32話 『呪術廻戦』と、聖書が語る「呪い」。
呪いの連鎖を断ち切るもの。それは、もっと強い呪いではなかった。
『呪術廻戦』。
この作品の世界には、
「呪い」が存在します。
人間の中から生まれる、
負の感情。
恐れ。
憎しみ。
後悔。
怒り。
悲しみ。
そうした人間の内側にあるものが、
作品の中では、
目に見える「呪い」となって現れていく。
もちろん、
漫画『呪術廻戦』に登場する呪霊と、
聖書が語る罪や霊的な世界を、
そのまま同じものとして語ることはできません。
これは、
あくまで漫画の物語です。
でも私は、
この作品を見ながら、
一つのことを考えました。
もし、
人間の中にある闇が、
本当に目に見えたとしたら。
私たちの世界は、
一体、
どんな姿をしているのだろう。
「呪い」は、本当に漫画の中だけにあるのだろうか。
誰かに傷つけられた。
だから、
今度は自分が誰かを傷つける。
親から愛されなかった。
だから、
自分の子どもをどう愛したらいいか分からない。
裏切られた。
だから、
もう誰も信じない。
馬鹿にされた。
だから、
もっと弱い誰かを馬鹿にする。
憎まれた。
だから、
憎み返す。
赦してもらえなかった。
だから、
私も赦さない。
こうして、
傷は、
人から人へ渡っていく。
怒りが、
次の怒りを生む。
憎しみが、
次の憎しみを生む。
まるで、
「呪い」のように。
私は思います。
もしかすると、
私たちはみんな、
何かしらの連鎖の中を、
生きているのかもしれない。
そして、私の中にも「やめたいのに、やめられないもの」があった。
私は、
この話を、
遠くから書くことはできません。
なぜなら、
私自身にも、
「やめたいのに、
やめられない。」
そんなものがあったからです。
タバコ。
私は、
約30年、
吸い続けていました。
お酒も、
長い間、
私の生活の中にありました。
特に20代の頃は、
ひどいものでした。
clubへ行く。
飲む。
泥酔する。
喧嘩する。
片っ端からナンパする。
吐く。
周りの人に、
迷惑をかける。
今振り返れば、
本当に申し訳なかったと思うことが、
たくさんあります。
笑い話では済まない。
傷つけた人もいた。
迷惑をかけた人もいた。
私は、
このことも、
悔い改めなければならないと思っています。
そして、
それだけではありません。
過去の私は、
薬物にも手を出したことがありました。
今、
それを誇りたい気持ちは、
一切ありません。
むしろ、
これも、
私の人生の中にあった闇です。
タバコ。
酒。
薬物。
私は、
自分を自由だと思っていた。
好きなことをしている。
自分で選んでいる。
そう思っていた。
でも今振り返ると、
本当に私は、
自由だったのだろうか。
「自分で選んでいる」と思っていた。でも、やめられなかった。
これは、
不思議なものです。
「いつでもやめられる。」
そう思っている。
でも、
やめない。
「別に依存していない。」
そう思っている。
でも、
また戻る。
「もうやめよう。」
と思う。
でも、
またやる。
私は、
『呪術廻戦』の虎杖悠仁の中に、
自分では簡単に消すことのできない大きな存在が宿っているという物語を見ながら、
人間の内側について考えました。
もちろん、
宿儺と、
聖書が語る罪を、
同じものだと言っているわけではありません。
でも私たちは時々、
自分の中に、
自分でも思うように扱えない何かがあるように感じることはないでしょうか。
怒りたくないのに、
怒る。
傷つけたくないのに、
傷つける。
やめたいのに、
やめられない。
もう繰り返したくないのに、
また同じところへ戻ってしまう。
私は、
それを、
自分の人生で経験してきました。
私を責め続けたのではなく、妻は祈っていた。
そんな私の隣に、
妻Euniceがいました。
妻は、
私に毎日、
「タバコやめなよ。」
「お酒やめなよ。」
と、
言い続けたわけではありませんでした。
おそらく、
言われれば言われるほど、
当時の私は反発したと思います。笑
妻は、
それを知っていたのだと思います。
彼女は、
聖書から学んでいました。
そして、
霊的母であるエリカお母さん、
エリカ牧師から、
実際の歩みを通して学んでいました。
聖書には、
夫に対する妻の、
「無言のふるまい」
について書かれている箇所があります。
妻は、
言葉で私を変えようとするのではなく、
神さまに祈った。
私の知らないところで。
「主人が、
タバコから解放されますように。」
「主人が、
お酒から解放されますように。」
私は、
何も知らなかった。
でも、
妻は祈っていた。
「タバコ、やめるわ。」
ある日、
仕事から帰る途中でした。
突然、
私の中に、
強い思いが来ました。
「タバコ、やめよう。」
何年も吸ってきた。
何度も、
やめられなかった。
でも、
その時は、
