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46〜50話まとめ 映画5作品をたどったら、最後に一冊の本へたどり着いた。


真理、Identity、父の愛、自由。そして聖書。


マトリックス。
トゥルーマン・ショー。
インターステラー。
ロード・オブ・ザ・リング。
そして、インセプション。

世界観も、ジャンルも、描かれている物語もまったく違う5作品。

でも第46話から第50話まで、自分自身の人生と聖書を重ねながら一つずつ書いてきて、最後に振り返ってみた時、私は不思議なことに気づいた。

違う映画について書いていたはずなのに、全部、一つの方向へ向かっていた。

「私は、何を土台にして生きるのか。」

そして第50話を書き終えた時、私の前には、一冊の本が残っていた。

聖書。

今回は、その聖書の奥深いところまで一気に入るつもりはない。まずは、この5本の映画をもう一度たどりながら、なぜ私は最後に聖書の前へ立つことになったのか。その旅を振り返ってみたい。

第46話 マトリックスと、イエス・キリスト。

「何が真理なのか。」


最初の問いは、この世界そのものだった。

『マトリックス』の主人公ネオは、自分がずっと「現実」だと思っていた世界から目を覚ます。見えていた世界が、本当の世界ではなかった。

私も以前から、「この世界は本当に見えている通りなのだろうか」と考えることがあった。

Buddhaの教え。色即是空。瞑想。量子力学。二重スリット実験。陰陽。スピリチュアル。宇宙。

いろいろな情報を知れば知るほど面白かったし、「世界の裏側には、まだ人間が知らない何かがあるんじゃないか」と本気で探していた。そして情報をたくさん持つほど、私は賢くなったような気にもなった。

でも、そこで一つの問題が残った。

情報Aと情報Bが違うことを言っている。思想Aと思想Bも違う。

では、何を基準に「これが真理だ」と判断するのだろう。

私は多くの情報を知っていた。でも、情報をたくさん持っていることと、真理を知っていることは同じではなかった。

そして私は、聖書の中でこんなことばに出会った。

「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。」

ヨハネの福音書14章6節。

真理を探していた私の前に現れたのは、さらに新しい情報ではなかった。

一人のお方だった。

イエス・キリスト。

46話 マトリックスと、イエス・キリスト。


第47話 トゥルーマン・ショーと、イエス・キリスト。

「私は何者なのか。」


世界の次に問いかけられたのは、自分自身だった。

『トゥルーマン・ショー』の主人公トゥルーマンは、自分の町、自分の仕事、自分の人間関係、自分の恐怖まで、「これが私の人生だ」と思って生きている。でも、その世界は誰かによって作られていた。

では私たちはどうだろう。

「私はこういう人間。」「私はこれが好き。」「私はこれが正しいと思う。」

それは、本当に全部、自分自身が決めたものなのだろうか。

私も長い間、自分が何者なのか分からなかった。

父はいない。自信もない。若い頃から髪のことで悩んだ。認められたい。モテたい。有名になりたい。ラップを始めた頃には、自分の価値を外側へ証明しようとしていた部分もあった。

私は昔、こんな歌詞を書いた。

「どこから来て どこへ行くの
わからないけど とにかく生きろ」

本当に分からなかった。私はどこから来たのか。なぜ生きているのか。死んだらどうなるのか。そして、私は何者なのか。

でも聖書を知る中で、私は少しずつ別のIdentityを知っていった。

人からどう見られているか。何を達成したか。何を持っているか。そこからIdentityを作るのではなく、私を造った方が、私について何と言っているのか。

そこへ目を向けるようになった。

47話 トゥルーマン・ショーと、イエス・キリスト。


第48話 インターステラーと、イエス・キリスト。

「父は、私を忘れていないのか。」


そして第48話では、問いがもっと深い場所へ入っていった。

父。

『インターステラー』には、何十年離れていても娘を忘れなかった父が描かれる。

私は2歳の頃に両親が離婚し、父がいない家庭で育った。26歳の時には、テレビ番組を通して父へ会おうとしたこともあった。でも、会えなかった。

それでも私は長い間、同じ電話番号を持ち続けていた。いつか父から連絡が来るかもしれない。心のどこかでは、まだ待っていたのだと思う。

そんな私が聖書を学び始めた時、何度も出会うことばがあった。

「父。」

しかも、

「天の父」。

私は衝撃を受けた。

神様って、父なの?

