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真理到達不能パラドックスと、僕の現在地

「世界に介入すると、世界の真相は逃げてしまう。」

​ここで言う「世界」とは、私たちが普段生きている息苦しい「社会」の外部に広がる、得体のしれない大きな大海(サムシング・グレート)のことだ。

​哲学者・飲茶先生の言葉をきっかけに、僕はこの「介入」というキーワードに辿り着いた。

人間が世界を理解しようと「思考」を向けた瞬間、それは純粋な真理ではなく、人間の介入によって波立ったあとの「現象」に変わってしまう。知ろうとすることが、世界の真相を別の場所へと逃がしてしまう――これが、僕の思う「真理到達不能パラドックス」だ。

​そしてこのパラドックスは、宗教的な「解脱」や「悟り」の領域でも全く同じことが言える。

​「悟りたい」「世界の正体を見たい」と願って修行に励むこと自体が、実は世界への最大にして最後の『介入』なのだ。「私は悟った」と言葉にした瞬間に、真理は指の間からサラサラとこぼれ落ちていく。

​では、いっそのことすべてを諦めて、大海に自分を「明け渡し(手放し)」てしまえばいいのだろうか?

​確かに、完全に自分を手放せば、一時的に介入はゼロになるかもしれない。しかし、肉体を持った人間がそれをやってしまうと、今度は「社会」へ還ってくるための足場(自我という道具)まで完全に消失し、ただの虚無に溶けてしまう。

​だからこそ、僕は「完璧に世界へ溶けること」を目指さない。

​「世界(量子)」の割り切れなさを自分の内側にそっと含みつつも、いくら不完全であっても「自我」という道具を死守し、たった一つの現実である「社会(古典)」へと還っていく。

​世界への頭での介入(主知)の限界を知ったからこそ、今度は肉体を使って、目の前の社会へ愛を持って能動的に「介入」しにいく番だ。

ウォーキングの作業興奮を楽しむこと。

地域の皆さんのために、配布物をポスティングすること。

​真理に手が届かないという「嬉し残念な余白」があるからこそ、僕は今日も、この足元の社会を泥臭く、愛おしく、生きていくことができる。それこそが、僕の不全自我が選び取った、一番まともで幸福な「世界との付き合い方」なのだ。

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