不思議なくらい、
自分の中で決まっていました。
家に帰って、
妻に言いました。
「タバコ、
やめるわ。」
すると、
妻は驚きました。
「え、
それ一昨日祈ったことだよ。」
私は、
その時、
知ったのです。
私が知らないところで、
妻は祈っていた。
私は、
自分の意思の強さだけで、
変わったとは思っていません。
私にとってこれは、
神さまが、
妻の祈りを聞いてくださった証です。
私を変えようとしたのは、「責める言葉」ではなかった。
私は、
ここが、
すごく大切だと思っています。
妻は、
私を責め続けて、
私を変えたのではない。
私を操作して、
変えたのでもない。
彼女は、
神さまに祈った。
そして、
神さまが、
私の心に触れてくださった。
私は、
タバコだけではなく、
酒からも、
そして、
過去の薬物からも、
離れていきました。
長い間、
私の人生の一部になっていたもの。
「これが自分だ」
と思っていたもの。
それが、
少しずつ、
私の人生からなくなっていった。
私は、
これを、
解放だと受け取っています。
妻の祈りについては、以前の記事にも書きました。
私が長年、
タバコとお酒に縛られていたこと。
そして、
妻が私の知らないところで祈っていたこと。
「タバコ、やめるわ。」
と私が言った時、
妻から、
「それ、一昨日祈ったことだよ。」
と聞いたこと。
その証については、
こちらの記事でも書いています。
【5話 心のポッカリを満たした父の愛。|地上の父を知らず、天の父に出会った日】
今振り返ると、
妻の祈りは、
私の人生の見えないところで、
ずっと働いていたのだと思います。
『呪術廻戦』の世界では、「呪い」を祓う。
『呪術廻戦』では、
人間の負の感情から生まれた「呪い」に、
呪術師たちが立ち向かいます。
そして主人公、
虎杖悠仁は、
強大な呪いをその身に宿しながら、
呪いと戦う世界へ入っていく。
私は、
この物語を見ながら、
聖書にある、
ある言葉を思い出します。
「のろい」。
聖書にも、
この言葉が出てきます。
そして、
驚くべきことが書かれています。
私たちのために、「のろい」を負われたお方。
ガラテヤ人への手紙3章13節。
そこには、
キリストが、
私たちを律法ののろいから贖い出してくださったことが書かれています。
私は、
ここで、
とても大切な違いを、
はっきり書いておきたいです。
虎杖悠仁と、
イエス・キリストは、
同じではありません。
イエスさまは、
悪に支配されたのではない。
罪を犯したのでもない。
呪いに取り憑かれたのでもない。
罪のないお方が、
私たちのために、
私たちが負うべきものを、
ご自身の上に負ってくださった。
それが、
イエス・キリストです。
私は、自分で自分を祓うことができなかった。
私は、
30年吸ったタバコを、
自分の力だけでは、
なかなかやめられませんでした。
お酒も。
過去の薬物への罪悪感も。
そして、
それだけではない。
怒り。
高慢。
欲望。
人を傷つけた過去。
さまざまな罪意識。
自分の中には、
自分の努力だけでは、
どうすることもできないものがあった。
私は、
自分自身を完全に救うことができなかった。
だからこそ、
私は思うのです。
人間に必要なのは、
「もっと頑張れ」
という言葉だけではない。
救い主が必要だった。
Messiah。
イエス・キリスト。
呪いの連鎖。
傷つけられた人が、
誰かを傷つける。
父に愛されなかった人が、
愛し方が分からない。
暴力を受けた人が、
また暴力を振るってしまう。
憎しみを受けた人が、
また誰かを憎む。
そして、
その傷が、
次の世代へ渡っていくことがある。
私は、
これを見過ごしたくありません。
なぜなら、
私自身も、
家庭の痛みの中で育ったから。
父を知らずに育ったから。
幼い頃、
母と共に、
命を終わらせることまで考えるほど、
追い詰められたことがあるから。
だから、
今、
苦しんでいる子どもたちを見た時、
私は、
他人事だとは思えない。
この連鎖は、
どこで終わるのだろう。
誰が、
止めるのだろう。
十字架で、連鎖の中に入ってきたお方。
私は、
イエス・キリストを見るのです。
イエスさまは、
憎まれました。
裏切られました。
馬鹿にされました。
殴られました。
十字架につけられました。
でも、
イエスさまは、
憎しみに、
憎しみで返さなかった。
暴力に、
暴力で返さなかった。
十字架の上でさえ、
赦しを祈られた。
ここに、
私は、
呪いの連鎖を断ち切る愛を見るのです。
傷つけられたから、
傷つけ返す。
憎まれたから、
憎み返す。
その終わりのない連鎖に、
イエスさまは、
愛を持って入ってこられた。
呪いに対する神さまの答えは、もっと強い呪いではなかった。
もっと強い憎しみでもない。
もっと強い暴力でもない。
もっと強い復讐でもない。
