直接伝える(Challenging Directly)

相手へのリスペクトや人間としての尊厳への「配慮」を欠いたまま、ただ「直接伝える」ことだけを行うと、それは率直さではなく、単なる「不快な攻撃(Obnoxious Aggression)」になります。

ここで注目したいのが、アマリージャ議員自身が後に語った「投稿の理由」です。議員は、自分の怒りの原因はエムバペ選手の「傲慢さと侮蔑的な態度」、特に「我々のゴールキーパーとの握手を拒否したこと」に深く傷ついたためだと説明しました。

つまり、彼女の側から見れば、そこには「正当な不満」があったわけです。しかし、その不満の対象は相手の「振る舞い」だったにもかかわらず、実際に攻撃したのは相手の出自や容姿という、本人にはどうすることもできない「属性」でした。(特に外資系ではセクハラと並んで一発でクビになる、一番やっちゃダメな奴です)

これは率直さが行き過ぎたのではありません。正当な怒りを入り口にしながら、偏見を武器として持ち出してしまった、まさに「不快な攻撃」そのものだったと言えます。

■ 2. 本音が「凶器」に変わる4つの境界線

では、私たちが日常やビジネスシーンで意見を交わす際、率直さが「有益なフィードバック」から「有害な攻撃」へと変わる境界線はどこにあるのでしょうか。今回の騒動は、その境界線を驚くほど鮮明に見せてくれています。

① 行動ではなく「アイデンティティ(属性)」を攻撃しているとき

  • 有益な率直さ: 「あの場面での振る舞いは、スポーツマンシップに欠けていた」(改善可能な「行動」に焦点を当てている)

  • 有害な攻撃: 相手の国籍、人種、育ち、容姿など、変えることのできない「不変の特性」を攻撃すること。

アマリージャ議員の不満が本当に「握手の拒否」にあったのなら、批判すべきはその行動だったはずです。「一国の代表選手として、あの振る舞いは敬意を欠いていた」という批判であれば、フランス国内からも一定の同意を得られたかもしれません。しかし彼女が実際に投稿したのは、相手の存在そのものを否定する言葉でした。行動への批判は対話を生みますが、属性への攻撃は尊厳の略奪でしかありません。

② 目的が「構築」ではなく「破壊」にあるとき

その言葉の「意図」が最大の試金石です。真実を語る目的が、問題を解決するため、あるいは相手の成長を願ってのこと(構築)でしょうか。それとも、相手に恥をかかせ、自身の怒りをぶちまけるため(破壊)でしょうか。目的が後者であるなら、どんなに正論を混ぜてもそれは暴力です。

③ 感情の暴走を「正直さ」と言い換えているとき

アマリージャ議員は後の釈明で、「投稿はカッとなった勢いで書いたもので、血が煮えたぎっていた」と語っています。この釈明こそが、多くの示唆を含んでいると感じます。

「カッとなって本音が出た」は、正直さの証明ではなく、感情コントロールの敗北の告白です。私たちは「自分は裏表のない正直な人間だから」という自己認識を、感情の暴走の言い訳に使ってしまいがちですが、その瞬間に語られているのは「真実」ではなく、ただの「鬱憤」です。

④ 権力関係や「文脈(シチュエーション)」を無視しているとき

公の舞台やSNSのような影響力の大きい場所で個人の不満をぶちまけることは、対話ではなく「公開処刑」や「パフォーマンス」に変貌します。特に影響力を持つ立場(政治家やマネージャー)がこれをやると、周囲に計り知れない二次被害をもたらします。一議員の個人的な投稿が、パリ検察の捜査と両国政府の外交対応にまで発展した今回の顛末は、その最たる例ではないでしょうか。

■ 3. 「昔はそれが普通だった」は免罪符になるのか

さらに興味深いのが、その後の記者会見でアマリージャ議員が語った「弁明」です。自身の投稿が差別的であったことを認めた上で、議員はこう説明しました。

「ゲイが殴られ、黒人への蔑称を口にするのがごく日常的だった世界を生きてきた、62歳の人間が学んできたことなのです。私は今、自分自身を脱構築している最中です。どうか辛抱強く見守ってください」

一見、誠実な自己開示にも聞こえます。実際、彼女が語る「時代」が存在したことも事実でしょう。しかし、この弁明には二つの決定的な問題があると感じます。

一つ目は、「育った環境」を「現在の行動」の免罪符にしていることです。価値観の形成に時代の影響があるのは当然ですが、社会規範が変わったことを知りながらアップデートを怠るのは、環境のせいではなく本人の選択です。ましてや彼女は一国の上院議員、つまり公の発言力を職業とする立場にあります。「昔はこう言うのが普通だった」は、影響力を持つ人間が最も口にしてはいけない言い訳ではないでしょうか。

二つ目は、そのアップデートが「口先だけ」であることを、本人が同じ会見で証明してしまったことです。「脱構築している最中」と語ったその席で、議員はエムバペ選手に向けて「私の手紙を読みなさい……もし字が読めるならね」と、再び相手の知性を嘲る言葉を放ち、本人への謝罪も明確に拒否しました。変わろうとしていると宣言しながら、その舌の根も乾かぬうちに同じパターンを繰り返す。価値観の更新とは、宣言ではなく行動で示すものだということを、皮肉な形で教えてくれています。

ここで少しだけ、想像をたくましくしてみます。おそらくアマリージャ議員は、母国のコミュニティでは「歯に衣着せぬ物言いの人」として一目置かれてきたのではないでしょうか。実際、過去には国内の政治家たちを痛烈に批判して物議を醸した経歴もある方のようです。日本風に言えば、いわゆる「サバサバ系」。忖度なしにズバッと言ってくれる姉御肌のキャラクターは、価値観を共有する身内の中では「あの人は裏表がなくて頼れる」という好意的な評価につながっていた可能性は十分にあります。