私には、お父さんがいたの?

その時から、過去の人生を振り返る目まで変わり始めた。

何度も危険な場面があった。でも今ここに生きている。私はそれを、ただの偶然ではなく、天の父が良くしてくださった人生として見るようになった。

見えなかったから、いなかったのではない。

私が、気づいていなかっただけなのかもしれない。

48話 インターステラーと、イエス・キリスト。


第49話 ロード・オブ・ザ・リングと、イエス・キリスト。

「私は、何を握りしめているのか。」


真理を探した。自分が何者なのかを考えた。天の父を知り始めた。

すると今度は、それまで握っていたものが見えるようになった。

『ロード・オブ・ザ・リング』の中心には、「ひとつの指輪」がある。それを持てば力が得られる。でも、握り続ければ、やがて自分の方が支配されていく。

私にも、手放す必要のあるものがあった。

一つは、救いの土台として握っていたBuddhaの教え。一つは、長い間私を支配していたタバコ。そして、さらに見えにくかったもの。

「私はもうラップをしたくない。」

という、自分自身への嘘。

私は若いアーティストを支えるレコーディングエンジニアとして生きながら、「もう自分は裏方でいい」と思っていた。若い人たちを支えたい気持ちは本物だった。でも、本当は私もラップがしたかった。

そして天の父へ祈っている中で、私は泣きながら叫んだ。

「お父さん。ラップがしたいです。」

神様が私から取り去ったのは、ラップというGiftではなかった。昔の動機。自己証明。そして、「本当はやりたいのに、やりたくないと言っている自分自身への嘘」。

それを手放していった。

すると、私が消えたのではなかった。むしろ、声、音楽、ことば、証、家族、使命。神様から与えられたものが、以前よりはっきり見えるようになった。

聖書は、私を私ではない何かへ変える本ではなかった。

むしろ、神様が造られた本来の私へ戻していくものだった。

49話 ロード・オブ・ザ・リングと、イエス・キリスト。


第50話 インセプションと、イエス・キリスト。

「私は、何を信じて生きているのか。」


そして最後は、自分の“考え”そのものだった。

『インセプション』では、人間の潜在意識の奥へ一つの考えを植えつける。そして本人が、「これは自分自身の考えだ」と思った時、その考えが人生を動かし始める。

私はこの映画を以前にも観ていた。でも、よく意味が分かっていなかった。笑

聖書を知った今、改めて物語を見て、私は一つの問いを持った。

「私が“自分の考え”だと思っているものは、本当に全部、私自身から生まれたものなのだろうか。」

私自身、子どもの頃から勉強が苦手だった。記憶力にも、集中力にも自信がなかった。そしていつしか、「私は頭が良くない」から、「私は学べない人間だ」へ変わっていた。

でも20歳でラップを始め、言葉が出てこない悔しさから本を読み始めた。小説を読み、活字が面白くなった。音楽を作るためにパソコンを覚え、教えてくれる人も与えられた。

兄から「あのナオヤが?」と驚かれるくらい、私は学ぶようになった。

そこで気づいた。

「勉強が苦手だった」は経験。

でも、「私は学べない人間だ」は、経験から私が作った結論だった。

そしてこの問いは、母Rとの関係にもつながっていった。

昔、母がうつ病で苦しんでいた頃、私は「自分は心について学んでいるから大丈夫」と思い、母を家で支えようとした。でも一週間ほどで限界が来た。

母が私の言葉を受け取らないことに腹を立て、妻から、私が母に何かしてしまうのではないかと心配されるほど追い詰められた。

私は心について学んでいた。でも、自分の心の中で起きていることは見えていなかった。

そして今。

私はイエス・キリストを知り、その同じ母と何か月も一緒に暮らしている。まだイライラする。裁いてしまうこともある。私は完璧ではない。

それでも、昔とは違う。

私は今、母を愛したいと思っている。仕えたい。回復してほしい。希望を持ってほしい。神様の愛を知ってほしい。

これは私にとって、ものすごく大きな証だ。

だから私は、自分の頭に浮かぶ思いを、全部「これが私だ」と信じることをやめた。

「私は価値がない。」

本当に?

「私は愛されない。」

本当に?

「私は学べない。」

本当に?

「もう遅い。」

本当に?

神様は何と言っている?