神さまの答えは、
愛だった。
十字架だった。
人間が、
罪によって、
神さまから離れた。
愛の源から離れた。
そして、
その中で、
傷つけ合うようになった。
でも、
神さまは、
その人間を捨てなかった。
ひとり子、
イエス・キリストを与えられた。
私の妻は、「呪い返さなかった」。
今思えば、
私の家庭の中でも、
小さなことかもしれませんが、
同じようなことが起きていたのかもしれません。
もし妻が、
私の頑固さに、
怒りだけで返していたら。
私の反発に、
もっと強い言葉で返していたら。
私は、
さらに反発していたかもしれない。
でも妻は、
祈った。
私は、
その姿に、
イエスさまの愛を感じます。
私を直接変えようとするのではなく、
天の父に委ねた。
そして、
私が知らないところで、
私のために祈った。
その祈りが、
私の人生に、
届いた。
私が解放されたのは、私だけのためではない。
私は今、
父親です。
夫です。
もし私が、
昔のまま、
酒に酔い、
自分を壊し、
周りを傷つける生き方を続けていたら。
タバコに縛られ、
自分の欲望のままに生き続けていたら。
私の子どもたちは、
何を見て育っただろう。
私は、
考えることがあります。
神さまが私を解放してくださったことは、
私一人だけのためではなかったのかもしれない。
妻のため。
子どもたちのため。
そして、
その次の世代のため。
一つの連鎖が、
私のところで、
終わる。
そして、
新しいものが、
始まる。
愛。
祈り。
赦し。
Good News。
私は、
それを、
次の世代へ渡したい。
「呪術廻戦」から、十字架へ。
漫画の世界では、
呪いを祓うために、
呪術師たちが戦います。
でも、
私が現実の人生で知ったのは、
私自身では、
どうすることもできなかったものから、
私を救い出してくださるお方でした。
イエス・キリスト。
私の罪を背負い、
私が負うべきものを負い、
十字架へ向かわれたお方。
そして、
三日目によみがえり、
罪と死に勝利されたお方。
呪いを祓うことでは、終わらない。
イエス・キリストは、
ただ、
私たちの人生から、
悪いものを取り除くだけのお方ではない。
タバコをやめた。
お酒をやめた。
依存からの解放。
それだけで、
私の救いの物語が終わったわけではありません。
私は、
父を知った。
天の父を知った。
愛されていることを知った。
そして、
イエスさまについて行く人生を知った。
闇から出るだけではない。
光の中を歩き始める。
それが、
私に起きたことでした。
呪いは、人から人へ連鎖する。
でも、
愛も、
人から人へ渡っていく。
妻が、
私のために祈った。
私は、
その祈りによって、
変えられていった。
そして今、
私は、
子どもたちのために祈る。
神の家族のために祈る。
まだイエスさまを知らない人のために祈る。
かつて、
傷と罪の連鎖の中を生きていた私が、
今度は、
愛を渡す側へ。
私は、
これが、
十字架の力の一つなのではないかと思っています。
人間の呪いに対する、神さまの答え。
それは、
もっと強い呪いではなかった。
復讐でもなかった。
破壊でもなかった。
イエス・キリスト。
そして、
十字架。
人間が生み出してきた、
罪と、
憎しみと、
傷の連鎖。
そのただ中に、
神さまは、
愛を置かれた。
十字架を置かれた。
そして、
今も、
私たちを招いている。
もう、
その連鎖の中に、
いなくていい。
もう、
一人で戦わなくていい。
もう、
自分で自分を救おうとしなくていい。
救い主は、
もう来られた。
Messiah。
イエス・キリスト。
呪いから、祝福へ。
憎しみから、
赦しへ。
依存から、
自由へ。
傷から、
癒やしへ。
罪から、
恵みへ。
闇から、
光へ。
そして、
父のもとへ。
私は、
完璧になったから、
救われたのではありません。
自分の力で、
全部やめられたから、
神さまに愛されたのでもない。
まず、
愛されていた。
妻は、
私を諦めずに祈った。
そして、
天の父も、
私を諦めなかった。
『呪術廻戦』の世界では、
呪いを祓う者たちが戦う。
でも、
私が出会った救い主は、
私たちのために、
十字架で、
のろいを負われた。
そして、
死に勝利された。
だから私は、
今日、
ここにいます。
もう、
昔の連鎖を、
次の世代へ渡さないために。
代わりに、
愛を。
祈りを。
Good Newsを。
私の子どもたちへ。
そして、
まだ闇の中にいる、
誰かへ。
呪いに対する、
神さまの答えは、
もっと強い呪いではなかった。
愛だった。
十字架だった。
そして、その愛は、
今も、
私たちを、
闇から光へと、
招いている。
Buddhaの弟子から、キリストの弟子へ。
痛みは証に。
光は闇に勝つ。
スーパーヒーローはYOU。
Blessings to you.