ただ、ここに率直さの厄介な性質が潜んでいます。「ズバッと言うキャラ」が武器になるのは、あくまで文脈と価値観を共有する仲間内での話だということです。国内の政治論戦で鍛えた切れ味を、そのまま国際舞台に持ち出した瞬間、頼れる姉御は一夜にして外交問題の火種になってしまいました。日本のSNSでも「自称サバサバ系」がしばしば激しいツッコミの対象になるように、本人が思う「気持ちのいい率直さ」と、周囲が実際に受け取る印象の間には、往々にして埋めがたいギャップがあります。そしてこのギャップは、文脈が変われば変わるほど広がっていくのです。

さらに言えば、文脈は「場所」だけでなく「時間」によっても変わります。こちらは日本のビジネス現場でおなじみの、身も蓋もない言葉で呼ばれる現象です。そう、「老害」です。

ただし、ここは慎重に定義しておきたいところです。老害の本質は「年齢」ではありません。年齢を理由に人を批判するなら、それこそ本稿の境界線①(変えられない属性への攻撃)に抵触してしまいます。老害とは、社会の規範が更新されたことを認識しながら、自分の価値観のOSをアップデートせず、それでいて影響力だけは行使し続ける「姿勢」のことです。だからこそ、20代でも老害的な振る舞いは起こり得ますし、70代でもアップデートし続ける方はいくらでもいます。

組織の中でも、まったく同じ構図を見かけます。「俺たちの若い頃は、これくらいの詰め(徹夜)は当たり前だった」「昔は飲みニケーションで何でも解決できた」と武勇伝的に語る方々が居ます。

こうした言葉が出てくるとき、語り手はたいてい嘘をついていません。本当に、それが普通だった時代を生きてきたのです。しかし、規範が変わった今もその行動を続けるなら、それはもはや「時代のせい」ではなく「明らかに時代遅れの古いOSを使い続ける」という現在進行形の選択です。そして立場が上がるほど、その選択のツケを払うのは本人ではなく、部下であり、チームであり、組織全体になります。

■ 4. 「不適切な率直さ」がもたらす最大の害:組織への泥塗り

今回の件で最も不条理なのは、本来語られるべきだった論点が、完全に別の問題にすり替わってしまったことです。

パラグアイ代表は今大会、歴史的な躍進を見せたチームでした。ピッチ上の荒れたプレーには批判もありましたが、それはサッカーの文脈の中で議論されるべきテーマだったはずです。

しかし、議員が「本音」を免罪符にして公の場で差別を撒き散らした瞬間、世界の注目は「パラグアイ代表の健闘と課題」から「パラグアイの政治家の差別発言」へと完全に移ってしまいました。エムバペ選手自身がこう指摘しています。「あなたの無謀さとあからさまなレイシズムによって、世界はすでに、あなたの国の選手たちがこのW杯で成し遂げた歴史的な戦いぶりを忘れてしまった」と。

結果として、パラグアイ政府は自国議員の発言を公式に否定する声明を出し、国家としての信頼回復に追われる羽目になりました。選手たちが積み上げた誇りに、たった一人の発言が泥を塗ったのです。

さらに皮肉なことに、騒動はそこで終わりませんでした。アマリージャ議員は公開書簡で差別的投稿を撤回しつつも、今度は自分を「卑劣な女」と呼んだエムバペ選手に謝罪を要求し、法的措置まで示唆したのです。攻撃に攻撃で応酬する泥仕合は、こうして果てしなく続いていきます。

これはビジネス組織でも全く同じことが言えます。相手の行動にどれだけ正当な非があったとしても、リーダーが感情に任せて「本音」という名の刃を振り回し、相手の尊厳を傷つけてしまえば、その瞬間に論点はすり替わります。そして、その有害な言動のツケを払わされ、最も泥を塗られるのは、その人物を内包している「組織」や「会社」全体の評判なのです。

■ 結び:共感のない正直さは、単なる残酷さである

もう一つ、この騒動には考えさせられる後日談があります。アマリージャ議員は釈明の中で、自分自身も肌の色やラテンアメリカ出身であることを理由に見下されてきた経験があると語りました。差別の痛みを知る人が、怒りに駆られた瞬間に、同じ刃を他者に向けてしまう。感情の暴走とは、それほどまでに恐ろしいものだと感じます。

相手に明らかな問題があるときほど、私たちは「本音で厳しく指摘する」ことの免罪符を得たように錯覚しがちです。しかし、そこに「共感(Empathy)」や客観的な理性が伴っていなければ、それはただの鬱憤晴らしであり、刃物と変わりません。

率直さが良い変化をもたらす建設的な力となるためには、それがどれほど「リアルな本音であるか」ではなく、「相手の尊厳を最低限リスペクトしているか」、そして「より良い未来を築くための言葉であるか」で測られなければなりません。

ピッチ上のルール違反に対して、言葉のルール違反で返してしまえば、待っているのは全員が泥沼に沈む破滅だけです。発信する力を誰もが手にした今だからこそ、自分の放つ「率直さ」の刃の向きと、その刃を握る自分自身の価値観が今の規範に照らして錆びついていないかを、常に注意深く点検し続ける必要があるのではないでしょうか。

「昔はそれが普通だった」、「最近の若者たちは」と語る側に、私たち自身がいつの間にか立っていないかも含めて。

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