そこで最後に出てきた問いがあった。

では、私は何を基準に生きればいいのだろう。

50話 インセプションと、イエス・キリスト。

5つの問いを並べてみたら


第46話。「何が真理なのか。」

第47話。「私は何者なのか。」

第48話。「父は、私を忘れていないのか。」

第49話。「私は、何を握りしめているのか。」

第50話。「私は、何を信じて生きているのか。」

違う映画について書いていた。違うテーマについて考えていた。

でも、並べてみると全部、一つの問いへ向かっていた。

「私は、何を土台にして生きるのか。」

そして私が最後にたどり着いたもの。

それが、聖書だった。

昔の私は、聖書を読まずに判断していた


昔の私に、「聖書って何?」と聞いたら、「キリスト教の本でしょう?」くらいに答えていたと思う。

おばあちゃんの信仰。Buddha。お寺。神社。キリスト教。

全部、「宗教」という一つの箱へ入れていた。

でも考えてみれば、私は聖書をちゃんと読んでもいなかった。読んでもいないのに、すでに「こういう本でしょう」という答えを持っていた。

これも第50話で書いた、“自分の考えだと思っているもの”の一つだったのかもしれない。

では、聖書には何が書いてあるのか


実際にページを開いてみると、私は驚いた。

最初に出てくるのは、教会の話ではない。

世界の始まりだった。

神様。人間。男と女。家族。愛。選択。罪。兄弟。争い。赦し。国。王。戦争。祈り。裏切り。預言者。希望。

そして、イエス・キリスト。

私は思った。

「あれ? 聖書って、私が思っていた本と全然違うじゃん。」

一冊に見える。でも、一冊ではない


さらに知っていくと、また不思議なことが出てきた。

私たちは普段、「聖書」と一冊の本の名前のように呼ぶ。でも中を見ると、たくさんの書物が集まっている。

書かれた時代も違う。書いた人も違う。生きていた場所も違う。立場も職業も違う。

なのに、読み進めていくと、なぜか一つの大きな物語のように見えてくる。

私はここにも、とても不思議なものを感じた。

なぜ、こんなに違う時代の書物が、一つにつながって見えるのだろう。

その答えについては、今回はまだ奥へ入らない。

少しだけ、入口に立っておきたい。

「罪」という言葉も、私が思っていたものとは違った


聖書を読むと、「罪」という言葉が出てくる。

以前の私なら、罪と聞けば、「犯罪者とか、ものすごく悪い人の話でしょう?」と思っていたかもしれない。

でも調べていくと、聖書が語る罪は、それだけではなかった。

英語では sin。そして新約聖書で罪と訳される代表的なギリシャ語には、「的を外す」というイメージがある。

では、何の的を外したのか。

ここにも、私が知らなかった世界があった。

罪については以前、漫画『七つの大罪』を入口にして書いたことがある。

31話 漫画『七つの大罪』と、聖書が語る「罪」。


そしていつか、アダムとエバから始まる「そもそも罪って何なの?」についても、改めてじっくり書いてみたいと思っている。

聖書を読んだら、人生を見る目が変わり始めた


私は、「聖書は正しい本です」と知識だけで言いたいわけではない。

私にとって一番大きいのは、このことばを知ってから、自分自身の人生に変化が起きたことだ。

妻との関係。子どもたちとの関係。母との関係。人を赦すこと。自分自身をどう見るのか。祈ること。愛すること。

昔、一週間一緒に暮らすことさえ限界だった、うつ病を患う母と、今私は何か月も同じ家で暮らしている。

私は完璧ではない。今でも失敗する。怒る。裁く。「神様、助けてください」と何度も祈る。

それでも、御言葉を知る前の私と、今の私は同じではない。

だから私は、この本に何が書いてあるのかを、もっと知りたくなった。

愛するということの本質を学んでいる。

私にとって聖書は、

“天の父からのラブレター”のようになった


今の私にとって、聖書は単なる宗教書ではない。

天の父から届いたラブレターのようなもの。

神様から離れ、自分の考えであちこちへ行き、傷つき、人を傷つけ、自分が誰なのかさえ分からなくなった私へ、「こっちだよ」と呼びかけてくださるようなことばだ。

「あなたは誰なのか。」「何があなたを壊すのか。」「何が命へつながるのか。」「私はあなたを愛している。」「帰っておいで。」

私は、そんな父の声を聖書の中で聞くようになった。

でも、まだ入口にいる


では、なぜ私は、何千年も前から書かれてきたこの本を「天の父からのラブレター」だと思うようになったのか。

なぜ旧約聖書と新約聖書は、一つの聖書としてつながっているのか。なぜ、これほど多くの人物や物語が登場する中で、最後にイエス・キリストへたどり着くのか。

なぜ私は、この方を「救い主」と呼ぶようになったのか。そして、聖書全体を貫くものは、いったい何なのか。

ここまで来ると、もう一歩、奥へ入りたくなってくる。

でも今回は、ここで止めておこうと思う。

映画5作品をたどったら、聖書の入口へたどり着いた


『マトリックス』から始まった旅は、『トゥルーマン・ショー』を通り、『インターステラー』へ行き、『ロード・オブ・ザ・リング』を歩き、『インセプション』で自分の心の奥へ入った。

そして最後に残ったのは、聖書だった。

第50話で、私はその扉を開いた。

今回、ほんの少しだけ中へ足を踏み入れてみた。

でも、まだ入口だ。

次は、“聖書の奥義”へ


聖書には、以前の私がまったく知らなかった、さらに深い世界があった。

旧約聖書と新約聖書。創造。罪。契約。預言。王。いけにえ。十字架。復活。

そして、イエス・キリスト。

なぜ、これほど長い物語の中心に、この一人のお方が立っているのか。

ページをめくればめくるほど、なぜイエス・キリストという名前が、どんどん大きく見えるようになったのか。

次は、もう少し奥へ進んでみたい。

まとめ


何が真理なのか。私は何者なのか。父は私を忘れていないのか。私は何を握っているのか。私は何を信じて生きているのか。

5本の映画をたどりながら、私は自分自身へ問い続けた。そして、その問いの先で一冊の本を開いた。

聖書。

でも、本そのものがゴールではない。

私はまだ、表紙を開き、玄関へ一歩入ったところにいる。

この本の中には何があるのだろう。なぜこれほど長い時代を越えて読み継がれてきたのだろう。なぜ私は、この本を読み始めて人生そのものが変わっていったのだろう。

そして、なぜページをめくるほど、一人のお方がどんどん大きく見えてくるのだろう。

その方の名は、イエス・キリスト。

次は、

「聖書の奥義と、イエス・キリスト。」

その扉の、もう少し奥へ進んでみたい。


Blessings to you.


イエス・キリストと十字架についてはこちらに書いてあします。

特別編 イエス・キリストと十字架。|なぜ神の子は、苦しみを知りながら従われたのか。

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